波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

波紋      第44回

2008-11-28 09:50:17 | Weblog
松山の人間関係は個人的には少ない。家族と、僅かな友人関係で、主にはは仕事関係での人たちである。その中に名越氏がいた。彼とは最初同業関係で、いわばライバルの関係でもあったが、いつしか個人的に親しくなり、付き合うようになっていた。家に行ったりきたり、同じ千葉に住んでいることもあって、そんなに不便でもなかった。松山に娘が二人、名越には息子、娘の一人づつである。
名越はその会社の社長と意見の衝突があり、突然その会社を止めて、転職したのだが、それは誠に唐突で、驚かされたのだが、その後あちこちの会社を点々とするところとなった。転職のたびに電話で連絡があり、「松山君、今度は○○会社にお世話になっているんだ。ついでの時に遊びに来てくれよ。」そして、又、「松山君、今度の会社で手続き上、保証人が必要だと言われてね。君すまないけど、名前だけでも貸しておいてくれよ。」と言ってくる。その度に、「今度は、其処なの。」とびっくりするのだが、当人は全然、気にしている様子は無かった。そして、十社近い転職の繰り返しの頃、「松山さんですか。実は名越君が会社へ出てこないので、探しているのですが、見つからないのです。保証人の名前で、あなたの事が出ているので、ご存じないかとご連絡したのですが、」と言う電話を受けた。
松山はそういえば、最近名越から連絡無いなあと思っていたが、まさか、行方不明になっているとは思っていなかった。「あいつ、又、トンずらしたか。しょうがないやつだ。」と心中思いながら、「申し訳ありません。私の所にもまだ何も連絡が無いので、分りましたらすぐお知らせします。」と電話を切った。
何日かが過ぎた。「松山君、今、横浜にいるんだ。自分の会社として仕事を始めたんで、良かったら遊びに来てくれよ。」例によって、なんの悪びれさも無く、いつもの明るい調子である。「名越君、この間、○○会社の総務から電話があって、
君を探していたぞ、連絡だけはちゃんとして置けよ。」「分った、分った、ちゃんとしておくから安心しろよ。それより、顔を出してくれよ。待っているから。」
怒りたくても、怒れない、これが友達かと思いつつ、今度は何を始めたのだろうと、彼のバイタリテイを感心していた。
彼の始めた工場は横浜から地下鉄で30分ほどのところにあった。駅まで迎えに来てくれ「しばらくだなあ。元気だったかい。」再会を喜んだ。
ちっぽけな一棟長屋の工場だが、家族で、働いていた。「ここのオーナーがね。がんで入院しているんだが、私とは長い付き合いで、同じような仕事をしていた関係もあって、後を頼むよと言われて、始めることにしたんだ。」

思いつくまま

2008-11-26 10:25:50 | Weblog
ある日、私は始めて会う37歳の青年と隣り合わせに話をする機会があった。
場所は、ある教会の礼拝後の集会室でのことである。
「ホームページでこの教会を知り、来ました。」「でも、何かきっかけがあったのでしょう」「今朝、妻と言い争いになり別れてもいいぞ、と言ってしまいました。
妻は、あなた、それでもいいの。教会へでも行ってらっしゃいと言われたので、
来て見ました」とのことだ。話を聞いていると、7年前に結婚して一歳になる子供もいる。その子供をベビーシッターに預けながら、共稼ぎをしていて、その日は妻は仕事で出かけているとの事。自分はコンピューター関係の仕事をしていると言う。私は彼の話を聞きながら、今更ながら、現代の世相の実態を目の当たりに見る思いで聞いていたのだが、今の若い夫婦の家庭のあり方、家族に対する思いなどが
自分達の若い時と違ってきていることに気づいたのである。
こんなにも簡単に割り切って、飛躍した結論へ話が出来ることが、想像出来なかったのである。どうしてこんなに、前後の事を無視できるのか、日々、何も考えず、
仕事でコンピューターに向かい、人との会話の無い世界にいることも影響しているかもしれないし、家でも自分の欲求以外には家庭の団欒を主とした会話の努力をすることがなく、過ごしていると、いつの間にか、それが習慣になり、当たり前になり、不満が溜まると、それが爆発して、思わぬ方向へ本当の意思とは違うほうへ向かってしまうのではないか。そんな気がして聞いていたのだ。
私は余計なことと思いつつ、つい口を出さないわけには行かなかった。「どうでしょう。これから帰ったら、奥さんの話を聞いて、自分の意に沿わないことでも、黙って聞いてみるってことをしてみませんか、そしていうことをしてあげてみませんか。勿論全部でなくてもいいんです。そのいくつかでも、やってあげてください。そして、奥さんがそのことに対して、あなたにどう反応するか、見てください。
勿論、あなたには我慢してもらわないといけませんが。」若い幼子を持ち、これから家庭を築いていこうとしている夫婦が、何とか、この危機を脱出してもらいたい、その思いだけであった。「ありがとうございました。やってみます。」
別れ際に、そういって去って行った青年を私は祈る思いで、見送ったのでした。

