波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     思いつくままに

2012-10-30 08:50:06 | Weblog
ここのところ一気に秋の気配が進み朝晩の冷え込みが、そして一日の温度差が10度もあるという中で体調を整えたり、着るものも夏物から秋(冬)物へとあわただしく取り替えたり、どっちにしようかと迷ったりさせられ、季節の変わり目に追われている。
そんなこの頃を過ごしながら、昔仕事で行っていた台湾のことをいつしか思い出していた。いつ行っても暖かく時には暑い日差しの中で、「ここはいつ来ても過ごしやすい」と
滞在期間を楽しむことが出来たが、そんな中である時、困ったことがおきた。
台湾でも冬季の期間になると気温がぐっと下がる日がある。そんな時にはホテルの温度
調節が冷房だけなので、暖房にすることが出来ない。従って震えながら夜を過ごすことになるときがある。そんな時は毛布を重ねたりセーターを着込んだりして過ごすことがあった。水道水は飲めないことはなかったが注意して煮沸したものを飲んだり、ミネラル飲料を用意したものだった。人情は厚く日本語が殆ど通用するので一人で何をするにも不便がなかったし、治安もよかった。
しかし日本の四季の移り変わりには変えられない気がする。そしてこの季節の変化を本当に大事に思うのだ。先日も毎年この時期に行っている「コスモスの丘」公園まで行ってみた。例年に比べて夏が暑く長かったこともあり、今年は見事な咲き映えで見事であった。
このように季節ごとの自然の姿の変化を楽しめるのは、中々出来ないことだとうれしく思う。老年になるとその愛おしさも年々深くなり、若いときには忙しさにまぎれて出来なかった「自分自身の完成」の為に神から与えられている、残された時間をどう過ごすかを思わざるを得ない。
「だからわたしたちは落胆しません。たとえ「外なる人」は衰えていくとしても
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされています。わたしたちは見えるものではなく
見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に
存続するからです。」
この言葉のように日々「感謝と隣人への思いやり」を忘れないで過ごしたいと思うこの頃です。

 コンドルは飛んだ  第22回

2012-10-26 09:48:15 | Weblog
毎日のように入ってくる本社からの指示事項に対して満足のできる報告を送ることが出来ないままに日が過ぎていた。そんな心労が重なってか、辰夫はある日突然原因不明の
高熱に見舞われた。朝、起き上がることも出来ず同僚に助けられて会社専用のジープに乗せられてラパスの病院へ運ばれた。数少ない病院で診察を受けたが、はっきりした原因は分からず、風土病の一種(デング熱のようなもの)ではないか(主には水、虫による)と
される。すぐには仕事に復帰できず、そのまま市内にアパートを借りて治療をしながら
静養に努め様子を見ることになった。熱は一進一退であり、体に力が入らず自力での
生活が出来なかった。病院からの紹介で介護をしながら身の回りをしてくれる女性が派遣されてきた。「カミラ」と言う名前のスペイン系の独特な大きな目と黒髪が印象的であった。久子以外に女を感じることがなかった辰夫の心に初めて男として女を感じた瞬間でもあった。それは運命の出会いであり心を引かれた時間でもあった。
異国の誰も頼りに出来ないところで病気になり、自分のことがままならないときにその手足となって親身になって世話をしてもらい、寝食をともにするようになり、いつの間にかそれは介護者と患者という関係を超えて一人の男と女の関係になるのも時間の問題であった。病院と家との往復、夜中の手当て、食事のしたく身体の手入れなどそれらは辰夫の
全てでもあった。辰夫は身体を拭いてもらいながら「ナイチンゲール」はここにも居たんだと嬉しく感謝していた。
そんな時間の中で辰夫はいつの間にかスペイン語だけでなく現地のローカル語にも通じるようになっていた。身体も日に日に回復して元気を取り戻していた。
現場へ復帰して仕事を進ませなければと思いつつ、今の生活を何とか維持していたい甘い気持ちもあった。どうしたらカミラとの生活をこれから持つことが出来るか、このまま
別れるということは出来ないと考えていた。
そんなある日、カミラがそっと耳元で辰夫にささやいた。
「タツオ、今夜暴徒の襲撃があるよ。ここに居ては殺される。逃げなさい」
それは現場の労働者の一部が不満を募らせ辰夫の居所を調べ(責任者)捕獲し、場合によっては制裁するというものであった。

