波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「一人じゃない」

2016-02-29 10:10:30 | Weblog
一人暮らしが10年以上続くと其の間に心の内もいろいろと揺れていることに気づく。
最初は家族のことや身内の一人ひとりそして今までの人生における人間関係から開放されたような思いが強く開放感と自由を強く感じていたものである。其のうち家事を含めた身の回りのことや所在無くTVを見て終わり寝床に入る空虚な時間に何となくぼんやりとなるものが感じられるようになる。それは寂しさとも異なるものだが、何かしら物足りなさと空虚さを感じたのである。そして心に生まれてくる様々な思いを誰かと分ち合いたい、言い換えれば思いを聞いてもらいたい、話し合うことで自分を納得させたい、そして慰めと癒しを求めている自分がいるような
よく分からない漠然とした空虚感を覚えることがあるのだ。
そして満たされないままに一夜を過ごし朝を迎えると昨日のことを忘れて新しい一日を自分の思い通りに過ごすことに熱中している自分がそこにいるのである。
そんなことの繰り返しの中で日々を過ごしているうちに様々な問題が耳に入る。すると其のことで自分で其の問題をどうしたら解決できるか、そしてどうすれば心の平安を得ることが出来るか
と無意識に頭が働く。しかしそんなときになると逆に其の問題に引き込まれ不思議に心が沈むのである。それは自信のある解決には繋がらないし、自分にとって有利な解決にはならないのである。いつのまにか自分が何でも解決できるかのような錯覚の中でむしろ結局は劣等感に落ちている自分に気がつくのである。
しかしある時、「自分は一人じゃない」と言う気持ちが生まれてきたのだ。あまりにも何でも自分で出来ると思い上がりの気持ちから押しつぶされたとき、「自分は一人ではない。」それは
全てを解決し背負うのではなく「全てを委ねる」という思いである。
つまりベストを尽くして為すべきことができたら、忍耐して「委ねる」という心を持つことを知らされたのである。「正しく為すべきことを為す」ことに徹することで全てを委ねる気持ちを大切にすることを知ったのである。
それは全ての思いを変え心を平安にして過ごすことに繋がるのである。
「自分は一人ではない。見えない誰かといつもともあることを信じる」
それは自分自身を反省しなんでも全てが自分中心で過ごしてきた自分への心構えであり、
それは「祈り」として生まれてくると考えている。

     思いつくままに  「読書離れを憂う」

2016-02-26 10:00:39 | Weblog
先日の新聞(22日)に昨年の国内の書籍と雑誌を合わせた紙の出版物の販売金額が過去最大の落ち込みを記録したと報じられていた。
かねがねそんな感じがしていたがとうとうそこまで来てしまったかと言う感じを持ったが、其の兆候はあった。パソコンやスマホの普及によるネットや電子書籍の普及で手軽にその内容を知ることが出来ることから、其の頃から新聞離れが始まり、本離れに繋がっていったのだが、これは日本だけでなくほかの国々でも同じような現象が出ているらしい。しかしこれは単に出版物の減少だけに留まらないのだ。
「文字」を読むと言うことは単に内容(ストーリー)を知ると言うだけでなくそこから受ける文字の意味を正しく知ると同時に其の意義を様々に理解し知識を広めることであり、得た知識から生まれてくる自分自身の思いを省みて考えさせられる機会にもなっているのである。またそこから自らに知らされる無言の警告や忠告もあるし、新しい知識だけでなく正しい知恵までも生まれてくることもあると思っている。
単に「起こりえる」事象を知るだけではないのである。確かに現代では生活上物理的に説く所の時間など持つことは不可能なことであり、そんな心の余裕を持つことも許されていないことだろう。しかしよく考えてみたい。生活時間の中で5分や10分の時間を生み出すことはその人の心がけ次第で生み出せないだろうか。一定の長時間は無理だとしてもこの時間の積み重ねでも
「得る」ものは同じなのである。そしてこの積み重ねと習慣までにすることこそが大事なのである。そして「ゆっくり・熟読」することも大切である。
あわててその筋を追いかけたりストーリーを知ることに熱中するとそれは読書ではなく単なる
好奇心の満足感だけで終わることだろう。それは読書ではないのだ。
少しづつ味わって読むことは食事のときの「よく噛んで食べる」ことに通じて身につくのである。
この記事を読みながらこんなことを自分自身に言い聞かせていた。