波紋     第43回

2008-11-24 10:42:06 | Weblog
松山のサラリーマン生活も新しい会社で定着し、落ち着いてきた。自分の出世は
あまり望めなかったが、あまり気にならなかった。所長の小林は取締役になり、役員として仕事も煩雑になり、大変のようである。
業界では、毎月会議が開かれており、松山は担当者として出ていたが、この会は
同業者の集まりで表向きはきれいでも、本音のところはかなり微妙な所があり、それぞれが、相手の発言を警戒し、本音のところは見えず、探りあいになっていた。
しかし、公けに機関への書類提出の義務もあり、業界としての責任を果たすためにはやはり、全体意見としてまとめる必要があった。期間ごとの実績、前年度対比、
そして今後の見通しなどはお互いに報告義務があり、その集大成作業が行われる。松山は、この会議は息抜きとして進んで出席していた。
仲間が集まり、上の顔色を気にしないで発言できる場である。(会社を代表しての立場であるが、)市場での縄張り争いのような小競り合いも無いこともないが、穏やかな話し合いである。「C社のT氏が、最近見えないけど、どうしてるの。」T氏は天下りでC社へ役員として招聘された人で、大物だった。会社が銀座に近いということもあった、仕事帰りには近くの飲み屋で食事をした後、クラブを何軒かはしごをするのが習慣だと聞いていた。松山も何回かお供をしたことがあり、そのきらめくような高級クラブへ連れて行かれたときの興奮は忘れられない。
彼は其処に行くと、高い酒を飲み落ち着くのかと思うと、すぐ別のクラブへ移動するのだ。松山は後を追いながら、この人は何が目的なのかといつも考えていたが、その彼が、会議に出てこなくなった。「実はね。ちょっとしたトラブルがあって、静養中なんだよ。」代理できていたその会社の若い課長が言った。「どうしたんですか。」「車で事故ちゃってね。当分来れないと思うよ。」「そうだったんですか。気をつけなくちゃね。」聞いていると、その場にいる一人一人が、みんな生活を背負い、責任を背負い、戦っているわけで、楽ではないのだ。
親しくしていた会社の課長は、家庭がありながら、会社の女性と男女の関係になり、それが明らかになり、本社から左遷されて、工場勤務になった人もいる。表面は何も変わらない様に見えながら、人間関係が静かに動いているのである。
それは、誰にも気づかれないで水面下で変わっていたのである。
松山はそんな話を「そんなことが実際あるのか、」と半分信じられない思いで聞き、まだ実感として感じることは出来なかった。