 コンドルは飛んだ  第22回

2012-10-26 09:48:15 | Weblog
毎日のように入ってくる本社からの指示事項に対して満足のできる報告を送ることが出来ないままに日が過ぎていた。そんな心労が重なってか、辰夫はある日突然原因不明の
高熱に見舞われた。朝、起き上がることも出来ず同僚に助けられて会社専用のジープに乗せられてラパスの病院へ運ばれた。数少ない病院で診察を受けたが、はっきりした原因は分からず、風土病の一種(デング熱のようなもの)ではないか(主には水、虫による)と
される。すぐには仕事に復帰できず、そのまま市内にアパートを借りて治療をしながら
静養に努め様子を見ることになった。熱は一進一退であり、体に力が入らず自力での
生活が出来なかった。病院からの紹介で介護をしながら身の回りをしてくれる女性が派遣されてきた。「カミラ」と言う名前のスペイン系の独特な大きな目と黒髪が印象的であった。久子以外に女を感じることがなかった辰夫の心に初めて男として女を感じた瞬間でもあった。それは運命の出会いであり心を引かれた時間でもあった。
異国の誰も頼りに出来ないところで病気になり、自分のことがままならないときにその手足となって親身になって世話をしてもらい、寝食をともにするようになり、いつの間にかそれは介護者と患者という関係を超えて一人の男と女の関係になるのも時間の問題であった。病院と家との往復、夜中の手当て、食事のしたく身体の手入れなどそれらは辰夫の
全てでもあった。辰夫は身体を拭いてもらいながら「ナイチンゲール」はここにも居たんだと嬉しく感謝していた。
そんな時間の中で辰夫はいつの間にかスペイン語だけでなく現地のローカル語にも通じるようになっていた。身体も日に日に回復して元気を取り戻していた。
現場へ復帰して仕事を進ませなければと思いつつ、今の生活を何とか維持していたい甘い気持ちもあった。どうしたらカミラとの生活をこれから持つことが出来るか、このまま
別れるということは出来ないと考えていた。
そんなある日、カミラがそっと耳元で辰夫にささやいた。
「タツオ、今夜暴徒の襲撃があるよ。ここに居ては殺される。逃げなさい」
それは現場の労働者の一部が不満を募らせ辰夫の居所を調べ(責任者)捕獲し、場合によっては制裁するというものであった。

思いつくままに

2012-10-23 18:10:08 | Weblog
最近は年齢的にも昔のことをよく思い出すことが多い。(よく夢を見るがそれはまだ自分が仕事をしているときのことであったり亡くなった妻のことであったりするのだが、)
そして同時に今の自分を省みて如何に人間として恥ずかしくなく過ごすかということを考えるようになって来た。(しかし所詮はどう考えてみても人間として変わりようはないのかもしれないが)もう少し言えば如何に「心の平安」を保ちながら生きることができるかと言うことでもある。ともすると日々の出来事の中で心を痛めたり不安を持つことが多くなり、肉体的にも弱ってくる中で神経が細くなっていることを感じているからでもある。
もし私が満腹であっても飢えていても富の中でも貧しさの中でもどんな中にあっても
「心の平安」を持って生きていく自信と秘訣を持つことができるならどんなに幸せな人生が過ごせるかなという事でもある。
しかしこれは人間が鍛錬や修行で得られるものではないだろうし、むしろ深みにはまるかもしれないとも思う。
もっと言えば人間としてその時々にどのように振舞えばよいのか分かりたいのだ。
(ついこれで良かったのかと思うことが多いし、反省することも多いので)
そしてこの事は学問的知識があればできるというものでもない。むしろ学問や知識とは
無縁の神の存在を信じ神をよりどころとしている人の独特な発見に真の自由な精神が
表現できるのではないかと思っている。つまり自分の置かれた境遇で満足できることを
もう少し深く考えれれるようになりたいと思っている。

