波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

音楽スタジオウーソーズ   第4回

2014-06-30 10:21:43 | Weblog
光一の父は自動車学校の教官になった。教官になって半年もすぎると各々自由に指導することが出来るようになる。そして横の連絡は次第になくなり、各教官が独自の指導法を取るようになっていた。それは各生徒が種々雑多であり、性格、仕事の内容、生活環境そして免許を取る目的も違うのでそれに合わせてきめの細かい指導法が要求されるからだ。
当然男女の扱いはその差が大きく指導にも特別な配慮が必要とされたし、大きなポイントでもあった。いくら言っても乱暴な運転しかできないものもいれば神経質に恐々運転をする者もいる。もちろん身体的な欠陥を持つ者もいなくはない。それらを総合的に把握したうえでその人にあった指導をすることはマニュアル通りにはいかず、さりとて一定の基準に達するように運転を習得させなければならない。
そしてその指導法の違いは時間と共に結果として出てくるようになった。彼は自分の指導にあわさせるのではなく、相手に合わせた指導を住していた。最初はおどおどしていた生徒も緊張でビビッていたものも、単位時間が終わる頃にはかなりの自信を持った運転をするようになっていた。卒業が近くなると外処は決まって生徒にする質問があった。
「これで君も一人前の仮免を取ることになるのだが、最後に聞きたいのだが、交通規制の中にはいろいろ大事なことが一杯あるが、その中でも何を一番注意したいと思っているかね。」
生徒からは色々な答えが返ってくる。それらは決して間違ってはいなかった。しかし彼には持論があった。それは彼の運転術の中で自分で習得したものであり、他の人には分からないことであったかもしれない。「自分は二つの事をいつも頭において運転している。その一つは前方車両だけではなく、その前の車、つまり2台前を走る車に注意を払う事と、もう一つは出来るだけブレーキを踏まない運転を心掛けている。」と言った。
何でもないことかもしれないし、それが一番大事だと思うか思わないかは人によって違うかもしれない。しかし彼はその哲学があった。
「これからも気おつけて運転してほしい」と卒業していく生徒に声をかけると眉毛の太いいつもは笑わない教官の外処に対してにっこり笑って別れていくのだった。
おおぜいの命を預かるという大義名分もあるが、とにかく自分の考えられるすべてを習得させて送りたいという彼の思いは強かったのである。

    思い付くままに   「ある一日」

2014-06-27 10:34:33 | Weblog
最近友人や知人に会うと「毎日何をしているの」と聞かれる。何もすることがないのに、何をぶらぶらしていると思われているらしい。確かにその通りだが実際ただぶらぶらすることもかなり
つらいものがある。他人は自分の事は棚に上げておいて、人の事が気になる」のが習性だとは思うのだが、高齢者になれば、仕事をしなくても年金で暮らすことが出来ると何もしなくても良くなることは事実でもある。極端に言えば毎日が「日曜日」と言われても仕方がない。
自分も人はどう過ごしているのだろうと気にならないこともないが、聞いたところでそれが参考になるとは思わない。ましてあだ肉体的にも精神的にもこの年齢になると一葉とは言えないし、一人一人の状態が大きく変わっていることが多い。一番多いのは身体を壊していることだろう。
そうなると参考にもならないし、各人の環境も同じとは言えないので、それぞれが工夫することになるのだろう。仕事をしたいと言っても60代までで70台ともなると内職もないほどである。そこで自分の事となるのだが、確かに私自身も当初は暗中模索をしていた時もあった。
「何をしても良い」と言われることは若い時なら大喜びをしたもので、肉体的にも精神的にも経済的にも自信も余裕もあった。しかし現在「何をしても良い」と言われても「できる事は限られている」し、できる事なら「何もしたくない」と言う心境でもある。それほどに肉体的にも精神的も疲弊しているのである。
ただ生まれた時から、キリスト者の家に生まれたこともあって「聖書」とは切り離せない人生を送ってきた。それは色々と変遷があったが続いている。そして現在は生活の基本であり、中心でもある。従って、生活の基盤がここにある。いあ具体的に何をどうのという事は省くがそれは
生活を組み立てる上に大きな影響を与えていることは事実である。
そして一週間のうちに出会い「交わりを持つ」人との時間であろう。かぞくであり、りんじんであり、その他の様々な人との交わりはかけがいのない時間であり、貴重である。
そして自分自身を活性化する時間を持つことであろうか、体は動かなくてもできる範囲で「与えられ」「生かされている」身を十分に活用するに、どうするか、また大切に保つにはどうするかは務めであろうと思われる。
考えられる範囲で、出来る範囲でこの目的のために時間を無駄にしないようにする。
ただ、「頭休めの」何も考えないでただ「楽しむ」ための時間としてTVの時間も利用することになる。声で十分満足できる」時折親しい人とおいしい食事を頂く時間も滅多にないだけにその
ありがたさと満足が得られるようになった事、価値が分かってきたことも嬉しいことである。
日々新ただあり、一日一生の日々でもあるのだ。

