波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

オヨナさんと私    第62回

2010-01-29 09:52:13 | Weblog
世界には色々な料理がある。いまでは日本でも有名は世界料理が食べられるようになり、各々の好みに応じて楽しむ事が出来るのだが、その中にイギリス料理は入っていない。あまり美味しくないことをイギリス人も認めていて、イギリス料理を出す店は聞いた事がない。このことは世界でも知られていることだと言うことだが、果たしてどうなのだろう。
そこで、こんな話がある。「どうしても美味しいイギリス料理が食べたいなら、三食朝食を食べなさい」と言うのである。S・モームの言葉らしいが、確かにアメリカンスタイルやコンチネンタルなどと比べるとソーセージやベーコン、それに暖めたタマゴ料理がついていて
充実しているらしい。オヨナさんは朝食を食べながらそんなことを考えていた。
そして、やっぱり故郷の台湾で食べる「おかゆ」を思い浮かべていた。湯気の立つ暖かい真っ白いお粥、口に入れると少し塩味がして、かまなくてもすっとのどを通して入っていく。
傍に少しづつ小さい皿に載せた菜品とタマゴスープ、この定番がたまらない。
食事の後、お茶を飲みながら海を眺め、ぼんやりとしていた。
「人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いに過ぎません。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。中略 生涯を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得る事が出来るように…」何時か読んだ本の一説がよぎった。そして「孤独の中におかれていてもそれは苦ではない。むしろ良いものだと認めざるを得ない。けれども孤独はいいものだよねと話し合える相手を持つことが出来れば、それはまた喜びにつながることになる。」と言う言葉が浮かんでいた。
不図一人の女性が浮かんだ。もし、孤独を話し合えるとしたら彼女しか居ない。何時しか消えてしまっていた人だが、もし会うことが出来たら話してみたい。
「彼女、どうしているかな。幸せにしているのだろうか。」真っ黒な大きな目、長いまつげが美しかった。そして時々二人で飲んだコーヒー、何時もブルマンしか飲まなかったけど、その時間は楽しく、短く感じたものだった。他愛の無い会話、言い出せない本音、そして
何時しか来た別れ、今は「去るものは日々に疎し」と言われるように消えていたのである。
「パンドラの箱」のようなものだな、開けないほうが良いようだ」。オヨナさんは一人ごちていた。

          思いつくまま    

2010-01-27 07:25:16 | Weblog
ある日、一本の電話を受けた。突然胸の辺りに強い痛みを感じた。嘗て心臓手術の既往症があるので、慌ててその病院へ行き症状を訴えて診察を受けたが異常は無かったという。
ホッとして帰宅して過ごしていたところ、再び、背中に痛みが出て、赤い発疹を見た。そこで皮膚科の診察を仰ぐことになる。結果は「帯状疱疹」とも「ヘルペス」とも言われるものであった。ご存知の方も多いと思うが、激しい痛みを伴うのが特徴である。そしてその痛みの出る場所も所構わずで、背中、胸とは限らないのである。ある知人に聞いたら、自分の場合は目の付近に出て大変不自由な生活を強いられたと言っていた。
問題は何故、このようなことがある日突然発症するのか、予知,予防の方法は無いのかということである。他人事ではなく、自分のこととして考えなければならないからである。
水痘、帯状疱疹ウイルスと言われるウイルスが体内に内在していて体が健康であれば免疫の力で大人しくしているけれど、ストレスが重なったり、睡眠不足、過労、老化のバランスが崩れて免疫力が落ちた時、そのウイルスが活性化し、ある日突然発症するとあった。
日々の生活のなかで、人は何気なく過ごしている。しかしその中にあって、夫々健康のことであったり、単純に金銭的なことであったり、明日のことであったり様々なことを考えているのだろう。目に見えない心の中にどれだけ気を配ることが出来ているだろう。
その時、その時の気分であったり、感じたままで自分中心の行動に終始してしまう。
心の中の出来事をどこまで考えられる事が出来るだろう。そんなことに思いをはせてみた。
そんなことを思いつつ、軽く扱って何時の間にか忘れているのだが、「心の管制塔」の操縦をしているのは自分である。そしてそのことが自分の肉体を傷つけることににもつながりかねないのである。大切なことを見失って悲しみ、見つけ出しては喜ぶ尊いものを信じ、覚えたいと思うのだ。見る事が出来ることよりも見えない出来事に大きな真実を見つけることを考えて生きたい。
寒さが続いているが、少し早い梅の様子を見に出かけてみた。見事な「蝋梅」が薄黄色の花を満開に咲かせていた。紅梅のつぼみが大きくふくらみを見せ、春の近いことを知らせていてそのあたり一面に強い梅の香りが漂っている。梅の芳醇な香りは花の咲く前に発することを改めて知るところとなり、梅の本当の良さを知ることが出来た。
水仙も既に花をつけている。春は目の前に来ている。

