波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

   白百合を愛した男   第98回

2011-05-30 10:50:46 | Weblog
長い人生では、多くの人との出会いがあり、その出会いから関わりが生まれ様々な人間関係が生まれる。この会社と運命を共にし、出会いがあり関わりが出来た人の中にそれぞれの運命と思い出が残されたのだが、その中でもこの人ほど大きく重い印象を残した人はいない。S氏である。彼との出会いは今でもはっきり覚えている。創立者が始めた事業を二代目に譲ったが、何時しかその経営を放棄し、美継がその後をつなぎ、三代目へと託したのだが、突然の交通事故で死亡、そして共同株主であったD社へ会社を譲渡し、経営権を失ったのだが、その時の代表として派遣された人であった。当人も全く知らなかったとのことであったが、突然の辞令だった。最初の株主総会での挨拶が最初の出会いであったが、小身短躯で決してスマートとは言えず、あまり印象は無かったが、何故かその眼光の鋭さが気になった。内に秘めた使命感のようなものが見えるようで、当に質実剛健と言う言葉がぴったりだった。大会社からの人にありがちな贅沢や見得のようなものは無く、
その言動に表れていた。昼休みなると麦藁帽に長靴、首にタオルを巻いて立つ姿をお手伝いの人に見間違えた人が何人もいたが、その人が社長室に現れて驚いているお客が多かった。その実力は次第に発揮されて、会社は地元の田舎の会社から新しい企業へと少しづつ脱皮していった。トップのその姿勢は社員への無言の手本となり、その姿勢を正していたのである。早朝の出社、工場見回り、現場の気配り、その一つ一つが大きな力であった。やがて、それは海外工場への進出となって成果を挙げた。
そしてこの会社での使命は終わり、本社へ帰り、監査役を経てその任務を解かれた。
仕事もさることながら、遊びも豪快であり、又ユニークであった。特にゴルフは一風変わっており、プレーのスタートの一打は普通素振りと称して何回かスイングをしてからプレーに入るのだが、彼はスタートに立つといきなり打つ。そのためにキャデーがその球を見失い、どこへ行ったか、慌てていたがその打った瞬間、片足を上げた姿がまことに愛嬌があり、楽しかった。その彼も晩年は「肺がん」に侵されていた。ある日、電話を受けた時
「M君、俺は後二年の命と言われたよ」とこともなげに言った。
そして、最後に共に仕事をしたY君にもぜひ会っておきたいが、連絡してくれないか」と頼まれることになった。彼はその残された時間を大切に、自分の時間として計画をたてているようであった。

   白百合を愛した男   第97回

2011-05-27 09:54:19 | Weblog
学校での友達が「学友」であるなら、職場での交わりは何というだろうか。社友という言葉も無いわけではないが、ぴったりしない。しかし考えてみると家族と過ごす時間よりも長く過ごしていることも多く、それが30年もとなると大変な時間をその人と過ごしていることになる。そんな意味では会社の人との付き合いは長い人生の大きな意味を持つと言うことを改めて知らされる思いだ。そんな中で「戦友」とでもいえる人物がいた。
S君である。彼は途中入社であり、高卒でもあり、又同業者からの転職でもあり、すべてが異色であった。田舎の素朴な青年という感じで、何の色にも染まっていないいたって純情な男である。前の会社で大阪にいたときに付き合った女の子と結婚したと言っていたが、この人が典型的な関西人で明るく、何ごとも深刻に考えない冗談好きな女性で二人は似合いの夫婦だった。その事は酔うと歌う「関白宣言」にその気持ちが表れていてぴったりだった。ゴルフが大好きでこつこつと職人のように道具にこり、ドライバーからパターまで自分の納得のいくものを工夫していた。その甲斐があって、成績も良くプライベートコンペでは優勝することも多く、自信があったようである。そして何より「酒」を愛した。通勤時間が長いこともあり、(約二時間)仕事帰りの電車での時間はコップ酒を楽しむ時間でもあった。人付き合いは決して上手とは言えなかったが、彼と付き合った人はその誠実さに打たれ、その信用は大きかった。そんな彼も間もなく定年を迎える時間が迫っていた。職場は小さな事務所だったが整理が進み親会社の片隅に机が置かれ、当時の仲間が殆どいなくなっていた。そんなある日、彼は一人でパソコンを開き、上司に上げる報告書を作成していた。午後便意を催しトイレに立った。それから彼の姿を見たものはいない。机の上はそのままになったまま、その日がすぎ、会社は無人となった。
翌朝ビルの清掃会社がトイレの清掃に回り、その個室で彼の姿が発見された。通報を受けた警察は「変死」扱いとして調査、その上で家へ連絡があり、引き取られたのである。
「くも膜下出血」による死亡であった。会社での執務中の突然死である。
60歳の定年を楽しみに、そして定年後の余生を好きなゴルフをしながら可愛い娘と孫を
見ながら過ごしたいと思っていた人生は敢え無く終わることになってしまった。
懐かしい思い出と共に、嬉しそうにいつも歌っていた「関白宣言」が今も聞こえてくるような気がする。

