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花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」を見てきました。17

2017年11月30日 09時00分00秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
上野公園にある東京芸術大学美術館で「「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」が開催されました。(10月28日~11月26日) 終了も近い11月24日に行って来ました。入場に多くの人の列ができており、最後尾を示すプラカードには70分待ちと書いてありましたが、この機会を逃すと二度と見ることが出来ないと思い並びましたが、45分ほどで入場できました。

<看板>



日本文化の継承者としての皇室の存在意義はますます高まってきています。近代、特に大正から昭和の初期にかけて様々な皇室への献上品や宮殿の室内装飾作品の制作依頼、買い上げなどが行われ、多くの日本美術工芸品が皇室に納められてきました。しかし、一旦献上されたり買い上げられた美術工芸品は宮殿などに飾られていたため、一般の人々の目に触れる機会がほとんどなく、製作者も二度と目にすることはなかったと言われています。今回の展示は、こうした美術工芸品が皇居外で初めて公開されるものであり、実に意義深いものとなっています。
展示は2部に分かれており「第1章 皇室をめぐる文化政策と東京美術学校」で、展示は29点。 第二部は「大正十三年、皇太子ご成婚奉祝祝」で51点でした。


第一部では、横山大観が昭和15年(1940年)に横山大観が天皇に直接献上した『日出処日本』と、大正4年(1915年)大正天皇の即位を祝して当時の東京市が東京美術学校(現東京藝術大学)に制作委嘱し、大正天皇に献上された衝立 『東京名勝図・萬歳楽図衝立』が特に印象に残りました。 衝立の表面の中央には、東京市の地図(縮尺2万分の1)、周囲には、浅草観音堂などの東京の名勝地が描かれたれた扇面図が配置されています。扇面図は東京市に在住だった15名の名工の作品です。

N.24横山大観『日出処日本』(ハフポスト日本版より借用)



No.17『東京名勝図・萬歳楽図衝立』(NHK日曜美術館より借用)



第二部は、大正13年(1924年)年、当時の皇太子(のちの昭和天皇)のご成婚を祝して献上された品々が展示されており、中でも『御飾棚』(2基)と『二曲御屏風』(二曲一双で2双)が圧巻です。これらは、内閣総理大臣はじめ官吏一同からの献上品で、東京美術学校(東京藝術大学)の第5代校長だった正木直彦氏が全国の各分野を代表する美術工芸家や職人たち135人を終結した国家プロジェクトを組織し、5年の歳月をかけて制作しました。 『御飾棚』は2基あり、皇太子(昭和天皇)献上品には「鳳凰に菊文」が、皇太子妃(香淳皇后)献上品には「鶴に桐文」の蒔絵が施されています。
また、『二曲御屏風』は二曲一双で2双あり、皇太子献上品には腰板の部分が菊花形の透かし彫り、皇太子妃献上品には桐の透かし彫りが各々施されています。二曲一双で24面の扇面と色紙がはめ込まれており、二双全体で48名の名工が参加しています。   

No49『御飾棚』(NHK日曜美術館より借用)
左は皇太子献上品、右は皇太子妃献上品



No.72&No73『二曲御屏風』(NHK日曜美術館より借用)
左は皇太子妃献上品、右は皇太子献上品



NO.66『 裁縫箱並ニ道具』(NHK日曜美術館より借用)





<東京芸術大学美術館のホームページ>から引用
「およそ 100 年前。大正から昭和最初期の頃に、皇室の方々の御成婚や御即位などの御祝いのために、当代選りすぐりの美術工芸家たちが技術の粋を尽くして献上品を制作しました。中には、大勢の作家たちが関わった国家規模の文化プロジェクトがありましたが、今日ではそれを知る者がほとんどいなくなっています。いったん献上されたそれら美術工芸品は、宮殿などに飾り置かれていたために、一般の人々の目に触れる機会が極めて限られてきたからです。
古くから皇室は、日本の文化を育み、伝えてきましたが、近代になってからは、さまざまな展覧会への行幸啓や作品の御買上げ、宮殿の室内装飾作品の依頼などによって文化振興に寄与してきました。皇室の御慶事に際しての献上品の制作は、制作者にとって最高の栄誉となり、伝統技術の継承と発展につながる文化政策の一面を担っていました。