 コンドルは飛んだ  第21回

2012-10-19 11:06:28 | Weblog
横に寝かせて暫く安静を保っているうちに落ち着いて呼吸が整ってきた。「もう大丈夫です。」と起き上がろうとするが、又
激しい肉体労働をすれば呼吸困難になることは目に見えていた。「今日はもういいから、部屋へ行って静養していなさい」と
指示して引き取らせ辰夫はどうしたものかと考え始めていた。これは病気ではない。医者の治療で治るとか、生活改善をして楽になるということにはならない。とすれば、ここ現地では役に立たず仕事にならない。可愛そうだが本社へ事情を話して帰国させるしかないと覚悟を決め、翌朝本人に説明し帰国を告げた。当人は話を聞いているうちにぼろぼろと大粒の涙を流して泣き始めた。
「どうしたんだ。お前が悪いわけじゃないよ。ただ体質的に此処での仕事が無理なだけだから」と言うと、「出発前に家族、親戚、友人、同僚と大勢の人に送別会を盛大に祝ってもらったのです。それが来て一ヶ月もしないうちにこのまま帰国なんて恥ずかしくて出来ません。何でもしますからここに置いてください」とおろおろしている。人一倍男気があり相手の気持ちの分かる辰夫はこれを聞き、すっかり感動していた。その気持ちが痛いほど分かり心を打ったのである。
とは言え、このまま現地で出来ることは殆ど無い。何をするにしても高山病の影響がある以上は無理である。何か良い方法はないかと数日この問題で悩む事になった。
その頃辰夫は現地の責任者としてボリビアの大使館を初め色々な関係者と(主に日本人と)交わりを持つようになっていた。その中にチリーに事務所を構えて仕事をしている同業者がいる事を思い出した。チリーなら平地だから影響は無い。何か仕事をさせてもらえれば帰らなくても済むのだがと早速電話をした。当人は機械工で、機械関係の仕事なら何でも修理から加工、設計と何でも出来る男である。その事を告げると「ぜひ頼みたい」と二言返事であった。
本人にその事を告げると飛び上がらんばかりに喜び「ありがとうございました。これで帰らなくてすみます。頑張りますから」と
言い、本社の承認を得て送り出す事ができた。
「一件落着」やれやれと辰夫は自分のことのように喜び、これで本来の仕事に戻れると一安心する事が出来た。併し目の前の
現実は厳しく、現地での交渉はますます泥沼化して両者の溝は深まったままであった。

