波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「2010年を顧みて」

2020-12-31 14:15:43 | Weblog
間もなく今年も終わる時を迎える。元旦礼拝に出席して新しい歩みを平安のうちに歩みだしたのも束の間で「コロナ」の感染が始まり現在までその終息はなく日々自粛の生活が続いている。まさに「コロナ生活」の一年だったといえる。嘗て17年前に「サーズ」の病気が発生した時にも似たような緊張感があったが、あの時には若かったこともあり、私は中国へ出かけていたが、今回はその時よりも厳戒な規制があり、海外はおろか、国内もままならない状況が続いている。我々老人はそれでも我慢できるが、若い人は活動が出来ないことでどんなに不自由な生活を過ごしているかと思うと同情を禁じ得ない。
オリンピックはおろか、すべてのイベントや集会が出来ず、日本はおろか、世界が閉塞感の中に置かれた一年であったことは今世紀初めてのことであろうと思う。できる事ならば少しでも早く対応策が実施され(ワクチン接種)健康阻害のない平安な生活になることを祈るしかない。
そんな中、我が家の家族もそれぞれの変化があった。孫たちはそれぞれの大人への道を学生生活、就職と進み、順調に過ごすことが出来たが、事業を失敗して苦しんでいた息子は台湾の会社の日本市場のヘルプとして働いていた。そのかいあって3年の見習いから日本の東京所長として正式な契約へと成功し新しい道が開かれた。此のことは将来へつながる大きな実りであり、本当に感謝でしかない出来事であった。
娘は今年の初めから遠いところから生活の援助のために訪問を欠かさず、来てくれるようになり、本当に助かっている。今日大みそかのこの日は二人でお正月の準備に「おせち料理」ほかの準備を整えて、3人そろってお茶を楽しみながら今年を振り返ることが出来たことは本当に感謝に堪えないことであった。ささやかながらこうして平安のうちに2020年を終わることが出来ることに神の恵みを思わざるを得ない。

「映画鑑賞 ②」

2020-12-21 11:06:30 | Weblog
今から30年ほど前「寅さん映画」を見たときは、ストーリーやキャストにこだわりその興味で見ていたのだが、初めてその作品に引き込まれ自分もその映画の中にいっしょに入っている気分になっていた。そして夢中で見ているうちにあっという間に終わってしまい、次はどんなドラマが展開するのかという気持であった。それから年代を経て私も年を取って、再度この「寅さん映画」を見てみると最初の時とはまるで違った感動がうまれていた。
「寅さん」は何故「渡世人」でなければいけなかったのか、渡世人とは世間では高く評価されているとは言えない仕事であろう。何故きちんとした仕事をしている人物ではなかったのか、そこには「自由人」でなければならない事情があったのだ。つまり世間の常識や決まりや義理や責任を持たせない、もっと言えばこの世には存在しないかもしれない人物を生かしたかったのではないか?そして日本全国を自由に回ることが出来る、そして誰とでも、話せて、どこでも生きていける存在、そして其処で、出会ったどんな人々とでも心を開いて話が出来て、悩みや心配事が聞ける、寅さんはどんなときにもその主人公の立場で話を聞き、同じ立場で心配し助けようとする、(特に女性に対してはやさしく愛情を注いでいた)この映画の特徴として一つの決まりがあった。寅さんは別れる最後に必ず言うセリフがあった・「困った時やどこへも頼ることが出来ない時は、葛飾柴又の寅やを訪ねてゆくんだよ。そこには私の妹の桜やおいちゃんおばちゃんがいて必ず助けてくれるから」と言わせている。今思えばそれは言い換えると信仰的な神の存在を言い換えているのではないかと考えられる。つまり、人生においてどんなに苦しくつらい時でも必ず、神の存在を覚える事があることを教えていたのではないか、この作者は人生を大きな主題として取り上げて、人間の生き方を様々な例題を通じて教えてくれているような気がしている。

「映画鑑賞」①

2020-12-14 11:06:23 | Weblog
自分の趣味を考えてみると物心ついた頃に父親に連れて行ってもらった「映画」がある。然し戦時中ということもあり、「ニュース」だけの専門映画であった記憶で物語ではなかった。兄と一緒に暮らしていた時は映画など見に行かせてもらえなかったのであまり記憶がない。然し元来好きだっと見え家庭を持ち自由が出来るようになると一人で見に行くようになった。その中で「おっかけ」状態になって20年以上見たのが「男はつらいよ」の「寅さん」である。お正月とお盆の頃と2作品をずっと見続けたことになる。終わった後もテレビで見ることが出来たし、葛飾柴又の寅さん会館へは何回か見に行った記憶がある。今でもその記憶は新しく懐かしく思い出す。勿論、「寅さん」と自分とは何の関係もないのだが、自分の中に「寅さん」を映し出しているところがある。映画の中に出てくるマドンナたちがいつの間にか寅さんに惹かれて(好き)になっていく過程が良くわかるのだ。その設定を自由な商売人に仕立てて「渡世人」として全国を旅をさせ、自由気ままに生かしながら様々な人生を生きる人々を生かし、その関わりの中で人生をそれとなく語っていく演出は憎いほど心にしみるものがあった・それでいて家族もいて帰る家もあり、そこに彼の休息の場所を作ってある。普通なら何昨品かで終わるものが、終わらずに続いていた。渥美清という俳優さんが元気でいたらまだ続いていたであろうと思うともう少し老人に差し掛かる寅さんを見てみたかったと今でも残念でたまらない。そんな「寅さん」を思いながら、私の人生に登場した「マドンナ」を思い出しながら登場させてみよう。
そう「平井の寅さん」こと🅼氏にもマドンナがいたのである。最後の置き土産に初公開である。

「一日の努め」

2020-12-07 11:04:30 | Weblog
朝目覚めると「今日も健康で動けることが確認できる」すると自分が課せられたことを考える。大切な一日である。残されている時間はないに等しい。
いつ動けなくなるかわからない。だからこそ大切に出来ることをしておきたい。幸い今の所何不自由なく動けることは感謝である。そんな毎日を迎えながら僅かであるが、自分なりに日課のような予定を組んである。そのプログラムに従って過ごしている。こんなに自由に誰の干渉もなく過ごせることは幸せである。こうして一日を過ごすのだが、大事なことは「心」の持ち方である。「心」は時に揺れ動く。何かをしていても集中できないこともある。自分の考えっや自分の願いそんな湖とが自分の思い通りにいかない時、思わず「呟き」が出たり、不満が心に生まれる。そしてそこから自己主張や虚栄が思わず出ることがある。そしてそれらは不平、不満に変わる。それはやがて増幅しストレスに代わり健康阻害要因となることに気づかないことがある。全ては委ねられたことであり、自分自身の力ではないことを知りつつもこんな思いはなくならないのである。
思いや予定とは異なった一日を過ごして夜を迎えたときは空しい。しかし納得のいく一日を過ごしたり、思わぬ心の喜びや寂しさを満たされると喜びと感謝の思いが生まれる。できれば毎日がそんな一日でありたいと日々長いながら一日を大切に過ごしたいと思う
「時は金なり」と小さい時に教えられたが、「時は思い出なり」でもある。大切な思い出作りに励みたい。