大正期には、東京美術学校(現、東京藝術大学。以下美術学校)5代校長・正木直彦(1862 ~ 1940)の指揮下で全国の各分野を代表する作家も含めて展開された作品がこの時代の美の最高峰として制作されました。本展では、宮内庁に現存する作品とともに、その制作にまつわる作品や資料を紹介いたします。
また本展は、東京美術学校を継承する東京藝術大学の創立130周年を記念して、東京美術学校にゆかりある皇室に関わる名作の数々も合わせて展示いたします。皇室献上後、皇居外で初めて公開される作品を中心に、100年前の皇室が支えた文化プロジェクトの精華をお楽しみください。」








「ボストン美術館の至宝展(東京都美術館)」17

2017年10月05日 09時00分00秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
東京都美術館で開催されている「ボストン美術館の至宝展」(7月20日~10月9日)に行って来ました。
ボストン美術館は50万点に及ぶ美術品を所蔵していると言われており、今回は、古代エジプト美術 :11点、 中国美術 :6点、 日本美術 :16点、 フランス絵画(印象派、ポスト印象派):19点、 アメリカ絵画 :12点、 版画/写真 :10点、 現代アート :6点 計80点 が展示されています。

エドワード・シルヴェスター・モース、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・スタージス・ビゲローなどが、明治初期に日本で集めた膨大な絵画・工芸品のコレクションがボストン美術館に寄贈され、現在に至っています。 今回展示された英一蝶の「涅槃図」は、実に170年ぶりに里帰りして展示されたものです。幕末から明治初期に多くの浮世絵を始め日本の美術工芸品が海外に流出しましたが、今になってみると、ボストン美術館のような海外のしっかりした美術館で保管されてよかったとの思いがあります。 日本に残されていたら散逸したり、太平洋戦争末期の米軍の日本本土絨毯爆撃で消失していた可能性もありますので。


「ボストン美術館の至宝展」の看板



英一蝶 「涅槃図」
今回の展示の目玉の一つ、2,9m×1,7mという巨大な絵画。

(引用)
http://www.mfa.org/collections/object/the-death-of-the-historical-buddha-24708


曾我蕭白「風仙図屏風」
曾我蕭白の墨絵のもつ圧倒的な迫力に魅了されます。

(引用)
http://www.mfa.org/collections/object/transcendent-attacking-a-whirlwind-24944


ゴッホの ルーラン夫妻の2枚の絵画
こちらの2点も、今回の展示の目玉とされています。
「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」、

(引用)
http://www.mfa.org/collections/object/postman-joseph-roulin-32542


「子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人」

(引用)
http://www.mfa.org/collections/object/lullaby-madame-augustine-roulin-rocking-a-cradle-la-berceuse-33277



古代エジプトの「メンカウラー王頭部」
紀元前25世紀頃の制作で、ギザの第3ピラミッド内部から見つかりました。日本では縄文時代。古代エジプト文明の質の高さに改めてビックリします。

(引用)
http://www.mfa.org/collections/object/head-of-king-menkaura-mycerinus-138427


ヘンリー・レーン「ニューヨーク港」
19世紀のアメリカ絵画の中で印象に残った一点です。

(引用)
http://www.mfa.org/collections/object/new-york-harbor-33193



以上






















以上

「29年9月の唱歌・童謡・名歌を歌う会」

2017年09月25日 09時00分00秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
9月の「唱歌・童謡・名歌を歌う会」に行って来ました。今月は「秋の夜半」、「村祭り」、「虫の声」、「赤とんぼ」、「小さい秋見つけた」など秋の訪れを感じる歌や「故郷の空」、「故郷」、「埴生の宿」など“ふるさと”を偲ぶ歌を中心に15曲を練習しました。
「惜別の歌」は小林旭の歌で大変有名なのですが、私も学生時代から大好きな歌です。この会は発足して十年以上経ちますが、歌唱指導の方が、今まで歌ったことがなかったと話していました。声楽家である歌唱指導者ご自身も知らなかったということでした。
さて、「惜別の歌」の成り立ちについては、作曲者である藤江英輔が中央大学125周年行事で行った講演録があるので、内容を掻い摘んで要約、記載します。