     泡粒の行方    第48回

2016-02-23 10:09:30 | Weblog
欽二の毎日は多忙を極めた。新しい材料の販売は需要期に入り、あちこちで引き合いもあり問い合わせもあった。其の範囲も北は秋田、宮城、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、静岡、名古屋、大阪、愛媛、九州と全国へと広がったのでそのために当然行動範囲は広げざるを得なかった。若かったこともあり意欲もあった。彼の心には全国制覇の野望があった。そして次々に講座を設けて実績を上げた。それは本社の工場にも反映し新工場が二つも増やさざるを得ない状況になっていた。勿論そこには親会社の信頼による資金援助もあり、人材支援もあった。
こうして外面的な仕事は順調であったが、それだけではなかった。それは親会社との交流を図ることであった。田舎の会社の生活とは全く違っていた。
つまり「時間外交流」の持ち方である。朝9時出社、5時退社の定刻のリズムの生活であった欽二にとっては考えられない生活であった。彼らは定刻を過ぎると思い思いに其の後の時間を娯楽の時間として過ごしていた。近所の居酒屋での懇談に始まって、それぞれに仲間がいた。其の時期一番盛んであったのが麻雀だった。本社の近所の雀荘は常に満員であり、そのために予約が必要で午後なると雀荘の予約と人数と席を確保、そして時には満貫賞というプレミヤのお土産まで用意しなければならない。其の準備は子会社の其の担当者が当てられていた。
欽二は其の役目を命じられていたために定刻前には其の場所へ駆けつけて、本社の上司を向かえてお相手を勤めるのである。当然費用は先方もちであるが、其の勝負の決済は個人もちとなる。
と言ってやたらに向きに勝負にこだわって勝つことも出来ず、そこそこにお遊びの結果になるように願っていた。終わるのは11時ごろになる。したがって帰宅できるのはタクシーを利用してもやっと、其の日のうちに帰れるというのが精一杯だった。こんな費が週に2階か3回あるのである。土曜と日曜日はゴルフが月に一回かに貝は入る。ゴルフもまた盛んであった。
スタートの時間の予約を取るために朝早くゴルフ場へ行くこともしばしばであり、 場合によっては前日から並んで待つ場合もあった。(さすがにこの場合はアルバイトを頼んだが)

思いつくままに  「年の差婚 ?」

2016-02-20 11:11:56 | Weblog
最近、爺友(83歳)から「俺、ハワイへ行ってくるので留守の間頼むよ。車もあるから使ってよいよ。」と言われて鍵を渡され留守を預かることになった。其の年で大丈夫かなと心配もあったが、娘の結婚式だから行かざるを得ないのだという。
問わず語りに話を聞くと40歳を過ぎた一人娘が昨年アメリカへ行ったときに日本で知り合った友人と出会い、意気投合して急に結婚と言うことになり、ハワイでの式と言うことになったらしい。出発前にお祝いもして「元気でね」と送り出したが爺の身体が心配だった。
相手は67歳になる初老の教師だと言っていたが、
10日も過ぎて無事に帰ってきた。何とか帰ってきたが疲れたと言い、「もう二度と行くことはないだろう」と大分疲れているようだった。一人娘を嫁に出すのだから父親としての責任もあったのだろうと思うが、さすがにこたえたらしい。「とても優しい男なんだ」と何度も相手のことを
ほめていたが、私は其の言葉にあまり感動を覚えず、むしろ爺とものからだのことだけが気になっていた。
最近、時代の流れと変化が激しいが、結婚についても此処まで変わったかと思う。最近確かに芸能界などのニュースで、良再婚話で20歳以上の年の差婚の話を聞いていたが、こんなに身近に聞くとは思わなかった。現代では何でも有りではないが、此処まで来たかと言う感じはぬぐえない。私たちの場合を含めて「結婚」と言うものの定義のようなものをきいて、アダムとイブの時代から神からの大きな意義を学んだような気がしていたが、それは「子孫の繁栄」であり、二人が切磋琢磨して築く家庭の意義だったように思うのだが、それらは無視されているのだろうか。
爺の言う優しさや愛情は夫婦としてと言うよりも「親子の関係」におけるものなのではないかと
考えてしまう。
それらは重視されず当人同士が相寄って結ばれることだけでは結婚の意義はどこまで果たされるのかと余計なことまで考えてしまった。
これからも時代の流れとともに様々なことが出てくるのかもしれないが、それらをどのように受け入れていけばいいのかと戸惑う思いだった。