音楽スタジオウーソーズ    第3回

2014-06-23 10:51:59 | Weblog
今の会社で仮に店(支店)を持たせてもらったとしても、それは小さな卸問屋の一つであり、
結局は自分の自由にはならず社長の顔色を見ながら成績を気にしながら安い給料で暮らすことになることは目に見えていた。大会社であればあるほどその生き方が変わりチャンスも大きくなることは分かっていたし、同じ使われる身であれば出来るだけ自分の主張が生かされる環境で仕事をしてみたいと考えていたので、その話が出た時もすぐには返事をしなかった。
そんなある日のこと、新聞に「自動車会社教官募集」の広告をみた。父は直感的に感じるも尾があった。免許を取った時から車には興味があった事と、そのメカには自信があった。好きでもあったので、勝手に車をいじっていた時もある。募集している会社は大手のタクシー会社であった。彼は店には内緒で試験を受け、面接に進んだ。面接では履歴と学校の成績を見ながら「どうして大学まで行かなかったのか」と聞かれた。「家庭の事情」とだけ答えて多くを語らなかった。結果は何人かの採用の中でもトップでの成績であった。
父は今の会社へ辞表を出すとすぐ自動車会社へ就職をした。教官ともなると新人社員とは違って入社してもすぐ教官としての取り扱いとなり、免許応募者をあてがわれて即戦力としての仕事が待っている。各教官はそれぞれの応募者を担当し免許を取らせなければいけない。
従って会社としては一応のマニュアルはあるとしても目的は法規制に準じた成績で免許を取得させることが目的である。従ってその手段については各教官に一任される分野が多いのだ。
まして実技はマンツーマンが原則なので教官の腕次第で大きく変わることも考えられる。それは
スポーツの世界における選手とコーチの関係に良く似ているともいえる。
会社としての唯一のノルマは応募者数の80%、つまり100人のうち、80人以上の合格者を既定の単位時間数の中で合格させることである。
応募者のレベルには何の保証もないし、何の約束もない。野球の選手やゴルフの選手のように
あるレベルのテストなり、選抜を通過してきたわけではない。一人一人が遊びであったり仕事であったりそれぞれの事情の中からきているだけである。
そんな生徒をどう指導していくか、それは考えようによってはとても難しいことであるし、場合によっては出来ないことも出てくることもあった。
しかし、彼はここで独特の力を発揮することになる。

思い付くままに  「修養会」

2014-06-19 10:39:28 | Weblog
ある会合で修養会が行われるという事を聞いて出席してみようと思った。それはテーマが
「死と永生」とあったのが動機である。若い時から今まで「死」という事を聞いても自分の事として考えたことがなくその場面にあっても、それは他人事であって自分には関係ないような気がしていたからである。然しこの年齢になり(80歳)家族であった母、父、妻、兄、弟と亡くし
気が付くと私一人が残されていた。生まれた時から共に生きて育った家族がもはやいなくて、私一人である。そして私の番もやがて否もう来ているのである。こうなるとこの問題は避けて通るわけにはいかないのである。
私は私なりにこの問題とどう向かい合いどう迎えるかという事を考えざるを得ない時を迎えているのである。人間の一生は「生老病死」の四文字であらわされると良く言われる、また「四苦八苦」だと言う人もいる。確かに一言でいえば多かれ少なかれ結果的にそんなものかもしれない。
特に「病」については人それぞれに差が出てくるであろうし、又「死」についても年齢をはじめとして様々な状態に表れる。しかしだからと言ってこの「枠」から逃れることが出来るわけではない。その中にあって自分は残された時間のこれからをどう生きるか、どう考えていけばよいのか、それはこれからの時間を左右する大きな要素となる。
その修養会ではその中心は「神」にあり、神を信じて生きることであると教えられた。人が死を恐れたり、穢れたものとしたり苦しみを伴うものとして迷い悩むことは「自我」にある。
全てを神にゆだね、あずける心を持ちうることが出来た時、そこに「平安」が生まれる。人は
これらの事について様々に運命づける。特に強気な人は「私は死を別に恐れてはいないし、何とも思っていないと強調する。つまり自分はそんなに弱い人間ではないとの姿勢を示す人もいる。
しかし、実際にはどうだろうか。その場面に際した時、果たしてそんなに冷静でいられるだろうかとも思う。肉体が滅んでいく過程は人によってさまざまであったとしても、そこには不安が付きまとうものであろうと思う。そしてそれが正直な裸の姿でもあろうかと思う。
その時こそ神によって与えられた生命を神のもとへ還るとして素直にそのままの気持ちですべてをゆだねる事だり、それを信じきることだろうと思う。
残された時間はあるようで少ないのである。(誰しも)だとすればこれからの時間は無駄には出来ないし大事な時間となる。そしてその日を迎えるために相応しい日々を過ごさなくてはならないと思うし、少しでも積み上げていきたいとも思うのだ。