『終戦も間地かの昭和19年12月、中央大学予科の学生だった藤江英輔が勤労動員先の陸軍兵器工場(板橋)で、一緒に働いていた東京女高師範(現お茶の水女子大)の学生から知っているかと言って“ある詩”を渡されたが、この詩が島崎藤村の詩集「若菜集」の「高楼」で、藤村好きの藤江は当然知っていました。  藤江はこの詩の中から1、2、5、7連を取り上げ、さらに、1連の「わがあねよ」を「わがともよ」と変え、“惜別の歌”という題名にし、曲を作りました。即ち、藤村の原詩は、遠いところへ嫁ぐことになる姉と送る妹との切ないやり取りであったものを、藤江は旅立つ友との別れを惜しむ内容につくりかえたのです。藤江が勤労動員作業中に作曲した「惜別の歌」を「口ずさんでいると、周りの学生達が覚えて歌うようになり、やがて工場から出陣する学徒兵を送る際に歌われるようになりました。戦後には昭和26年に中央大学の学生歌となり、また、歌声喫茶を通じて全国に広まり、昭和36年には小林旭がレコーディングすることになりました。』
このような経緯で、「惜別の歌」は現在も多くの人に親しまれ歌われていますが、ネットで検索すると、四番の歌詞に藤江が選んだ7連ではなく、6連を当てているものがあるようですが、作者の藤江の意向を尊重してほしいとおもいます、

1、秋の夜半(佐々木信綱作詞、ウエーバー作曲)   
2、村祭り(作詞・作曲者不詳)
3、虫の声(作詞・作曲者不詳)
4、月(作詞・作曲者不詳)
5、うさぎ(わらべうた)
6、故郷の空(大和田建樹作詞、スコットランド民謡)
7、故郷(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)
8、惜別の歌(島崎藤村作詞、藤江英輔作曲)
9、赤とんぼ(三木露風作詞・山田耕筰作曲)
10、北上夜曲(菊地規作詞、安藤睦夫作曲)
11、夢路より(津川主一訳詩、フォスター作曲)
12、埴生の宿(里見義作詞、ビショップ作曲)
13、小さい秋見つけた(サトウハチロー作詞、中田喜直作曲)
14、夕方のお母さん(サトウハチロー作詞、中田喜直作曲)
15、フニクリフニクラ(清野協夏・青木爽訳詩、デンツア作曲)

「惜別の唄」
  昭和36年10月発売
  作詞:島崎藤村 作曲:藤江英輔 編曲:狛林正一

一 遠き別れに 耐えかねて
   この高楼(たかどの)に のぼるかな
   悲しむなかれ 我が友よ
   旅の衣を ととのえよ
二  別れと言えば 昔より
   この人の世の 常なるを
   流るる水を ながむれば
   夢はずかしき 涙かな
三  君がさやけき 目の色も
   君紅の 唇も
   君が緑の 黒髪も
   又何時か見ん この別れ
四  君の行くべきやまかわは
   落つる涙に見えわかず
   袖のしぐれの冬の日に
   君に贈らん花もがな

 
「高楼(たかどの)」  島崎藤村『若菜集』所収

わかれゆくひとををしむとこよひより
とほきゆめちにわれやまとはん   
(別れ行く人を惜しむと今宵より 遠き夢路
 に我や惑はん)

