波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

             オヨナさんと私    第45回  

2009-11-30 11:18:05 | Weblog
「私は弁護士でも法律家でもないので」と前置きしながらオヨナさんは冷静に話を整理しながら考えてみた。この話はまず親同士の責任はいえないことだ。
けんかの原因やきっかけも双方の話を公平に聞かないと良く分らない。普通はこんな場合、喧嘩両成敗といって双方の責任とするのが常識とすれば治療にかかる費用も法的には請求できるか、どうか判断しにくいところだ。
大げさにするなら裁判所へ訴えを起こすことも出来ないこともないが、必ず、こちらの希望通りになるとは限らないだろう。
親に請求することも出来るが、払わないと言われればそれまでである。それよりも大事なことは二人の娘さんのこれからのことであろう。
「お気持ちは分りました。治療をつづけている娘さんのことを思えば相手にその痛みを訴えたいことでしょうけど、将来のことを考えてみてください。
二人は友達です。出来ればもう一度仲良くなってもらいたいと思いませんか。二人の人間関係は続くのです。いつか二人の間で気づいてお互いに認める事が出来て
何時の日にか二人が仲直りすることを願いたいものです。
だから、ここではこのまま静かに時を待ちましょう。」
母親はオヨナさんの話をどこか納得のいかない表情で聞いていたが、黙って帰っていった。今更ながら人間の争いを悲しく心を痛めて考えていた。
誰がどんな争いでも正しく裁くことが出来る人が居るのだろうか。(法律で裁くことは別としても)
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」何時か読んだ本にこんな言葉があったことをオヨナさんは思い出していた。
それから暫くお天気の悪い、寒い日が続いていた。外出の出来ない日が長くなると何となく、淋しくストレスがたまる思いで居たが、ようやく暖かい日が戻ってきた。久しぶりにスケッチブックを持って近くの寺の庭に行く。ここは四季折々に色々な草木が楽しませてくれるのだが、この時期は紅葉である。その木々の色合いは木によって少しづつ色合いが違いオレンジから、赤、そして真紅とまだらにその美しさを見せてくれる。はらはらと風に吹かれて落ちてくる風情もまた格別である。その中にたった一本「寒牡丹」が花をつけているのに気がつく。
今年も一年間、いろいろな花を楽しませてもらい、いろいろなことがあったことを思いながら紅葉の中に身をおいてスケッチをする。
オヨナさんの至福のときである。

           オヨナさんと私  第44回      

2009-11-27 15:56:19 | Weblog
秋田から帰ってくると関東は暖かく何となく落ち着く感じになり、暫くは静かないつもどおりの生活が戻った。子供たちはいつものように無邪気に学習を楽しんでいる。そんな時オヨナさんは当たり前のようなこの時間の中で改めて不思議に思うことがあった。人は基本的に自分中心の考え方で動いている。だからどんな状況になっても、その心は揺れ動いていることになる。あれこれと考えることも多く、気持ちも変わることだろう。そんな中で「心の安定」を求めることは難しいことであり、出来ないかもしれない。そしてどうすれば安定を保つことが出来るか、どうしたらよいかそんな事を考える。
「軸足をどこにおいて足元を固めるか」と言う言葉がある。私はあまりこの軸足について真剣に考えたことはなかったような気がする。逆に言えば軸足がしっかりしていないので、日和見的な行動になり、その状況によって変わっていたのだろう。
よく考えるとこの軸足を真剣に考える事がどんなに大切かということに気づき始めてきたのである。人間はこの軸がしっかりしていなければ、安定しないし、その都度言うことも行動もかわってしまい、自分自身を見失うことになる。そのことが自分だけでなく、周りの人に影響をもたらすことになる。良い影響であれば良いことだが、悪いこともあるだろう。
いずれにしても何を軸にして生きていくのか、それが大事であり、夫々がしっかり正しく持っていなければなら無い。
「ごめんください」玄関で声がした。先日の電話の声の人だった。
「私には二人の娘がいて、下の娘はここでお世話になっています。今日は高校2年の上の娘についてなのですが、」と話し始めた。
通学中の電車の中で友達に顔をたたかれたのだと言う。きっかけはその友達の悪口をブログに書いたのを読んで怒ったらしい。たたかれた顔は大きく腫れ上がり医者の治療を受けることになった。診断は打撲で治療が続くことになったらしい。
学校にも報告をした。争いの経緯を詳しく聞いていると悪口の言い争いの中で、相手は「うざい」と殴ってきたらしい。聞いている範囲ではどちらが悪いというほどのこととは思えない。
ただ被害を受けた娘さんは治療が暫く必要である。高校2年生では親の責任はいえない。これは当然当人同士の問題だが、治療代、慰謝料などは考えられないのだろうか。
「先生、この場合、費用は先方に請求してもいいですか。」

