1月26日、「教育再生実行会議」が取りまとめた提言に「道徳の教科化」が盛られています。 政府は、第一次安倍内閣で作成・配布されたものの、民主党内閣の事業仕訳で配布取りやめとなっていた道徳の副教材 「心のノート」 の復活を決定し、平成25年度予算案に盛り込みました。「心のノート」は、小学校が1・2年用、3・4年用、5・6年用の3種類、中学校は1種あります。目次を見るといずれも社会生活を送る上で当たり前のことばかりです。この当たり前のことが、“偏向教育”などどレッテルを貼られ、顧みられないできました。
(小学1・2年用目次)
「むねを はって いこう」
「しては ならない ことが あるよ」
「心(こころ)と 心(こころ)を むすぼう」
「どんな人(ひと)と 出会(であ)えるかな。あい手(て)の 心(こころ)を かんじよう」
「いのちに ふれよう」
「生(い)きてるね。つながっているね。 かがやいているね。」
「みんなと 気(き)もちよく いよう」
「みにつけよう きまりを まもる 心(こころ)の バッジ」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302315_3.pdf
(小学3・4年用目次)
「かがやく自分になろう」
「人とともに生きよう」
「いのちを感じよう」
「みんなと気持ちよくすごそう」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302316_3.pdf
(小学5・6年用目次)
「自分を育てる」
「共に生きる」
「生命を愛おしむ」
「社会をつくる」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302317_3.pdf
(中学用目次)
「自分を見つめ伸ばして――自分自身」
「思いやる心を――他の人とのかかわり」
「この地球に生まれて――自然や崇高なものとのかかわり」
「社会に生きる一員として――集団や社会とのかかわり」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302318_3.pdf
ところで、江戸時代には、ほぼ全藩で藩校が設立され、255もの藩校があったといわれています。代表的な藩校としては、会津藩:日新館、米沢藩:興譲館、水戸藩:弘道館、長州藩:明倫館、中津藩:進脩館、佐賀藩」弘道館、熊本藩:時習館、薩摩藩:造士館などがあり、それぞれ、藩独自の人材育成が行われてきました。 藩校は明治期に旧制高等学校、終戦後に大学になるもの、または、明治期に旧制中学校、終戦後に新制高等学校になるものなどありましたが、現在まで精神が引き継がれ、それぞれの精神風土に基づく教育がなされています。基本になるのは藩の教えです。
なかでも、「薩摩の訓え〜九ヶ条之掟」と「会津什の掟」は有名です。双方ともに、「嘘をつくな、弱い者をいじめるな、卑怯なことをするな、目上を重んじろ。」ということは共通しています。これらは、時代が変わろうとも、人間として心掛けるべきことで、厳しくしつけています。「会津什の掟」の最後に、「ならぬことはならぬ」、すなわち、「先人達がダメと言っていることは理屈抜きでダメ」なのです。薩摩には「議を言うな」というのがあります。これも、“人が長い時間をかけて守り育て伝えてきたことや皆で議論して決めたことは理屈をこねずに素直に従え“という意味であり、言い回しは異なっても、どちらも同じことを言っています。
関ヶ原以来、打倒徳川を合言葉とする薩摩藩と、徳川将軍家への忠節を第一とする会津藩という相反する立場の両藩で、似通った掟を基礎に藩士の教育していたことに興味を覚えます。
藩時代からの教えを「校訓」にしている学校もあります。したがって、安倍総理が進めようとしている道徳教育は、全国的に均一な内容をという趣旨は理解できますが、藩時代から連綿として受け継がれてきた “郷土の精神” を損なうことのないように、地域の特性を活かすような工夫をしていただきたいと願っています。
「薩摩の訓え〜九ヶ条之掟」
一、忠孝を旨とし 文武の鍛練を励め。
一、礼儀をわきまえ郷中の団結を心がけよ。