  妹
とほきわかれに
たへかねて
このたかどのに
のぼるかな

かなしむなかれ
わがあねよ
たびのころもを
とゝのへよ

  姉
わかれといへば
むかしより
このひとのよの
つねなるを

ながるゝみづを
ながむれば
ゆめはづかしき
なみだかな

  妹
したへるひとの
もとにゆく
きみのうへこそ
たのしけれ

ふゆやまこえて
きみゆかば
なにをひかりの
わがみぞや

  姉
あゝはなとりの
いろにつけ
ねにつけわれを
おもへかし

けふわかれては
いつかまた
あひみるまでの
いのちかも

  妹
きみがさやけき
めのいろも
きみくれなゐの
くちびるも

きみがみどりの
くろかみも
またいつかみん
このわかれ

  姉
なれがやさしき
なぐさめも
なれがたのしき
うたごゑも

なれがこゝろの
ことのねも
またいつきかん
このわかれ

  妹
きみのゆくべき
やまかはは
おつるなみだに
みえわかず

そでのしぐれの
ふゆのひに
きみにおくらん
はなもがな

  姉
そでにおほへる
うるはしき
ながかほばせを
あげよかし

ながくれなゐの
かほばせに
ながるゝなみだ
われはぬぐはん

  以上





(2017)「8月の唱歌・童謡・名歌を歌う会」

2017年08月28日 09時00分00秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
「唱歌・童謡・名歌を歌う会」の8月例会に行って来ました。
今回は夏の時季に因んだ曲(われは海の子、水遊び、金魚の昼寝、風りん、夏の思い出)など5曲を始め、16曲を歌いました。今回は童謡を主に選曲されていますが、私が全く知らない童謡が4曲ありました( 2、 水遊び、3、金魚の昼寝、5、風りん、8、あした)。みな素晴らしい曲ばかりでした。
9、初恋(石川啄木作詞、越谷達之助作曲)は、なかなか難しい歌ですが、我々を指導してくださ方が、作曲者である越谷達之助から学んだ歌い方で指導してくださいました。

さて、1、の「われは海の子」は、誰しも小学校で歌ったことのある懐かしい唱歌ですが、ふつうは三番の歌詞までを歌います。歌の会でも同様で三番までを歌いました。歌集には歌詞が七番まで掲載してあります。「明治43(1910)年7月尋常小学読本唱歌」となっており、歌詞は文語体で書かれています。三番まではやや平易な文言が使われていますが、四番からはがぜん難しい文言が多く使われています。戦後、GHQの指示により七番の歌詞が軍国的であるという理由で削除され、その後の教科書では,「われは海の子」は姿を消しますが、昭和33年の学習指導要領によって,三番までの歌詞で教材に復活し、現在に至っています。

「われは海の子」の歌詞をよく読むと、四方を海に囲まれた“海洋国日本”の少年の“星雲の志”をあらわしているように思います。
即ち、“海辺に生まれ、海で遊び、磯の音や潮の香りの下で育ち、海で身体を鍛え、自然の猛威をものともせず、大きな船に乗って海に出て、海の富(魚介類、資源など)を得て、そして、軍艦でこの海洋国家・日本を守っていこう”というものです。
現在の日本では、自衛隊は「軍隊」ではありませんので、日本には“軍艦”は存在しませんが、自衛隊の艦船や航空機、また、海上保安庁の“巡視船”が、領土・領海・領空を守るために日夜厳しい任務をおこなっています。
まさに、現在の日本の姿を歌った歌なのではないかと思います。七番の「軍艦」という文言を国民の知恵を絞って修正して、七番までを歌えるようにしてほしいと願っています。



1、われは海の子(作詞・作曲者不詳)
2、 水遊び(東くめ作詞、滝廉太郎作曲)
3、金魚の昼寝(鹿島鳴秋作詞、弘田龍太郎不詳)
4、しゃぼん玉(野口雨情作詞、中山晋平作曲)
5、風りん(川路柳紅作詞、草川信作曲)
6、かわいい魚屋さん(加藤省吾作詞、山口保治作曲)
7、船頭さん(武内俊子作詞、峰田明彦補作、河村光陽作曲)
8、あした(清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲)
9、初恋(石川啄木作詞、越谷達之助作曲)
10、富士の山(巖谷小波作詞、作曲者不祥)
11、七つの子(野口雨情作詞、本居長世作曲)
12、証城寺の狸囃子(野口雨情作詞、中山晋平作曲)
13 夕焼け小焼け(中村雨紅作詞、草川信作詞)
14、夕方のお母さん(サトウハチロー作詞、中田喜直作曲)
15、夏の思い出(江間章子作詞、中田喜直作曲)
16、フニクリフニクラ(清野協夏・青木爽訳詩、デンツア作曲)