           思いつくまま   ボリビア  

2009-11-25 09:54:34 | Weblog
S氏は心配になり、彼をラパスの事務所に居る嘱託医のところへ連れて行くことにした。とは言うものの300キロの道のりを8時間をかけて揺られるのである。
途中2回ほどの休憩を取り一日がかりである。診断は慎重に行われたが結局は治療の手段は見つからなかった。分ったことは酸素を運ぶ赤血球の数値が高地に必要な数値まで増えないためであった。体質的に赤血球が順応して増える人と増えないままの人とに別れるようで彼は増えない体質であった。「仕事が出来ないから日本へ帰国するしかない」と話すと万歳三唱で国を出て一ヶ月もしないで帰ることは恥ずかしくて出来ない、何とか頑張るので置いて欲しいと言う。とりあえずラパスの寄宿舎の風呂当番をさせて様子を見ることにした。(3800mのところにある)
ある日の夕方S氏が寄宿舎へ帰って見ると、風呂に頭を突っ込んで死んだようにぐったりしている彼を見つけ助け出した。なんでも掃除をしている最中に苦しくなり、動けなくなったのだと言う。いよいよこれまでと転勤させることにした。(チリーにあるサンタクロース鉱山)其処ではすっかり元気になり、仕事は勿論、酒も女もばくちも張り切ってやっていたそうである。高山病といわれる原因の一つにこの赤血球の問題があるかもしれない。
ボリビアの現地人には注意してみていると「びっこ」と呼ばれる足の悪い人が多いのに気がつくそうである。このことについてS氏はある著名な医師と話したことがあるそうで、その説くところによるとここでは他の国では観測できないほどの強い宇宙線が走っているそうで、勿論目に見えるものではないし、完全に測定できないが、宇宙線が強いことだけは間違いないとのこと。しかし、これが原因だとも断定していない。S氏は全く違った観点から説明していた。それは現地の産婆の技術が未熟なためにお産の時の取り上げ方が乱暴である結果だと言うものだったが、私も
S氏の意見に賛成である。
夜の星は日本では絶対に見ることが出来ないほどの大きさと光がまばゆいばかり、又その暗さは「漆黒の闇」がぴったりと言う暗さで鼻をつままれても分らないとはこんな暗さかと思われる。現地の人は日本人の心情に近く善良であり、勤勉であり、親切であり、とても愛情を感じる。そんなボリビアを再度訪問して生活してみたいと情熱を込めて語るS氏の顔に私もまた感動していたのである。
読者の皆さんの中に、この話を聞いて一度訪問してみたいと思われる人がおられたら、是非お出でになって話を聞かせていただきたいと思います。

           オヨナさんと私   第43回

2009-11-23 11:22:20 | Weblog
十和田湖の波はおだやかで空にはぽっかりと雲が浮かび、穏やかである。遊覧船は何時の間にか居なくなっていた。きっと、客を乗せて出港していったのだろう。
二人は黙ったまま坐っている。オヨナさんは夫婦と言うものを改めて考えてみた。
世の中には沢山の夫婦が存在している。しかし夫々同じではない。まして他人同士で一緒になるのだからよく考えればとても難しいことであるはずである。
この二人も二年間ぐらい付き合ったと言っている。ではこの二人は何を話し、何を思って結婚したのだろうか。男と女と言う前に二人が大人としての人間であることをどこまで知っていたのだろうか。
話を聞いている限り、夫はマザコンタイプであり、半ズボンの男のようである。
つまり大人としての準備が出来ていない。これでは何時まで経っても、何を語っても成果は無いだろう。つまり問題が起きるまで二人は何も気づかずに過ごしてしまったのである。そしてこうして問題が発生して、始めてその問題をどう解決するかを目の前にして悩んでいるのである。
つまり自分の考えを持たないから、何も出来ないのである。まことに不幸なことと言わざるを得ない。この場合は解決の方法は無い。出来るだけ傷の付かないように分かれてもう一度やり直すことでしかない。そのためには親の力を借りることになるが、幸い若いのでやり直すことが出来る。子供たちが可愛そうであるが、止むを得ない。お母さんと一緒に強く生きてもらうことを願うしかないのだ。
旦那も親元に帰って、冷静に反省して大人になるべく勉強をしなおすことである。
そんな意味では一時の感情の高ぶりで結婚に走ることがどんなに大きな犠牲を生むかを考えるべきだと思わされる。しかし、このような夫婦は沢山居るのかもしれない。オヨナさんは言葉を失い、かける言葉も無かった。
「よく話し合ってください」と言い残して、其処を立ち去った。
携帯電話が突然鳴った。学習塾に来ている子供の親からだった。何かあったらしい。話がしたいとのこと。オヨナさんは旅をつづけたかったが、いったん帰ることにするしかなかった。東北の秋はもう其処まで来ていた。
やはり家は落ち着く。そして子供たちのいつもの元気な顔にであうとこちらも元気がもらえる気がする。「先生、今度はどこに行ってきたの。」「何を見てきたの。」そんな時、オヨナさんは黙ってスケッチブックを差し出すのだ。