波紋      第42回

2008-11-21 10:15:35 | Weblog
台湾には、何回か行っていたが、それ以外は経験が無い。まさかと思っていた海外出張が実現することになり、やはり興奮は隠せなかった。小林は社長のお供で経験はあるらしい。その所為か、落ち着いている。
今回はシンガポールとマレーシアになった。目的は工場見学とマレーシアにある取引先のO社の訪問であった。パスポートやビザの準備をして、その日が来るのが待ち遠しい思いで待った。二人の娘もその話を聞いて、大騒ぎ、加代子までが一緒になって、家に帰るとその話で盛り上がった。「ねえー、お父さん、シンガポールって暑いんでしょ。何度くらいあるの。」「よく分らないけど、赤道に近いところだからね。熱いと思うよ。」「そうね、食べ物はどんなものを食べているのかな。」子供たちの素朴な好奇心は何時までも続いていた。
そして、その日が来た。チャンギー空港までは7時間と聞いていたので、機中でのんびり出来ると思い、隣りを見ると、小林は早くも書類を出して難しい顔をして点検している。どうやら現地での営業説明の内容を見直しているらしい。
松山はサービスで提供されるアルコールを滅多に飲めない珍しいもので、ちびりちびりと楽しんでいるうちに、何時しか眠り込んでいた。
チャンギー空港は見事なほどに、熱帯植物(オーキッドの花)に囲まれた美しい空港であった。スチュアーデスの女性も見事であったが、それにマッチした素晴らしいもので、いっぺんに目が覚めた思いであった。
工場までは、車で30分のところであり、外へ出ると、強烈な暑さにさらされたが、湿度が低いので、さっぱりとした暑さで心地よかった。
工場は稼動したばかりで、日本の工場とは比べられないほど、きれいであった。
現地のスタッフに歓迎を受けて、迎えられ、詳しい説明を受ける。やはり建設時の苦労は大変だったようで、寝食を忘れてと言う状態であったことがわかる。
これからの生産、そして日本との連携、販売に対する希望、見通しなど、話は尽きなかった。松山は改めて、こんな活動に参加できている自分を、営業冥加に尽きると嬉しく思ったものだった。
マレーシアの訪問も予定通り終わり、無事帰国することが出来た。
観光コースとしては、クルージングとか、動物園とか、様々なコースがあるらしいが、残念ながら仕事とあってはそんな贅沢は許されず、ステータスのマーライオンの立つ公園を横目で見ながら通り過ぎただけだった
しかし、松山はこの経験は一生、忘れられないもので、大きな財産になると心に閉まったのだ。

思いつくまま

2008-11-19 09:55:21 | Weblog
この時期に来て、景気が悪くなり、日本の企業倒産件数が増えていると聞く。
しかし自分の身の回りにそんなことが無いと、遠い他人事として無関心でいることが多いのだが、この時期に来て、取引先の会社が二社、突然、11月を持って事業を閉鎖すると通知して来た。(いずれも従業員が10名足らずの小さい会社)
どちらも40年近くの歴史と実績があり、こつこつと堅実に築いてきた会社であり、社長自らが率先して行動して、努力してきた一代の会社である。
決して、放漫経営でないことは確かである。それではその原因は何だったのか。
そこには不思議にも、その二つの会社に共通した事情があった。
それはその会社の主要取引先(販売先)の不振と創業者の老齢化があった。
大半の販売先をそこに委ねて、他社への展開の努力をしていないことと、事業展開が変わらないこと(一つの業種に限られていた)で、その親会社的存在の売り先が不振になったとき、取引条件(数量、価格)が悪くなり、その影響を全面的に受けることになって、その対応が出来なくなったのである。
このことは、どの業種、どの業界でも程度の差こそあれ、同じような傾向にあるのだろうが、問題はその変化をどう受け止め、どう対応できるかと言うことである。
今年、アメリカから始まったとされる金融危機、そしてそれに伴った消費不況はアメリカ向け輸出で潤っていた、中国の景気にも波及し、二万五千件の工場閉鎖、それに伴う失業者の増大など、それらも無関係ではなさそうである。
更に、その会社の次世代継承者の問題もある。(いずれも創業者の長男が共に従事していたのだが)今回の事業閉鎖に何の未練も無く、あっさりとその事業を継承することを放棄していることである。
事業の継承という問題は日本の歴史においては大きな問題であり、その長きを尊び百年以上続いている会社は多いのだが、そして又、その歴史を尊重した思想があったと思うのだが、もはや、この現代ではそれは美徳ではなく、遅れている思想なのかと思わされる。いつまでも綿々と捕まっているのではなく、新しい展開を考えることが現代風なのだということなのか、意に沿わないことはしてもしょうがないと言うことか、
今回、現実にこの事実に直面し、つくづくと考えさせられたことであった。