一、山坂達者(山を走って足腰を鍛える)を励め。
一、何事にも詮議を尽し方針が定まった後は異論を立てず言い訳をするな。
一、嘘をつくな。弱音を吐くな。
一、卑怯な振る舞いはするな。短気を起こすな。
一、弱い者をいじめるな。目上を重んじ親に反抗するな。
一、無刀で門外へ出てはならない。脇差一本を身に付けて町の辻角をまわるな。
一、いかなる時でも刀を抜いてはならない。抜けばただでは鞘に納めるな。
(その他)
一 負けるな
・いやな事、やりたくない事に 負けるな
・つらい事、苦しいことに負けるな
・人のさそいに負けるな
二 弱いものを苛めるな
・体の事を苛めるな
・出来ない事を苛めるな
・違った事を苛めるな
・よってたかって苛めるな
三.ウソをつくな
・した事をしないとウソをつくな
・出来ない事を出来るとウソをつくな
・人を喜ばせようとウソをつくな
・人のせいにするウソをつくな
「会津什の掟」
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
さて、日本は第2次世界大戦でアジア諸国を侵略したとして喧伝されてきており、中国と韓国は事あるごとに日本の“戦争責任“を追及しています。これに輪をかけるように、国内でも政治家、学者や評論家、新聞などマスコミ、がそろって日本の悪逆非道ぶりを掻き立てるので、多くの日本国民がアジアすべてで日本が嫌われていると思い込み、萎縮してしまい、日本人として自信を持てなくなっています。特に中国や韓国などに「卑屈」な態度になってしまいがちです。
しかし、アジア各国で日本が嫌われているわけではありません。現に私が6年間駐在したインドネシアでは、日本への親近感を持つ人がほとんどです。タイワン、タイ、ミャンマー、マレーシアなどでも同様だと思います。
アジア諸国で人々から今でも敬慕されている日本人が多くいることは、ほとんどの日本人が知りません。 戦前のことはすべて悪とする風潮もありましたが、今や、義務教育の中できちんと教えてほしいと思います。安倍総理の教育改革の中にぜひとも入れてほしいと思っています。 若い日本人に日本人の足跡を正しく教えることこそが、求められている、歴史教育の一つなのではないかと考えています。
「アジアに尽力した日本人」
<ほんの一例です。他にも貢献した多くの日本人がいると思います、>
<ベチナム>
浅羽佐喜太郎:
明治後期、ベトナム人苦学生を自分の医院に住まわせたり、資金援助など、フランスからの独立運動を物心両面で支援。
<台湾>
鳥居 信平:
大正末期、台湾南部に堤長328mの地下ダム及び長さ3436mの地下導水路を建設し、灌漑用水や飲料水を確保。現在も利用されている。
八田 興一:
昭和初期、台湾西南部に烏山頭ダムと16,000kmの灌漑用水路を建設、現在も飲料水や農・工業用水を供給している。地元が銅像建立)
新渡戸稲造:
明治後期、サトウキビの品種改良や大型機械による工場の近代化を提案し、台湾製糖産業の基礎を築き台湾財政の独立に貢献した。
西郷菊次郎:
明治中期、台湾の北東部の宜蘭(ぎらん)河の氾濫を防ぐための『西郷堤防』と呼ばれる宜蘭川堤防(全長約 1.7km)を建設した。市民有志が『西郷庁憲徳政碑』と刻んだ石碑(高さ4m)を建立。
広枝音右衛門:
太平洋戦争末期、海軍巡査隊の総指揮官としてフィリピン・マニラ市近郊で敵の米軍と秘かに交渉し、自己の命と引き換えに台湾青年2000名の生命の安全保証を取り付ける。台湾の仏教聖地獅頭山化堂獅頭山の権化堂に祭られている。
森川清治郎:
明治中期、巡査として赴任した台湾南部の嘉義県東石郷副瀬村で、村人に教育(寺小屋式の私塾を開く)、衛生の改善(家庭の汚水を流す排水溝を掘る)、農地の改良や農耕技術の改善を行った。過酷な課税に抗議して自決。副瀬村の富安宮に「義愛公」として祀られている。俗称「日本王爺」。
明石元二郎:
大正期、第7代台湾総督。台湾電力、華南銀行、台北高等商業学校などを設立。台湾新教育令の公布施行(台湾人の帝国大学への道を開く)。司法制度(二級審から三級審へ)の改革、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など革新的事業を進めた。