オヨナさんと私   第42回

2009-11-20 10:03:47 | Weblog
自然は人の心を浄化させる力があることをオヨナさんは知っている。だからできるだけ時間を割いて自然の中に身をおくことを考えている。
人間は何故生きていくことに苦しみ、悩みを持つのか、何故ストレスが生じるのか、それは簡単に考えれば人は必ず「未来」「将来」を感じ、あれこれと想像をたくましくすることにある。(動物にはそれは無い)そしてその内容は殆ど悪くなることを想定する。これも不思議なことなのだが、恐らく半分以上の人が自分の将来を良い方向で考えられないのではないだろうか。(子供のうちは、違うのだが、)
そしてその内容は主に経済的な生活に対する不安であり、次には健康上の問題が多いいと思う。恐らく50台以上の人たちの話題は健康に関するものであることで占めていると思われるからだ。
それでは「将来」「未来」を考えて何か解決のための智慧が生まれてくるのだろうか。勿論絶対無いとはいえないが、それにはいくつかの条件なり、環境なり、目的や計画によると思う。そしてそれはすべてを満足するものではないだろう。
とすればそれは解決したことにはならず、再び元の状態になって不安と悩みの中に戻ってしまうことになる。
奥入瀬を歩いて十和田湖まで来てしまった。遊覧船がゆったりと停船していてのどかな風景である。不図見るとベンチに若い夫婦が坐っている。傍でまだやっと歩き始めたであろう2歳ぐらいの男の子がちょろちょろしている。奥さんらしい人は妊娠しているらしく大きなお腹をしている。どこにでも見られるような微笑ましい様子だと見ていると急にベンチを立ち上がった奥さんが旦那の頬を「パチン」とたたいたのだ。オヨナさんは「あっ」と思わず叫んでしまった。
二人は二年の付き合いの上で結婚し、子供も授かった。そして二人目も出来ている。妻とすれば色々と夫に頼りたいと相談すると夫は親の言うとおりに動いて頼りにならない。しつこくいうと、すぐ実家に帰ってしまう始末だ。
今日もやっと帰ってきて相談しようとしたら、「離婚したい。終わりにしたい」と言い出した。無性に腹が立って手を上げてしまったのだという。
話を聞いているうちにほっとけなくなり、オヨナさんは「まあ、まあ」と二人を落ち着かせることにした。夫はあまり稼ぎも無く、離婚しても養育費は出せないとも言っている。これでは奥さんが可愛そうでこれからの事が心配である。
どうしてこんなことになってしまったのか、もう一度よく考えなければならなかった。

