波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

個室   第5回

2016-04-29 10:52:10 | Weblog
一夫は仕事がなくなり、ただ家で過ごしながら何かしなければと思っていた。田舎では会ったが田畑があるわけではなく、父は近くの醤油の醸造所で働いていた。両親と一緒に済みながら自分が何も出来ないことは、居心地が悪く納屋にこもっていた。一つだけ趣味でいつかゴルフを思う
存分して見たいという夢があった。勤め先で覚えたゴルフは抵抗なく出来たし、やっていて楽しかった。そしてゴルフクラブを自分で作りたいと思うようになっていた。それは自分の身体に合った道具として造ればそれだけうまく慣れるのではと言う思いである。
部品をこつこつと集めて、其の部分部分をつなぎ合わせ、削ったり、切ったり、重さを量ったり
そんなことをしているときは夢中になることが出来た。
時子は州と姑の面倒を見ながら娘と一緒に無邪気に過ごしている。夜になると親父と一緒に飲む酒だけで一日が終わっていた。
内田からは何の連絡もなく日が過ぎていた。
東京営業所を尋ねた内田は所長の木村を外へ連れ出した。仕事の話ではなくまたプライベートな正式な相談でもない。ただの情報調査のようなものなので事務所では話がし難かったのだ。
「実はうちの会社は今の事業を辞めることになったのだ。だから同業者会議にも出られないし、自分も会社を辞めようと思っているんだ。」突然の話で木村は驚いていた。しかし其の経緯を深く追求することもなく黙って話を聞いていた。
「そんな訳で今までのように会うことも話す機会も少なくなるけど、よろしく落ち着いたら挨拶にまた来るよ。所で自分のことはそれで良いのだが、部下が一人いてね。まだ結婚したばかりで自分が仲人をしたこともあり、責任があるんだ。何とか職を探してやらなければならないのだが、君の事務所では人は要らないかね。」
仕事の話ではないとは思っていたが、人の問題を急に出されても返事の仕様もなかった。
まして人事は自分では決められないし本社の意向を聞かなくてはならない。
「そうだったのか。」内田の下に一夫がいたのは木村も知っていた。物静かなどこか優しげな面影が浮かび「あの男か」とイメージしていた。
結婚早々仕事を失う運命と言われて、悩んでいることだろうと思いやっていた。

思いつくままに  「世界旅行」

2016-04-26 08:52:16 | Weblog
現在では旅行ブームでTVでの旅行番組は欠かせない定番になっている。日本もここへ来て
2000万人を超える訪日外人数を数えるようになり、経済的にも好影響を得るようになった。
この年齢になると最早何処へも行くことは出来ないが「もし世界旅行をするとしたら?」と聞かれたらなんと答えるかと自問自答してみた。
若いころにはイスラエルから西へトルコ、ギリシャ、イタリーと地中海沿岸をと無意識にあこがれた時期があった。それは聖書を通じてパウロがキリスト教を伝播した道でもあり、紀元前からの文化発生の地でもあることからであった。しかしよく考えるとそれらの遺跡や文化は殆どなく
残されているものも、其の当時の権力者によるものであり、既にそれらは嘗ての栄光はなく、ただ観光の目玉とされているだけである。そこには嘗ての「世界の道はローマに通じる」と言われた文化のかけらもなく、ただ人間の欲望と堕落の象徴としてしか、意味がないのかもしれない。
そんな意味ではオリンピックの発祥の地、アテネもローマも同じであろう。
イタリーの南部の火山噴火で数千年前の町の様子がそのまま残っている遺跡だけは、其の当時の
人間の生活観を知るために見てみたいと思ったことそしてある先輩が言っていた「世界で一番女性らしい女性は北部イタリーの女に限る」と女性はどんなのかなと、そんなつまらないことが
今でも残っている。
そんな中で象の尻尾を触るようにアメリカ、ドイツ、フランス、中国、韓国、シンガポール
台湾などの国々へ行く機会を得たことは、今でも思い出に残っているし、画面で見るたびに
何となく親しみを覚えている。