    思いつくままに

2011-05-25 09:28:32 | Weblog
昔、ある国で一つの事件が起きた。夫のいる家庭の主婦が不義密通、つまり浮気をしている現場を見つけられ群衆によって広場に連れてこられ、ここで石打の刑に会うというのである。この国では当時厳格な掟(律法)があり、この定めによるものであった。
今、まさに周りの人々によって石が投げられようとした時、一人の男がそこへ来て大声で
話した。「あなた達の中で、今まで罪を犯したことが無い人からこの女に石を投げなさい。」それを聞いた者は、年長者から始まって一人、一人そして又一人と立ち去り、何時の間にかその場には男とその女の二人だけが残っていたと言う話である。
現代では到底考えられない事件であり、話である。むしろこのような事は日常茶飯事のことであり、悪い事でもなんでもないと笑われてしまう事かもしれないが、もし自分が其処にいて「今までに悪いことをしていないか」と問われたとしたら、自分は何と答えられたかと思ったとき、この話が他人事とは思えない重さがあった。
もし同じことを若者に聞いたとしたら、何と答えるだろうか。多分「俺は特別悪いことをしてきたとは思ったことは無いなあ」と答えるのではないだろうか。
この話でもう一つ気になるのは「年長者から始まって」とあることです。
つまり年を取ったものから、自分の過去を振り返り心当たりを思い、自分の罪を認めていたと言う現実です。人は中年を過ぎ年を取るごとに世界中の人がたぶん自分と同じようなものだと考えられるようになってくる。そしてそれらの失敗や欠点を素直に認め、それを
笑って話せるようになる。それが相手を許す寛大な心を持てるようになる時でもあると思うはずである。自分が良い人間で罪を犯した事がないと思っている時はまだ充分自分が
分っていない時だと思えます。
此処で言われている「年長者から」立ち去ったとあるのは「自分も同じようなことをしたことがある」「私も同じようなことをしたかもしれない」とありのままの自分を認識する
勇気を持つことであり、その事が人間として大切なことだと言うことを教えていると思う。人間と言うものは元来まことに不完全なものだと思う。
自分はこれで良しと思って生きていても、知らず知らずのうちに人を傷つけていることがある。短所だけでなく、長所によっても人を傷つけていることがあることを知っていなければと自戒することが出来た。
暑い日がきたなあと思っていると、雨が降り急に気温が下がる時もある。梅雨の走りを思わせるこの頃である。

