波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

波紋   第62回

2009-01-30 09:53:06 | Weblog
台湾のホテルの朝は朝粥で始まる。勿論洋食もあるがほとんどの人がお粥を食べる。
夕食のアルコールや油の強い料理の後で胃にやさしいこのお粥はぴったりである。
お粥に芋が入っていることもあるが、これも気にならない。そばに付け合せのおかずが置いてある。小魚、海苔の佃煮、野菜の煮物、漬物等7,8種類のものがあり、好きなものを取り合わせが出来る。(味噌汁のようなものは無い。)
日本人であればこの朝食で何となくホッとする。松山も昨夜のことをぼんやりと考えながらやっと一息ついた感じであった。
今日の日程では日系のユーザーの訪問になっていた。日本から台湾へ工場進出し、派遣されている日本人はおおぜいいる。松山の知っている人も何人か台湾に来ていた。生活は人によっていろいろだが、大きい会社の場合、寮のような宿泊施設で生活している。安全であり、日本の食事を賄えるからである。しかし、中にはそんな生活になじめない人もいる。毎晩のように市内へ出て、飲食をしてカラオケバーに入り浸りになってしまうのだ。それは淋しさを紛らわせることであり、アルコールへの逃避であるが、大概の場合、単身赴任できているための気楽さである。会社の規則も国内よりゆるい。そんなことが生活を不規則にしていくらしい。小姐の優しい言葉にも負けてしまうのだろう。表には出てこないが日本に家庭を持ちながら台湾でも同棲をして、ずるずると暮らしている人が結構いることが分った。松山はそんな人に会って、話をしたこともあるが、何故か悪びれる所が無い。
そして、日本へ帰る強い願望も見えてこない。こちらの生活に満足し日本を忘れたかのようである。そのうち病気になり、そのままずるずるとこちらでいつの間にか亡くなっていた人もあった。また、中国へわたり、現地の工場を転々と渡って仕事をしている人もいるらしい。主に技術系の人で、その技術を買われて契約するのだが、あくまで使い捨てである。いらなくなったら、解雇される運命であるが、それでも何とか、生きていけるのである。
松山は日本を離れて暮らすことなど、考えられないので、こんな話を聞くと、とても信じられない気持ちである。日本で生活できないほど困窮しているわけでもなく、家庭にトラブルが起きているわけでもない。可愛い家族が待っている。それでも帰らない。とても理解できないことであった。
数日の業務の予定も無事に終えて、松山は帰国した。台湾が近くて遠い国のように思えた。

思いつくまま

2009-01-28 09:33:16 | Weblog
近所を散歩をしていたら、梅の花が咲いているのを見つけた。まだだろうと思っていたので、紅梅と白梅の香りをかいで、今年も春が近いことを知る事が出来た。
「東風吹かば、匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」菅原道真が大宰府へ流され、梅の花を見ながら、京の都を思いつつ、自分のことを思って春になったら花を咲かせなさいと詠ったこの歌が思い出される。
寒さの厳しい毎日であるが、間もなく春がやってくることを思わせ、何となく気持ちが和らぐのを感じる。しかし、毎日のニュースは明るいものは無く、殺伐としている。
将来を考えると、不安と悩みの中に沈んでしまいがちである。
私たちの生活の中で貧困が不幸の一つだと言われている。(貧困だけではないが)
ならば金があれば大抵のことは解決するのだろうか。金というものは無ければ欲しくて金の亡者になりかねない。そして金があればそれを失うまいとして金に使われるようになる。このことを実感として知ることは難しい。
しかし、案外に人間はお金がありすぎるために救われないことが多い事を知るべきであろうか。持った事が無いものからすれば、自分はそんなことはないから何としても金が欲しいと思うし、金があれば、幸福になるとしか思えないが、ここが
人間の分かれ道かもしれない。「貧しくもせず、金持ちにもせずわたしの為に定められたパンでわたしを養ってください。」と聖書にはある。
わたしの友達に「輪廻」を信じている人がいる。仏語で人間のすべての魂は転々と他の人間や生物にうつりめぐり、迷いの世界をへめぐって永久にほろびることは無いという意味らしい。つまり何回も生きることが出来るから、今の状態について気にすることはないということらしい。そして平然としていられる。(事実そのように見える。)最近の殺人事件を見ていると(秋葉原事件など)を見ると、ゲームにおける殺傷事件と同じように、すぐ起き上がって生き返るが如き感覚で行動しているようにも見える。つまり自分が大変なことをしたという観念が無いままの行動のようにも見える。子供たちのゲーム感覚がこのような考えを養成しているとしたらと思うといささか心配にも思えるが、考えすぎだと思いたい。
我が家の庭にも鉢植えから植え替えた梅ノ木がある。この梅も花をつけている。
水仙の球根も芽を出して、準備をしている。間もなく小さな庭にもささやかな春が来る。そんな楽しみを思わせるこの頃である。