個室    第4回

2016-04-23 10:48:27 | Weblog
まだ就職して10年も過ぎていない。まして結婚して初めて子供出来たばかりである。そんな時仕事ができなくなると言われても、戸惑うばかりでどうしょうもない。と言って仲人であり、世話になってきた上司に文句を言うわけにも行かない。一夫は生来人にいやなことや愚痴を言う性格でもなかった。ただ黙って聞いているしかなかった。そんな一夫に上司の部長でもあるうち内田は優しく声をかけた。「私にも責任がある。東京、大阪と私の指示で仕事をして所帯まで持たせてこのまま放り出すようなことはしないつもりだ。少し時間がかかるが私にも考えがあるので少し時間を貸してくれ。そして連絡するまで待っててほしい。」と言った。
しばらくは家で好きな釣りをしたり小さな畑を生まれたばかりの赤ん坊を抱いた時子と一緒に過ごしていた。時子はそんなときでも無邪気だった。「大阪じゃあこんなことが出来なかったから
楽しいわ。あんたも一緒やし娘も生まれたし、幸せやわ」と楽しそうだ。
一夫は内心不安もあったが、内田の言葉を信じて待つことにした。そんな時間の中で内田は悩んでいた。一夫にはああ言わざるを得なかった。勿論自分も仕事を失うことは同じであったが、自分のことはともかくなんとしても若い彼には仕事見つけてやらなければならない、と言って田舎では条件の良い仕事が簡単に見つかるわけもなく、友人、知人を含めてそれとなく声をかけながら仕事を探していた。
当時在社していたときに「同業者会議」と言うものがあってメーカーが5社ばかり毎月一回会合を開いていた。目的は親睦であり、あまり市場でのトラブルを起こすようなことは良識を持って起こさないように情報交換をする場であった。つまり客先をあまり取り合っ足りしないようにすることが大事であった。
内田は同業者の仲で話の合う男を一人思い出していた。岡山に本社があって東京営業所の責任者でもあるが、あまり会社の決まりにこだわらないで自由に仕事をしていて話がしやすかった印象である。
ふと彼のことを思い出し、「一度会ってみよう」と思った。特別な計算はなかった。
「近所まで来たんで寄ってみたんだ」内田はアポもなく突然其の事務所を訪ねた。

思いつくままに   「人間考察①」

2016-04-20 10:40:17 | Weblog
私自身を含めて人は一人ひとり個性があり、各々の人生を歩いているのだが、最近自分自身を振り返りながら、交わりを持っている人たちを見直したり、どうしているかと考えていると昔と違ったイメージが出てくることがある。つまり自分自身の変化で人の見方が変わってくるのを感じるのだ。若いときに付き合った人、仕事をしていたときの交わりで「あの人はこんな人だ。」と言う既成概念をいつの間にか勝手に作り上げて、勝手にその人の人格を作り上げていたものだったが、最近其のイメージが極端に変わってしまったことを知ることになった。
彼は若いときは其の父親との交わりから特別な思いを持って交わり親しくしていたのだが、長じて父親の仕事を継ぎでいた。そしてある時中国工場を立ち上げ、そこの責任者として派遣され
10数年を過ごすことになった。仕事は順調に波に乗り、成功したが父親の病気のため中国の工場を人に任せて日本に帰国して全責任を負うことになった。
つまり新しく日本での事業の責任者になったのである。そして今までどおりの取引が始まったのだが、その経営方針はすっかり変わってしまった。従来は共存共栄での協力体制であったが、
全く変わり、実存主義的な考え方で、全ては結果次第で実益に繋がらないことについては、全く評価をせず、対応も言葉使いも変わってしまった。
したがって、取引上の交渉も今までどおり進まず、挙句の果てに取引拒否に近い態度ですら出てきた。当然ながら父親の進言なども受け入れることもなく、全ては自分の意思で貫くことになった。取引上の提案についても受け入れることもなく、「世話になる気はない」といい、
その理由についても「説明する必要はない」と言う有様である。
あっけにとられ何時しか取引も次第に疎くなり、父親との交流も途絶えてしまうことになってしまったのだが、この若社長に何が起きたのかと考えてしまった。
中国出の成功と其の国民性が彼の性格と考え方に影響を及ぼしたのか、ちょうど成長期に一人で中国出の事業を任されて、様々な苦労と努力をして身に着けた人生観なのか、分からないが、
あの純粋で素直で優しかった若者が此処まで日本の歴史と伝統的な習慣を無視するような
姿勢を見せられると、人間は環境と其の経験の中で変化をしていくものかと考えざるを得ないし、誰もが昔のままと考えることは、一考をようするものだと考えさせられているところである。

