波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

          オヨナさんと私    第5回       

2009-06-29 09:32:53 | Weblog
オヨナさんは少し離れた木陰の石に腰をかけ、スケッチを見直そうとしていた。
婦人は、静かに近寄ると、声をかけた。「すみません、宜しかったら私の話をお聞き願いたいのですが、」と言った。ヨナさんが黙っていると、婦人は思い切ったように話し始めた。自分の思いが我慢できず、どうしようもない感じであった。
「私は主人と二人で暮らしています。子供たちは大きくなり、それぞれ家を離れて独立して暮らしています。特別に不自由は無いのですが、最近になって主人の態度に我慢が出来なくなり、別れようかと思うようになりました。
自営業で仕事をしていることもあって、いつも一緒なのですが普段はそれほどでもないのですが、週末になると態度が変わるのです。お酒が好きで、毎日晩酌は欠かせないのですが、土、日になると、量も多くなり、ウイスキーを一本ぐらいあけてしまいます。おとなしく飲むだけなら良いのですが、態度が変わり、言葉が荒くなり、怒鳴り始めます。暴力を振るうわけではありませんが、この年になると、そんな夫のそばにいることが耐えられないのです。かわいそうに思うこともありますが、一緒に暮らすのが苦になってきました。娘はお母さん、私と一緒に暮らしてもいいわよと言ってくれるのですが、なかなか決心も付きません。本当につらいのです。」と言う。聞くと、二人とも還暦も半ばを過ぎている。
ヨナさんは、夫人の話が一区切りしたところで、独り言のように呟いた。
「あなたは、ご主人を愛していらっしゃるし、好きなんですね。お話を聞いていて、とてもよく分ります。だから別れるお気持ちは無いのでしょう。ただ、年をとり、今までのようにすべての事が出来なくなったり、考えられなくなってきたんでしょう。そして、相手の事がだんだん気になり始めたんだと思います。」
そこまで言うと、又考え込んでしまった。「でも、今のままでは我慢が出来ません。だから、何とかしたいんです。」その言葉にはヨナさんの話が聞こえなかったかのような強い感情が込められていた。
その感情が静まるのを待っているかのようにヨナさんは又呟いた。
「押し付けは良くありませんね。なんでも自分が良いと思ったことを自分流で押し付けてしまうと、相手はそれがわかり、せっかくのものが不満の対象になってしまうのです。そしてそれが膨らんで、爆発してしまうのです。」
「じゃあ、どうすればいいんです。」まだ、その言葉にはとげがあった。

      オヨナさんと私    第4回          

2009-06-26 11:30:59 | Weblog
オヨナさんは時々誰にも知られずにいなくなることがある。
そんな時は、どこかへ出かけているのだが、そんなに遠いところではない。
近所の公園であったり、神社、仏閣であるのだが、その日も近くのお寺へ出かけていた。その寺は別名「ボタン寺」と言われていて、4月には見事なボタンが咲きそろい、お参りをかねた参詣者が見物に来る。近いこともあって、散歩がてら其処へ行くのである。今頃であると、アジサイが本堂へ続く沿道の脇を色とりどりのアジサイで楽しめる。
いくつかの色のベレー帽の中から、その日の雰囲気で色を選ぶのだが、その日は少し薄めの藍色のものをかぶり、小脇にスケッチブックを抱え、3Bの鉛筆を胸のポケットに指している。駅から少し離れていて、周りに特徴の無いこの寺には普段は来る人も少なく、花の無い時は殆ど人はいない。
ヨナさんは、そんなに広くない庭をぐるりと一回りすると、そのうち、その一箇所に立ち止まり、スケッチを始めるのだ。その日も目に付いた名も無い小さな草の花に目を留め、其処へしゃがみこみスケッチを始めた。その草は俗に「ねじり花」とも呼ばれるものだが、言われなければ気づかずに通り過ぎてしまうほどのもので、よくみると、20センチほどの茎に、稲穂のような花が、可愛い小さな赤い花を咲かせているのである。それは高価なドレスを着て、お化粧で磨いた女性ではなく、粗末な服装での、清楚な可愛い女の子を見るようなもので、とてもすがすがしいのだが、其処を通る人の目に留まることは無かった。
どんよりと曇った空から、時折暑い日差しのさす中でヨナさんは夢中でその草に向かっていた。その表情からは、何の邪心も無く、いつもの悲しげな表情ではなく、生き生きとしたヨナさんの姿がうかがえた。
辺りが静寂の中に包まれて、誰もいないと思われたが後ろから「失礼ですけど、何をお書きになっているのですか」と声がかかった。すぐには返事が出来ず、少し間をおいてヨナさんは「草の花を書いています」と答えた。
「何という草なのですか。」「私も良く知らないのですが、ねじり花と聞いたことがあります。」「ねじり花?」そういうと声の主は其処へしゃがみこみ、その花を手につまんでいる。「可愛い花が付いているわ。こんな花があるの、全然知らなかったわ」とまじまじとその花を眺めている。
ヨナさんは書いていた手を休め、少し身体をずらし、立ち上がった。
そばには、日傘を差した一人の婦人がいた。黒い絽の涼しげな和服が良く似合う、少し年輩の人だった。周りには誰もいない。