「音楽スタジオウーソーズ」   第2回

2014-06-16 10:15:35 | Weblog
光一の父は長男であった。当時長男はその家を継ぐ跡取りとして重用され、大事にされる傾向があった。父の後に妹や弟もできていたが、父は目をかけられていた。又その期待に応えるかのように学校の成績もよく、麻布で仕事をしていた祖父の関係で九段高校へ進学していた。当時から進学校として有名であったし、本人もそのつもりで勉学に励んでいた。
「好事魔多し」の例えではないが、祖父の仕事が突然の事故で倒産、二人は幼い兄弟とともに荷車を曳いて父の実家である田舎(栃木)へ帰るほかなかった。父の希望であった大学への道も閉ざされ、友人たちが進学する姿を悔しい思いで聞きながら我慢するしかなかった。
祖父は父に東京の店を紹介し働くことを進めた。父は家の事情を汲んで就職することを決意し、
単身東京へ出ることになった。ある総合卸問屋で、ある意味何でも屋のような便利屋であったが、とにかく忙しかった。そしてまたなんでも出来なければならなかった。
配達、客周りは当然ながら時間があるとs電気修理であったり、自転車のパンク修理とまさに何でも屋であり、それが出来ないと店においてもらえないのではないかと言う思いがあり、必死の思いで覚えたのだ。その成果もあり、主人の覚えも良く重用されるようになっていた。
ある時、店の用事で品川まで出かけた時自動車学校生徒募集の広告が目に入った。
父はこの時直感的に「これからの時代は車だ」と思い、早速免許を取ることを決心した。
店には内緒でためていた金を費用に充て、実習は夜間コースを選び、普通よりは時間もかかったが、成績は抜群ですべて一回のテストでクリヤーすることが出来た。
それから何年か過ぎたこと、店の主人から「そろそろ自分の店を持っても良いんじゃないか。どこか良い場所を探したら店を出してやるぞ」と言われるようになっていた。
その言葉を聞いてもあまりうれしくは思えなかった。何時までも使用人の立場でいることに忸怩とするものを感じていたし、納得もしていなかった。これから一本立ちして世の中に出たいと
考えるようになっていたが、何をするというあてもなかった。
ある日新聞を見ていたら某自動車会社で「教官募集」の広告を見た。車には人一倍関心があり、メカにも強いこともあって、面白い、これなら自分の好きなことが出来るかもしれないと思うと応募することにした。面接では学卒でないことに何となく不満げな顔をした人もいたが、いくつかの質問の応答は抜群のものがあり、即決で採用が決まった。
まだ光一が生まれる前の話である。

思い付くままに    「結婚式」

2014-06-12 11:03:32 | Weblog
何年振りかで結婚式の招待を受けた。もう今後こんな機会はないだろうからと老体の体調を気にしながら出掛けることにした。五月晴れの快晴に恵まれてさわやかな風に吹かれて心地よい旅をすることができた。新郎は日系三世の日本人であり新婦は姪の娘で私には直接的には縁も薄いのだが、姪の顔を立てることに意義があった。当然司式は教会式かと思いきや神式で、最近では珍しく、私も何十年ぶりにお神酒を口にした。
親戚紹介、記念写真撮影も型どおり終わると披露宴会場へと移動して、華やかな披露宴が始まった。冒頭お決まりのフイルムでの二人の生い立ちの紹介があった後、新郎新婦の入場、その時
会場は一時暗くなり、スポットライトを浴びながら、さながらミュージカルの主演男優と女優にいでたちで音楽に合わせ歌い踊りながらの登場で度肝を抜かされる。二人は臆することなく歌い踊りきると席に着く。スピーチは出身校の学長が長々と二人のエピソードを交えながら、学校の事を延々と語りいつ果てるともなく続いた。ようやく乾杯が終わり、飲み物や食事が始まり
少しくつろぐことが出来た。
二人を祝うはずの友人の祝辞はなく、友人の紹介はそのピアノ演奏の栄誉をたたえた紹介とその演奏で終わり、半分は自己宣伝のような経歴紹介であった。
程なくお色直しの時間となり、二人は退場し会場も和やかな空気に包まれていた。
そして新郎の登場はビールサーバーを背負ったバスタースタイルで各テーブルの招待客への
ビールサービスの大暴れであった。このころになると会場は思い思いのパーテイのショータイムと化して緊張感も何もない状態となる。高齢の私はこの時間を幸いとあらかじめ挨拶も済ませてあったので、静かに退散して帰宅することとした。
従ってその後のことは何もわからないのだが、それはそれで良いのだろうと思う。
しかし結婚式はともかく披露宴の形式も内容も21世紀に入りこれほどの変わったのかと隔世の感を禁じ得ない。
国際的と言うか、近代的と言うのか、現代風と言えるのか、それは分からないが昔のイメージを残していた自分にとってあまりの変わりように正直ついていくことが出来なかった。
それを招待客へのサービスとして、喜んでもらえる演出とするのか、自分たちの自己満足とするかの境界線が不明でもあるが、これも一つのスタイルのだのだろうと言う感想である。
二人を祝福し将来を願うそこに集まった人々へのリスペクトはそこにはあったのだろうかと
いささか心配の思いもあったのだが‥‥‥