個室    第3回

2016-04-17 14:18:13 | Weblog
一夫にとって大阪は別世界と言っても良かった。館林から東京へ出てきたときはそんなに違和感は感じなかったが、大阪は毎日が戸惑いであるし、最初に関西弁を聞いたときに銅話したらよいかも分からなかった。時子から声をかけられたときも最初は銅返事をしていいかも分からず、黙っていた。しかしそんな一夫に時子は何も気にせず、関西弁でどんどん話しかけてきてくれた。それが一夫には何より力になっていた。
分からないことや困ったとき、相談すると「何や辛気臭い顔をして、どないしたん」というと
どんなことでも明るく相談に乗ってくれた。女性と付き合うこともないままにいたが、ここで
いつの間にか、付き合うようになっていた。休みの日は「はならあたいが案内してあげるがな」と気軽に受けて其の日は手弁当を作ってくれて、大阪城とか道頓堀とか名所にあんないしてくれた。おかげに一夫は大阪の地理にも明るくなり、仕事にも役に立ち助かっていた。
一夫は時子とのデートの帰りは駅から降りると必ず居酒屋へ連れて行った。そして二人で飲む酒が何よりの癒しだった。
そして自然に将来は二人でと結婚を約束しいた。「俺の田舎は館林と言うところだけど、大丈夫かい。」「そんなん、どこでも同じやん。心配せんかていいよ」「酒飲みの親父とおふくろもいるけど」「どこの親も同じや。私も親と一緒やけど何も心配せんでもいいよ。」
そんな時子の言葉に励まされて、結婚を決心していた。「仲人を誰に頼もうかな。やっぱり会社の上司がいいな。」
こうして準備は進み、大阪を公認の若い者に託すと東京へ再び転勤し、程なく二人は所帯も持っていた。
間もなく娘が生まれ、仕事はは太田から東京へと通勤が始まったのである。
そんな平穏無事な生活が続いていたが、ある日上司に呼ばれて本社の熊谷へ立ち寄った。
「来年、今の仕事を中止してほかの事業をすることになった。君には長い間よくしてもらったが、この仕事は終わりになる。」それは仕事だけでなく、彼の退職を促すものでも合った。

思いつくままに  「ドラマ」

2016-04-14 09:54:47 | Weblog
独居生活が長くなると、何もなくてもストレスを感じたりすることもある。そこで「頭休め」と称して出来るだけ読書とか、囲碁ゲーム、散歩、TVの時間を適当に意識的に取り入れることにしている。TVの番組は主にスポーツ(ゴルフ。プロ野球)とドラマにしぼられる。
ドラマは海外品に限定される。最近は世界から送られるようになりアメリカ、フランス、ドイツ、イギリスと各国のものが見られるので楽しい。其の中で私はイギリスの作品がすっかり気に入り、この番組を中心に見ている。
内容は推理ものが多いがそれよりも画面に出てくるイギリスの風景や、人物、そして会話が何故か現在の自分の気持ちを落ち着かせ、心を癒してくれるのだ。チャールズデイッケンズ、アガサクリステーなどの作品はドラマも人間味にあふれ、静謐さを漂わせる。また歴史を思わせる教会、、古城その他の物品も古典的なものが多く、勉強にもなる。
BGMで流れる音楽も当然ながら古典であり、ワーグナーであったりする。
其の世界の中でしばし現実を離れている時間は私にとって、ある意味、至福の世界でもあるのだ。日常生活をどのように過ごすか、其の過ごし方は人によって様々である。これが一番と言うことはない。その人の生活が如何に「心の平安」の中で過ごし、其の平安から生まれる、あらゆるものが、どのように生かされるかが大事なことだと思っている。