   白百合を愛した男   第96回

2011-05-23 09:12:33 | Weblog
人は生きている限り、何らかの関わりの中に生きるのだが、尤も基本的な立場からすれば
神との関わりがある。これは個人の考え方によって差があるが、自分との関わりとその他の人との関わりからは逃れることは出来ない。だからこの自分との関わり(自分を充分に生かすとか、自分を生かしきれないとか、自分との付き合い方)や、又身近な家族や
職場、友人など自分を取り巻く様々な人との関わり方が大事なことになってくる。それはその人の人生にも大きな影響をもたらすことになる。そんな関わりの中で、この会社の歴史に大きな足跡を残した人たちがいたことを忘れるわけにはいかない。
その一人にI氏がいる。体重100キロをこえる姿は、やはりサラリーマンの中では目立つ存在ではあったが、彼の特徴はそれだけではなかった。親会社の東京本社へ大阪支店から抜擢されたことは学卒ではないことを考慮に入れて、その才能が認められていることは分っていた。下積みが長かったこともありなかなかの苦労人でもあった。どんな人との交わりの中にあってもその態度は変わらず、常に謙虚であり、優しさがあった。それは自然であり何の作意も無いことは誰の眼にも分り好感の持てるものであった。
彼の上司は典型的な大会社の管理職タイプであり、我儘だったが、どんな命令にも逆らうことなく従っていた。当然ながらその時間帯は深夜に及ぶことが多く、彼の通勤時間は制限されるのだが、決して文句を言うことは無かった。明け方宿舎までタクシーで帰り、朝配達された牛乳を飲み、着替えをしてすぐ会社へトンボ帰りをすることなどは間々あることであったが、平気であった。直行、直帰と言う得意先へ真っ直ぐ行き、真っ直ぐ帰ることもあるので、そんなときに休息時間を調整していたかもしれない。
ストレス解消は食事とアルコールだった。上司に注意を受けた時とか、面白くないことがあったときは無意識に食欲が増していたようだ。弁当を二食分一度に食べている光景を見かけたことがあるし、朝、待ち合わせの駅前の喫茶店でビールをおいしそうに、まるで
お茶を飲むように飲んでいたのが印象的に残っている。歌を歌わせると「鉄腕アトム」であったり、「軍歌」であるのも異色だった。クラブへ行ってもバーへ行っても態度は変わらず、ただひたすら飲み、飲めば酔いつぶれて寝るだけだった。
この愛すべき友人もその後、転勤してゆき、最後は小さい職場の責任者として会社を任されていたが、持病になっていた「糖尿病」の影響が年齢と共に合併症を併発し、65歳で
その生涯を終わったと風の頼りに聴くところとなった。いつか彼と話したときに「自分は
無教会派だ」と言っていたことがある。自分の心に神を信じながら生きていたのではないかと今になって思い出す。

   白百合を愛した男   第95回

2011-05-20 10:11:23 | Weblog
大正12年、岡山の県北で鉱山会社へ米を運ぶ米問屋をしながら、其処で採掘され弁柄という貴重な資源を見出し、それを工業化しようと会社を興し、成功したY氏、そしてY氏によって信頼され、共にその運命を託した美継、この二人で育てた会社も平成20年を持って終わることになった。時代は大正、昭和、平成と繋がり、その間70年に近い時間が過ぎていた。美継は80歳を過ぎるまで会社に席を置き、週一度の訪問を楽しみに余生を過ごしていた。入社以来少しも変わらない、事務所、工場を見ることは自分の歴史を見ることでもあり、自分の生んだ子供の成長を楽しむ所があった。毎日の生活は規則正しく
孫との時間を楽しみつつ、聖書を写経の代わりに毎日、筆にて書くことが日課となった。
何の趣味も持たず、楽しみも無い彼であったが、その時間はとてもうれしそうであったし、生きがいにもなっていた。健康にも恵まれ、そんなに頑健な身体ではなかったが病気と言う病気も無く、過ごしていた。毎日の日課には近所の散歩があった。白百合のように愛し続けた妻の墓地に花を添え、その近くの神社の庭を見ることも楽しみの一つだった。
彼がこのような平安な生活を過ごすことが出来たことに、何か大きな動かない信念を見る気がした。それは聖書にあったような気がする。聖書を通読し、祈りを献げる姿を見ることが出来たからである。しかし、そんな平穏な生活に突然、大きな変化があった。
いつものように散歩の帰りを杖をつきながら歩いていた時、地響きを立てながら彼のそばを大きなダンプカーが走ったのである。無意識に危険を覚え、身体を避けたが、その時、
道の脇に転倒してしまった。それは大きな怪我とはならなかったが、心臓へ大きな負担を残した。間もなく、病院へと搬送され、手当てを受けることになったが、その心臓は元の鼓動を打つことは無かった。94歳、美継の生涯は終わった。10歳の時、韓国(釜山)へ伯父を訪ねて、日本を離れ、其処で神(洗礼)に召され、若き時ウラジオストックへ
大きな夢を膨らませて渡り、帰国後東京での足跡は戦災までにしっかりと残され、
戦後は岡山での生活に終わった。そして会社も彼の人生と共に終わったのである。
工場跡地は地元の役場に寄贈されているが、その利用については再開発の計画が立たず
そのまま放置されている。

