波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「5人の仲間」⑤

2020-04-30 10:38:55 | Weblog
女性社員が決まり事務所も何となく落ち着いた感じだ。しかしこの人のことは何も知らない。朝挨拶を交わすだけで、一日黙って仕事をするだけだ。履歴書や個人的なことは岡山の本社での手続きで終わっているので何の支障もない。然し私にはこの人のことが知りたかったし、知っておく必要がある気がしていた。そこで紹介してくれた古橋女史に一度話を聞くことにした。彼女は女同士で何か知っているかもしれない。ある日の午後近所のカフェで久しぶりに話をする機会ができた。いつもは気難しい母や師匠の前でお稽古をするだけで何の話もできないが、こうして会ってみると中年の男女の関係である。お互いに好意を持っていたので何の気兼ねもなかった。「彼女、どこの出身なの」「仙台よ。」「東京へは何しに出てきたんだい」「それが出てくるつもりはなかったのよ。彼女、高卒なんだけど地元のある会社へ入社して仕事をしてたんだけど、ある男の人が好きになっちゃって付き合い始めたんだわ。」「年頃だから当たり前だろう。」「そうね、それで一方的に好きになったらしいんだけど彼氏の方が別の彼女ができてそのうち転勤でその彼氏が東京へ出てきちゃったんだって」「それじゃあ、振られたような感じだね。」「彼女はそうは思ってなかっただわ。自分のことを思ってくれていると思っていたらしくて、自分も東京へ出てきて男の人の所へ行ったらしいの」「そりょあ大変なことだね。うまく話はついたのかな」「ダメだったらしいわ。でも彼女諦められずそのまま東京へ住んで仙台へは帰らなかったのよ。なんでも実家は仙台でも立派な電気屋さんでよい家のお嬢さんらしいわ」道理でお高い感じなのか。と腹の中で思ったが、口にはしなかった。「そうか、それでわかったよ。ちょっと普通の女の人と違った雰囲気で気楽になんでも頼めないんでね。これからも注意して付き合うよ」話はそれからも続いたが、女の人を使うことのむつかしさや注意しなければいけないことが、何となくわかってきた感じであった。留守を預けるには安心できることは確かだし、真面目そうなのでそこは安心だった。


「五人の仲間」④

2020-04-27 09:00:26 | Weblog
小さい時から女の世界を知らないで育ち、接触もほとんどなく育ち大人になって家庭を持ったのだが、妻とも人間として理解しあったともいえない。親から「この人と一緒になりなさい」と言われただけの生活だった。女性としての触れ合いは中学生になった時、同じ東京から田舎に疎開して、いじめにあい、淋しく思った時、同じ東京から疎開してきた同級生の女の子と話をしたことと、高校時代にクラブ活動で一緒だった女の子ぐらいだった。、本来なら大学生くらいから女性として感じて大人の感覚で女性を覚えるのだろうが、兄の管理下でその時期を過ぎたので、大人になった今では間に合わない。つまりどのように話してこの事務所に女性社員を迎えるか、見当もつかなかった。人を探すことのすべを誰に聞くこともできず「どうしたものか?」と考えていて、」ふと思うことがあった。それは上京してきた母と趣味で謡曲を習わされた時のことである。同じお弟子さんの中に一人の女性がいた。その人と話をしたことがあり、お茶したこともあった。その時趣味で「和声日本人形」を作っていることを聞いていた。少し話ができる関係になっていたので相談してみることにした。「古橋さん、今度女性社員を入れることにしたんだけど、どうしたらよいだろう」すると「私の所へ倣いに来ている人が仕事を探しているから話してあげる」「それは助かる。ぜひ頼むよ」話は進み、一度食事をしながら話をすることにした。お昼休みを兼ねて紹介を受けた。年齢はそんなに若くはなかったが無口であまり自分のことは話さない。緊張もあるのだろうが、あまり愛想がよいとは言えない。多少不安があったが、あとで古橋さんから聞きくことにして「良かった来てください」と頼み込んだ。
後日、承諾を受けてきてもらうことになった。岡山の研修を受けて二人目の侍ならぬ女性社員ができた。この人も何となくお世話になるというより、「来てあげたわ」という感じであり、愛想はなかった。本当に大丈夫か?