            思いつくまま   ボリビア

2009-11-18 09:19:14 | Weblog
私の知人のS氏はボリビアで10年以上仕事をされていた方で、以前にもお話を聞いたことはあったが、その内、興味と関心が強くなり、先日お話を聞く機会を得た。(ボリビアがどこにあってどんな国かご存知でしょうか。私自身話を聞くまで全く知識がありませんでしたが)
ボリビアは南米のほぼ中央に位置していてその面積は日本の約三倍と言われている。世界でも27番目の大きさである。人口は約一千万人。
国の中央にアンデス山脈が南北に連なり、首都ラパスは空港を降り立った所が標高4030mと表示されている高地である。(富士山より高い)
当然ながら空気が薄く酸素不足(平地の約60㌫)の為に頭が痛くなったり、息苦しくなる人がでる。つまり国全体が高いところ(山岳高地の4800m)から低地の(2000m)だから、普通には想像が難しい。
まして赤道からそんなに離れていない熱帯に属しているので、一日の気温の差が激しく40度にもなると言う。(日本ではせいぜい10度くらいか)
つまり朝のうちは春で20度、昼になると一気に30度を越え夏になり、夕方になると秋の温度の15度くらい、そして夜中になるとマイナス20度と真冬を感じさせることになる。S氏の住んでいた宿舎の屋根はトタンであったが、朝になると
「チン、チン」と言う音で目が覚める。最初は何の音かわからず、不思議に思っていたが、それが夜のうち寒さで縮んでいたトタンが温度の上昇と共に伸び始める音だったとのことでした。この国には色々な地下資源が産出する。最初に開発されたのが、スペイン人のインカ帝国征服後に発見された銀鉱脈に始まり、19世紀に入り錫開発は半世紀にわたって行われた。S氏もこの鉱山業に従事していたのだが、その産出は銅であった。事ほど左様にボリビア輸出の99㌫が鉱物資源であった。
その他にも現在は石油と天然ガスの埋蔵が確認されている。
S氏は昭和40年代に現地に行ったのだがS氏のほかにも10名近い人が派遣されている。その中には日本を離れる時、地元の人に「万歳」で見送られ家族と「水盃」までしてきたと言う人もいたらしい。着任して挨拶の時、身体には自信があると胸をはって自慢をしていた、その人が一ヶ月もしないうちに元気がなくなってきた。何しろ、電気も無い(発電機)、テレビも無い、電話も無いという所である。
日本が恋しくなってノイローゼになっても不思議ではない。「あまり神経質にならず、のんびりやればよいから」と励ましていたが、頭が痛い、息苦しい、食事も取れないようになって来た。チャカリヤというこの場所は首都ラパスから300㌔近く離れている。通信は一日2回だけの無線電話だけで、それも日本語は使用できない(反政府活動とみなされ、無線も禁止されるため)
しかし、生活のための現地人用の病院、学校、教会、物品支給所はあった。
S氏はこの人をラパスまで連れてゆき、医者に見せることにした。

             オヨナさんと私   第41回

2009-11-16 09:44:00 | Weblog
秋田にしかないと思われる料理に「きりたんぽ」と「しょっつるナベ」がある。
どちらも美味しい時期で食べるのが良いのだろうが、観光用もかねて年中食べることが出来るのだが鍋物なのでどちらも冬の寒い時が良い。オヨナさんは今回はどちらも食べたいと思い、二度にわたって食べることにしていた。
「きりたんぽ」は新米を炊いてこねたものを木の棒にまるめたものを中心に比内鶏の肉で味とだしをつくり、野菜を入れて出来ているのだが、このコントラストが素晴らしく子供から大人まで誰もが好んで食べられる郷土料理の代表だ。それに比して「しょっつる」は「はたはた」と言う魚が中心に出来ているので、その魚のもつ独特な風味と匂いが強い。その為に「好き」「嫌い」が極端に分かれてしまう。
嫌いな人になると匂いをかいだだけで顔を背ける始末だし、好きな人になると他のものでは変えられない味となる。それは関東で言う「くさや」や「なっとう」の場合に近いものがあるかもしれない。
オヨナさんは両方とも美味しく満喫することが出来た。地元の雰囲気の中で食べる味は其処で交わされる秋田弁の言葉も混じって又格別になる。
食事の後「川反通り」と言われているところを散歩する。確かに注意してみるとあまり大きくない川の流れに沿って約1Kぐらいの道に沿って様々な店がつながっている。主には飲食店であるが、その中には高級料亭の立派な門構えもある。
その昔には芸者衆も大勢居て、このあたりをあちらこちらと往来していたと聞いたが、今は歩いている人すら少ない感じである。
途中に赤提灯が沢山ぶら下がっている建物があり、其処には「民謡会館」と看板に書いてある。早速入ってみた。それほど広くない場所にステージがあり、時間になると笛、太鼓に乗って秋田の民謡が賑やかに始まる。やはり本場の民謡を生で聞くとTVやラジオで聞くのと違った迫力とこの地元に根付いているパワーが伝わってくるようで胸に響く思いだった。
オヨナさんはすっかり満足してその日を過ごすことが出来た。
翌日其処から足を延ばし、「奥入瀬峡谷」を見ることにした。昔、招かれて一度だけ、車で通ったことがあるのだが、今回は自分の足で、歩きながらスケッチを楽しみたいと言う思いがあった。全行程を歩くと10キロ以上になると聞いていたので、観光案内を見ながら、その中心付近に絞っていた。
まだ、紅葉は充分ではなかったが、その雰囲気は味合うことが出来た。
オフシーズンであることが人気を減らし、静かに歩けてよかった。
誰が何時頃から、ここを指定して観光コースとしたのか、殆ど人工的でない自然のたたずまいが心に沁みてくる。