波紋       第61回

2009-01-26 10:11:56 | Weblog
もう夜、12時近い時間だろうと思っていたが、とても深夜を思わせる雰囲気ではない。その場所だけが別世界であり、異常であった。小姐は勝手知ったる場所と見えて、どんどん中へ入っていく。松山も手を引っ張られて入っていく。独特な匂いが強くなり、台の上に肉が載せられていた。鶏肉のぶつ切りである。指をさして、そのいくつかをビニールの袋へぽんぽんと入れられる。無造作にそれを手の持つと、今度は野菜である。日本では見かけないような大きな葉っぱのものや、少し匂いの強いものなどを選ぶ、松山は小銭でその買い物の支払いをさせられていた。
一通りのものが揃うと、市場を出て車を拾う。そして行き先を告げている。松山はどこへ連れて行かれるのか、また不安になってきた。何しろ、言葉は通じないし、場所も分らない。20分も走ったろうか。車が止まった。
倉庫のような、階段を上がっていく。其処が彼女の家だった。アパートらしき扉を空けると、急に賑やかになる。両親と兄弟たちがせまい部屋で騒いでいる。
部屋へ案内されて、その一角に座る。そのまま唖然としてぼんやり座っていると、テーブルが出され、大きななべを持った彼女が現れた。どっとみんなが集まってくる。これがこの家族の夕食らしい。やっと様子が分ってきた。
彼女は一家の生計を担って、働いているのだ。夜の仕事も立派な仕事なのだ。
お腹をすかして待っている家族のために、おいしい食事を持って帰ってきたのだ。「そうか、そうだったのか。」松山はその様子を見て、台湾の家庭の一断面を見た思いだった。勿論日本でもないことはないと思うが、一層現実的だし、生々しかった。
家族が揃って、食事をしている姿をほっとして見ていると、皿に盛られた食事を持ってきて、食べろと言う。とても食欲は無かった。手を振って断ると、おいしいお茶があるといって、ウーロン茶を入れてきた。
それから、暫くすると、彼女はホテルへ一緒に帰ると言い出した。松山は慌てた。「分った。気持ちはありがたいけど、もう遅い。私はひとりで帰るから、君はここで寝なさい。」そういうと、今度は素直に頷いた。松山は車の手配をしてもらい、行き先を指示してもらい、帰ることが出来た。
うとうととしているうちに夜が明けた。慌てて起きる。えらいさんを迎えに行かねばならない。コーヒーを一杯飲むと、ばたばたとホテルへ出向く。
「おはようございます。お迎えに参りました。」「やあ、ごくろうさん。今日もお天気は良さそうだね。よろしく頼むよ。」ご機嫌である。良かった。松山はホッとした。喜んでもらえればまあまあだ、そう思っていると、「松山君、君、今朝は顔色が悪いよ。昨夜元気出しすぎたんじゃないのか。」そういうと、けらけら笑いながらホテルを出た。