思いつくまま

2009-06-24 11:32:37 | Weblog
ここ一ヶ月ぐらいの間に、近所で異変があった。といってもそんなに大げさなことではないのだが、右隣の家の夫人(60歳代)が、ある日突然亡くなった。突然死のため、変死扱いで葬儀を終わり、納骨を30日を過ぎて行おうとしたところ、その納骨も終わらないうちに、その主人が又突然亡くなったのである。夫人をなくした直後、老人会にも顔を出し、仲間に入れて欲しいと申し入れて、元気を出そうとしていた矢先のことでこの人もまた変死扱いで葬式を出した。原因は定かではないが、元気そうに見えていた人が
まだ新築の家に一年も暮らさないうちに亡くなるとは、真に皮肉なことだと思っていたら、今度は左となりのおばあちゃんが、急に入院してしまった。
元気に挨拶を交わしていた人だっただけに、一人暮らしとはいえ、予想外であった。そんなことがあって、「今度は私の番か?」と思ったりもそたのだが。
そこで、一人暮らしをしている自分が孤独であるか、どうか、そのことを考えてみた。そもそも、孤独とは具体的にどのような状況を言うのであろうか。
一人暮らしがすべて孤独ともいえないし、家族で生活していれば孤独ではない。又仕事で忙しくしていればそんな暇は無い。そう考えても不思議ではない。
しかし、良く考えてみよう。人間の存在は基本的に孤独な存在なのである。
ただ、環境や、その場の雰囲気の中で、それを意識していないだけなのではないだろうか。人間と言うものは多かれ、少なかれ、人々から離れて生きているものではないかと思う。たとえ、たくさんの仲間がいてその中にいても、誤解を招いたりすることも多く、絶えず人の中心になって華やかに生きている人でも、人間関係に大いに悩まされ、家族が多くて、何でも話し合える肉親であっても、何も話していないことがたくさんあるのだ。そんな時、その淋しさを思うときこそ、人はものを真剣に考えるチャンスを与えられていると考えられないだろうか。
そう考えることで、意識は180度変わる気がする。淋しさや、孤独さは恐らく
意識の中にはない。そして、新しい世界の中に自分を没入させ、その中で、脳を活性化させて、生きることを生み出しているはずである。
面白いもので、そのような習慣を、自分なりに訓練を続けることによって、自分なりに身につけることが出来るようになるのである。
「何をしようか?」ではなく、「何からしようか?」になったとき、その世界にあなたはいることになる。

