波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

             思いつくまま  台湾編Ⅰ

2010-03-31 07:35:09 | Weblog
先週お休みを取って、三年ぶりに台湾を訪れた。37年前に始めて行くようになってから
仕事を兼ねて年に数回行っていたが、仕事を離れてもこうして行く機会をもてるのは、何か不思議な気がしている。行くたびに思い出が出来て日本とは違った感慨を持つことが出来るのだが、何かの絆のようなもので結ばれている思いもあり、それは自然の流れの様でもある。日本人は台湾の女性のとりこになる傾向があると思われるだろう。確かにそれは事実である。私自身も似たような経験をしたことがある。それは「はしか」のようなもので、一時大きな熱にうなされるようなものでもあった。そしてその病気にかかって日本の生活に大きな異変をもたらした人を何人も知っている。表には出てこないが、そのまま帰らなかった人もいるのだ。それは女性の魅力だけではなく、この国の持つ独特の環境の所為かもしれない。それは未だに謎であるが事実である。さて、今回の出発は殊のほか心が爽やかで静かであった。毎回出発前になると、ある種の緊張感と気負いのような責任感(主に仕事上の)で自分がいつもと変わっていくのを覚えたものだが、息子と一緒と言うこともあって全くの自然体であった。空港までの道から空港での手続き、そしてフライト到着後もバスでホテルへ
案内されて、全てが予定通りだった。夕刻だったので、早速チエックインした後すぐ市内の散策に出る。通りは会社帰りのラッシュタイムとあって、車とオートバイであふれていた。
コーヒー店は外資系の(スターバック、ドトールなど)とローカル(ダンテ、いかり他)
とが軒を連ねている。食べ物の店も多種多彩で麺専門、自賛(セルフ)、餃子、定食、パン専門、弁当専門と何でも揃っている。嘗て歩道は凸凹が多く、歩きにくかったが、拡幅され大分整備されていて良くなっていた。不図、通りの角を見るとドレスアップした男女が寄り添ってポーズをとっているのが見えた。カメラマンが撮影しているので、映画のロケかと思ったら、終了間際に派手な花火を揚げている。何のことは無い結婚衣裳のお店の宣伝用のデモンストレーションのようであった。そうかと思うと交差点の角で大きな声を張り上げて女性用のバッグのたたき売りをしている若者がいる。見ると3000元(9000円)の定価のものを300元(900円)にすると書いてある。そして、ライターでそのバッグに火をつけて、本物の革であることを証明している。いやはやそのすさまじさをみて、これじゃあ日本の寅さんも真っ青だなあと苦笑せざるを得なかった

オヨナさんと私   第78回

2010-03-30 09:51:56 | Weblog
W氏は76歳、S氏は既に82歳になっていた。この二人には特別な接点はない。二人での関係は話をした回数もこの20年で数回であろう。勿論、何の因果関係も貸し借りも無い。まして趣味とか共通するものがあるわけでもない。強いて言えば、出逢いでの瞬間における二人の間に起きた強烈なインパクトのようなものであったろう。特にそれはW氏が受けたものが大きかったらしい。その一つの例がW氏が董事長として滞在していた台湾の会社の歴史的セレモニーの式典にS氏は講演を依頼されて招待されているし、S氏が建設したシンガポール工場の開設に際し、わざわざ高価なお祝い品を贈呈している。但しこの話にはオチがあり、目録が先に来ていたのだが、実物はその後その会社が存続している間には、ついに届かなかったと言うことである。目録だけのお祝いと言うのも前代未聞かもしれない。S氏はその後W氏に会うことはあったが、最後までそのことを言うことは無かったが、そのまま語り継がれている。そしてそのエピソードもまたその二人を繋ぐかせになっているのかもしれない。
オヨナさんはそんな二人を食事のできる静かな場所へ案内した。何しろ二人とも長話であるし、声も小さいほうではない。幸いコーナーを仕切ったテーブルが確保できてビールで乾杯の後、話が始まった。W氏は腎臓手術をしていた。S氏は肺がんの宣告を受けていた。
一通りの経過、近況がお互いに語られた後二人は食事をした。W氏は日本とアメリカに住居を持ち、気候のよい時期を過ごすようにしているとのことで、間もなくアメリカへ出発する予定とのこと、S氏は長い間、ボリビア、チリーへの滞在が長く、其処には知人、友人が多く、3年前まで年に数回訪問することを楽しみにしていたが、ここ数年、健康状態が悪くなり、渡航を断念している由、二人の話は尽きない。食事の後、場所を移し、お茶を飲みながら話すことになり、尽きることの無い時間を過ごしていたら、そこでお茶を楽しんでいた一人のご婦人が私たちの話しているところへ席を移し、とても興味深いお話なので傍で聞かせて欲しいと言ってきた。声が大きいので、聞こえていたのだろう。珍しい光景でもあった。いささか疲れも出てきたのだろうか。3時間は経過していた。店の前で三人揃って記念の写真を撮り、駅の改札で再会を約してわかれた。S氏からこれからもまたこんな機会があったら、世話を頼むと言われて喜んで承諾したのだが、S氏の病状が思いやられて気が重く、
その健康を祈るばかりであった。