波紋      第41回

2008-11-17 12:24:18 | Weblog
松山は営業販売の担当として、いつの間にか大きな責任を持たされていることを知り、重い荷物のような重圧を感じていた。小林は相変わらず、親会社のD社との連絡係が主な仕事の湯で、現場は任せっぱなしであった。
その小林の様子が最近になっておかしいことに気がついた。夜のお付き合いが減ってきたのである。いつもなら五時ごろになると、そわそわと電話の来るのを待っているか、あらかじめ集合場所が決められていると、「予定があるから」とそそくさと出て行くのに、「お先に」と声を掛けて、帰っていく。
身体でも悪いのか、何か家庭に問題でもあるのかと、小さい所帯なので、どうしても気になる。風間女史にそっと聞いてみると、「所長の奥さんが具合が悪いらしいの、子供さんに任せられないので、お家のことをしているみたい。」「病気かい。」「そうらしいわ、それも普通の病気じゃないらしいの。」「何、」「あんまり大きい声でいえないんだけど、アルツハイマーみたいらしいわ。」「そりゃあ、大変じゃない。入院しているの。」「それが入院しても、駄目なので、昼間は家政婦さんで介護してもらって、夜は所長が面倒見ているらしいの。」「それじゃあ、所長も大変だろうな。でも、病気じゃ、遊んでも入られないよな。」
松山は自分の家のことを思い、家族が健康であることをおもい改めて、ほっと胸をなでおろしていた。
半年に一回の予算作成時期が迫っていた。松山はこの時期が一番憂鬱である。会議では必ず、その実績と予算の数字の誤差について検証があり、その原因の説明でつるし上げを食うことになる。「言い訳」はたいていの場合、みんなが聞いているようで、聞いていない。当に冷たいものである。「松山君。筈だったとか、想定外だったとか、これだけ違うんじゃ、予算なんか、意味無いよ。」そんな時、松山は立場の違いとはいえ、悲しくなる。もっとも、実際にお客と接していない人たちにこの気持ちはわかってもらえるとも思わないが、現実の厳しさに考えさせられるのだ。
「今度の予算が出来たら、一度シンガポールへ行って来い。」「えー。私がですか。」突然の思いがけない本坂社長の声に松山は驚いた。全く予想していなかったし、そんな機会があるとは思ってもいなかった。「やっぱり。売る人間が作っているところをちゃんと知ってなきゃ元気も出ないだろう。小林と一緒に良くみてくるんだな。」その目は暖かく、言葉は乱暴だが、励ましの愛情があった。

波紋      第40回

2008-11-14 10:09:08 | Weblog
その年も終わり、新しい年が明けていた。前年から始まった、海外工場の建設は順調とはいえなかったが、確実に進んでおり、間もなく完成と言う情報が本社のほうから入っていた。直接には関与していないので、あまり関心はないのだが、と言って無関心とはいえなかった。何しろ、本坂社長からは事あるごとに「売りのほうは大丈夫なんだろうな。」という激励とも、気合入れとも付かないコメントが電話の向こうから飛んでいるようで、そのたびに所長の小林は電話に向かって頭を下げていたからだ。何しろ、完成すると、国内と海外とでちょうど倍の生産量になる。この販売を一手に引き受けるのだから、大変な責任である。
企画をした時は需要の旺盛な勢いで、出来るような気がしていたが、時間が過ぎ、冷静な目で市場を見ていると、良い時もあるが、悪い時もある、一年だけでも波があることがはっきり分る。しかし、ここで弱気になるわけには行かなかった。
「松山君、この計画は何としても達成しなければならない。うちに協力してくれている、各関係会社と連絡を取って、シュミレーションをしてみてくれ」
「分りました。出来るだけ頑張って情報を集めてみます。」。業界でも噂になり、同業者からも、羨望と、多少の疑問のような目で見られるようになり、注目されていた。松山は上の人は大変だろうなーと他人事に思えることもあったが、自分なりに「こんなことは、恐らくサラリーマンとして、そう滅多にあることでもないし、本当に出来たら、すごいだろうな。」と思いつつ、自分もその一人として参加していることに誇りを持つことが出来る気がしていた。
東京駅に近いところいある、上場会社の国際事業部は全面的に協力してくれていた。事業部長の田島氏を始め、今井、三宅、遠藤等一騎当千のスタッフが揃っていて世界のチャンネルを利して情報を集め、宣伝に努めてくれていることはとても心強く嬉しかった。松山はここで打ち合わせをする時はとても励みになり、力を与えられた。地方の地場企業では得られない戦力を感じたのである。
本来なら、親会社のスタッフの協力もあってよいと思うのだが、指示命令があるだけでその姿勢は全く違うものであった。
そして、完成の日を迎えることになった。本社の本坂社長、山田専務、そしてこの建設に携わった多くのスタッフが、シンガポールへ向かった。
その開場オープンには地元のテレビ局をはじめ、新聞社などが大挙して詰めかけ
盛大なセレモニーになった。こうして海外工場はスタートしたのである。