        オヨナさんと私   第3回    

2009-06-22 11:46:36 | Weblog
小さなテーブルに粗末な茶器があった。椅子を勧められて座ると、オヨナさんは其処に熱い湯を注ぎ、しばらく時間をかけてから私に茶を入れてくれた。
飲んでみると、今まで飲んだことの無い味である。香りは漢方の薬のようであり、味はわずかだが、苦味がある。しかし飲めないほどではない。茶器の横に小さな丸薬のようなものが添えてある。「お茶と一緒にその薬も飲んでください」と言う。
私は一瞬、不安な思いがしたが、素直に、お茶とその丸薬を呑んだ。
聞くと、ヨナさんの生まれたところは台湾で、その家で処方された薬であり、お茶であった。「私はこのおかげで、元気にしています。」細い身体で、やせているのだが、健康であることを説明してくれた。
私も、何となく気のせいか、そのお茶を飲んで気持ちがすっきりして胃のもたれのようなものが消えた感じがした。
「私のところにいろいろな人が来ます。そしていろいろなお話を聞くことがあります。そして相談を受けるのですが、なかなか難しいのです。あなたにも聞いていただいて、お話を聞きたいのです。その人は39歳のお母さんです。中学一年生の女の子と、小学校四年生の子供いるのですが、最近中学へ行っている子が学校行かなくなって、困っています。どうしたら良いでしょう。と言われました。」
「難しい問題ですね。でも、もう少し詳しいことが分らないと具体的には軽々しくいえないことですね。」「そうなんです。私はその家族関係を少し詳しく聞きましたが、原因になるような事がありません。そこであなたとお話したいのです。」
ヨナさんは私の目をじっと見て、真剣でした。
私にも、似たような孫がいることを思うと他人事ではない気もして、少し、冷静に考えてみました。やはり、大事なのは家庭環境にあるような気がする。
そして、その一番基は夫婦の関係ではないだろうか。その子のお父さん、お母さんの間に何か問題は無いだろうか。そのことを子供なりに何か感じていないだろうか。13歳と言うこともあり、そろそろ、大人のことにもそれなりに、感じるし、考えることもあることだと、それが影響する一番近く、大きい問題かもしれない。
「ヨナさん、私はその子のお父さん、お母さんの関係が原因しているような気がします。」と率直に言ってみた。「そうですか、私も実はそんな事を思っていました。やはり、子供の環境は親の関係が一番大事になってきますね。それと、親がどれほど、暖かい目で子供を見ているか、単に可愛がるだけでなく、正しい目、それは神の思いにも似たもので見ることが大事だと思います。」そう話すヨナさんの
目は少し淋しげであった。

           オヨナさんと私   第2回

2009-06-19 08:53:37 | Weblog
彼の住んでいる家は平屋の一軒家である。それほど大きくは無いが、一人で住むには充分であろう。小さな庭もあり、そこには目立たない野の草のような可愛い花が何種類か咲いている。何れも特別なものではなく、自然に生えてきたものかもしれないが、それなりに手入れもされていて、雑草は無い。
普段は滅多に彼の姿を見ることは出来ないが、生活に必要なものをどうしているのか気になるところでもある。
私は挨拶を交わすまでは、あまり気にもならずにいたが、挨拶をしてからと言うものは何故か急に彼のことが気になり、家の前を通るたびに様子を知りたくなった。
隣人の自称「老人会、会長」に言わせると、何でも、子供たちが出入りをしているようで、学習塾のようなことをしているらしいということであった。
確かに、黒い着流しの甚平のような風体、背の高さ、あごひげ、そしてベレー帽の様子からは何か芸術家か、学問を嗜んでいる雰囲気を感じていたが、どうやらそんなところらしい。といって、看板を出しているとか、宣伝をしていると言うことは全く無い。近所とのお付き合いは勿論無く、ひっそりと暮らしている。
ある日の朝、ゴミ出しのために、朝早く、家の前を通りかかると、庭に出ていた
オヨナさんがこちらを向き、「おはようございます。」と声をかけられたのだ。
私はびっくりして、そちらを向くと、手招きをしている。「ちょっと、こちらへ来て見ませんか、今朝、咲いたばかりの花です。名前は知らないのですが、私はこの花を今朝見て、とても嬉しく、あなたにもこの喜びを分けたいと思いました。
見てください。」見てみると、高さが50センチほどの茎にいくつかの花が咲いていた。濃い赤の小さな花である。私の記憶では田舎によくある、ビロードといっている花ではないかと思ったのだが、自信が無いので、言わなかった。
「花はどのようにして育つかを考えてください。特別に自分で水を取り、肥やしをほしがりして大きくなり、こんなにきれいな花を咲かせるのではないのです。
こんなに小さな、目立たない花でも神様はこうして育て美しい花を咲かせるのですから、私たちも毎日のことでくよくよしないことですね。」オヨナさんは独り言のように話している。二人は暫く、その花を眺めながらお互いに静かな朝のたたずまいを楽しんでいた。「上がって、お茶を飲んでいきませんか。私は毎朝、おいしいお茶を楽しんでいます。」ヨナさんは「さあ、さあ」と遠慮する私を手を取るように招き入れてくれた。