             オヨナさんと私  第61回

2010-01-25 07:52:07 | Weblog
「結婚して何年になる。」「もう10年かな」「子供さんは」「三人、男ばかり」
「じゃあ、5人家族か。」「いや、家内の両親も同居なので7人だよ。」
「そりゃあ、賑やかだね。仲良くやっているかい。」「おかげさまでね。ただ最近6歳の上の子の行動が気になっているんだ。」「どうしたの。」「大したことじゃないかも知らないけど、見ていると落ち着きが無いんだ。下の子に嫌がらせをしたり、いたずらしたり、食事中もじっとしていなくて、歩き回ったり、保育園へ行っても女の子にやってるらしいんだ。」「母ちゃんが少し厳しすぎるのか。性格なのか。このまま何もしなくて、放っておいて良いのかと思ってね。」突然の子供の話で真剣になっている友達の言葉にオヨナさんも戸惑っていた。「私も子供を扱っていて、子供を見ているけど親が心配して言ってくる80㌫位は問題にしなくて良いことを問題にしていることが多いよ。」
始めて子供を持って育てた経験を持たない親も経験不足というか、初体験でもある。従って誰からも教えてもらったわけではない。(同居生活者が少ないし、最近の親は若い親に押し付けたりしないから)
「来年、学校へ上がることへの不安とかを感じているのかもしれないけど、本人が何時か学んで覚えていくことだし、それよりも躾をして萎縮させないほうが良いと思うね。逆に親のほうが社会適応に不安を持っているから子供にそのことが出てしまうことも多いんだよ。
人間は恐怖からはエネルギーは出ない。だから親の顔色を見るようになる。のびのびさせてやろうよ」子供のことになると真剣になっている父親の姿を見ながら、微笑ましく又羨ましくも思った。「これからどこへ行くんだ。泊まっていかないか。」時間を忘れたように話していたが、もう夕方になっていた。「ここまで来たから、焼津まで足を伸ばしてみようと思っているんだ。」そして、ヨナさんは焼津で美味しい夕食にありついていた。さすがに海の幸が豊富である。考えてみると今日も一日がかけがいのない一日だった。
他人から見れば何もしていなくて、何の変化のない日に見えていたと思うけど、オヨナさんにとっては、見たもの、聞いたこと、話したこと、すべてが心の中に得たものが多かった事を噛みしめていた。一日は尊い。そしてその日はその日だけの時間であり、二度と帰ってこない。そしてその時にこそ得られる大切なものがある。それは感謝でしかなかった。