オヨナさんと私   第40回

2009-11-13 09:50:12 | Weblog
「失礼ですけどお幾つになられましたか」「70の古希を過ぎたところです。今はばあさんと二人で暮らしています。」年の割には少し老けて見える感じの老人だったが、よく見るとまだ若々しさが残っていた。二人はそのまま暫く画の話をつづけていた。絵を見ていると絵の中のその場所に自分が居るような気持ちになり、嫌なことを忘れ心が静まることそして自分も描いてみたいと思いつつなかなかそんな気分になれないで悩んでいるとか……そんな話をしているうちに急にばあさんの話になった。
「家のばあさんにも困ったものです。生活費の金を使い道に分けてちゃんと袋に入れ渡すようにしているんだが、この間もそれが置いてあったところに無くてね、大騒ぎをしたんですよ。結局別のところから出てきたんですがね。とにかく爺さんが悪いと責めるんです。そういえばお恥ずかしい話なんですが、こんな事もありました。寝る前にTVを見ていて急にその気になり、ばあさんに性交をしようとしたんです。そしたらあんたいやらしいわね。まるで動物と同じじゃないの。と言われたんです。ショックでした。すっかりプライドをこわされてそれからは口も訊いていません。」平和に暮らしているように見える人たちにもこんな悩みがあるのかと驚くと同時に不思議ささえ感じたのである。
「今もそんな状態が続いているんですか。」少々心配になって聞いてみた。
「最近になって別れましょうと言い出されてましてね。私は何を言っているんだ。馬鹿なことを言うんじゃないと相手にしないようにしてるんですがね。」
オヨナさんは話を聞いているうちに何か普通ではない異常なものを感じはじめていた。ひょっとしたらそのおばあさんの意識に異変が起きているかもしれない。
例えばそれが認知症の初期症状であったりすることもあるのか。
出来ることなら医者の診断を一度受ける必要がないだろうか。当人の意識には無いことだから嫌がらないように上手に連れて行くことを考えなければならないし、そのためにどうするのが良いか。
「健康診断を受けることを薦めたいですね。一人で行けというと嫌がるでしょうから一緒に行こうと言うことでとにかく一度医者の診断を聞いてみる時期かもしれませんね。」オヨナさんはあまりショックを与えないように話した。
「そうですね」と呟いて聞いていた。外へ出ると夕暮れのたたずまいに染まり
振り返った美術館には「平野政吉美術館」と大きく書いてあった。
平野氏のコレクションで出来たものらしかった。