オヨナさんと私   第77回

2010-03-22 08:10:27 | Weblog
その後、彼はインド以外に出かけることは無かった。すっかり魅了されたようであり帰国してからも翌年改めて訪問している。それは其処で覚えた楽器の学習である。「タバル」と言われる打楽器のようなもので、何故かこの楽器に取り付かれたらしい。聞いてみると自分では過去にこの楽器を使っていたよな気がするようで、始めてではない思いでいるとのこと。当に輪廻のような気持ちでいるらしい。動画で聞かせてもらったが、少しキーの高い金属音のような音で、ボンゴのような柔らかい音ではない。ある意味宗教的とも思える感じがする。そこで最後に「何故インドなのか」と聞いてみた。「行く前も、行ってからもその答えははっきり自分でも分らない。でも結果的に自分がインドへ行ってしたことは其処の人たちと一緒に生活し、話をして暮らしたことだけである。だからそれが自分にあっていたのだろうと思う。」と言うことだった。観光とか、遊びとかの話を聞く中でこんな学生もいるのかと不思議に思いながらもインド人の持つ、長い歴史に基づいた独特な雰囲気を思わさせる言葉でもあった。10億以上の人口の持つエネルギーがこれからの世界へどのような影響をもたらせるのか、そんな事も感じさせられたのである。
「今度お会いする時はスーツを着て会社の名刺を持ってきます」という言葉で別れた青年を見送った。寒い日が続いてオヨナさんは外へ出かける事が出来なくなった。
旅を計画して出掛けたかったが、やはり寒さが厳しいと、出かける気持ちがなえてしまう。
子供たちと暮らす日々が続いていた。ある日、一本の電話がかかった。
昔、お世話になり、色々と指導を受けたこともある先輩である。海外に詳しく東京谷中の生まれで、年をとっても「江戸っ子」の雰囲気を持つ人である。自分に会いたいと訪ねてきる人がいるのだが、身体が弱っていて、自分ひとりでは少し自信が無いので、一緒に話を聞いてくれないかと言う頼みである。どんな人が来るのか、自分の知らない人では相手も迷惑だろうと思いながら「お役に立つなら、ご一緒しますよ」と返事をした。
待ち合わせの日時を知らされて、出かけていく。見た目には元気そうな老人が二人立っていた。昔、仕事関係でお知り合いになって以来の交誼が続いているとのこと。
特別な関係は何もないのに、わざわざ遠くまで来ると言うのは余程人間的な魅力があるのだろうと思う。話は当然のように体調の話から始まった。

            オヨナさんと私    第76回    

2010-03-19 10:00:08 | Weblog
彼は大学に入り、親から「自分の好きにやりなさい」と言う言葉で2年休学して、卒業したのでもう24歳になっていた。休学中に何をしていたか聞くと、旅をしたかったので旅にでたと言う。始めは世界一周のようなものを頭に描いていたが特別なものはなかった。漠然と日本を出ようと思い最初に行った所がインドであった。何の目的も無く、何の興味も持たずに行った。最初から名所旧跡、寺社仏閣のようなところへ行く気もなかった。行った所で生活をしてみる、そして其処で触れ合う人と交わりを持つと言うことしかなかった。だからどこでも良かったのである。ある日現地で知り合った友達に「ヴアラナシ(ワーラナシー)へ行ってみろ」と言われた。其処がどんなところで、どこにあるかも知らずにヴァラナシの駅に着いた。駅を出て少し歩き始めた時に身体に異変が起きたことに気がついた。何か頭がぼうっつとするのである。少しふらつく感じもする。早めに宿を取り、休憩したが、変わらない。一晩寝れば治るだろうと思い寝てみた。翌日も全く変わらなかった。おかしい。何かが変である。しかし分らない。そんな日が続いて一週間が過ぎた。しかしその様子は同じだった。さすがに気持ちが悪くなり、ヴァラナシを離れることにして、ガンジス川に沿った上流のネパール高原のほうへ行って暫く休養した。体調も整い回復したので再びヴァラナシへ帰ってきた。すると今度は身体に異変は無かった。それは不思議な体験であった。今でもその原因はつかめなくて分らないでいるんだと話した。ヴァラナシは彼から聞くまで全く知識の無いところだったが、ヨナさんは昔読んだ本を思い出した。それは遠藤周作の「深い河」でその中にヴァラナシを想定した箇所が出ていたのである。小さな町で地図にも出ていないような僅か人口100万足らずの年である。しかし、ここはヒンズー教仏教の聖地でもあり、
知らない人はいないほど有名であり、全国の巡礼者が集まるところでも有る。そして何よりも大事なことはここがガンジス川(聖なる河)のほとりと言うことで、ここで死んだ人は全ての罪から解脱が出来るという言い伝えのもとに、この地で死を待つ人が多いことで有名なのだ。従って、ここは「大いなる火葬場」とも言われ、「死出の地」とも言われるゆえんなのである。彼が最初に体験した異変はこの町に何百年も続いているこの町全体を覆っている空気の所為だったかもしれない。それは恐らく他の地では感じ得ないものであったと思われる。