泡粒の行方    第47回

2016-02-17 10:01:34 | Weblog
初めての接待営業であり、売り込みのチャンスでもあった。7~8人の幹部とテーブルに着くと
ジョッキで乾杯を一気飲みするのだ。欽二は自信がなかったのでそろそろと飲み始めると全員が勢いよく飲み干している。まだ半分も飲めなくて躊躇していると「全員乾杯しないと意味がない」と言われ、無我夢中で飲み干した。そして次は「大ジョッキだ」と声がかかった。
そしてそれが運ばれてくるうちに欽二は少し気が遠くなるような感じになっていた。そしてそのまま体の自由が利かなくなり、気を失いかけていた。其の様子を見た幹部は「しょうがないなあ」と言いながら、適当に飲み終わると欽二を両側から腕を支えて連れて帰ることになった。
何しろ全身がマヒ状態で歩けないのだから仕方がない。それでも意識はあり「悪いけど、どこかで休ませてください。少し休めば大丈夫ですから」と言うと、一人が近くの自分の家に連れてゆくと言って、とりあえず休ませてもらうことになった。
そして全員「これからみんなでの見直してくるから此処で寝ていろ」と言われて留守番を頼まれてしまった。そのまま気を失ったように眠ってしまった。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
「まだ寝ているのか。起きろよ」と言われて気がついた。しかし身体はまだ調子が悪い。
「申し訳ないけど、今晩どこかこの片隅でこのまま寝かせてもらえませんか」頼み込む。
「冗談じゃないよ。人の家で勝手にそんなことを言われてもこっちも都合があるんだ。車を呼ぶからさっさと帰れ」と言われ、タクシーに放り込まれてしまった。
運転手も心配そうに「気持ちが悪くなったらいつでも声をかけてください」と言われ、何とか其の夜、何とか家へたどり着くことが出来た。「急性アルコール中毒症状」であり、病院へ行かなくてすんだことは本当に幸運だったと言える。
そして欽二は自分の体がアルコールを受け付けないことをはっきりと自覚することになった。
今後も酒席をはずすわけにはいかないだろうけど、何とかそれをかわす方法を考え泣ければならないということである。

思いつくままに  「地震・雷・火事・親父」

2016-02-14 14:43:59 | Weblog
幼い頃、親から世の中で一番恐ろしいものは地震だと教えられていた。そして上記のことわざを覚えたものである。しかし21世紀のこの時代にあってこの言葉は少し変わったと言わざるを得ない。しかし地震は今でも一番恐ろしいし頻繁に起きることと予知と防御の対策の決め手が出来ていないからだ。今でも月に一度くらいの揺れは感じるし其のゆれの程度も見当もつかない。
突然であり、場所や大きさによっては其の犠牲も大きいことを考えればこれほど怖いものはこの現代でも変わらないと言えよう。そして今後も続くのである。
しかし二番目以降は現代の状況ではこのとおりだとはいえないくらい変わってきた気がする。
雷も季節によっては数も大きさも違うほどにおきているが、其の対策が徹底して其の注意を守っていれば其の被害はまぬかれることになる。(不注意に危険な状況で被害がある。)むしろ嘗てはなかった竜巻のような予測できない天災が危ないくらいだ。
親父にいたっては、全くこの範疇には入ることはないくらい位置が変わってしまった。
むしろ「お袋」と置き換えてもいいくらいだが、昔の怖さはないし、「うざい」だけかもしれない。現代においては世界そのものがグローバルに関連が出来て同じ運命共同体なそんざいになって隣国の中国、韓国はとうぜんであるし、アメリカ、ヨーロッパでも何か異変があっても日本への影響は敏感に反応する時代である。そんな中でイスラム国による「テロ」事件も無関係ではなく、現代の恐怖として考えざるを得ない時代でもある。
しかし本当に怖いのは目には見ないが「各人自信の心のあり方」ではないだろうか。
隣人を愛し自らは謙虚を保ちつつ、生きると言う心がけが大切なのだが、はたしてどうだろうか。目に見えず交わりの薄い時代になってその状態を計るすべもないが、時折起こる事件や問題を聞くたびに昔とは変わり、「心のあり方」が荒んでいるのではないかと心配である。
それは時折耳に入る会話などから自己中心的な言動に反映していないだろうかと心配である。
しかし其の被害は意図しない行動や突然の事件で思わされる気がしている。
まして高齢者が多くなり、其の判断があいまいになり行動が取れなくなったがん大ではこのことこそ「怖い」存在になりつつあるのかもしれない。