     思いつくままに

2011-05-18 09:33:07 | Weblog
「風薫る季節」と言われる5月を迎えている。半ばを過ぎるとその感じが一層深まる。
何気なく言葉として覚えていたが、庭に立って花の手入れをしながら不図、花の香りを感じた時「そうか、5月の風はたくさんの花の香りを一杯に膨らませて運んでいるのだ。
だから風が香るように感じることが出来るのか」と今更のように思うと、その風が一層沁みるように身体に感じることが出来た。
モッコウバラ、沈丁花、藤の花、チューリップ、その他のたくさんの花がいっせいに花開き、その美しさを競う姿は一年に一度のこととして大切にその感動を享受したい。
若いときには、その日が何かに追われているような忙しさの中にあって、その日に何があって何をして過ごしたか、そしてその事は本当に満足できたものか、どうか何も考えられない時間の連続だった。しかし年齢と共に時間の過ぎていく時間が遅くなってくると、その内容も変わってくる。すると人生が見えてきて、時間を大切に思うようになる。
その日一日を自分の納得のいく時間で終わりたい。何をしたか、何が出来たか、そしてそれは自分の満足できるものであったか、そんなことを考えるようになる。
それは内容ではない。どんなにささやかな人の目には見えないようなことであっても、
自分がこの世に生かされ、生かされて用いられたことへの感謝のような思いでもある。
人間はつくづく不思議なものだと思わされるときがある。それは自分が信じられないようなことを考えたり、行動したり、口にしたりするからだ。言って見れば真っ直ぐ正しく歩いているつもりでも、振り返ってみるとそれは真っ直ぐではないことに似ている。
砂浜を真っ直ぐ歩いたつもりで歩いて、後ろを見てみるとあちこちに振れながら歩いた足跡が残っているのを見るのと同じように。
また、一日の時間を同じ気持ちで過ごせないことでも分る。いろいろな問題、いろいろな場面ごとに気持ちが変わり、そのたびに自分が変わっているのが分る。
その根底には何時しか無意識に自分中心の自分がいる。つまり自分が一番正しいと思うことが自分を動かしているのだ。
この世において人との関わりをやめるわけにはいかない。その関わりの中では例えどんなに信頼できる相手であっても打ち明けることが出来ないこともある。その中には自分だけが背負い、人に背負わせてはいけないこともあることを知らなければならないこともあるのだ。
人間は結局のところ、孤独な存在かもしれない。それが何であるかを探し求めて生きていくことになるのだろうが、孤独の影が深い人こそ、ある意味人生を深く生きているのかもしれないと思うことがある。

白百合を愛した男    第94回

2011-05-16 10:01:17 | Weblog
シンガポールの空はあくまでも青かった。赤道直下のこの国で仕事が出来るとは夢にも考えていなかったが、親会社の支援で実現し(平成元年)操業を続けることが出来た。
しかし20年を経た今日、そのライフサイクルも終わりを告げることになった。中国のこの分野の進出が、じわじわとせまり直接、間接的に影響をもたらしこの工場の業容に影を指すようになっていた。一年前からその対策を検討を始め、調査を開始した。中国の実態は間違いの無いことであることが分り、そのための防御は不可能と分った。新しい市場は日本、アジアを除いてはないことも分った。(アメリカ、ヨーロッパ、その他の国々には需要が当面見込めない)最後に日本のメインユーザーとの合同操業の交渉があった。
これが唯一、生き残りのための最後の手段だっただろう。しかし、ここには多くの人たちの思惑があり、考え方が錯綜し、まとまることは出来なかった。出来れば大同団結を見て
双方のメリットを計算し、この後の操業を生かすべきだったかと思われたのだが、何時の間にか立ち消えていた。そしてシンガポールの火は消えることになった。
20億を投資した財産は、此処に終わりを告げたのである。その収支はどうであったか、
それは誰も正確には計算し得ないことであろう。そして此処に工場があり、操業していたことを知る人もいなくなることだろう。初代の社長として此処に赴任したI氏は帰国後
間もなく病死し、その後を継承した人たちも、ちりちりばらばらとなり、今はいない。
最初の調査でチャンギー空港に降り立った時の興奮、それは空港内一杯に飾られている
オーキッドの花の見事さであり、何処の空港にも見られない美しさだった。これだけの
美意識を持ち合わせた空港は世界的にもあまり見られないと言われている。スチューワデスの美しさも添えて、それらは調和していた。空港から僅か30分での市内中心部への移動の便利さ、整頓された市内の交通事情、マーライオンのお出迎え、シンプルながら合理的な町並み、狭いながら飽きさせない建築群、一つ一つは印象に残るものだ。
周りを取り巻く海上の港湾施設も世界有数であり、此処から出かける観光ルートは多士済々であった。インドネシア、マレーシア、バリ、そしてオーストラリヤ、ニュージーランドと拡がる。美継の生んだ種はここまで成長を遂げることが出来た。日本を出て
この南まで来ることが出来たことを喜んでいるに違いない。それが終わりを告げることになったとしても。