            オヨナさんと私   第60回      

2010-01-22 10:01:53 | Weblog
毎日は確実に同じように過ぎていく。特別に日々変化が生まれ周りの様子が変わるわけではない。ぼんやりしていると昨日が今日、今日が明日かなと思われ、その日の記憶が薄れることになる。この日オヨナさんは一人の友人を訪ねようと、小さな駅をおりて、バスに乗った。車内にはお客は自分ひとりであったが、バスは程なく坂道を登り始めた。そして少し行くと視界が拡がり、目の前に急に茶畑が見えてきた。その茶畑の中心になるようなところに停留所が見えたので降りることにした。停留所には「牧の原台地」と書かれていた。
周りが一面の茶畑になっていて、小さな店があったので、休憩することにした。
聞くと、ここは標高40~200mの台地が続いていて、石ころも多く、肥沃な土地ではない。しかし土は弱酸性で気候が温暖であることから、明治時代から開拓され、冬になっても霜が降りることの少ないこともあり、お茶畑として適していたようである。
「風車のようなものが一杯見えるんですけど」「あれはおそ霜が下りそうになると、風でそれを飛ばし、防止するんですよ。霜が葉をいためる一番の注意なので」そんな話を聞きながら、お茶を飲む。心なしか、何時も飲んでいるお茶と違ってとても香りが良く、美味しく感じる。「この先にお茶の製造工場があるので、ちょっと見て行ったら」と進められて、行って見ることにする。近くまで行くと濃いお茶の香りと色々な種類の肥料の入り混じった、なんともいえない空気が漂い、胸が詰まるような思いで立ちすくんでしまったが、台地から一面に見える茶畑と島田市の町並みが見ごたえがあり、すっかりその雰囲気に飲まれていた。
「私の居るところから考えると、ここは別世界のようだよ。」学生時代から何十年ぶりの再会した友人だったが、其処には違和感は無かった。メールや電話で大体の様子は分っていたが、こうして話していると現実として感じてくる。彼は結婚して、家庭を持っていた。
「君はまだ一人かい。」「うん、どうも縁遠くてね。」そんなやり取りの中で、会話が途切れても、気持ちは通い合いその時間は平安だった。
「君はウーロン茶のほうが良いんだろう」台湾育ちのことを知っていて、聞いてくる。
「ここへ来て本場のお茶を飲むと、日本茶もまた格別だね。味は違うけど、何となく気持ちが落ち着くよ」それぞれの良さがある事をこうして確実にしながら味わうことが出来ることに幸せを感じていた。

            思いつくまま

2010-01-20 13:23:47 | Weblog
ある時、韓国の金甫空港から台北空港への飛行機に乗った。飛び立つと直ぐ急上昇して機首は上を向いていた。すると機内の乗客の一人に突然気分の悪くなったひとが出て、スチュウワーデスヘ助けを求めた。気圧の急激な変化のためだったらしい。直ぐトイレに連れて行かれ暫くして出てきたが、回復している様子ではなかった。機は予定通り中正国際空港へ到着したが、既に救急連絡が取られていたと見えて、空港には医療チームが待機していて、最優先で運ばれ、サイレンを鳴らしながら、病院へ搬送されていった。この出来事を通して考えさせられたのだが、機内にこのような病人が発生した場合、機内(または車内)で放送し、
医療資格を持っている人の申し出を募り、応急の手当てをされると聞いている。
その場合、必ずしもその時の病状に適した医師が見つかるとは限らない。(当然ながら)
その時乗り合わせた人が、何らかの医師資格を持っていてその緊急治療に当るのであるが、
日本と、アメリカ、カナダなどとは事情が違うということを聞いたのである。つまり、アメリカ、カナダでは「良きサマリヤ人法」が適用されるのである。これは緊急事態になされた救急処置については救助者の責任を問わないというものであるが、日本ではこれが明確になっていない。したがって、ケースによって救助者の責任を問われることがあるということである。従って協力要請を要請されても申し出を躊躇するケースが出てくるのだ。日本の場合、89㌫の人が医療過誤責任問題を考え、ドクターコールに応じた医師も4人に一人は次は応じたくないと答えているのである。つまり業務上過失致死の責任を問われることもあるとする司法、医療報道の影響を含んでいることである。
「良きサマリヤ人法」の出所は聖書であって、ある旅人(ユダヤ人)が旅の途中に強盗にあってけがをさせられて、身ぐるみはがされて放置されていた。そこへ同じユダヤ人の祭司と呼ばれる人が通りかかったが、道の反対を知らない振りをして通り過ぎていった。次に又同じような人が通ったが、見てみぬ振りで行ってしまった。そして、その後、普段は口も聞かないほど憎みあっているサマリヤ人が来た。彼は直ぐ馬を下りて怪我の手当てをして、宿まで連れて行き、金を渡し医師の手当てを頼み、宿代を払った。そして自分は旅を続けるが、不足分は帰りに必ず、立ち寄り支払いをするから病人をよろしく頼むといって立ち去ったという。この話に基づいて出来たとされている。私たちもこの事を他人事としてではなく、考えてみたいと思う。