      思いつくままに

2012-10-16 09:10:06 | Weblog
人は自分の幸せを願うとき、良く「神のご利益」を考えて神社のお参り他様々な行事や行いをしながら願う事が多い。そして
不幸に会うとそれまで考えた事もない過去の全てが取りざたされてその業の所為で報いがあった(因果応報)と考えがちで
そこからその人の人生が大きく左右される事も多いと聞く。
しかし真の神を信じて神に全てを委ねて祈る事はそんな事とは全く別のこととなる。
それは子供が病気になって医者に連れて行き、どんなに嫌がっても注射をしたり苦い薬を飲ませたり、特別なときには大きな手術を受けさせる事と同じでそれは子供にとって意味も分からずただ痛い、いやだと思うだけであって、身体のことなど考えていないが、神の計画や思いもこの親と子の関係に似ていて、神の思いは人間に理解されないでいる事が多いのではないだろうか。
「真実である事、気高い事、全て正しい事、全て清い事、全て愛すべき事、全て名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」この言葉はこれらの人間の幸せにつながる鍵となる言葉として考えられる。
考えようによってはこれらの事は当たり前のことで、別に特別なことではないとすれば簡単だが日常の生活において日々起こる出来事を通じて、この言葉どおりに実行しようとすると難しい事である。
安易に日々を過ごしていると私たちは真実から遠ざかり、見栄、流行、世間体などを含んだ自己中心的な言動の中で適当に生きている事になる。此処に書かれている言葉を真剣に理解し、この言葉どおりに生きようとすれば、それは実際の幸福とは異なり、
表面的には残酷な事であったり、苦しみであったり、惨めな目にあうことであったり恥ずかしい事に会う事であって必ずしも
幸福とは見えない事になるかもしれない。
例えば尊敬はするけど人間的には好きになれないと思う人がいても、どこか一つその人の美点を見つけて付き合うことが出来るようになるとか、(難しい事だが)もしそれが出来るようになれば自分が幸せにつながる事になると考えられないだろうか。
要はどんな場面におかれても「いつも喜ぶ」(感情的ではなく心因的に)心を持てるか、どうかが鍵となるのではないかと考える。いやなことはいやで嫌いなものは嫌いのままで、苦しい事は苦しく重荷は重荷のままで現実は動いている。
その中にあってそうであればこそ「いつも喜ぶ」事ができるか、どうかがその人に幸せを覚えさせるか、どうかになり、最後に心の平安を与えるかどうかになるのではないだろうか。

コンドルは飛んだ  第20回

2012-10-12 09:23:20 | Weblog
日本の食材と違うのは仕方がないと辰夫は覚悟していた。現地のあまり豊ではない土地で育つものは主にジャガイモ(又は
コロ芋)、とーもろこしである。これらを主原料としたパン、それに芋と肉そして少々の野菜を混ぜた煮物、これには塩味と
地元の香辛料が入っている、これが菜物として付く。蛋白源として牛、鶏の肉が普段使われるが、何故か豚肉は高級肉として扱われている。食後の果物は日本より豊富で安くパパイヤ、マンゴー、バナナはいつでも食べられる。ただ周りに海はなく、川はあるが、魚はあまり取れないため魚料理は食べる事は少ない。現地の人が珍味として食べているものに「クイ」と言う料理があるが、これは「テンジクネズミ」を使ったものがある。併し辰夫もこれだけは食べる事は出来なかった。食事に欠かせないアルコール類も発酵酒を中心に色々あるが、酒が好きでない辰夫には無縁であった。
小さいときから下町で育ち、比較的厳格な家で育った辰夫にはこれらの生活習慣に溶け込む事には抵抗はあまりなくなじむ事が出来た。
着任して落ち着いて仕事が始まったころ、日本から新たに一人の社員が派遣されてきた。屈強な若者で本人も着く早々の挨拶で
「身体には自信があります。何でもやりますから申し付けてください」と胸を張っていた。辰夫も見るからに頼もしい身体を見ながら、これなら少々の徹夜や力仕事は任せられるかと期待したが、暫くは様子を見ようと宿舎の雑用(掃除、洗濯、食事など)を主に任せる事にした。そんなある日、仕事を終えて帰ると、彼の姿が見えない。外で片付けでもしているかと見回したが
何処にもいない。もう一度中を探すと、風呂場のバスタブの縁にもたれかかったように倒れている彼を発見し、慌てて介抱して
部屋へ連れて行き寝かせた。
様子を見ると病気と言う病気の兆候はない。呼吸が荒く、ぜいぜいと息をしている。どうやら「高山病」の兆候のようだ。
何しろ4000メートルの高地である。そうでなくても空気は薄く、酸素が少ないのは間違いない。
辰夫も派遣が決まったとき、この事が一番気になり医者に相談した事がある。そのときの医者のコメントは
「男性の血液における赤血球の数は通常40~50だが、高地に住んでいる人の場合は65~70にまであがっている。
だから、高地において順応して赤血球が増える人は大丈夫だが、各人違うので何ともいえない」と言うものだった。