             思いつくまま

2009-06-17 09:42:11 | Weblog
今年もいよいよ梅雨に入った。毎日、どんより曇った空を眺め、何時降ってくるか分らない雨を思う時期でもある。でも、この雨がこの時期大切であり、必要であることは日本の歴史が証明しているわけでありがたいとも思う。
そんな天気を見ながら日本の景気のことを考える。2008年度の企業収益は61.8パーセントの経常減益といわれ1970年度以降最大ということである。この2008年度の落ち込みは世界の需要の急激な落ち込みであることはわかるのだが、
果たしてこの状態は何時まで続くのか、現在がボトムと考えられるのか、それとも
まだ下がるのか、やはりこれからの事が心配である。
資料によると2008年度に比べると、減益率も今年は縮小するだろうと言う見通しも出ている。全体ではないが、2009年度は19業種のうち、8業種が経常増益、11業種で経常減益が予想されていると言われているから、まだまだ予断は許されないが、少しづつ良くなることを期待したいものです。
さて、最近今まで気がつかなかったことを不図、考えるようになりました。
それは「自己犠牲」と言うことです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛は無い」と言う言葉が聖書にあるが、この言葉を簡単に読み過ごしていた。それは自分のこととしては想像もつかない話で、考えられなかったからだが、
良く考えているうちに、このことは自分にも身近なことであること、又、毎日の生活の中で様々に生かされることであることに気づいたのです。
つまり、すべてのことに自分のことを思わず、「隣り人」周りの
人のことを考えて行動するように考える。話すにしても、何をするにしても自分のことを忘れてみる。すると、新しい考えや、新しい発想がでてくる。最初は何か自分がいかにも損をしたような、惨めな思いになるが、それをつづけているうちにとても気持ちが良く、嬉しくなってくる気がする。相手の人が、そのことで少しでも喜び、少しでも明るくなると、心が通じたような、喜びが伝わってくからである。
キリストはその生涯を「愛」で貫いて生きたと言われているが、まさに「愛」はその根底にこの「自己犠牲」から生まれているのかもしれない。
私にはそんな大それた考えは出来ないが、自分を捨てると言う考えを持つことで
すべてのことの考え方は変わるような気がする。
今年は自分を変える年として、歩んでいるが、これもその一つとして考えて生きたいと思っている。

おヨナさんと私    第1回

2009-06-15 09:42:56 | Weblog
私がこの地に移り住んで三年になる。人は一生のうちに住居を一箇所で過ごす人もいるかもしれないが、多くの人は何回か引っ越すことが多い。私も生まれてこの方何回か住居を変えてきたが、その底辺には「仮住まい」の思いがある。それはどこにいても、自分の最終的な住まいは「天国」にあると考えているからでもあるのだが、
それはさておき、現在のこの住まいは不思議に最初から何の問題も無かった。
そばを電車が走っていて車輪の音が通るたびにひびくが、あまり気にならない。
右と左に一戸建ての庭付きの家があり、老人がどちらも一人で住んでいる。
家の前の通りは行き止まりになっていることもあり、一日中人が通ることも無いくらい静かである。近所とのお付き合いも無いので、良く分らなかったがこの一角の住まいは一戸建ての庭付きの家で、住んでいる人が高齢者ばかりであり、言ってみれば老人の雰囲気である。したがって、子供や、若者の姿は見たくとも見ることはなく、今の私にとってはうってつけの環境かもしれない。
滅多に顔をあわせる機会も無いが、時に顔が合えば、挨拶をする程度であるから
近所の人のことは良く分らないのだが、道の向かい側の何軒か先の一軒家に
「おヨナさん」と言う人がいることを隣のだんなから聞いたことがあった。
珍しい名前だなあと思い「どんな字を書くんですかね。」と聞くと、「誰も良く知らないんだ。ただみんなヨナさん、ヨナさんと言い、通称おヨナさんで通っているんですよ」と説明を聞いた。
聞くとも無く、聞いていると、その風貌も変わっている。身長も高く、やせていて、顔にはあごひげを生やし、外へ出るときはベレー帽をかぶり、パイプをくわえている。その姿は一見芸術家風であるが、何をしているか知っている人はいない。家族はなく、時々ぶらりと出かけて、暫く帰ってこないこともあるとのこと。この辺では「変人」として知られていた。私は何時しか、このおヨナさんに関心をもち、いつか会ってみたいものだと思うようになっていた。
ある日の朝、ゴミ出しをするために外へ出ると、道に「おヨナさん」の姿があった。良い機会だと思い、近づいていって、声をかけた。
「おはようございます。近所に住んでいるものです。よろしく」
その声に振り向くようにこちらを向いて「おはようございます。ヨナと申します。
よろしくお願いします。」と答えてくれた。その言葉は少しぎごちなく、たどたどしい感じがした。