          思いつくまま    

2009-11-11 09:24:34 | Weblog
先週、兄との別れをして早や10日が過ぎました。生前兄から貰った書き物を整理していたらいくつかの書き物が出てきた。それを読んで、その中の一部を書いてみたいと思う。
「年齢」広辞苑で「年齢」を引いてみると「人が生まれてから現在までの経過期間を年または年月日によって数えたもの」とある。
落語の小噺を一つ:ある水泳教室に一人の老婦人が「水泳を教えて欲しい」と申し込んだ。指導員が尋ねました。「今まで泳いだことがありますか。」老婦人「いいえ、一度もありません」指導員「では、何の目的で?」老婦人「あの世に行くには、三途の川を渡らなければ行けないと聞いています。それで水泳を習いたいと思いました。」指導員「判りました。それでは一生懸命勉強しましょう。」それから
数ヶ月経って、大分上達した頃、一人の婦人(老婦人の家の嫁)が水泳教室を訪ねました。嫁「母が大分上手になったと聞きました。そこでお願いしたいことがあります。どうか、ターンだけは教えないで下さい。」(賢明な皆さんは、お分かりでしょう。もう一度この世に戻ってきてもらっては困るから)
ところで、本題「年齢」に戻ります。世界に目を向けてみよう。文明文化の遅れている民族は首長と呼ばれている長老を中心にまとまっていて、何か事が起こると首長に相談して解決していると聞く。長老は何時もその民族のことを考えて民族の発展と繁栄を願ってその民族を統率している。日本も同じで、今でもその形態が続いている所もあって、古きよき伝統が受け継がれているようです。しかし、昨今新聞紙上には「いじめ」とか「子が親や祖父祖母を殺したり」と言った記事が賑わっています。ところで本題の年齢について考えてみると年齢について、みんなずる賢く使っているように思えてくる。若い人は「私は若くて経験不足だから」と逃げるし、年よりは「私は年で身体の自由がきかないから」という。わたしはどちらもずるい逃げ口上に年齢を使っていると思う。若者は「経験不足ですから教えてください。一生懸命やってみますから。」と、教えてもらって技術と経験を積み重ねて大成すべきであろうし、年をとったら、その分経験も思考能力も何倍も何十倍も増加して豊富なものを与えられるのだから経験の少ない若い人にどんどん惜しげもなく与えるべきではないでしょうか。
始めに書いた落語の小噺のオチに続けて……
水泳教室に嫁が来て、嫁「是非、お願いがあります。」指導員「何でしょうか。」
嫁「家の義母に、泳げるようになったら、一番に教えて欲しいのですが、是非リターンの技をお願いします。」指導員「何故ですか。」
(賢明なみなさんはもうお分かりでしょう。嫁はまだまだ沢山のことを義母から教えてもらいたかったのです。だから三途の川を義母がそのまま渡ってしまっては困るので、リターンして帰って貰いたかったのです。そんな義母や母に義父や父になりたいものですね。)

            オヨナさんと私   第39回

2009-11-09 11:18:02 | Weblog
仙台まで帰り、彼女と別れた後オヨナさんは再び北へ向かった。盛岡を過ぎたころ、一人の青年が思い浮かんだ。小学生の彼と共に学習したのだが、今は立派に成人になり、家庭を持ち暮らしている。彼は横手の出身と聞いていた。その時聞いた「かまくら」の雪の祠の話はとてもロマンチックであり、南国のオヨナさんにとっては当に夢の世界の一つに聞こえた。一度どんなところか見てみたいとそんな思いで横手に下車した。2月の旧正月の時期でしか出来ない行事とあって、何もない普段どおりの古ぼけた町並みを歩いているうちに記念館らしきものがあり、そこで
その時期に行われる様子を知ることが出来た。そして彼が育った横手で彼のことを考えていた。どことなく淋しげな影を感じる所があり、つい声をかけたくなり、話をしたのだが、無口な彼はあまり多くを語らなかった。母親の手で育てられ、兄も姉も長じて家を離れ、孤独な子供時代を過ごしていた。しかし、我慢強く、芯の強い所があり、オヨナさんは関心を持ってみていたのだ。
横手を過ぎると、大曲そして秋田である。まだ冬には間があるとあって、そんなに寒くは無いが、いかにも涼しい気配である。駅前を歩くと、道の右側に堀が見えてくる。城跡に作られた公園を散策し、スケッチを楽しむ事が出来た。
歩いていると、美術館があり、其処には藤田画伯の絵があった。思いがけないこともあり、すっかりとりこになって、其処で無心に楽しむ事が出来た。
ベンチに座りぼんやりしていると、隣りにひとりの老人がやってきて腰掛けた。
70才は過ぎているだろうか。頭は真っ白である。やや腰も曲がり杖をもち、身体もどこか悪そうである。画がすきなのか、行く所が無くて散歩をかねてきたのか、ぼんやりしている。他には誰もいない二人だけの空間だった。
「絵はお好きですか。」すぐに返事が無い。オヨナさんはそんな老人の様子に興味を持った。「色々な絵がありますが、この画は落ち着きますね。特にこの村祭りの画はこの秋田にはぴったりですね。藤田先生はここが好きだったのかな。」独り言のようにしゃべった。「ここへ来ると落ち着くもんでね。」と口を開いた。
「その辺でお茶でもしませんか。」オヨナさんはその老人を誘った。その美術館のロビーの片隅に二人は向かい合った。
「あんた絵を描くのかね。」オヨナさんの旅行鞄とスケッチブックを見て彼は言った。「旅をしながら記憶に残したいので。」「そりゃあ、楽しくてよいね。私の友達に版画のすきなのがいるよ。」という。