後藤 新平:
明治中期、台湾総督府民政長官。大規模な人口調査を実施し、衛生環境と医療の大改善を行う。道路、鉄道、水道、湾港などのインフラ整備、阿片の「漸禁」の専売政策を実施(導入後50年近くで阿片を根絶)。
児玉源太郎:
明治中期、第4代 台湾総督。上下水道と病院を設置して衛生面を改善、斡旋道路・鉄道・港湾など交通網を整備、さらに製糖業、林業など基幹産業の復興に努めた
<インドネシア>
市来 龍夫:
日本敗戦後もジャワに残留し祖国防衛義勇軍(ペタ:日本軍の支援で結成)の幹部として独立戦争を戦い、東部ジャワで戦死した市来龍夫(インドネシア名アブドル・ラフマン)は国立英雄墓地(カリバタ)に独立英雄として埋葬されている。1958年に訪日したスカルノ大統領は、陸軍通訳の市来龍夫と、海軍通訳の吉住留五郎を讃える一文を書いた。その一文を刻んだ顕彰碑が、東京・芝の青松寺に建てられている。
吉住留五郎:
ジャカルタの海軍武官府時代、インドネシア人青年を教育する独立塾(AsramaMerdeka)を立ち上げた。また、スカルノ、ハッタ、スバルジョが起草した独立宣言に関わった日本人4名の一人。日本敗戦後インドネシアの独立戦争に参加、一個師団の軍隊を持ってオランダ軍に対して、ゲリラ戦を展開する。1948年(昭和23年)8月10日、東ジャワ・ブリタル近郊のセゴン山中で戦病死。英雄墓地(ブリタル)に埋葬。
三浦 襄:
通訳や軍民政部顧問として、現地社会との仲介役を果たす。住民数百人が働く「三浦商会」を立ち上げ、人々の生活を助けた。「バパ・バリ」(バリ島の父)と呼ばれる。占領下でのバリ島民への無理強いを謝罪し、日本敗戦後に自殺。デンパサール市の住民墓地に埋葬。
<タイ>
政尾 藤吉:
明治期、タイが欧米などから招いた20数名の法律顧問の首席を務め、刑法,民法,商法など新法制と法典編纂の事業に取り組む。司法省顧問になる。爵位と欽賜名を授与される。政尾が1921年(大正10年)にバンコクで客死した時にタイ政府は国葬の礼で遇した。
安井 てつ:
バンコクにある近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向でイギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつが事実上の校長として招かれ、1904年から3年間、安井てつは当時の貴族名門の子女約200人を教育。
<マレーシア>
森 敬湖:
初代首相アブドウラ・ラーマンの絶大な信頼を受け、日本との友好親善、政治・経済交流のなどの橋渡し役を任された。私財を投じてYMCAの建設や貧しくて学業を続けられない学生のために森敬湖奨学資金を設けるなどマレイシア国家の発展に貢献。この奨学金制度は現在も引継がれている。 Kesastria Mangku Negara受章
<フィリピン>
シスター海野:
還暦を迎え、余生を貧しい人々のために奉仕するべく、1972年にフィリピンに渡った。特に太平洋戦争後、激しい迫害にさらされていた日系人(戦前から移住し現地で暮らしていた日本人)に救いの手を差し伸べ、「ルソン島日系混血児の母」と呼ばれた。 1974年に始めた奨学金制度は日系人だけでなく、広く有能なフィリピン青年を対象にしており、奨学生から公務員、医師、軍人など多くの人材を生み出している。 バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られた。
<韓国>
望月 カズ:
朝鮮戦争での身寄りのない孤児たち133名の養育に生涯を捧げ日韓友好の架け橋となった。 「38度線のマリア」と呼ばれた。1964年(昭和39年)にソウル名誉市民賞。1971年(昭和46年)に朴正煕大統領から韓国名誉勲章・冬柏賞。1964年に「この子らを見捨てられない」出版、これを原作とする韓国映画「この地にあの星の光を」が公開、日本では「愛は国境を越えて」というタイトルで上映。
田内千鶴子:
日韓併合時代から戦後30余年間、韓国南西部の木浦で孤児院「木浦共生園」で奉仕活動を行い、約3千人の孤児たちの母として生きた。「木浦の母、韓国孤児の母」と呼ばれた。1963年(昭和38年)韓国文化勲章国民賞。