「我は海の子」
(一)
我は海の子白浪の
騒ぐ磯辺の松原に
煙棚引く苫屋(とまや)こそ
我がなつかしき住家なれ
(二)
生まれて潮(しお)に浴(ゆあみ)して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸ひて童(わらべ)となりにけり
(三)
高く鼻つく磯(いそ)の香に
不斷(ふだん)の花のかをりあり
なぎさの松に吹く風を
忌(いみ)じき樂(がく)と我は聞く
(四)
丈餘(じょうよ)の魯櫂(ろかい)操(あやつ)りて
行手定めぬ浪まくら
百尋千尋(ももとせちひろ)海の底
遊び馴れるたる庭広し
(五)
幾年(いくとせ)こゝに鍛える
鉄より堅き腕(かいな)あり
吹く塩風に黒みたる
肌は赤銅さながらに
(六)
 浪にたゞよふ氷山も
來(きた)らば來れ恐れんや。
海まき上ぐるたつまきも
起らば起れ驚かじ
(七)
いで大船(おおぶね)を乘出して
我は拾はん海の富。
いで軍艦に乗り組みて
我は護らん海の国


  〆






「フォレスタ・セレクションコンサート~和魂洋才~」17

2017年07月11日 09時00分00秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
「フォレスタ・セレクションコンサート~和魂洋才~」に行って来ました。このセレクションコンサートは年50回くらいあるフォレスタコンサートの中で異彩を放っています。フォレスタ・コンサートでは一般的に日本の抒情歌、童謡、懐かしの名曲(歌謡曲やポップスなど)が主体で、フォレスタメンバーの原点としてオペラの曲が若干ですが歌われます。

他方、セレクションコンサートだけは、リーダーである大野隆さんがプロデュースし、この枠組みが取り払われる曲の構成になります。司会の石川牧子さんが「皆さん のびのびと歌っています」と表現していました。ということは、他のコンサートは“フォレスタの型”に縛られているということでしょう。確かに観客席から見ても、他のコンサートで漂う雰囲気とはガラッと変わったものを感じます。リーダーの大野隆さんも挨拶の中で、「セレクションコンサートは、年一回ですが、選曲・構成など上の方(一条さんなどの上司のことか??)にも自由にさせてもらっています。」と発言していました。大野さんの口ぶりから、セレクションコンサートを清瀬の年一回だけでなく、せめてもう一回(他の場所でもよいので)行えたら良いな、という気持ちが感じられましたが、いかがでしょうか。勘ぐりすぎでしょうか。

セレクションコンサートに来場された方の中には、フォレスタには日本の抒情歌・童謡を中心に歌ってほしいという声もあるかと思います。私の知人もその一人で、毎年のセレクションコンサートのたびに選曲・構成に不満タラタラで、今年は足を運びませんでした。 しかし、私は今のセレクションコンサート(特に今年の)の選曲・構成に満足しています。日本の抒情歌や童謡は、毎週月曜日の「BS日本・こころの歌」でも放映されており、なりよりも、他のフォレスタコンサートで聴くことが出来ます。特に首都圏の方にとっては、近くでフォレスタコンサートがあり、聞きに行ける機会が多くありますので。 

今年の構成は、第一部は8曲で、童謡:3曲(汽車メドレー、たなばたさま)、戦時歌謡:1曲(海ゆかば)、唱歌:1曲(夏の思い出)、ミュージカル曲:4曲(踊りあかそう、Singing in the rain, 星に願いを、A whole new world)です。第二部は例年通りオペラのアリアを中心にした曲目で、「フィガロの結婚」から6曲、「トスカ」から4曲、「カルメン」から1曲です。
アンコールは昨年と同じで、イタリアの第二の国歌とも言われている「行けわが思いよ、金色の翼に乗って」でした。