波紋     第60回

2009-01-24 11:05:05 | Weblog
話には聞いていたが、自分がそんな経験をすることになるとは夢にも思っていなかった。恐ろしい気持ちと、好奇心が交錯して複雑な思いで、ぼんやりと部屋で待っていた。えらいさんもホテルの部屋で待っているに違いない。
30分ぐらいたった頃、部屋のドアをたたく音がした。出てみると、小柄な若い女の子が二人とボーイが立っていた。ボーイにチップを渡し、話をしてみる。
「一晩の契約で、一人三万円」たどたどしい日本語で話す。特別おどおどしたところも無く、ごく普通のようである。初めてではなく、アルバイト的な感覚なのだろうか、特別な感情はなさそうである。早速、二人を連れて高級ホテルのえらいさんのところへ行く。待ちかねていたように招かれて部屋へ入る。何かアルコールを飲んでいたようで、赤ら顔が電灯の明かりで光って見えた。「松山君、君はどちらがいいんだ。好きなほうをつれて帰りなさい。」唐突に言われて、また動揺した。二人を
置いて帰ればよいと思っていたら、自分も面倒を見ることになっている。つまり共犯としての縛りであった。ちらりと女の子の顔を横目で見た。一人は少し可愛げで美しかった。一人は色も黒く、目立たない子だった。「こちらの子を連れて帰ります。」「そうか。その子がいいのか、じゃあな。明日は9時ごろ迎えに来てくれ」可愛い子を置いて、その目立たない子を連れて部屋を出た。
これで何とか、業務が終わった。やれやれと言う気持ちで自分のホテルまで歩いて帰った。女の子が付いてくる。部屋に入って決まりの金を渡す。小姐は無表情に金を受け取るとバッグにしまう。そして決まりの様に服を脱ぎ始めた。
松山は慌てた。「ちょっと、待ってくれ。決まりだから金は渡したが、セックスはしなくて良い。帰っても良いよ。」と言うと、「私は仕事で来ているから、帰れない。今日はここにいる」と言う。「ここに君がいると、私は寝られないから、帰ってくれ。」と繰り返した。そう繰り返していると、急に彼女は電話をかけ始めた。何を言っているかさっぱり分らないで早く帰ってくれないかと待っていると、ちょっと出かけたい所があるから一緒に来てくれと手を引っ張られた。
ここにいるより良いかと覚悟を決めて、ホテルを出た。小姐はタクシーを拾うと、行き先を告げた。松山は開き直っていた。どんなところへ行く気なのか、好奇心で一杯だ。タクシーは暗がりから急に明るいところへ出た。出てみると、夜中なのにこうこうと電気が照らされている市場である。こんな時間にこんな商売をしている所がある、日本では到底考えられないことだが、違うなあ。と妙な感心をしていた。

思いつくまま

2009-01-21 09:28:06 | Weblog
1月もそろそろ終わりに近づいてきた。アメリカではオバマさんが新大統領に就任して、方針を演説している。自分的にもやはりここは今年の計画を明確にしておきたい気がする。東京を離れ、郊外に住むようになって、今年で3年目を迎える。
始めは都会の喧騒を離れ、人間関係も過去のつながりを終わり、仕事も徐々にだが次世代へバトンを渡し、静かに日々を満喫できると楽しみにしていたが、いざその段になってみると、実際に新しい環境での新しい基盤が出来ていないことに気がついた。あれも出来る、これも出来ると多寡をくくっていたのだが、冷静になるにつれて、自分の、自分らしい生活を構築することが如何に難しいことかに気づかされたのである。一日の時間をどのような内容にすればいいか、これは孤独と言うことを含めて私にとっての大きな事業であることを知らされたのである。
それは高齢化と共に、未知の世界への展開であり、当に手探りの状態であった。
最初に漠然と浮かんだ考えは、何と言っても「健康維持」についてであった。
幸い、今のところ血圧が少し高いこと以外は支障はなさそうである。(しかし、何時どのように発症するかは保証の限りではない。)そこで万が一に備えて近くの医療機関を決めて定期的な検査を実行することにした。(主に血液検査)
次に定年を迎える頃から始めていたスポーツジムでのトレーニングを継続することだった。約10年近く続けていたこともあって、スムーズに実施できたことはありがたかった。現在は一ヶ月に平均10回の実行である。夏でも冬でも気持ちの良い汗をかくこと、血液の循環を良くし、コレステロールを増やさず、ストレス解消にもなる。そして終わったあとの入浴がまた格別である。何しろ下手な「健康ランド」や「天然温泉」にも劣らない設備が完備していて、清潔である。
(おかげで我が家の風呂の使用も減っている)勿論内容は身体との相談であり、無理することは無い。疲れていると思えば軽く、調子が良いとおもえば少し多めにメニューを増やせばよい。何しろ、やっていて、「今日も出来たぞ」と健康であることを実感できるのが、何よりの励みであり、喜びなのだ。
ジムは日中はさながら「シニア専用」と思わせるほどの「じじ、ばば」の賑わいである。若い人はこの時間帯は仕事で来れないと思われる。ばばさま達は思い思いにおしゃべりをしながらだが、男性は一様に黙々と全力投球である。
その姿は青春をもう一度味わうかのようで見ているほうも微笑ましいものがある。
とりあえず、これが第一であった。