浅川 巧:
朝鮮総督府農商工部山林課林業試験所の官吏。朝鮮のはげ山を緑で覆うことを使命とし、全国に植樹を続けた。韓国の人工林の37%は浅川が手掛けたものといわれている。 また、朝鮮の陶磁や膳文化を研究、2013年に柳宗悦や「朝鮮古陶磁の神様」と称された兄の浅川伯教とともに、景福宮内に朝鮮民族美術館を設立。『朝鮮の膳』、『朝鮮陶磁器考』を刊行。ソウル市にある共同墓地の墓には、ハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。浅川 巧の人生を いた江宮隆之の『白磁の人』(河出文庫)が、日韓合作で映画化『白磁の人』で映画化された。
水崎林太郎:
1915年(大正4年)47歳の時に開拓農民として韓国の大邱(テグ)に入植、土地改良組合長として、旱魃と洪水で荒れていた土地を開墾するために、朝鮮総督府の支援12.000円(現在の10億円相当)を獲得、と巨額の私財も投じて、10年をかけて寿城池(周囲2.5km,広さ6万坪の貯水池)を作った。 さらにその水で荒野250万坪(東京ドーム約180個分)をこえる田圃に変えた。 林太郎は1939年12月までこの池を管理し、死後は遺言に従って寿城池を見下ろす朝鮮式の墓に埋葬された。韓国の方々が巧の墓を守り、命日(4月2日)の前後に毎年墓参りをしている。
穂積真六郎:
1914(大正3)年から1941(昭和16)年に軍と対立し退職するまで30年超、朝鮮総督府官吏として産業発展に尽力。1930年代殖産局長。このころ、全世界が大恐慌であったが、朝鮮では産業革命が起き、工業生産額は年率16%で成長した。鴨緑江上流に4か所水力発電所が建設され、化学肥料工場を中心に重化学コンビナートが朝鮮の東北部の興南に日本の資本で建設された。 穂積は朝鮮の中小工業の資本育成策にも心がけ、朝鮮人所有の企業の比率が飛躍的に上昇した。
<中国>
遠山 正瑛:
中国・内モンゴル自治区のエンゴペイ砂漠でポプラの植樹など、約300万株を植え、緑化活動を行った。ラモン・マグサイサイ賞(平和・国際理解部門)受賞。中国政府から「国家友情賞」、内蒙古自治区政府から「栄誉公民」の称号。国連から「人類に対する思いやり市民賞」
また、アジア以外に目を向けると、ユダヤ人を救った杉原千畝もいます。
【2013年3月12日 花熟里】
(小学1・2年用目次)
「むねを はって いこう」
「しては ならない ことが あるよ」
「心(こころ)と 心(こころ)を むすぼう」
「どんな人(ひと)と 出会(であ)えるかな。あい手(て)の 心(こころ)を かんじよう」
「いのちに ふれよう」
「生(い)きてるね。つながっているね。 かがやいているね。」
「みんなと 気(き)もちよく いよう」
「みにつけよう きまりを まもる 心(こころ)の バッジ」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302315_3.pdf
(小学3・4年用目次)
「かがやく自分になろう」
「人とともに生きよう」
「いのちを感じよう」
「みんなと気持ちよくすごそう」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302316_3.pdf
(小学5・6年用目次)
「自分を育てる」
「共に生きる」
「生命を愛おしむ」
「社会をつくる」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302317_3.pdf
(中学用目次)
「自分を見つめ伸ばして――自分自身」
「思いやる心を――他の人とのかかわり」
「この地球に生まれて――自然や崇高なものとのかかわり」
「社会に生きる一員として――集団や社会とのかかわり」
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/02/23/1302318_3.pdf