            思いつくまま

2010-03-17 07:34:46 | Weblog
この地に住むようになって4年が過ぎた。しかし生来近所付き合いの苦手なこともあって隣りの人以外の人とはあまり話をしたことがない。しかし、今年後期高齢者になったことを契機に少し考え方を変えようかと考えていたところ、隣りの御仁は先輩で嘗てはこの地域の町会長を長く務めたこともあるとあって顔も広い。現在はこの近郷の老人会の会長をしている。そんな事もあって万が一のこともあるかと思い、そろそろお世話になるのも良いかと申し出たところ「飛んで火にいる夏の虫」の例えのようにパックと咥えられ、早速加入することになった。
過日今年二回目の例会が行われ参加するところとなった。参加者を見ると全員80歳前後の当に老人らしい老人であり、当日の欠席者も身体が不自由になり、来たくてもこれなくなったとか、病院で治療中であるとかの理由だった。男5名、女10名と圧倒的に女性が多いのも平均年齢をそのまま映して証明している。出された弁当と飲み物も殆ど手をつけることなく持ち帰るものが多いのも特徴だ。夫々が勝手に話をして、笑い、時間つぶしには10年前の若かった頃の旅行のビデオを映して思い出にふけっている。
正直、この会に入るには数年早かったかと後悔しないでもなかったが、お付き合いならこの方が気楽かと思い直すことにした。
3月も半ばを過ぎ、ようやく春らしい暖かさが続くようになった。卒園式、卒業式、また就職と人生の区切りを付ける時期とあって人の往来も激しくなる時期でもある。しかし動くことの少なくなった自分には世間の流れを直接受けることはなくなったが、人は夫々に成長していくことになる。良くても悪くてもこの世の生活が続いていく中で、それも楽しいこと、嬉しいことの少ない困難の中を生きていくことになる。その根本に何を「据えるか」で、その生き方が変わってくる。願わくは物ではなく、心の豊かさを求めていく人生を見つけて欲しいものである。
梅が終わって、白もくれんがあちこちの庭で大きく膨らみ咲き始めている。新聞に鶴岡八幡の大銀杏の再生工事が始まったと出ていたが、「鶯宿梅」の話では、帝の庭の梅が枯れてその代わりにと梅ノ木を献上した紀貫之の娘がその木に宿っていた鶯のことを思い「勅なれば
いともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」と和歌が添えてあり、帝が心を打たれたと言う話とあわせて、梅に鶯はこの時期よく合うと微笑ましかった。

