団塊の世代と言われていた人たちが65歳を超えたことで全国平均で65歳を超える人たちが3千万人を超すということになった。(つまり4人に一人は65歳を超えていることになる。)私もここ数年日々の生活での「健康管理」に特に気を遣っているつもりだが、具体的にどんなことかと言われると明解に説明できない。しかし冷静に普段の行動を分析するといくつかの特徴が見られる気がする。
①は「ぼけ」の兆候と言われる「物忘れ」だが、その延長線に予兆として、少しづつ
「寡黙」になる傾向がある気がする。こんな年齢になっても、色々な場面で発言したり、話す機会があるのだが、そんな時でも以前よりは黙っていることが多くなった。
自分の中で年齢的にその責任を果たすことに自信がないことが分かり、話すことに気後れがするので、つい黙ったままになるのだ。然し、そんな余り喋りたくないときでも義務として少し、会話を楽しむことを心がけたほうが良い気がする。
②は周囲の人や他人の存在が希薄になっていることである。自分の周囲で起きていることに前より鈍感になって、気にならなくなっている、逆に言えば自分が相手に迷惑をかけていても平気で行動することがあると言うことでもあるが、一つには耳が遠くなって
聞こえにくくなっていることも関係しているかもしれない。
その他にもともすれば何時までも一人でしゃべっていることに気付かなかったり、自分の書いたものや自分が作ったものをやたらに人に送りつけたり、渡したがって(読みなさいと強要する)様なこともあるかもしれない。
つまり、相手は「私」のことなど興味も関心もなくなりつつあるのに、そのことが分からなくなっていてそういう意識のブレーキが利かなくなっている状態である。
こう書いてきて、どれもそれほど特別悪いことでもないじゃないかと思いつつ、単に
善意の表れの一つとして「まあ、良いじゃないの」と気にしなくても良いかもしれないが、これだけ高齢人口が増えてくると若い人たちから「ボケ予備軍」にはかまっていられないと思われることもあろうから、当該者と思われる各人が夫々の「予兆」を
自覚し、注意することも必要かなと最近思いつつあるところである。最近近所の老人が
毎年「胃カメラ」検査をしていながら、今年の検査で「初期胃がん」を告げられていたが、どうしても免れられない場合もあるかもしれないが。
①は「ぼけ」の兆候と言われる「物忘れ」だが、その延長線に予兆として、少しづつ
「寡黙」になる傾向がある気がする。こんな年齢になっても、色々な場面で発言したり、話す機会があるのだが、そんな時でも以前よりは黙っていることが多くなった。
自分の中で年齢的にその責任を果たすことに自信がないことが分かり、話すことに気後れがするので、つい黙ったままになるのだ。然し、そんな余り喋りたくないときでも義務として少し、会話を楽しむことを心がけたほうが良い気がする。
②は周囲の人や他人の存在が希薄になっていることである。自分の周囲で起きていることに前より鈍感になって、気にならなくなっている、逆に言えば自分が相手に迷惑をかけていても平気で行動することがあると言うことでもあるが、一つには耳が遠くなって
聞こえにくくなっていることも関係しているかもしれない。
その他にもともすれば何時までも一人でしゃべっていることに気付かなかったり、自分の書いたものや自分が作ったものをやたらに人に送りつけたり、渡したがって(読みなさいと強要する)様なこともあるかもしれない。
つまり、相手は「私」のことなど興味も関心もなくなりつつあるのに、そのことが分からなくなっていてそういう意識のブレーキが利かなくなっている状態である。
こう書いてきて、どれもそれほど特別悪いことでもないじゃないかと思いつつ、単に
善意の表れの一つとして「まあ、良いじゃないの」と気にしなくても良いかもしれないが、これだけ高齢人口が増えてくると若い人たちから「ボケ予備軍」にはかまっていられないと思われることもあろうから、当該者と思われる各人が夫々の「予兆」を
自覚し、注意することも必要かなと最近思いつつあるところである。最近近所の老人が
毎年「胃カメラ」検査をしていながら、今年の検査で「初期胃がん」を告げられていたが、どうしても免れられない場合もあるかもしれないが。