波紋      第59回

2009-01-19 08:39:18 | Weblog
小林は正直、自分が酒を飲まず、酔っ払った経験が無いので、どうしたらよいのか、分らない。松山はまた車の中で眠りこけている。「仕方が無いなあ、家まで送っていくしかない。君も悪いが付き合ってくれ。」若い者と二人で千葉の奥まで行くことにした。いささか、腹も立つが、何しろ相手は正体無く酔っ払っていている。夜の道を走り、電話をかけた。奥さんは玄関まで出て迎えてくれた。
何とか三人がかりで彼を下ろし無事送り届ける事が出来た。恐縮して見送る家族を後ろに小林はホッとした。考えてみると、朝の紹興酒から始まっているのだが、どこでどのように作用したのか、分らない。つくづく酒の魔力を思わざるを得なかった。翌日、松山はいつものように出社してきた。本人も気まずい思いだろうと、あえて何も聞かずそっとしていたが、本人も気分が悪いと見えて、口数も少なかった。後日、松山が話したところによるとT商事で飲み始めた頃から、少しづつ記憶が薄れて、そこを出た頃から記憶が無かったそうである。
勿論家で寝てることも、靴をなくしたことも、スーツが泥だらけになっていることもどこでどうしたか一切記憶が無いのだ。電車で降りる駅を間違えることは間々あることで特別なことはないが今回だけは、さすがに懲りたらしい。
そして、その年の夏、松山は社長や親会社のえらいさんのお供で台湾への出張を命じられた。単独で行くことはよくあるのだが、今度はえらいさんのお供である。
ホテルの手配、車の手配、お客さんのアポイント、お土産の準備など、雑用が多く気が重かった。ホテルも最高級の五つ星である。車もリムジンを用意した。
食事は特別に予約をしてある。そして、その日が来た。飛行機も当然フアーストクラスとエコノミーに別れ別々である。
予定のコースは何事もなく、進みセレモニーも無事終わった。そして指定のホテルへ送り届けて自分のホテルへ帰り、ホッとしてやすんでいると、部屋の電話が鳴った。「松山君、ここでは部屋へ女性が呼べるって聞いているんだが、君手配を頼むよ。君と僕の二人を出来るだけ早くね。」驚いた。まさか、そんなことを頼まれるなんて想像もしていなかった。話には聞いたことはあったが自分で呼んだことはないし、本当かどうかも分らない。しかし、上司の命令は絶対だった。(?)業務命令である。
「そんなこと出来ません」と言う言葉は見つからなかった。松山は暫く考えた。
そして、ホテルの部屋付きのボーイを読んで聞くことにした。
「大丈夫、大丈夫、可愛いこいるよ。心配すること無いよ。待っててください。」
ボーイはそういうと、部屋を出て行った。

  波紋      第58回

2009-01-16 09:52:20 | Weblog
松山の担当しているユーザーは東京だけでも10社以上ある。松の内に主なところは顔を出して終わっておくには、それなりの数を済ませておかないと間に合わない勘定である。空きっ腹に飲んだ紹興酒は空っ風には効果があり、冷たい風がほほに心地よかった。松山は少しづつ高揚してくる気持ちを抑えながら小林と挨拶廻りをつづけていた。やがて、その日の予定が終わりに近づいた。「T商事を最後にして終わろうか。」と声をかけられた。昼頃に寄ったお客さんでおとそ代わりといわれ飲んだビールも程よく身体に効いていて、いつものアルコール状態になっていた。
T商事は関係会社でもあり、親しいこともあり、挨拶だけで良かったからだ。
一階の事務室には誰もいないので、勝手に二階へ上がっていった。其処では社長以下全員で、乾杯の後のお祝いの酒が振舞われよい気分で盛り上がっていた。「まあ、まあ」と挨拶もそこそこにご馳走の輪に加わることになった。もうその後は無礼講スタイルになり、和気あいあいとお正月という独特な雰囲気がかもす穏やかさが緊張感をほぐし、その場を和ませていた。松山もここでは自分はお客だと自制して遠慮がちに飲んでいたが、知らず知らずのうちにそんな気持ちもいつの間にか消えていたのに気づかなかった。
やがて宴もたけなわを過ぎ、打ち上げとなって片付けに入っていた。そして一人二人といなくなり、事務所は静かになっていた。気がつくと、小林と松山だけになっていた。小林は松山を促し「松山君、もうみんな帰ったよ。我々もそろそろ帰ろうよ」と声をかけた。彼は既に酩酊状態になっていた。ウイスキーのボトルを片手に持ち、足を踏ん張り両手を広げ「サア、飲もう」と気勢を上げている。
静かに手を引っ張り、出ようとするが、足を踏ん張ったまま動こうとしない。何かぶつぶつ言っている様だが、意味不明である。
暫く様子を見ていたが、なんとも仕様が無いことが分り、小林は会社から若い者を一人呼ぶことにした。二人で車へ乗せて、帰る事にしたのだ。
「この分じゃ電車に乗せて帰らせるのも危ないから、近くのホテルへ連れて行って、寝かせるしかないな。」と言いつつ、ビジネスホテルへつけた。
幸い空き部屋があり、泊まる事が出来ることになった。しかし、目を覚ました彼は車から降りようとせず、しっかり捕まったまま車から降りようとしないのである。既に靴は履いていない。どこかで脱いでしまったままである。更に何か言っているが、全く分らない。「困ったなあ、これ以上我々の力じゃあ、無理も出来ないなどうしょうか。」さすがに小林もこの酔っ払いには手を焼いたのである。