          思いつくままに

2008-11-12 09:39:56 | Weblog
秋も深まってきた。昔から秋を迎えると、「スポーツの秋」「食欲の秋」
「読書の秋」「実りの秋」と様々に受け止め、秋を人生における励ましの時期として捉えて過ごしているのだが、半面、「寂しさに宿をたち出で眺むれば、いずこも同じ秋の夕暮れ」と詠っているように、その情景から落ち葉が舞い、草木の枯れ行く様を見て、淋しく、落ち込んでしまう気持ちになる人もいるようである。(特に女性に多い)。事ほど左様に同じ季節感を考え方や感じ方で様々に変わってくる。
しかし、秋はその年の活動期における締めくくりの時期であり、その年の集大成の時期として捉えるのも満更ではない気がする。
特にスポーツ界ではその感がある。プロ野球、プロゴルフ、相撲、その他それぞれの分野で活躍した人たちが明確になり、表彰され、記録になり、又思い出として残されていく。それもまた大変意義のあることである。
中でも、今年は17歳の少年がプロゴルフ界でデビューして、いきなり優勝したことは近年にないことで賞賛に値することであり、世代交代のある種、さきがけを見るようであった。(反面、既存の選手の意地が見えてこなかったのが残念な気もするのだが)しかし、その裏には才能もさることながら、真剣な努力にあったことを
認めざるを得ない。
ある本を読んでいたら、論語の言葉で「知るを知ると言い、知らざるを知らずと言う。これ知るなり」(間違っているかもしれないが)を見た。そして、何気なく、確かにそうだなあと改めて考える事があった。
いろいろな人との出会いや話の中で、自分もその中にあって、聞かれたり、振られたりすると、自分なりにああでもない、こうでもない、こんなことを知っている、
こういうものだ等とつい「知ったかぶり」をしている自分を見る。
つまり、本当のことをよく知らないのに「知らない」「わからない。」と言えないのである。無意識のうちに自分の自己中心的な態度が出てしまっている。
そして、冷静に考えた時に、自分の間違いや、言い過ぎていることに気がついて
自己嫌悪に陥る事がある。「あの時、あんなことを言わなければよかった。」と後悔する事も多いのである。
逆に言えば、知っていることでも、まだ自分より詳しい人がいるかもしれないと思い、謙虚に話を聞くぐらいの余裕を持っていたいものである。
もっとも、「カマトト」ぶって、とぼけるのもいやみであるが、ほどほどに「知らない」ことを「知らない」と言える謙虚さは身に着けたいものと思っているのだが、いかがなものであろうか。