       波紋    第100回

2009-06-12 10:04:29 | Weblog
昨年から今年にかけて波紋と言う題で一年間書いてきました。こんなことを書くきっかけとなったのは私の友人であり、仕事の仲間であった松山氏の死亡の通知を受けたことであった。何故か、彼は仕事中の昼間にトイレに行き、そのまま体調を崩し、半日、そのままの状態で過ごし、翌朝まで誰にも気づかれず、そのまま苦しんで死んだのである。変死扱いとなり、連絡を受けた家族はどんな思いであったろうかと思うと同時に何故、だれか彼の不在に関心を持ち、探し、助けることが出来なかったかと悔しい思いで一杯であった。
しかし、冷静になって考えているうちに、もし自分がその場にいて果たしてどんな行動が取れていただろうか、と考えると、彼を助けるために行動が取れたかと思うとき、全くその自信の無いことに気づいたのである。
私もまた、他の人と同じように無関心のまま過ごしていたのではないかと自分自身を顧みたのである。そして、この出来事を通じて何を考えなければいけないか、現実には周辺の関係者はどうしたのだろうか、そして、其処から派生して人間関係とはどんなものなのか、普段の関係がそんな時にどのように影響するのか、そして
人間として、どのように生きていくことが大切なのか、考えさせられた。
そして、その時の人々に焦点を合わせながら、その考え方、又その行動、その動きを追ってみたのである。そして反省と同時に考えさせられることが多かったことを感じたのである。人はその時々のことのみを考え、判断し、行動するが、そのような関係は相互に何らかのつながりによって、成り立ち、それぞれがその役目を果たすようになっているはずである。
そして、生きることの大切さを分かち合っているはずである。
そのことを、考えてみたかったのです。しかし実際には意のあるところを充分書くことが出来なかったし、事実関係は良く分らないことも多かった。
でも、これで松山氏のことに一応の区切りが出来て吹っ切れて終わる事が出来た気がしています。これからは残された人生を残された人間関係の中で大切にしながら小さな感動を積み重ねながら、生かされている恵みを感謝しつつ日々を歩んで生きたいと思います。
一年で100回というパターンで3年を過ごし、今年は4年目に入ります。
今年は次回から「オヨナさんと私」という題で書いてみたいと思っています。
「オヨナさん」と私がどんな関係でどんな世界を作っていくのか、自分でもわかりません。でも、この「オヨナさん」と一緒に歩いてみたいのです。