「五人の仲間」③

2020-04-23 15:31:33 | Weblog
田口はゴルフアーと言われるように身長も170センチと高く全体に細身のスタイルで確かにスタイルがよい。細い顔立ちだが、少ししゃくれた顎が特徴で。普段は余計なことはしゃべらず何を考えているのかとっつきにくい。これで営業はできるのかと心配だが、やらせてみるしかない。当社には主力の製品が二つあり、一つは創立以来の顔料であり、もう一つは新しく開発したマグネットの原料であった。とりあえず田口には顔料を任せて私が新しい製品を担当することにした。ある日の午後、何となく上司気分で「自分も接待でゴルフを始めたんだが、なかなか上手に出来なくてね。ちょうどよい機会なので一度教えてもらいたいのだが、」と頼んでみた。良い返事がもらえると期待していると、素っ気なく「掃除用の箒ですこしはいてみたらどうですか。」とあっさり交わされてしまった。
その態度は一人の素人を馬鹿にした態度にも見えて、「こいつ馬鹿にして」と内心腹が立ったが、よほどのプライドがあるのだろう。まして「先生」と呼ばれてちやほやされてきた人間である。簡単にはその姿勢は変えられないのであろう。そして私に「自分を紹介するときに、ゴルフをしていたことを言わないでほしい。」とまでくぎを刺される始末である。まさに踏んだけったりで自分は来てやったんだといわんばかりの態度で世話になるという態度は全くない。私は自分の過去を振り返り、兄の強い命令のもとに奴隷のように働いてきた人間からすると考えられたない場面であった。
とはいえ、言い返すこともできず黙って引き下がるしかなかった。ただ仕事を見ているしかなかった。二人だけで新しい事務所に移り仕事は始まったが、これではとてもすべてができるわけではない。やはり出かけた後の電話番をはじめ庶務を任せる女性が必要である。これは一番苦手な仕事であった・
今まで女性を相手にしたことがなく、どのように話したらよいか、どのようにして探すか、頭の痛い問題であった。

「5人の仲間」

2020-04-20 10:57:19 | Weblog
世間を知らないで突然世の中に飛び出し、事務所を任されたものが、何ができるか、何をしなければいけないか、わかるはずはなかった。まして家族の人間しか知らないで育ってきた者が家族以外の人間をどう扱うかなど知る由もなかった。人を判断することも自分中心で考え自分と違うとどう判断したらよいかもわからないのである。取引先の部長さんが弟を頼むといって帰った後、数日後、ふらりと一人の若者が事務所にやってきた。形ばかりの挨拶はかわしたものの、経歴、履歴を話すわけでもなければ何も言わない。「何をすればよいんだ」という態度でいるだけである。とりあえず岡山の本社へ行って研修を受けてもらうことにしてもらう。
その間に兄の部長さんに再度会い、今までの経緯を聞くことにした。「彼は最近までプロのゴルファーだったらしい。所謂アシシスタントプロとよばれているしごとである。大学を中退しどこかのゴルフ場に籍を置き金持ちのお客さんを相手にゴルフを教えていたらしい。もちろん正式なゴルファーになるのが目的である。
普段はゴルフ場で何人かの客を相手にして終わると、接待でご馳走になり飲んで食っての時間で過ごす。いつの間にかヘビードリンカーになり、酒がないと居られないアルコール中毒に近い状態になっていたらしい。体も悪くして医者に見立てではこのままでは体がもたないと注意を受けたという。希望のゴルフアーへの道も断念せざるを得なくなってしまった。兄として何とか助けてやりたいという思いで連れてきたのだという。なるほどそれでいくらかわかってきた。態度も横柄で挨拶もきちんとできないし、余計な口は利かない。果たして営業としての仕事ができるのか、心配になってきた。ある意味で落ちこぼれ状態だが、大丈夫か、?
そんな思いで岡山から帰ってくるのを待ちかねていた。そして「君にはこの地区のお客さんを任せるので一度挨拶に行ってもらいたい」と指示してみた。
一人の侍の旅たちである。

「五人の仲間」

2020-04-16 19:55:02 | Weblog
兄の厳しい指導から解放されたのは29歳だった。福品から上京して父が用意してくれていた家に(かなり年季の過ぎた古い二階家だったが)住むことができた。
そして結婚して家庭を持ち、そこで福島の東京営業を開始したのだが、毎日のようにかかってくる電話で悩まされていた。弟はとっくに我慢できず両親のいる岡山へ」帰り、倉は引きこもりの時期もあったという。そんな毎日を過ごしながら東京の塵を覚え、配達をしながら営業努力をしていた。そんなある日岡山の父から仕事の話が持ち込まれた。地場産業で仕事をしていた父の会社も東京へ進出を考えていたようで私にその仕事を託したいとの依頼である。私としては何とか兄の手を離れたいこともあってすぐにでも福島の仕事から岡山の仕事への移りたかったが、少し時間がかかったが、何とか話がついて福島の仕事から解放されることになった。私が自由に自分らしく人生の一歩を歩き始めたのはこのときからである。岡山の指示ですぐ事務所を探すように命令された。
幸い足の便利の良い秋葉原の駅裏に適当な事務所ビルがあり、そこに決めることができた。いよいよスタートである。然し一人では何もできない。少なくても3人から5人のメンバーが欲しい。とはいうものの募集や大げさに金をかけることはできない。どうしたものかと人伝手んに探すしかないとかんがえていたところは、取引先の人が突然訪ねてきた。「急な話だけど弟を雇ってくれないか」と言い出した。「突然そんなことを言われも私一存では?」と言いかけると「いや。あなたに預けるから頼む。「一応本社の方へ聞いてみなければ」「いやあなたなら安心して預けられるから」と押し問答になった。「来週から来させるから」と一方的に押し切られて帰ってしまった。仕方なく岡山の本社へ連絡し本人を行かせるので面接を頼むと依頼をした。
「7人の侍」と同じパターンでこれで一人の仲間が見つかったような形である。頼まれて始まった東京事務所。そして侍ならぬ営業のエキスパートを集める仕事とまさに時代は変わってもしていることは全く同じスタートになった。