              オヨナさんと私   第59回

2010-01-18 13:05:48 | Weblog
東京の奥座敷と言われ一世を風靡した熱海の凋落は淋しいし、以前の繁栄は望めないのだろうか。考えてみても湯量も昔のままで絶えた訳ではない。源泉の発生場所も200箇所以上と多く豊富である。この自然の恵みを再度生かして多くの人に喜びと憩いを提供してもらいたい。最近では一年間で定期的に打ち上げている花火大会が有名であり、集客に寄与しているし、芸者さんも頑張っていると伝えられている。オヨナさんの頭にあるイメージが浮かんでいた。それは人材エネルギーだ。やはりすべての創造力に大事なのは若い人的資源にありそうだ。しかし、この高齢者社会にどうするか。ここに問題がありそうだ。温泉ブームが終わったわけではないから、できることを足元から取り掛かってもらいたいものだ。
小さい宿の小さな湯船に身体を沈め暖まっていると声がかかった。「デザートの用意が出来ました。風呂上りにどうぞ」この宿の跡継ぎと聞いていた孫娘さんの声である。中学生の初々しさが美しい。オヨナさんは思わず魅入られたように「良かったら一枚描かして貰えませんか」と言うと、恥ずかしそうな表情を見せながらも「このままで良いんですか。」とにっこり笑う。「勿論そのままで良いよ」風呂上りで、少しのぼせ気味の身体を冷ましながら
気持ちが良かった。何という美しさだろう。人間は悪い心を持たず、人を疑わず、その人を信じる時その人はその美しさを保つことが出来る。しかし、この世の生活の中を生きていくうちに様々なことを経験し、変わっていく事になる。いろいろな人に交わり、関わりを持つ中で、その人の心は影響を受ける。そしてその経過の中でその良さが害され美しさを損なっていくこともある。その美しさを失い、罪の中に埋没していくこともある。そんな弱さを持っているのが人間でもある。出来ればその大切なものを大事に成長してもらいたいものだと願わずにはいられなかった。描いていくうちにオヨナさんはこの美しさを大人になっても、ずっと持ち続けていたいと祈りを込めている自分に気づいていた。
「明日はお帰りですか。」「うん、でも旅は続けるつもりだけど」「どこへ行くんですか。」「西へむかって、特別当てはないんだけど」「羨ましいわ、行きたいところへ行けるなんて」夜は静かに更けていった。

           オヨナさんと私    第58回     

2010-01-15 11:19:16 | Weblog
美術館(エムオーエー)を出てぶらぶら坂を下りて行くと海岸へ出る。景色が一変し、目の前一面に海が広がり、爽やかな風が頬に気持ちが良い。昔は人通りも多く、賑やかであったろう温泉街も人影もまばらで昔の面影も無い。すると目の前に唐突に、場違いな大きな松ノ木が見えてきた。そばに寄って見てみると句碑とお宮の松の看板があった。
尾崎紅葉の作になる「金色夜叉」の主人公である貫一、お宮のクライマックスになった場所のようだ。とすれば現在もうもうとほこりっぽい道をダンプカーが走っているこの道は、当時三保の松原のような美しい海岸線で男女の出逢いやデイトスポットとして人気の場所であったのだろう。其処に作られている像は芸者姿のお宮とそのお宮に足蹴にしようとしている貫一の学生姿があるのだが、果たしてそんな事を考えてこの場所に立ち寄る人がまだ居るのだろうか。「明治は遠くなりにけり」を見た思いであった。
そこに4歳ぐらいの子供をつれた、まだ孫とするには少し若い婦人が居た。守りなのか、散歩なのか、あちこち動き回る子供を追いかけている。オヨナさんも片隅に腰掛けて休憩をとることにした。その内、おやつと飲み物を持った子供は婦人のひざで居眠りをし始めた。
「この子の親が仕事で働いている間、私が子守をしています。」「そうなんですか。大変ですね。ここへは始めて来ましたが、お宮の松もお客さんを呼べなくなったようですね。」
「そうですね。もう興味がある人もなくなったようで、立ち寄る人も殆どなくなりましたし、分る人もいないんじゃないでしょうか。」スケッチブックを取り出したが、描く意欲も無く居ると「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど」と話しかけてきた。
婦人の娘は二年ぐらい前に離婚したらしい。経済的な困窮が原因らしい。お互いに納得して協議離婚だった。養育費をいくらか貰うことになっていて、最初の頃は毎月送ってきていたが、そのうち自分の生活が苦しくなってきたのか、送ってこなくなり、話も途絶えてきた。
孫のために少しでもお金が欲しいのだが、何とか方法は無いものでしょうか。と言う相談だった。弁護士のところへ行って相談しなさいと言えば簡単に済むことであったが、それでは
木で鼻をくくった返事になってしまうと、思い直した。「父親であることに変わりは無いのですから、養育費の義務はあります。だから苦しい中からでも少しづつ貰うことは出来ますよ。手続きは近くの家庭裁判所へ行けば教えてくれますよ。」と説明した。
子供が目を覚ました。お礼を言いながら帰る婦人を見送りながら、少し淋しく感じる熱海の町とが重なって見えた。