           思いつくまま     

2009-06-10 11:47:07 | Weblog
梅雨の合間とも言うような快晴の日(7日)、思いがけず、結婚式の招待を受け
10年ぶりぐらいにそのめでたい席に出席する事が出来た。
暑い日差しの中をジューンブライドの花嫁がフラワーシャワーを受けながら歩く姿はとても美しく、良く似合う。この日から始まる新しい人生を最後まで全うしてもらいたいと願うと共に、其処に列席している人々を見ていて、この二人の何十年後を見るようでもあって、その流れが見えるようでもあった。
祝福を受けることはとても巣晴らしことではあるが、自分だけがその祝福の中にあるのではなく、その周りの人々にその祝福を共に分け合う心を持ち合わせてもらいたいとも感じたものである。
さて、話は変わるのですが、昨今「ぶれている」「いや、ぶれていない」と言う言葉が新聞をにぎわしたことがあった。総理大臣の言葉としてそれは大きく取り上げられたのだが、良く考えてみると、自分達の生活の中でもこのようなやり取りはたくさんあることに気がつく。人は自分の都合で「それはこうだ」といい、「いや、それはこうであった」と物事を変えているのだが、意外とそのことに責任を感じていないし、反省もしていない事が多い。私も嘗て、友人から「君の軸足はどこにおいてあるのだ。」と責められ、赤面をしたことを覚えているが、冷静に考えてみると、様々なことで、自分が勝手に都合よく、自分を変えていることに気づくのである。しかし、これは大事なことであり、場合によっては自分が泥をかぶっても明確にその責任の所在を明らかにすることも大切である。
そして、本当に自分の誤りであったり、勘違いであったり、誤解であったことを素直に認めると同時に、真実のあり方、正しいあり方を其処から学び取ることを考えなければいけないと思う。そしてその時の自分のプライドであったり、無知を恥ずかしく思いつつ、自分の責任を認め、改めることに勇気を持ちたいと思う。
ご都合主義で、右顧左眄することもあるが、それは見苦しいような気がする。
他人の目ではなく、自分の心に照らした「良心の目」を養って生きたいと思う。
間もなく、入梅となる。この時期の梅雨も季節の大切な賜物で、日本は世界でも雨量の少ない国とされている。それでいて良質の水の国でもあるとされている。
その水の基になる雨は貴重である。嫌がらず、天の恵みとして受け止め、この時期の健康の維持に努めたいと思う。

         波紋     第99回

2009-06-08 09:58:20 | Weblog
松山が死んで3年が過ぎた。小林は再び自分の生活に戻り松山のことを少しづつ忘れかけていた。佳代子からの年賀状には上の娘が嫁に行き、子供を抱いて里帰りをしたときに、孫を抱くことが出来てとても嬉しいと知らせてきた。やっと、松山のいなくなった傷が癒され、孫を抱くことで新しい望みと感動が生まれていることを知って嬉しかった。「青春とは顧みる時の微笑である。」と言ったのはゲーテと言われているが、当にそんな心境である。子供から学生時代、そして成人になってからの一人一人の顔を思い浮かべ、その時々のことを考えるときに、思わず微笑んだり、苦笑いが浮かんでくる。あんなこともあった、こんなこともあった。そのなかには、松山と一緒に仕事をしたことが鮮明にでてくる。
小林の人生には忘れられない一ページとなったのだが、そのことから起きた波紋のような人間関係もまた印象に残ることであった。
そんなある日、仕事で聞きたいことがあり、小林は池谷氏へ電話をした。
彼は小林が現役営業マンとして活躍していた頃、同じ業界のメンバーの一人だった。業界の会議の終わった後、飲み会と称して、気のあったもの同志が集まって
遊んでいた。そのメンバーの中では若手で今でも現役で活躍していることを知っていたし、気心の知れた人であり、業界のことに精通しているので、何も聞くにしても相談が出来た。仕事の合間を見て、夕方から一緒に居酒屋で過ごすことにした。
引退した小林にすれば、やはり新しい情報を聞くことは刺激になり、又自分の歩いてきた道を辿ることで気持ちが動くのである。
「どうだい、景気のほうは」と始まり、話は尽きることなく、モーター業界、マグネット業界、そして、人事の動き、と展開していく。そしていつの間にかプライベートな野球、ゴルフとつながっていくのだ。その様子は30年前と少しも変わらず、分け隔ての無い時間でもある。小林はこんな時間の持てることをとても嬉しく思う事が出来た。
やはり、年々人間関係が少なくなり、淋しくなっていく中で、こうして楽しい時間が持てる人が出来ることも感謝であるし、楽しみでもある。
時にカラオケ、ゴルフの遊びも出来る。ほどほどに楽しめる仲間が出来たことは小林にととって何よりのことであった。
人生と言う大きな池の中に落とされたいくつかの石の波紋は何条かの大きな波紋を広げ、その輪が広がっていった。しかし、時間と共にその波紋の輪も次第に小さく静まり、波も収まっていく。そして元通りの静寂に戻ることだろう。