白百合を愛した男   第93回

2011-05-13 10:04:14 | Weblog
山陽線の在来駅の前にひっそりと建っている駅前旅館、良く見ないと分らないほどの小さな旅館である。平成60年ごろ会社が隆盛を極めていたころ、毎月のように本社で会議が行われていた。前日の夜に宿泊し翌朝朝早くからの会議は活発を極め、各工場からの幹部の出席もあり、賑やかであった。営業報告から始まり、ユーザーからの詳細な要請事項や希望事項が説明される。それを受けて製造部、技術部から自らの立場、状況から、その対応についての報告がなされる。それは必ずしも営業からの要求も満たすものではなく、逆に出来ないことの言い訳が多かった。当然ながら双方の言い分がぶつかり、喧々諤々の議論となる。営業はユーザーの希望に沿いたいと願うが、製造を含む本社の言い分も譲らず
結果としては営業が妥協せざるを得ない形になることが多かった。この傾向は何処も同じかもしれないが、自己防衛の意識が無意識に働くのかもしれなかった。昼食をはさんで午後も次なるステップへと会議は続く。そして何とか計画が約束される。
終わると、社長を始め主だった幹部は駅前旅館に集合する。定例のマージャンがここで行われる。既にテーブルには夕食が整えられ、ビールが冷たく冷やされている。「お疲れ様」の掛け声でビールを飲み干すと、その日のお菜をつつく。夏の時期であると、近くの吉井川で取れる「鮎料理」が食べられる。新鮮でその日釣り上げた鮎を、刺身から始まって茶碗蒸しから定番の塩焼き、そして鮎をご飯に入れた、鯛めしならぬ鮎飯と鮎尽くしが
食べられるのが、ここの一番の贅沢だった。食事が終わると完全な無礼講となり、上下の隔てなく、和気あいあいとしたマージャン仲間となる。めいめいに坐ると、おいしそうにタバコをふかし、勝手気ままに口三味線をはさみながらゲームを楽しむ。娯楽と言えば何もない田舎で(何軒かのスナックがあるが、歌を歌い、酒を飲むだけ)は充分なストレス発散と言うわけには行かない。従業員の何割かは少し離れたパチンコ屋へ仕事が終わると飛んでいく人もいるが、娯楽の少ない土地での遊びは限られていた。
部屋は何時の間にかタバコの煙で充満するが、夢中になっている人にはきにならないと見え、消えるとつけ、消えるとつけて灰皿は何時の間にか山になっている。
やがて夜も10時を過ぎると適当に終了となる。昼間の仕事の悩みも解消され、又実家に残している家族のことも忘れ、その日の一日が終わるのだ。英気が養われ翌日への活力が蓄えられることになる。