オヨナさんと私    第75回

2010-03-15 08:03:14 | Weblog
話を聞きながら、男である自分では理解できない女心を如何考えるか悩んでいた。再婚で子供をつれて再婚したのに、その夫に身体を許す事が出来ないとはどういうことなのだろうか。まして妊娠して、それでも悪いと思ったのかその子をおろしている。男はそれでもこどもがかわいい、そして家庭を壊したくないとも思っている。しかしこのままでは自分の気持ちが治まらない。それは愛情なのか、どうかも分らない。何とか自分を納得させたい。
「話は分りました。でも奥さんの気持ちは私にも分りません。事実だとすれば面と向かって
話し合うべきだと思いますが、解決にはならないでしょう。不貞行為が事実なら離婚は可能だし、慰謝料も取れるでしょう。でも別れた後で、あなたが納得できますか。後悔するようなことはありませんか。すべてはあなたが自分で決断しなければなりません。私もこうしなさいということは残念ながら言えません。」男はヨナさんの話を聞きながら頷いていたがとても淋しそうであった。「分りました。良く考えて見ます。」「もうお店に行くのは止めなさいね。家で待っててあげてください。きっと帰ってきますよ。」男は去って行った。
ヨナさんは見送りながら、何時かもう一度、幸せな家庭が戻ることを祈るしかなかった。
穏やかで、静かな日が戻ってきた。ヨナさんはいつものように子供との時間を過ごしながら
近くを散歩してスケッチを楽しでいた。ある日、一人の若者が訪ねてきた。もう忘れかけていたが、その若者が中学生の頃、教えた子であった。「やあ、暫く、大きくなったなあ。確か所、ちかひろ君だよね。」
「先生、ご無沙汰しています。お変わりありませんか。」とすっかり一人前の大人のような挨拶をする。「如何した風の吹き回しだい。」「いや、大学も無事卒業できて、就職もやっと決まったので、お世話になった方に挨拶をして廻っているんですよ。これから忙しくなるんで。」「そりゃあ、わざわざありがとう。良かったら少し休んでいけよ。」「ありがとうございます。いやあ、ちっとも変わりませんね。あの頃と全く同じだなあ。僕もここで随分遊ばしてもらいました。全部覚えていますよ。」思いがけない教え子の来訪はヨナさんを
すっかり和ませていた。こんな時間を持つようになるとは少しも考えていなかったし、自分がそんな歳になりつつあるのかも気がついていなかったからだ。もうそんな年になってきているんだ。

オヨナさんと私    第74回

2010-03-12 07:37:34 | Weblog
久し振りに美味しいコーヒーを楽しむために「ラナイ」まで,出かけていく。「いつもの」と言って頼むと、「分りました」とこの頃は「ヨナさんブレンド」を作ってくれる。少し高くなるけど、ヨナさんにはそれが贅沢とは思えなかった。顔なじみになったウエイトレスのお姉さんは二人いて、若そうに見える。その内の一人にある日近くのスーパーで買い物していたらエレベーターの中でばったり会ったことがあった。その時、小学生ぐらいの子供がそばに立っていて主婦であることが分った。
何となくその人の生活が見えるようで、その後お店であっても親しみがわき、「お子さんは元気ですか。」と声をかけるようになっていた。もう一人の女性も同じような年の人でとても落ち着いて見えるのだが、何となく、影のようなものがあり気軽に声がかけられない雰囲気があった。その日もヨナさんは本を暫く楽しむ事が出来て、帰ろうとしたとき、一人の男性が入ってきた。きょろきょろと店の中を見廻し、誰かを探しているようにも見える。
それとも誰かとの待ち合わせかなと思いながら、出ようとしたら「○○はいませんか」と聞いたいる。店長が出てきて、「もう今日は帰りましたけど」と答えた。男は黙って出て行ったが、外から暫く立ち止まって店のほうを見ている。ヨナさんは関わらないようにと、その傍を通り抜けようとした時、声をかけられた。その切羽詰った様子に押されて、仕方なく話を聞く羽目になった。その店に入る事も出来ないので、近くの店に入る。
今から三年前に合コンで知り合い、結婚した。相手には先夫の男の子がいたが自分は初婚だった。聞いた話では先夫とはDVでとても続ける事が出来ず、離婚したのだといっていた。
しかし、結婚前の交際のときは数回あったセックスが、結婚して一緒に暮らすようになってから一回も無く、持ちかけても断られる始末でこの三年間一回もないという。
そんな生活だったが、子供が可愛くなり、別れる気もなく暮らしていた。最近妻の様子が、おかしいので注意してみていたら、子供をおろした気配があった。どうやら他に男がいるようなのだが、何も言わないので分らず、昨日から家に帰ってこないもんだから、今日は店を訪ねてみたんですという。初めて出会ったばかりの自分にこんな話をされてもと思いつつこれも何かの縁かなと心で思いながら、さてこの人のためにどんなことが話せるかヨナさんは
その責任と、この人の将来を案じながら暫く考え込んでしまった。