注釈:自分史をそろそろ書いておこうと思い始めることにした。然し時系列に書くのはどうかと思い、思いつくまま思い出すままに書いてみようと思う。
   登場する人物は実在するが、当事者の私は当時のままに書いてみたい・現在の自分では老い鯖らえて淋しすぎる。もう一度生き返らせてあの頃の
   生き生きした自分をよみがえらせてみたい。コロナで時間ができたこともあるので

「コロナ災禍と戦争」

2020-04-13 11:45:52 | Weblog
いまから70年ほど前になる。私が10歳の頃、日本は戦争を迎えていた。今回のコロナ災禍を迎えて「緊急事態宣言」」が発令され外出が自生されて、図らずも当時を思い出すことになった。子供心に当時も戦争という事態で毎日が緊張感の絶えない日々で「警戒警報」と「空襲警報」のサイレンと共に頭巾をかぶり防空壕へ逃げるということの連続であった。もちろん外は人の出歩く気配はなく友達と遊ぶこともならず、町はゴースト状態であったことを思い出す。今はそれほどではないが、普段とは違い人のでは少なく、歩いている人はみんなマスクをしていて普段の姿ではなく、緊張感が漂っている。70年前とは違うが、別な意味の緊張感があり、いつもの平和な状態ではないことを悲しく思う。そしていつやむともわからず、決定的な原因と対策もなくただ緊張感の解けない雰囲気の中で暮らすことのストレスの影響が心配される。人はそれぞれその環境や暮らしの習慣で異なるためにその対応もそれぞれ異なる。それを一律に規制することはむつかしいし、強制もできない。まして今まで自由にふるまって暮らしてきただけに窮屈な規制を嫌がる人も多勢いることだろう。
戦争時代の時の生活は一番に食糧が不足して食べるものが手に入らなかった。従って都市と農村のギャップが大きく出た時代でもあった。農村への買い出しが」母の大きな仕事になったのが忘れられないし、学童疎開の時の面会日に食べたおやつの芋饅頭のおいしさは今でも忘れられない思い出である。

「或るコメディアンの死」

2020-04-06 11:48:48 | Weblog
先日長い間私たちを楽しませてくれた有名なコメディアンがあろうことかコロナウイルスの犠牲になってまだ現役で活躍できる年齢で亡くなった。その様子を新聞報道で読んだが、詳しいことはわからないが、一人で孤独をいやしていたようである。人を笑わせ、喜ばせながら自分自身はその分孤独の中で過ごしていたのではないかと思われ、演技のうちとはいえかなり無理もあり、辛抱もあったのではないかと想像できる。人に喜びと笑いを提供しながら自分が犠牲になっていたのではないかとそしてそれを何かでうずめるために犠牲になったのではないかと想像もするのだ。
嘗て渥美清さんの映画で「寅さん」を何十年も追っかけてみてきたが、あの寅さんもマドンナを追いかけてそこに夢と希望を持ちながら実らぬ夢を抱いて人生を歩き、多くの人に笑いと夢を与えていたが、個人として素の寅さんはどんなに寂しい人であったかと思われ、人に愛情と笑いと喜びを与える人ほど当人はそれ以上に寂しさと空虚さを抱えることになるのではないかと思う時があった。
人はだれしも孤独である。だからこそ家族があり、友が居てその寂しさを共に理解しあい、支えあい、慰めあうものだとおもう。
そしてまだ見ぬ「青い鳥」のマドンナを追いかけて生きていくものかもしれない。
今回の一人の犠牲者がコロナで亡くなったことは残念だが、その犠牲を大切に私たちも自ら隣人に愛と喜びを与える一人として生きていきたいと思う。