思いつくままに

2011-05-11 12:02:51 | Weblog
何時も朝の時間にラジオのFMを聞くようにしている。ある日の朝、不図そこから懐かしい曲が流れてきた。「オースザンナ」だ。フォスターの名曲で知られているが、最近は殆ど聞くことが出来ないのだが、その曲を聞いた途端に急に何十年前の自分をはっきりと蘇らせることが出来たのだ。東京で戦災にあい、家を焼かれ岡山の田舎へ疎開して、新学期を迎え、4キロの道を歩いて学校へ通ったのだが、新学制がスタートして男女共学になった。今まで男子校で男の友達しか知らなかった教室に女の子がいて、共に机を並べて勉強をする。今まで感じたことの無い落ち着かない気持ちが生まれた。体操の時間になると、一緒に運動着に着替えて運動場へ出る。運動会を前にスクエアーダンスを習ったのだが、その時の曲がこの「オースザンナ」だった。タンタンタンタータ、タタンタ、タタタンタタン、リズミカルなその曲とその曲の明るさが気持ちを奮い立たせ、うきうきしてくる。そして先生の掛け声で踊りだすのだが、その時、隣りの女の子と腕を絡ませてぐるりと廻るのだ。その時のドキドキ感がこの曲を聞いたときに突然蘇ったのだ。忘れていた当時のことが走馬灯のように出てくる。同じ東京からの疎開っ子の女の子もいた。
いじめのようなこともあったので、その女のこのところへ行って話をしたこともあった。
そして今日までの歩みを辿ってみる。通学の途中で泳いだ川、おなかが空くと「山葡萄の実」や「いたどり」を食べた。のどが渇くと途中の家にある井戸の水を貰ってのみ、あちこちで休みながら帰った。村のお祭りは一番懐かしい。10月になるとその日が待ちきれなくて、何度も社へ出かけて、屋台の店を覗いたりした。お祭りの余興に借り出され
マントを着て、女の子と「湯島の白梅」を歌ったこと、屋台で食べた蜜の付いた梅の味、それらがはっきりと浮かんでくる。
人は生まれたときから、死ぬことが決まっている。そしてその時が近づいていることを知るようになる。嘗てギリシャの哲学者と言われている、ソクラテス、プラトンは早くからそのことに気付き、その死の練習をした言われ、その事を学ぶことが「本当の知恵」だと教えた。確かにそうだと思う。人間は中年を過ぎたら死を考えていくことになるが、この事が人生最大の
テーマとなることをおぼえたい。
そしてまた、ある時は幼かった時の事を思い出して、懐かしく微笑んでみることも良いと思う。ゲーテは「青春とは顧みる時の微笑である」と言っている。

    白百合を愛した男   第92回

2011-05-09 10:34:58 | Weblog
その足で第二工場であった場所まで移動する。川に沿って細長く伸びた建てやがならび、
その一つ一つの棟に機械設備があった。その一つ、一つを覗きながら歩く。静まり返った
その中は人気は無く、何の音もしない。嘗てはこの工場がフエライトの原料の生産の主力工場であり、五基並んだ燃焼窯から出来たいろいろな種類のものを各ユーザーの規格に沿って製品化され出荷されていた。それはそれぞれの用途に合わせてマグネットになり、最終製品である、スピーカーになったり、モーターに使われたりしていた。このような日本でしか出来なかったマグネットが、今や中国から易く、大量に買えるようになり、日本のマグネット工場はそれを作ることをやめた。そしてさらに高級な品質のものを指向するようになったのである。かくして原料は不要となり、売れなくなっていった。この工場のライフサイクルの終了でもあった。事務所は無人となり、その前に立てられている旗だけがなびいていた。その横に建てられていた物流倉庫も淋しげにそのままだった。
其処からさらに数キロ離れた奥に、第三工場がある。此処だけが稼動中であった。
当に日本に残された(つまり中国ではまだその需要が無く、市場性が無いもの)最後の原料でもある。これは有機材を混合し、マグネットとするもので(プラスチック、ラバー)
これはまだ日本独自の優位性があった。もちろん数量的には限られているが、その特質はまだ日本だけの特質があり、需要が存在した。
数量的には限られているが、価格も高く、その価値は高かった。その向上を確認し、弁柄フエライトと、二つの工場の終焉を見て、その時代の流れを確認することが出来た。
それは歴史であり、時代を表す一面でもあった。そしてその工場や生産に携わってきた人々の魂の集まりでもあった。帰途、その工場のそばを流れる川にそって歩いてみる。
当時は赤く染まって汚れていた川は、今はすっかり昔の色になり、水量も変わらず流れている。子供のころ,この川で水泳を覚え、釣りを楽しみ、山へ入り、木の実を食べ、ウサギのえさをとり、鳥の仕掛けをして捕まえ、遊んだころを懐かしく思い出すことが出来た。もう二度と来ることは無いかもしれないと記憶の奥深くしまいながら、歩き出した。
暑かった日差しもかげり、涼しげな風が頬を掠め、気持ちを楽にしてくれる。
嘗て、東京から来た時に定宿にしていた駅前の旅館で一泊する。