思いつくままに

2012-10-09 10:15:01 | Weblog
定年を過ぎて一人で生活するようになって、10年以上が過ぎてしまった。最近はあまり聞かれなくなったが、定年当初は
人に会うと良く「毎日何をしておられますか」と聞かれる事が多かった。「何をしていようと私の勝手で、とやかく言われることではないでしょう。」と反発を感じながらどう返事をすれば良いかと、無意識に自らを繕うように本当のことを(何もしていないと)言う事が気恥ずかしく適当にごまかしていたものだった。
しかし、毎日を過ごしているうちに年齢とともに自分自身が外見だけでなく、考え方も違ってきた事は間違いないようだ。
一言で言えば世の中の事が、少し見えてきたとでも言うのか、自分自身のことが分かってきたと言う感じがするのだ。
だからと言って良いことが出来るようになったとか、利口になったとか、穏やかになったとも思えない。今でも他人のことが
気になったり、うっかりすると調子に乗って人の悪口を言ったり、余計な事を言う事は変わっていないのだ。
唯、自分ができない事や分相応な建前を少し弁えるようになったかなと思う事と諦める事を知ってきたかなと思っている。
それを単に「老化」だと言われてしまえばそれまでだが、それだけではない違いを感じている。
残り少なくなった人生を「何をすべきか」と問いかけつつ生きる事はいつも頭にあるのだが、そんな時に次のような言葉に
出会った。「畏れおののきながら自分の救いを力を尽くして達成しなさい。」
私たちは毎日の生活において自分で自覚して判断し何をするかを選び、自分の行為を決めて行動しているのだが、それが
正しいと言う保証は何もないのである。これで良いのだろうかと迷いつつ行動して、この事が人に対しても神に対しても
どのようにすれば良かったのか、誰も分からないままに過ごしているのだと思う。
では「自分の救いに力を尽くせ」とは何を意味しているのだろうか、どうする事なのだろうかと考えるとき、私たちを
使っているのが神だと考えられれば、もし自分に不都合なことや望んでいない事があったとしても、それは神の計画のうちにあることだと分かるようになるのではないかと考える事が出来る。
こう考えられるようになると、したい事、しなければいけない事が自然に浮かんでくる。人任せにして言われた事をし、
誰かに任せるのではなく、生かされている一人として誰かに聞きながらするのではなく、自分の責任において日々を行う事が
出来るのだと考えている。

 コンドルは飛んだ  第19回

2012-10-05 09:51:48 | Weblog
「コカ」の木はボリビアで野生であり、容易に手に入れる事が出来る。辰夫も彼らの真似をして一度口にした事がある。
白い花をつけた何の変哲もない木から葉を取り、それを噛んでみる。何の味も感じなかったが、かんでいるうちに何となく身体に変化を覚えた。それは何とも言えないもので、何時の間にか自分の身体に気力のようなものを感じてきた事であった。それはかむほどに増長し、何かが覚醒するような異様な気持ちになり、自然に身体を動かしたくなる感じであった。それは言い換えると恐怖感を忘れさせ、疲労感も覚えず眠気を無くすような感じでもある。
彼らは仕事を始めるとき、腰につけた袋にそれを入れて坑道を下りて行く。そして一日の仕事を終えて上がってくると、一斉に
つばを吐くようにこれを口から捨てるのである。世界的に有名なドリンクとして飲まれている「コカコーラ」はその処方がノウハウとして極秘であるが、その中の一つにこの「コカ」の葉が使われているのは間違いないのだろうと辰夫は日本では知りえない
貴重な体験をしたのだった。
現地に着任してから本社との連絡、指示を仰ぎながら仕事を着々と進めていた。表面的には何も変わっていないように見えていたが水面下では閉鎖への準備と交渉は始まっていた。作業者を束ねる現地人の監督者とは定期的な話し合いの場が設けられていた。
其処では主に彼らの待遇改善であり、その条件闘争のような内容であったが、お互いに譲歩と妥協をしながらの時間でもあった。
しかし、今回の話は従来の雰囲気と違っていた。出来るだけ穏やかに日本側の事情を説明し、理解を得ながら閉鎖への目的を果たそうとするのだが、彼らにとっては生活権を失うと言うことだけに集中する事になる。簡単に話は進む事は無く、ともすれば
たどたどしいスペイン語のやり取りや意味の分からない現地の言葉の大きな声の中に彼らの悲痛な叫びを聞くようで、辰夫は
心に痛みを覚え悩まされていた。その中にあって交渉は忍耐強く続けられた。飽くまでもその実行は彼らの納得が前提であり
、それを無視しての強行はありえなかった。
現地着任以来、辰夫は事務所の近くの宿舎に日本からの派遣者とともに寝起きをともにしていた。賄いや雑業は現地の女性にさせることで仕事に専念した。食事は日本から持ち込んだ物でと言うわけには行かず、当然ながら現地の食事である。
「郷に入れば郷に従え」であり、出されたもので我慢するしかない。