思いつくまま

2009-01-14 09:44:25 | Weblog
小正月も終わる時期になった。そろそろ普段どおりの生活の雰囲気である。少し遅くなったが、年賀状を整理してみた。年々数が少なくなるのは仕方が無いと思うし、当たり前だと思うのだが、交わりを持ってきた年賀状は貴重である。訃報を年内に貰っていて、来ない人もいるが仕方が無いと思う。そんな中で年に一度の近況を知る人も大勢居る。
「お元気ですか。」と健康を尋ねてくださる付言が多いのだが、今年はその中に
「孫が出来ました。」と文字からも喜びが感じられるものや「昨年、がんの宣告を受けました」「昨年はお会いできなくて残念でした。」など、それぞれのおかれている場で、自分への気持ちが良く分り、何となく微笑ましいのだが、ご病気の知らせはことのほか、心が痛むのである。
そして、中に「今年は是非お会いしたいです。電話番号を知らせてください。」
「いつか、会いたいなあ。」と言うものがあった。前者は長い間仕事を共にした
先輩であり、後者は可愛い姪っ子である。始めてこんな言葉に接して、自分からこんなことを書いた事が無いので、一瞬、戸惑いを覚えた。そしてどのように理解したらよいかと迷ったが、素直に相手の気持ちを受けることが大事なことだと思い、春が来て、暖かくなり、花が咲く頃、お会いしましょうとそれぞれに返事を書いた。自分からそんな思いになれない素直な気持が出来ていないことを恥ずかしく思いながら。
今年こうして新しい楽しみが出来たことを感謝したのである。人間の出会い、交わりは人生において若い時は自然に増えて、煩わしく思うものだが、年齢を重ねながら、減っていくものである。
ある本によると、中年を過ぎたら私たちはいつも失うことに対して準備をし続けていなければならない。失う準備とは準備して失わないようにするのではなくて、失うことを受け入れると言う準備態勢を創っておくことであることを覚えることだと書いてあった事を思い出した。
少なくなってくる年賀状を一枚一枚見ながら、その人のことを思い浮かべ、昔を思い出した一日であった。