泡粒の行方   第46回

2016-02-11 11:54:18 | Weblog
T社の取引を獲得したことで信用と自信が出来て当社の営業も力を得たが、それだけでは終わらなかった。親会社の力を借りなくても自社での営業力でユーザーを獲得することを目指した。
欽二は自信をつけて月産100トン以上の生産をしている中堅のユーザーに目標を定めた。工場は千葉にあり東京からは射程距離でもある。ある日、部下の浅野を連れて出かけた。交渉の相手は工場の資材を担当している管理職である。毎日のように色々な業者がくるのを裁いているベテランでもある。欽二は少し調子に乗っていたかもしれない、既に先発の業者が原料を売り込んでいて(2社購買)後発の当社の出る幕はなかった。しかし欽二はそんなことは無視して「今、当社の原料をお買いにならなければお宅の会社は損をしますよ。」と言い放ったのである。
これは資材課長の逆鱗に触れてしまった。急に黙ったかと思っていたら「もうお話しすることはないのでお帰りください。」と言われてしまったのである。其のときまで相手の顔色が変わりつつあるのも気がつかず、調子に乗って離していたが、さすがに帰れと言われて進退窮まったのである。部下の浅野が何とかその場を取り持って帰らずにすんだが、其のときほど冷や汗をかいた
ことはなかった。しかしそれからあきらめずに売り込み訪問を続けた。資材担当者が機嫌の良いときは遊びの話などで相手をしてくれる。ある時麻雀の誘いを受けた。
定時後に麻雀を工場長を中心に行うのでメンバーに入れてやると言うのである。欽二は喜んで参加することにした。先輩から営業はお客さんから何かで誘われることがある。其のときのために
「酒、歌、ゴルフ、麻雀、囲碁」の心得ぐらいはできるようにしておけと言われていたが、
其のチャンスを生かすことが出来る機会が出来たのだった。これで先日の失敗を取り戻すとともに原料の売込みを図りたいと夢中であった。
其の日は夏の暑い日で工場の幹部による避暑を兼ねた「納涼」が計画されていて、ビヤガーデンへ連れて行かれた。酒だけは自信がなかったがなんとしてもチャンスを逃してはいけないと
乗り込んだのである。

思いつくままに   「人の心と畑」

2016-02-08 16:35:34 | Weblog
私の家の前に小さな庭がある。冬の間は枯葉で覆われ、其の様子は人の気配がなく侘しい。
しかし3月を過ぎると少しづつ青い芽が出るので少し手入れをして花の種や球根を植えて、わずかな花の咲くのを見ながら心の癒しを図るようにしている。
しかし種でも球根でも撒かれる土地の状態で育ち方は違うし、全く芽が出ないでおわることもある。もっといえば其の種がとりについばまれたり、石ころの間にあって芽が出なかったり、茨の中で芽を出そうとしても強い茨に負けてしまうときもある。しかし少し手入れに時間を掛け、
よく耕し肥やしや除虫剤などを入れて種をまけば花は確実に育って、より美しく大きな花を咲かせ見る人に喜びを与えてくれるのである。
そこまで考えているうちに私はふと自分自身の心を想像していた。自分の心の土地は今いったいどんな状態にあるのだろうか。気ままに好きなことを考え好きなことをしていることで、良い土壌になっているのだろうか、「自分の心」を畑と考えればどんなていれをしているのだろうか。
日々起きる障害(虫)や困難(茨)に、負けていないだろうか。
其のことを忘れていると良い種(子供)でも球根(家族)であっても、其の成長は望めないかもしれない。自らの心を常に努力しながら手入れをして栄養と肥やしを加えながら良い状態を保つことに注意をしなければならない。
これでよいのだと人のことを思わず、何も気にとめず傲慢になっているとすればいつの間にか
其の心の畑はいたんでしまうことになる。
人の心も手入れを怠ると水気もなく硬くなりカチカチに鍬も入らない状態になっているのだ。
それで自分に良いことだけを望んでいても、結果は出ないことになる。
まだ冬の寒さはもうしばらく続くことだろう。しかしこんなときだからこそ、自らの心を省みて
出来ることの手入れをしておきたいものである。