      思いつくままに

2012-10-02 09:07:41 | Weblog
ある本を読んでいたら、作家と写真家の対談で次のようなやり取りが出ていた。写真家はその苦労話をいろいろな危険な面が多く怖い思いをすることが多いことを語った。それに対して作家は「それは大変でしたね。でも楽しい事もあってご自分でも楽しいこともあったのでは」と言うと「とても楽しいと言うもんではなかったんですよ」と答えた。そこで更に作家は突っ込んで
「確かにそのときのことは辛いことだったかも知れないけど、後で考えれば良い思いでであり、楽しかったんじゃなかったんじゃあなかったんですか。」と言うと「いや、今考えても辛くていやな思い出です。」と言うので、思わず「後になってもいやだと思うような目にあうようなことなら、止めればよかったんじゃあないですか」と半分皮肉交じりに嫌味を言ってしまったそうです。この話を読みながら人生も各々が自分の人生をどのように考えながら生きているのだろうかと思わされた。必ずしも皆が幸せに人生を過ごしていると思えないが、現在とりあえず何不自由なく過ごし、毎日が忙しく楽しくしている人には決して「死」と言うものを現実のものとしては考えないだろうし、「死」を迎えることなど現実のこととは考えられないだろう。むしろそんなことを考えることは「恐怖」かもしれない。
しかし、一方で何らかの形で生活に重荷を感じ(肉体的な欠陥、経済的な不安、家族の人間関係など)ながら生きている人は
「死ぬことが楽に出来るならもうけものだ」と考える事があっても不思議ではない。事実、日本だけでも毎年、年間三万人以上の人が自殺をしていることが、それを証明している。
人間は本来分裂的な思想の動物とされているようで、死にたいと思いながらいざ殺されそうになると、その手を振り解こうと無意識に抵抗するだろうし、病気が不治と言われて覚悟を決めていても、助かることが分かれば一日でも長く生きようと努力するものであろう。人は多かれ少なかれ、この「板ばさみ」のような状態の中に置かれているようなものだ。
いずれにしても人は老化し最後に何らかの形で「死」を迎えることになる。と言って死を望んで歓迎しているのでもない。
死んで神のもとにゆき、ともにあることを望みつつも、この世における願望がないわけではない。ただどんなに多くを望んでも、
生きている限り、その望みは不安と満足から開放されることはなく、果てしなく続くものである。
とすれば、この世に生きていること、生かされていることに過大な期待をかけないで、死に思いをかけることも大事な事と思う。
確かに生きていてこの世の幸福を何時までも享受することも悪くはないが、この世における不幸も良いことだと考えることも
悪くないと思う。何故なら不幸と思い感じることが、この世に対するあらゆる執着心を、取り去り身軽にして、開放されるように思えるからだ。