さて、「海ゆかば」についてですが、司会の石川牧子さんが、「男声コンサートでは良く取り上げている。作曲者の信時潔は敬虔なクリスチャンであったことはあまり知られていません。」と話していました。
「海ゆかば」は、昭和12年に国民の戦闘意欲の高揚を意図して制定された曲だったのですが、太平洋戦争も半ばを過ぎ、玉砕の大本営発表の際には冒頭に「海ゆかば」が流されたといわれています。なお、勝戦の場合は、「軍艦行進曲」、「敵は幾万」などいかにも勇ましい曲が流されたようです。
こうしたことから、戦後は“天皇への絶対的忠誠を誓い、国威発揚する忌まわしき軍歌”として扱われてきましたが、クリスチャンの信時潔は、讃美歌を思わせる荘重なレクイエム調の曲にしあげました。戦死者の追悼にピッタシの荘厳な曲ともいえるように思います。男声フォレスタが取り上げている理由もこの辺りにあるのではないでしょうか。
私の周りでは男声フォレスタの「海ゆかば」を聞いて涙ぐんでいる方が数名いましたし、私も目頭があつくなりました。今や日本で「海ゆかば」を歌えるグループは男声フォレスタだけではないでしょうか。

アンコールの「行けわが思いよ、金色の翼に乗って」(オペラ『ナブッコ』より)は、昨年、リーダーの大野さんが大好きな曲と言っていたように記憶しています。しかも、歌うスタイルも昨年同様、皆さんが譜面を手にして、合唱スタイルで歌いました。自由に演出できるセレクションコンサートの最後に、フォレスタはクラッシク出身の声楽家のグループという大野さん流のこだわりなのではないでしょうか。




<プログラム>
『第一部』
「汽車メドレー」 混声 P:南雲、吉野。  
「汽車(今は山中 今は浜~)」、「汽車ポッポ(汽車 汽車 ポッポ ポッポ~)」、「汽車ポッポ(お山の中行く ~)」
「たなばたさま」女声アカペラ P:山元
「海ゆかば」 一番アカペラ P:吉野
マイフェアレディより「踊り明かそう」 内海、P:山元・吉野
雨に歌えばより「Singing in the rain」 横山、 P:南雲
ピノキオより「「星に願いを」 上沼、 P:山元
アラジンより「A whole new world」 澤田・小笠原、 P:吉野
「夏の思い出」 横山指導で体操・全体合唱 


『第二部』
WAモーツアルト作曲オペラ〈フィガロの結婚〉より
「序曲」 P:南雲・吉野・山元
「けんかの二重唱」 吉田(マルチェリーナ)・内海(スザンナ) P:吉野
「恋とはどんなものかしら」 吉田(ケルビーノ少年) P:山元
「もう飛ぶまいぞこの蝶々」 大野(フィガロ) P:山元・南雲
「ひどいぞ、なぜあんなに冷たくした」 塩入(アルマヴィーヴァ伯爵)・上沼(スザンナ) P:山元・南雲
「訴訟に勝っただと?」 塩入(アルマヴィーヴァ伯爵) P:山元・吉野 


Gプッチーニ作曲オペラ〈トスカ〉より
「妙なる調和」 澤田(カヴァラドッシ) P:山元・南雲
「テ・デウム」 今井(カルピア) P:山元・南雲
「もし私にこの欲望を裏切れというなら~歌に生き、恋に生き」 今井(スカルピア)・中安(トスカ)、P:南雲・吉野
「星は光りぬ」 榛葉(カヴァラドッシ) P:南雲・吉野


Gビゼー作曲オペラ〈カルメン〉より五重唱
「うまい話しがある」 吉田・内海・上沼・今井・横山 P:南雲・吉野
    


~アンコール~
Gヴェルディ作曲オペラ〈ナブッコ〉より   
「行けわが思いよ、金色の翼に乗って」  P:南雲