ところで、江戸時代には、ほぼ全藩で藩校が設立され、255もの藩校があったといわれています。代表的な藩校としては、会津藩:日新館、米沢藩:興譲館、水戸藩:弘道館、長州藩:明倫館、中津藩:進脩館、佐賀藩」弘道館、熊本藩:時習館、薩摩藩:造士館などがあり、それぞれ、藩独自の人材育成が行われてきました。 藩校は明治期に旧制高等学校、終戦後に大学になるもの、または、明治期に旧制中学校、終戦後に新制高等学校になるものなどありましたが、現在まで精神が引き継がれ、それぞれの精神風土に基づく教育がなされています。基本になるのは藩の教えです。
なかでも、「薩摩の訓え〜九ヶ条之掟」と「会津什の掟」は有名です。双方ともに、「嘘をつくな、弱い者をいじめるな、卑怯なことをするな、目上を重んじろ。」ということは共通しています。これらは、時代が変わろうとも、人間として心掛けるべきことで、厳しくしつけています。「会津什の掟」の最後に、「ならぬことはならぬ」、すなわち、「先人達がダメと言っていることは理屈抜きでダメ」なのです。薩摩には「議を言うな」というのがあります。これも、“人が長い時間をかけて守り育て伝えてきたことや皆で議論して決めたことは理屈をこねずに素直に従え“という意味であり、言い回しは異なっても、どちらも同じことを言っています。
関ヶ原以来、打倒徳川を合言葉とする薩摩藩と、徳川将軍家への忠節を第一とする会津藩という相反する立場の両藩で、似通った掟を基礎に藩士の教育していたことに興味を覚えます。
藩時代からの教えを「校訓」にしている学校もあります。したがって、安倍総理が進めようとしている道徳教育は、全国的に均一な内容をという趣旨は理解できますが、藩時代から連綿として受け継がれてきた “郷土の精神” を損なうことのないように、地域の特性を活かすような工夫をしていただきたいと願っています。
「薩摩の訓え〜九ヶ条之掟」
一、忠孝を旨とし 文武の鍛練を励め。
一、礼儀をわきまえ郷中の団結を心がけよ。
一、山坂達者(山を走って足腰を鍛える)を励め。
一、何事にも詮議を尽し方針が定まった後は異論を立てず言い訳をするな。
一、嘘をつくな。弱音を吐くな。
一、卑怯な振る舞いはするな。短気を起こすな。
一、弱い者をいじめるな。目上を重んじ親に反抗するな。
一、無刀で門外へ出てはならない。脇差一本を身に付けて町の辻角をまわるな。
一、いかなる時でも刀を抜いてはならない。抜けばただでは鞘に納めるな。
(その他)
一 負けるな
・いやな事、やりたくない事に 負けるな
・つらい事、苦しいことに負けるな
・人のさそいに負けるな
二 弱いものを苛めるな
・体の事を苛めるな
・出来ない事を苛めるな
・違った事を苛めるな
・よってたかって苛めるな
三.ウソをつくな
・した事をしないとウソをつくな
・出来ない事を出来るとウソをつくな
・人を喜ばせようとウソをつくな
・人のせいにするウソをつくな
「会津什の掟」
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
さて、日本は第2次世界大戦でアジア諸国を侵略したとして喧伝されてきており、中国と韓国は事あるごとに日本の“戦争責任“を追及しています。これに輪をかけるように、国内でも政治家、学者や評論家、新聞などマスコミ、がそろって日本の悪逆非道ぶりを掻き立てるので、多くの日本国民がアジアすべてで日本が嫌われていると思い込み、萎縮してしまい、日本人として自信を持てなくなっています。特に中国や韓国などに「卑屈」な態度になってしまいがちです。
しかし、アジア各国で日本が嫌われているわけではありません。現に私が6年間駐在したインドネシアでは、日本への親近感を持つ人がほとんどです。タイワン、タイ、ミャンマー、マレーシアなどでも同様だと思います。
アジア諸国で人々から今でも敬慕されている日本人が多くいることは、ほとんどの日本人が知りません。 戦前のことはすべて悪とする風潮もありましたが、今や、義務教育の中できちんと教えてほしいと思います。安倍総理の教育改革の中にぜひとも入れてほしいと思っています。 若い日本人に日本人の足跡を正しく教えることこそが、求められている、歴史教育の一つなのではないかと考えています。
「アジアに尽力した日本人」
<ほんの一例です。他にも貢献した多くの日本人がいると思います、>
<ベチナム>