波紋       第57回

2009-01-13 09:31:56 | Weblog
林さんの営業テクニックにお酒による接待がある。それは彼だけではなく、誰にでもある話なのだが、やはり日本的ではないところがあり、その程度が違ってくるようだ。彼の話によると、「○○社の誰々さん、とてもよく知ってるよ。一緒に台湾へ行ってお酒を飲んで、食事をして、いろいろと遊んだことあるよ。」となる。
日本での接待と違うのはお酒が違うことで、アルコールの度合いが強いのが多い。紹興酒、老酒、白酒となるに従って、強くなる。海外ということもあって、気を許し、勢いで飲んでいると、いつの間にか正体をなくし、裸の姿をさらけ出していることが多いのだ。逆に言えば、いつもの姿でないところを見られて、弱みを見せてしまっていることにもなる。林さんはお酒は基本的には飲まないので、その姿を冷静に見ているだけであるが、酔いつぶれた人はその場限りのことで、そんなことがあったなあで終わっているのである。(恥ずかしい姿を見せていることもあるのだが)一つのエピソードとして、あるメーカーの営業マンが例によって、接待を受けたらしい。翌日その人の奥さんが林さんを尋ねてきたらしい。「うちの人に変なお酒を飲ませないで下さい。今朝は起きられないで、会社を休んでいるのです。」と怒鳴られたことがあると笑い話を聞いたことがある。
林さんには悪気は無いのだが、受けた人は経験が無いこともあって、無意識に自分のペースを壊されているのだと思う。小林も同じ経験をしているのだが、酒が飲めなかったことと、その誘いを警戒して、断って受けなかったらしい。林さんは「お前は付き合いが悪い。」と気分を害していたらしい。それは仕事にも少し影響するようで、一目置いた少し距離を置いた関係だったようだ。
ある年、松山は小林(まだ在籍中の頃、)とお正月の挨拶に行ったことがある。
彼の習慣では旧正月が正式であろうが、日本の習慣を重んじて、挨拶を交わした。そして帰ろうとすると、例によって、「まあ、まあ」と声をかけられた。
いつものウーロン茶が出てくるものと思っていたら、何と、紙コップになみなみと、紹興酒が注がれていた。お祝いだから飲んで行けという。小林は例によって、丁重に断ったが、「松山さん、あんたはのめるんだから飲みなさい。」といわれ、断るのも失礼かと、仕事中であることを考えながら嫌いでもないので空けてしまった。すかさず二杯目が注がれ、止めようとしたが、何としても飲めといわれ、飲んでしまった。空きっ腹でもあり、腹にしみわたる酒の味はとてもおいしかった。
この程度の酒はどうと言うことも無い。松山はそう思っていた。

波紋      第56回

2009-01-09 10:21:00 | Weblog
松山の担当の取引先にはいろいろな人が居る。話の合う人、合わない人、気難しい人、気安く話の出来る人、様々だが松山は比較的にどんな人とも話が出来た。(相手がどう思っているかわは別として、)話が特別上手いわけでもなく、話題が豊富ともいえなかったのだが、それが相手の話を聞きだし、話をし易くしていたのかもしれない。なかには相手より、先にべらべらと話をして逆に不愉快にさせる場合もある。自然に一歩下がった姿勢から好感をもたらしていたかもしれない。
松山はつくづく営業の仕事でよかったと思う。「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」と歌にも歌われているが、本当にそうだなと思うことがあった。
そんな中でも、際立って特色のある人が居た。「華僑」と呼ばれる人である。中国、台湾から日本へ来て、日本で学び、国籍を取り、日本で事業をしている人sを主に指しているが、勿論、日本語は堪能であり、何の不自由も無い。しかし、その生活習慣、行動には独特なものがあり、個性があった。「林」さんは台湾出身と聞いていた。台湾の人も中国から渡ってきた人も居て、南部の福建省から来た人のようであった。松山が林さんと知り合って、話をするようになったときにはかなり高齢であったが、とても元気であった。何でも、特別な薬を飲んでいるとかで、どこでも買えない品物で、わざわざ台湾から取り寄せているとの事、特別に少し分けてもらったが、見ると真っ黒な丸薬である。何でも何種類かの漢方薬を混ぜ合わせて作られているらしいが、この内容がノウハウで秘密らしい。(ためしに何日か飲んでみたが、どうやら便通薬の一種であった。)座ると、おもむろに入れたてのウーロン茶が出る。そして話が始まるのだが、本題に入るのにかなりの時間がかかる。
問わず語りに、その生い立ちを聞くことになるのだが、その苦労は想像以上で、大変だったようである。差別の問題を始めとし、言葉、習慣、食べ物、生活のすべてを日本に合わせて生きていくことは人間関係を含めて簡単ではない。
林さんは薬局の仕事をしていた家に生まれ、何不自由は無かったが、向学心が強く、日本での勉強を目指した。そして、努力をしたのだが、そこには、隠れていた才能と、独立心、忍耐力が無ければならなかった。
やがて、林さんは資金をため、独立して貿易業を始めた。しかしそれもただ一人で誰にも助けてもらわない。小さな事務所で行っている。この方法は独特なもので日本人では真似の出来ないことであった。このビジネス感覚で成功したと言える。