思いつくままに   「人の心の奥にあるもの」

2016-02-05 10:51:17 | Weblog
静かなお正月を過ごし暖冬の雰囲気で過ごしていたのがが、周辺が騒がしくなってきた。北朝鮮の動きも目が離せないようだし、政治の世界でもまだ国会の開かれている最中に著名な政治家の金銭問題が突然発覚して大任を果たせなくなり、スポーツ界でも名球会のメンバーでもある人が覚せい剤の容疑で逮捕されると言う事件が起こった。
想像もできない事件である。人々の注目を浴びて尊敬こそされても、其の品格を貶めるようなことがあるとは思えない人たちである。しかしこのことを通じて私たちもまたマナ花けれ場ならないことがあると思う。このことが其の人たちだけの事で私たちには関係ないことと思ってはいないだろうか。とんでもない事である。私たちもまた大きな意味では同罪といっても良いのである。私自身も今日までの人生を振り返ってみるとき、同じようなことをしていないだろうか。それは新聞や公の記事にならないまでも似たような悪いこと、人前でいえないこと、汚いこと、恥ずかしいことなどこの世の罪に類することをして来なかっただろうかといわれれば、「していません」とはいえないのである。誰も見ていないから誰も聞いていなっ買ったから、誰にも迷惑をかけなかったからなどとして済ませていなかっただろうか。
しかし人間のそういう目ではなく、神のめからすればそれは全て同じであ理、全て走られているのである。人間は生きている限りこの世にあってこの罪の世界から逃げられないのである。
だとすればどうするか、
この罪の世界から逃げられないことをそれぞれがどこまで自意識の中に取り入れて、あるいは悔い改める気持ちを持ち合わせているかと言うことだけである。
其の心を生かしそれをどれだけ自分として生かしていくことが出来るかでしか生きていけないのである。
この二人の人も悪いことは分かっていたことと思われる。しかし其のときの状況の中で許されると言う意識で犯してしまった罪であろう。
私はこの事件を通じて改めて自分自身を戒めて、日々の生活において少しでも神の前に恥ずかしくない生活でありたいと願う思いを持ったのである。

泡粒の行方   第45回

2016-02-02 07:26:33 | Weblog
親会社のスタッフと組んで仕事が出来ることに力を得ることが出来た。課長を中心に綿密な計画と仕事の割り振りが出来ていく。今まで一人で仕事を進めることになんとなく自信と勇気が必要であったが今回はチームとしての仕事だ。
欽二はこのことで新しい世界への一歩を踏み入れていたのだ。このT者の新工場建設に伴う証券をとるかとられるかはこの事業を進める上で大きな信用が得られるか、負け犬になるかの瀬戸際である。T社の3名の視察ミッションは始まった。広島の同業メーカーは先発であり、開発チームも充実していて立派な工場もある。そして当社はまだこの事業が始まって数年し語っていないことと経験者も技術者も未熟である。それは歴然としていた。しかしそのままありのままに見てもらうこととした。自慢は親会社の資金で出来た新しい工場だけであった。
視察が終わり原料の購入のメーカーが決まるときが来た。思いがけず当社への指名であった。
このことが業界に知られて知名度と信用が増した。会社としても仕事が一段と増えてやりやすくなった。それにしても何故当社が指名されたのか、後日分かったことだが、確かに技術と経験は他社に劣ることははっきりしていた。ただ其の新鮮な何もよく分からない素人さが、T社としては自分の希望をそのまま受け入れることと繋がると見て不足の技術はT社が補いやすいと感じたところであったらしい。それにも増して親会社のバックの信用も大きく、当社を支える力を感じて安心したらしい。
この仕事で同業市場での信用はつき、それからの仕事は順調に進んだ。それほど大きな市場では二ので程なく前者の口座を持ちにほんの主な会社との取引が出来るようになった。
当社だけならそれで満足であり、採算もとれて十分であったが、親会社はそれで満足していなかった。
当時日本のメーカーは景気の高騰と人件費の負担で採算が悪くなり、かねて景気の上昇を見越して買い進出を考え始めていた。