浅羽佐喜太郎:
明治後期、ベトナム人苦学生を自分の医院に住まわせたり、資金援助など、フランスからの独立運動を物心両面で支援。
<台湾>
鳥居 信平:
大正末期、台湾南部に堤長328mの地下ダム及び長さ3436mの地下導水路を建設し、灌漑用水や飲料水を確保。現在も利用されている。
八田 興一:
昭和初期、台湾西南部に烏山頭ダムと16,000kmの灌漑用水路を建設、現在も飲料水や農・工業用水を供給している。地元が銅像建立)
新渡戸稲造:
明治後期、サトウキビの品種改良や大型機械による工場の近代化を提案し、台湾製糖産業の基礎を築き台湾財政の独立に貢献した。
西郷菊次郎:
明治中期、台湾の北東部の宜蘭(ぎらん)河の氾濫を防ぐための『西郷堤防』と呼ばれる宜蘭川堤防(全長約 1.7km)を建設した。市民有志が『西郷庁憲徳政碑』と刻んだ石碑(高さ4m)を建立。
広枝音右衛門:
太平洋戦争末期、海軍巡査隊の総指揮官としてフィリピン・マニラ市近郊で敵の米軍と秘かに交渉し、自己の命と引き換えに台湾青年2000名の生命の安全保証を取り付ける。台湾の仏教聖地獅頭山化堂獅頭山の権化堂に祭られている。
森川清治郎:
明治中期、巡査として赴任した台湾南部の嘉義県東石郷副瀬村で、村人に教育(寺小屋式の私塾を開く)、衛生の改善(家庭の汚水を流す排水溝を掘る)、農地の改良や農耕技術の改善を行った。過酷な課税に抗議して自決。副瀬村の富安宮に「義愛公」として祀られている。俗称「日本王爺」。
明石元二郎:
大正期、第7代台湾総督。台湾電力、華南銀行、台北高等商業学校などを設立。台湾新教育令の公布施行(台湾人の帝国大学への道を開く)。司法制度(二級審から三級審へ)の改革、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など革新的事業を進めた。
後藤 新平:
明治中期、台湾総督府民政長官。大規模な人口調査を実施し、衛生環境と医療の大改善を行う。道路、鉄道、水道、湾港などのインフラ整備、阿片の「漸禁」の専売政策を実施(導入後50年近くで阿片を根絶)。
児玉源太郎:
明治中期、第4代 台湾総督。上下水道と病院を設置して衛生面を改善、斡旋道路・鉄道・港湾など交通網を整備、さらに製糖業、林業など基幹産業の復興に努めた
<インドネシア>
市来 龍夫:
日本敗戦後もジャワに残留し祖国防衛義勇軍(ペタ:日本軍の支援で結成)の幹部として独立戦争を戦い、東部ジャワで戦死した市来龍夫(インドネシア名アブドル・ラフマン)は国立英雄墓地(カリバタ)に独立英雄として埋葬されている。1958年に訪日したスカルノ大統領は、陸軍通訳の市来龍夫と、海軍通訳の吉住留五郎を讃える一文を書いた。その一文を刻んだ顕彰碑が、東京・芝の青松寺に建てられている。
吉住留五郎:
ジャカルタの海軍武官府時代、インドネシア人青年を教育する独立塾(AsramaMerdeka)を立ち上げた。また、スカルノ、ハッタ、スバルジョが起草した独立宣言に関わった日本人4名の一人。日本敗戦後インドネシアの独立戦争に参加、一個師団の軍隊を持ってオランダ軍に対して、ゲリラ戦を展開する。1948年(昭和23年)8月10日、東ジャワ・ブリタル近郊のセゴン山中で戦病死。英雄墓地(ブリタル)に埋葬。
三浦 襄:
通訳や軍民政部顧問として、現地社会との仲介役を果たす。住民数百人が働く「三浦商会」を立ち上げ、人々の生活を助けた。「バパ・バリ」(バリ島の父)と呼ばれる。占領下でのバリ島民への無理強いを謝罪し、日本敗戦後に自殺。デンパサール市の住民墓地に埋葬。
<タイ>
政尾 藤吉:
明治期、タイが欧米などから招いた20数名の法律顧問の首席を務め、刑法,民法,商法など新法制と法典編纂の事業に取り組む。司法省顧問になる。爵位と欽賜名を授与される。政尾が1921年(大正10年)にバンコクで客死した時にタイ政府は国葬の礼で遇した。
安井 てつ:
バンコクにある近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学校では、国王の意向でイギリス人教師を雇う従来の習慣が変えられ、日本人女性、安井てつが事実上の校長として招かれ、1904年から3年間、安井てつは当時の貴族名門の子女約200人を教育。