思いつくままに

2010-01-13 09:44:43 | Weblog
年が改まって最初に聞く花の便りは梅の花だと思うが、昨日「蝋梅」が咲いたと出ていた。この花は梅に似ているが、梅ではない。蝋細工のような梅に似ているのでつけられた名前らしいが中国から伝わったとされている。香りもよく、色は黄色であるのも独特である。どこでも見られるほどではないが、公園などへ行くと見れるので訪ねてみたい。2月になれば白梅、紅梅、水仙と続き淋しかった、何もなかった庭に春の訪れが告げられることになる。待ち遠しい思いだ。
さて、今年の正月は喪中と言うこともあり、家族全員(10人)が揃うことも無く少し淋しい正月を過ごしていたのだが、休み明け頃から、あちこちから連絡が入り、ここ数年に無かった知人、友人、先輩との出会いが重なり思いがけない楽しい時間を過ごすことが出来た。一人は20年ぶりの人でアメリカと日本に家を持ち、一年を二箇所で過ごしているのだが、健康を害し、二年前に腎臓の手術をされたとの事、今年はメール友達として、アメリカから写真やニュースを送ってくれると言う楽しい約束が出来て喜びも一入である。
もう一人の先輩は肺がんの治療中である。お互いが近況を語り合う中で各々の健康に関する考え方、人生観等と話は尽きる事がない。その言葉の一つ一つに事実を通じてそれを越えた真実が見えてくる。そしてその言葉に感銘を受けることが出来た時間でもあった。年に数回あっている友人とは食事をしながらの話であったが
突然、一人の女性の話題が飛び出した。お互い高齢者の仲間入りをする年齢で女性の話が出るとは思わなかったが、「君に紹介されて飲みに行っていた、あの店の彼女だよ。」という。一瞬、思い出すのに時間がかかったが、サラリーマン時代に交際用に使用していた店のホステスさんであることが分った。「確か、Oさんっていったけ」「そう、そう彼女から案内状が来て行ってきたよ。彼女、小さい店を開いて一人ではじめたらしい。」「そうか、じゃあ、元気で居るんだ。」あまり印象に残らなかった美人ではなかった彼女だが、下町育ちの気風のよさで客持ちが良かったのが記憶にある。当時を思い出して、懐かしく又微笑ましい。会ってみたい気持ちも無いわけではないが、「パンドラの箱」を開けるような気もあり、そのままそっとしておくのが良いのかとも思う。何れにしても、こうして人生を振り返りながら人と人との交わりを続けることの出来る喜びと改めて人間関係の不思議さを考えさせられた一週間でもあった。