個室     第2回

2016-04-11 11:51:32 | Weblog
独身時代は誰でも自由であり、何でもできることの楽しさがあった。一夫も結婚前の初めての就職で毎日が楽しかった。通勤は時間がかかったが苦にしたことはない。生来ののんびりやであることが幸いしているのか、気にならなかった。ただ父親の行動から成人になって酒を飲むことを覚えて過ごす時間だけが楽しかった。
仕事は客周りを巻かされて毎日出かけることが多かった。客先は塗料を扱う会社だったが一夫は
どこへ行っても大きな会社でたくさんの人がいて驚くことばかりだった。
田舎言葉でとつとつと話すのが、好感を持たれて評判が良く仕事は順調だった。三年ほど東京での仕事をして慣れてきたころ、ある日上司に呼ばれた。
「今度大阪へ店を出すことになった。誰かに行って貰うことになるが、君は独身だし身軽だから君に言ってもらおうと思うがどうだ。?」「えー、私がですか。大阪なんか行ったこともないし
全く何も知りませんよ。」「心配しなくても大丈夫だ。其のうちすぐ慣れるしおぼえるよ。それに地元で一人採用するからその人に教えてもらいながら仕事は君が責任を持ってくれれば良いのさ」事務所は天満と言うところだったが、下宿はなぜか西宮のほうで、少し電車で通うには時間がかかった。それでも地理を覚えるには都合が良く、時間があるとぶらぶらと歩きながら地理を覚えることが出来た。
彼のアパートの隣に新聞配達の販売所があった。朝が早いので、一夫も何時しか早起きが見につくようになった。館林にいたときから早起きは習慣だったし、苦にならない。
起きると隣へ行き、新聞を読むのだが、はじめはお金を払っていたが、何時しか金を払わないでもらえるようになっていた。何人かの若者が配達に回るのだが。其の店の娘が其の手配をしていた。それが時子とのであいであった。時子は明るく、いつも元気な声で挨拶をする。
「松山さんおはよう。元気。二日酔いじゃないの」いつのまにか一夫のことを知っていたのだ。
「うん、、今朝も頭が重いんだ」「しょうがないわね。」それが毎朝の会話になっていた。

思いつくままに   「老人回小話」

2016-04-08 10:13:26 | Weblog
最近のように高齢者が増えてくると、何歳から高齢者とするかとか、高齢者全体を一くくりにせず、「晩期」「終期」「末期」と三段階に分けてみることも必要になってくるかもしれない。
と言うのも様々な現象が見られるようになっているからである。
この地元の老人会も一昨年一応解散をしたのだが。有志の婆ともが、やはり加を合わせたいとの希望があり、月に一度の食事会を最近再開した。私も時間を見ながら参加しているが、先日そこでこんな話を耳にした。そこで語られることはお互いの身体の具合やら近所の出来事が主なws代になるのだが、あるばあさんがこんな話をしていた。「先日のどが痛くてたまらなくなったので
市の大きな病院まで行ったんだが、受付で「予約はありますか」と聞かれて素直にありませんといえばいいものを「病気は突然なるものですからそんあことはしていません」と言うと「予約がないと無理なんですよ。今日でしたら夕方なら取れますけど」と言われて「分かりました。では其の時間に出直してきます。」すると「ここでは予約は出来ないので電話でお願いします」といわれた。そこで外へ出て携帯を持っている主人に頼んで予約の手続きをしてもらったが、これがめんどくさくて役所仕事のようで手間がかかったが、何とか取れることが出来た。
しかしこんな面倒な手続きをしなければ、急な痛みや苦しみを我慢しなければならないのかと
ネット組み込み社会に適応できない年齢のものには、間に合わないこともあるのではないかと
心配になった。
そしてもっと従来どおりの手続きで見てもらえるところもあろうかと、怒りを抑えてそこの病院には行かないことにしている。それでもし具合が悪くなってもそれは自分の運命とすることにした。」と話していたが、世の中便利のようで新しい不便さも出てきているようだ。