波紋      第39回

2008-11-10 12:37:58 | Weblog
初めて、たまたま隣りの席に座った知らないもの同志が、そんなに親しげに話し合うことはあまり無いことだと思い、松山は躊躇していたのだが、その女性はそんな余裕も、こだわりも無いようだった。「私たち、結婚してまだ一ヶ月もたっていないのです。主人から急に出張と言われて驚いたのですが、一人で留守番をすることが淋しく、又心配で我慢が出来なかったんです。」聞いていた松山は「えー。そんな人がまだいるの」と内心驚いていた。「それで、出張先の京都まで付いてきたのです。でもこれ以上一緒と言うわけに行かないので、私はこれから帰るのですが、淋しくて落ち着かないのです。彼女はそこまで言うと「ふうーつ」と大きなため息をついた。「そうでしたか。それは寂しいですね。でもこれからもっと心配なことが出てくるかもしれませんね。」と何気なく、呟いたのである。
すると、彼女はすばやく反応して「もっと、心配なことって何ですか。」と引っかかってきた。失敗した、余計なことを言ったと思ったが、もう後には引けず、取り消すことも出来なかった。
「いやー、男ってやつはいい加減な所があって、外へ出ると、気分も変わっていろいろなことを考え、行動する所があるので、何ともいえないんですよ。」
「どういうことですか。」「例えば、食事にいったり、飲みに行ったりして、そこで可愛い女の子でもいたりするとね。結構家のことを忘れてしまうことがあるんですよ」松山は自分のことも重ねて、ごく普通にしゃべっていた。
「主人にはそんなことは考えられません。第一そんな人ではありません」と少し
言い方が厳しくなっていたのだが、そんなことは意に介せず、調子に乗って、
「そんなこと言ったってね。男は石松と同じで、家を出たら、そうはいかない者なんですよ。例えば、世間で言われている「浮気」だって、たいていの男ならやってもおかしくないんだから」と言ってしまった。つまり言ってはならないことをいってしまったのである。松山にすれば将来のことを考えて、それぐらいの覚悟でないと、何かあったときには大変だよと言う老婆心みたいなものがあったのだが、そんなことが通じるわけが無い。完全に火をつけてしまったのである。
「絶対、そんなことはありません。そんなことは考えられません。」
そこで終わりにしておけばよいものを「いやーそんな事言ってもね。男は女に弱くて、言い寄られると誘惑に弱いんだ」と更に続けるものだから、そうでなくても心配して京都まで来たのに、こんなことを聞いては落ち着いていられなくなったのか、話は東京駅に着くまで続いた。やっと開放されてホームで別れる事が出来たのだが、読むつもりで買った週刊誌はそのままくずかごに入れられてしまったのである。

波紋     第38回

2008-11-07 10:58:02 | Weblog
まだ松山には其処がどんなところで、何をするところか、見当が付かなかった。
三人はあまり人気の無い大通りを歩いていく。明るい光の射しているところを良く見ると、玄関先で手招きをしている老婆がいる。そして何か言っているのだが、よく聞こえない。そしてとある場所へ来ると、井坂は躊躇することなく入って行った。三人は六畳一間の部屋へ通された。そして其処へお銚子を乗せた飯台が運ばれてくる。しばらくすると「用意が出来ました。こちらへどうぞ」と声がかかり、台湾の客人は案内されて部屋を出て行った。「井坂さん、彼が来たかったのはここだったのですか。」「まあ、そんなところだ。ここなら、面倒なことなく、目的は達することが出来るからね。君は知っていたかね。」「いや、とんでもない。何かの本で見たことがあったかもしれませんが、ここが遊郭と言われるところなんですね。まだ、こんな所が残っているんですか。驚きました。」「君も勉強のために案内してもらって、経験してみるかね。」「とんでもない。こんなところでいくら美人を宛てられても、起つ物もたちませんよ。勘弁してください。」松山は出された酒を飲んでいたが、味も酔いも無く、むしろ緊張からか、酔いが覚める思いで時間が過ぎるのも待っていた。
一時間もしないうちに客人は部屋へ帰ってきた。そこには何の恥じらいも、照れも無く、そして嬉しそうな感じでもなかった。でも満足したのだろうか、「いやー待たせたね。それじゃー行こうか。」と言って立ち上がった。
三人が三人とも、無口である。ひたすら静かにその家を出ると、タクシーに乗り、ホテルへ直行した。翌朝、別の要件で出かける客人に挨拶をして、「今度、折を見て台湾のほうへお邪魔します。お帰りになりましたら、董事長さんによろしくお伝えください。今後ともよろしく」と別れる事が出来た。
東京へ帰る新幹線で寝不足な睡眠のために、うとうとと眠りかけていた時、京都から乗って、隣の席に乗り込んできた女性にすっかり、目を覚まされてしまったのである。発車間際まで見送りに来ていた男性と何か話していたが、その雰囲気がただならぬもので、興味を持ったのである。
列車がホームを離れ、少し落ち着いてきたのを見計らって、「どちらまでですか。」「東京まで帰るのです。」「そうですか。私も東京なんですよ」当たり前と言えば当たり前の話をして「京都は観光ですか。」とまた、余計なことだと思いながら聞くと、その女性は急に何か我慢をしていたことを吐き出すように話し始めたのである。