<マレーシア>
森 敬湖:
初代首相アブドウラ・ラーマンの絶大な信頼を受け、日本との友好親善、政治・経済交流のなどの橋渡し役を任された。私財を投じてYMCAの建設や貧しくて学業を続けられない学生のために森敬湖奨学資金を設けるなどマレイシア国家の発展に貢献。この奨学金制度は現在も引継がれている。 Kesastria Mangku Negara受章
<フィリピン>
シスター海野:
還暦を迎え、余生を貧しい人々のために奉仕するべく、1972年にフィリピンに渡った。特に太平洋戦争後、激しい迫害にさらされていた日系人(戦前から移住し現地で暮らしていた日本人)に救いの手を差し伸べ、「ルソン島日系混血児の母」と呼ばれた。 1974年に始めた奨学金制度は日系人だけでなく、広く有能なフィリピン青年を対象にしており、奨学生から公務員、医師、軍人など多くの人材を生み出している。 バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られた。
<韓国>
望月 カズ:
朝鮮戦争での身寄りのない孤児たち133名の養育に生涯を捧げ日韓友好の架け橋となった。 「38度線のマリア」と呼ばれた。1964年(昭和39年)にソウル名誉市民賞。1971年(昭和46年)に朴正煕大統領から韓国名誉勲章・冬柏賞。1964年に「この子らを見捨てられない」出版、これを原作とする韓国映画「この地にあの星の光を」が公開、日本では「愛は国境を越えて」というタイトルで上映。
田内千鶴子:
日韓併合時代から戦後30余年間、韓国南西部の木浦で孤児院「木浦共生園」で奉仕活動を行い、約3千人の孤児たちの母として生きた。「木浦の母、韓国孤児の母」と呼ばれた。1963年(昭和38年)韓国文化勲章国民賞。
浅川 巧:
朝鮮総督府農商工部山林課林業試験所の官吏。朝鮮のはげ山を緑で覆うことを使命とし、全国に植樹を続けた。韓国の人工林の37%は浅川が手掛けたものといわれている。 また、朝鮮の陶磁や膳文化を研究、2013年に柳宗悦や「朝鮮古陶磁の神様」と称された兄の浅川伯教とともに、景福宮内に朝鮮民族美術館を設立。『朝鮮の膳』、『朝鮮陶磁器考』を刊行。ソウル市にある共同墓地の墓には、ハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。浅川 巧の人生を いた江宮隆之の『白磁の人』(河出文庫)が、日韓合作で映画化『白磁の人』で映画化された。
水崎林太郎:
1915年(大正4年)47歳の時に開拓農民として韓国の大邱(テグ)に入植、土地改良組合長として、旱魃と洪水で荒れていた土地を開墾するために、朝鮮総督府の支援12.000円(現在の10億円相当)を獲得、と巨額の私財も投じて、10年をかけて寿城池(周囲2.5km,広さ6万坪の貯水池)を作った。 さらにその水で荒野250万坪(東京ドーム約180個分)をこえる田圃に変えた。 林太郎は1939年12月までこの池を管理し、死後は遺言に従って寿城池を見下ろす朝鮮式の墓に埋葬された。韓国の方々が巧の墓を守り、命日(4月2日)の前後に毎年墓参りをしている。
穂積真六郎:
1914(大正3)年から1941(昭和16)年に軍と対立し退職するまで30年超、朝鮮総督府官吏として産業発展に尽力。1930年代殖産局長。このころ、全世界が大恐慌であったが、朝鮮では産業革命が起き、工業生産額は年率16%で成長した。鴨緑江上流に4か所水力発電所が建設され、化学肥料工場を中心に重化学コンビナートが朝鮮の東北部の興南に日本の資本で建設された。 穂積は朝鮮の中小工業の資本育成策にも心がけ、朝鮮人所有の企業の比率が飛躍的に上昇した。
<中国>
遠山 正瑛:
中国・内モンゴル自治区のエンゴペイ砂漠でポプラの植樹など、約300万株を植え、緑化活動を行った。ラモン・マグサイサイ賞(平和・国際理解部門)受賞。中国政府から「国家友情賞」、内蒙古自治区政府から「栄誉公民」の称号。国連から「人類に対する思いやり市民賞」
また、アジア以外に目を向けると、ユダヤ人を救った杉原千畝もいます。
【2013年3月12日 花熟里】