個室    第1回

2016-04-05 11:37:46 | Weblog
その日珍しく一夫の目醒めが悪かった。時子はいつものことで二日酔いがまだ治っていないのかしらと思いながら、娘たちの朝食の支度をすると車の用意をしていた。毎朝東京まで仕事に出かける主人を駅まで送らなければならない。駅は東武線の終点になる大田駅である。
8時半ごろまでに出社するには、どんなに遅くても6時ごろの電車で北千住まで行き、そこから日比谷線に乗り換えてゆかねばならない。そんな主人を持ちながら時子はそれを苦にしたことはなかった。二人の住まいは館林にあり、地元の高校を卒業すると地場産業で仕事を見つけようと考えていた。幸い熊谷で募集していた会社があり、ちょうど通うには良いところだと一夫は喜んで通勤していた。3年ほど過ぎた頃其の人当たりのよさと朴訥な田舎育ちの純粋さが上司の目に留まり、彼は東京事務所の営業へと命じられた。それほど喜ぶでもなく又通勤の不便さを嫌がる風もなく、東京での仕事を始めていた。
帰りの電車は少し込んでいるが、東武線に乗り換えて大田につくころには席も空いてくる。そんな様子が分かると彼は帰りのかばんにしっかりとワンカップを買って乗るようになっていた。
そして電車の具合を見ながら、それを一人でひそかに飲むことを覚えたのである。
一日の仕事を済ませ、初めての都会の空気に緊張を迫られ仕事では知らない客との会話で、何をしゃべればよいか戸惑いながら仕事を進め、かえると所長に報告をする。生来何をするにも几帳面な性格もあって仕事はとても丁寧である。(手のろと見えることもあったが、地元の人たちの事務所では問題にはならなかった。)むしろ其の丁寧さが買われたところもある。
一夫は父の酒好きをそのまま受け継いだかのように、高校生時代から飲み始めていた。と言ってもこれと言った癖があるわけでもなく人に迷惑をかけるようなことはなかった。
ただ通勤の帰りのいっぱいはいつのまにか、欠かせないようになっていたのである。

思いつくままに   「ニュース」

2016-04-02 09:28:55 | Weblog
人間はこの世に生まれ、生かされている。しかしその昔神は一人の男を作り「人が一人でいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう」と言われて、女(エバ)を造られたとある。このようにして神の思いで造られた人間で日々起きつつあるニュースにおいて、信じられない出来事があることを知らされ、何故同じ人間でありながらこのような事が起こり得るのかと考えさせられている。それはもし自分も同じような状況の中に置かれたら自分もまた同じような信じがたい事件を起こすのであろうかと言うことであり、他人事として見過ごすことはできないし、何故か、
人間不信と罪悪感に捕らわれる気持ちである。
人はそれぞれにおかれた環境と状況のなかにあり、条件次第では生きていくために手段を選ばないことや人間としての尊属を忘れてしまうような自己中心な考えにはまり、そこから離れることが出来なくなり、無意識のままに罪悪を重ねるものなのか。
日本だけでも年間自殺者が3万人を超すといわれていると統計で出ているが、最近はあまり驚くこともなく見過ごしているが、人は何故隣人、つまり交わりを持つ人との関係を大切にして気を配らなくなったのだろうか。確かに色々な条件のもとにあって、「それど頃じゃあないよ。自分のことで精一杯なのさ」と言われてしまえばそれまでだが、そうであろうか。
否、それだからこそせめて各人がそれぞれに交わりを持つ人間同士の中で出来ること、出来ないことを含めて思いやり、励ましあい、助け合い、気遣うことこそ、大事なのではないだろうか
家庭でも職場でもお互いに出来ることを考えるだけでも
其の状態は変わるものと信じている。人が人を傷つけあうことだけがニュースにならない日が来ることを願っている。