             オヨナさんと私    第57回

2010-01-10 21:43:28 | Weblog
今、自分はどこに来ているのだろう。目の前には純金で出来た茶室が広がっている。まばゆいばかりの光の中に立たされて何も考えられない自分を感じている。これは確か豊臣秀吉が京都御所に組み立て式の黄金の座敷を運び込んで、自ら茶を点じて時の天皇に献じたと言う話を聞いていたが、そんなことが本当にあったのか、呆然とその黄金の茶室の前に立たされたままでタイムカプセルに入っていた。
秀吉はここで天皇に茶を立てながら何を考え、何を思ったのであろうか。自分がその場に居たら、何が出来たであろうか。ただひたすらにその畏敬に恐れおののくばかりだったのだろうか。人間はぜいをつくし、すべてが自分の望みどおりに出来るようになると、自分の夢を果たそうとしてこのようなものを作り、満足するのだろうか。その想像を絶する行動を思い秀吉という人間を通じてその業の深さ、欲望の大きさを思わずにはいられない。かくしてこの黄金の茶室は何を誇示し、何を満足させえたのだろうか。それともただ人々を驚かせ、その権威を示すことで満足して
いたのだろうか。歴史は数千年の昔から様々な事実で、私たちに教えていることが多いのだが、中でもファラオと称せられる王が自分の地位を脅かす存在を極度に恐れそのような噂が出ると即座に自分の権勢を持って、その根拠となる小さな生命を根絶し根絶やしにするという事実を見るとき、真に人間の浅ましさを見る思いになるが、彼は黄金の茶室をもって心の安定を持ちえたのか、それとも権力に自信を持つことが出来たのか、いずれにしても人間の罪の深さを考えさせられたのである。
我に返って周囲を見渡す。ここは熱海駅を下車して車で10分ぐらいのところにある「モア美術館」の一室である。オヨナさんは案内所で教えられたこの美術館のことは知らなかったが、早速立ち寄ったのだが、そのスケールの大きさに普段見る事が出来ないものばかりの中で、ただただ驚くばかりだった。館内は物音一つせず、静かな雰囲気の中で楽しむ事が出来る。少ない観客の靴音だけが響いている。
もう一つは八世紀時代の絵画で中国ウイグル自治区で発見されたと言われる
「樹下美人図」と題するものでその色彩、描線の見事さは見るものをあっとうするものがあった。思わぬ収穫ですっかり満足したオヨナさんは其処を後にした。

            オヨナさんと私   第56回  

2010-01-08 10:14:47 | Weblog
その女の子の優しい気持ちが分り、オヨナさんはホッとした。そうだったのか。この子は自分の書いた交換日記を母に読まれて、素直に話が出来なくなってしまったけど、本当は前のように話が出来るようになりたかったんだ。だけど、どうして良いか分らなくなって、そんな気持ちで話しかけてきたんだ。「何も心配することはないよ。君は今までどおりにしていればいいんだ。書くことも止めることも無いんだ。ただ、書く内容を少し変えてみようよ。例えばその友達に書くとして今日の洋服とても可愛いよとか、いつものコンビニに新しいスナックが入ったよ。とても美味しいから食べてみたらとか、知っていることを教えてあげたり、よい所を見つけてほめてあげるとか、……お母さんのことは何も気にしなくても、その内いつもどおりに話が出来るようになるよ。」「そうかなあ。心配なんだけど大丈夫かな」「君は書くことがすきなんだから、今度どこかへ行くことがあったらそのことを詳しく書くといいね。うまく書こうと思わないで思ったとおり書けばいいんだ。」
スケッチに描かれた伊豆の海は二人の姿を夕陽が暖かく包みこんでいた。オヨナさんは満足そうに立ち上がり、民宿に向かった。夕食の「金目鯛」の煮つけが今日の楽しみだった。
それにつけても自分が小さい時、親とどんな会話をしていただろうか。不図、遠い昔を思い出していた。オヨナさんの育った頃は戦後ではあったが、今のような時代ではなかった。学校の教育も親の指導も違っていた。だから親や先生は「恐い」と言うイメージだった。だから生活の中に一つの規律のようなものがあったそれが大人になっても残っていて、言葉にも行動にも反映してくる。何が良くて、何が悪いことか、自分はどうしなければいけないか、そんなことが無意識に身についていたような気がする。しかし、今日のこどものように、今の子供たちはどうなのだろう。確かに親や、先生に畏敬の念はもっているだろう。
だけど、大事な問題に直面した時に、どのように対処できるだろうか。今日の場合のように、どうしたらよいのか分らないようにならないか。親のほうも、注意しなければと思いつつ、煩わしさを避けるように言わないまま様子を見ることになってしまう。それは問題の解決にはなっていない。そして場合によっては子供が横道にそれることになることも出てくるかもしれない。
温泉の暖かさは布団の中に何時までも残り、何時の間にか眠りの中に包まれていた。