           思いつくまま    

2010-03-10 07:50:53 | Weblog
毎月一回行く散髪屋さんがある。其処にはもう70を過ぎたおばあさんが、50年を越えるキャリヤで頑張っている。タレントの「いもと」を思わせる黒い一筋の眉が特徴だが、これを笑うわけにはいかない。しかし、この技術は一部の人を除いては現在も通用していることが不思議なくらいである。其処では何時もいわゆる「床や談義」のような会話が交わされる。お客さんによって話題は異なるようだが、私の場合は花の話からいろいろな園芸の話が中心になる。今年は「はやとうり」と「きくいも」をこの春植えるのだそうである。
どちらも聞きなれない名前で知らなかったが、現物を見せてもらうことが出来た。うりは薄
黄色をした形の悪いものであったが、漬物にすると美味しいとか(あまり大きくなく、鹿児島の原産とか)「きくいも」は「菊芋」で別名天然のインスリンとも言われ、イヌリンが
20%も入っていて身体によいとされているのだそうだが、あまり知られていない。少し貰って味噌汁にして食べてみたが、お世辞にも美味しくなく、固かった。アメリカから入ってきたものらしいが、これでは日本では普及しないかもしれない。
そんなわけで寒い雨の中を帰ってきた。今年は何時までも寒く梅は咲いたか、桜はまだかいなと呑気に言うことも出来ない。こんな時期は身体が縮こまり、活動的に動けないことが悲しい。そこで大事なことは「習慣」であろう。ジムへ行くと毎日のように来て、身体を一生懸命動かしている高齢者を見ることが出来る。自分は毎日、ジムへ行くのだという習慣を持つのである。高齢者になると、することも無く、考える事もないので、考えるのは体のことだけである。だからそのことだけの習慣を持つ。その内、習慣が人を作っていく。つまりそのことによって、それなりの健康を保ちうる事が出来ているのである。つまり習慣が人を作っているのだ。だとすればほかの事も同じように良い習慣として持つようにすれば、その習慣がその人を造っていくことになる。そう考えれば、そのことが自分には少し困難と思われることであっても、続けることで習慣になり、それが自分を作り変えていくことにつながることを考えたい。考えれば、いくらでもすること、出来ることはあるはずである。人間はともすれば怠惰に流れ、何もすることなく時間を無為にする傾向がある。それこそが無駄であり、何かしないから困難なのだと気付くべきだと思う。

オヨナさんと私    第73回

2010-03-08 08:16:11 | Weblog
小さい部屋に少しづつ人が集まってきた。集合時間が7時とあってみんな夫々が仕事帰りである。スーツ姿もあれば、ラフな仕事着のような人もいる。男も女もみんな若く何か勢いのようなものを感じる。そして係りの人から挨拶がある。暫くは発声練習の指導を受けることになる。つまり滑舌を良くして発音を正確に出来るだけ良くする。ヨナさんの場合は「あなたの言葉は関西訛りがはっきり出ています。取れないと思いますが、出来るだけ矯正しましょう。」といわれた。岡山で日本語を覚えた事が影響したのかなと思ったが仕方のないことで少しでもきれいな日本語が話せるようになればよいと考えた。
主な仕事は毎月決められた帯番組のような時間があり、その地方の学校向けと、農村向けのものであった。時間は15分と30分とあり、その都度プロデューサーから何人かの人が台本を渡されその番組を作っていくことになる。役の無い人はいつものように練習を重ねその放送録音の様子を聞くことになる。録音室にはセンターマイクが下がっていて、それをはさんで台本を持ち、台詞を話すことになる。その周りには擬音やBGMの係りの人がいて、指図のキューのままに進行していく事になる。そんな時間が楽しかった。昼間のこの世の世界のことはすっかり忘れて、別の世界での時間である。
練習日は原則毎日夕方から10時ごろまでだが、録音を取ることになると夜中になることもある。ヨナさんは主に発声練習と滑舌練習だけであったが、充分満足していた。
そんな日が続いていたところ、「今度、君にこの番組に入ってもらうよ。」と台本を渡された。主役ではなかったが、脇役で学校の若い新任の先生役である。場面は学校の休みの日にベテランの先生と将棋を打っているところへ若い奥さんがお茶を入れに来るというものだ。
台詞はそれほど多くないが、時間としては数分の出番である。オヨナさんは緊張と興奮の状態に置かれたが、次第に落ち着いてきた。三人がセンターマイクをはさんで立つ。
その内キューが入る。音楽が始まる。将棋のこまの音がする。台本を持って台詞をしゃべる。上手くしゃべれない。自分ではそのつもりでしゃべっているつもりだが口が動いていないのだ。ベテランの先生役と奥さん役の人は経験もあり、スムーズである。ヨナさんだけが
とちっているのだ。その夜、深夜まで続いて録音を収録して終わる事が出来た。
帰りには美味しい幕の内弁当と車での送迎である。ギャラは一回出演毎に出ることになっている。その夜、ヨナさんは何時までも眠ることが出来なかった。