音楽スタジオ「ウーソーズ」  第1回

2014-06-06 10:03:12 | Weblog
埼玉県の県庁所在地はと聞かれて「えーつ」とすぐ答えが出ないのは何故だろうと思うが
「さいたま市」と聞きなれない名前で言われてもピンとこないのもどうかなと思ってしまう。
良く考えてみると一つにはかなりの変遷があった事と2004年に「岩槻」を含めてその周辺の浦和、大宮、与野とが合併したことで今では人口も120万人を超す全国でも9位と言う大都市でもある。位置的には大宮が中心で県庁もそこにあることは交通アクセスからも自然かもしれない。東京の隣接地でもあり、この地が生活圏として充実しているのも自然の成り行きだろうか。
「外処光一」はこの大宮で生まれた。彼が生まれたころは家の周囲は田畑で囲まれ、川では釣りもできるのんびりとした田園風景であったが、今やすっかり近代都市になり、昔の面影はない。
光一は地元で学校を終えると好きな音楽の仕事をしたいと願って、近くの楽器店へ就職した。あまり大きな期待も望みもなく、ただ毎日好きな楽器をいじっていることと、楽器が使えることが楽しければそれでよかったのだ。年頃になり同じ職場の同僚だった女性となんとなく結婚したのだが、あまり女性に興味があるわけでもなく、そんな事から子供も出来なかった。それでも
特別な不満もなく、親の家で暮らしていた。
年の離れた妹がいるが、学校を卒業すると友達と仕事をしたいと東京へ出て行ったきり帰ってくることはなかった。母は元気であったが、突然の病気で倒れた。「膠原病」と言う難病で助からないことが分かってから病院通いが続いた。父が茨城の方へ仕事で出掛けて帰れないこともあり、家の事は妻と二人でするしかなかった。
それでも母が危篤と知らされて家族が集まった時はみんな真剣であった。最期を出来るだけ安らかに終わらせたいとの願いからベッドのそばに顔を寄せて、母の好きだった歌のテープを聞かせることにした。聞いているのか、分かっていないのか、それも分からないのだが、何となく表情が和らいでいるように思えていた。そして間もなく母はなくなった。
妹は東京へ帰り、父は又職場に帰って行って元の生活に戻っていた。
父は偶に帰ってくると二人を前にして小言を言うことが多く、その内容は何であれ、自分の言うことを聞くことを強制され聞かないといつまでもぶつぶつ言うことが多かった。
光一は慣れているので、口答えもせずに聞いていたが、妻の明子にはそれは耐えられなかった。

思い付くままに   「ジジババトリオの近況」

2014-06-03 10:08:00 | Weblog
最近になって爺に異変が起きた。昨年秋に退院して以来あまり姿を見せなくなっていたが、このごろ娘と二人で散歩をしている姿を見るようなっていた、娘はずっと家を離れて東京で仕事をしていたと聞いていたが、父親の病気を機に仕事を辞めて帰ってきたらしい。
そんな訳で婆と三人の懇談の時間も少なくなっていた。「まだ体力の回復が充分でなく、時間がかかるのかもしれないね」とババと話し合っていたが、ある日婆を訪ねてきて三人で話していたら自分からぽつんと「俺、認知症だ」と言ったのだ。そして定期的に神経内科の検査を受けていると話した。そう言われてみると元気だった去年のころから比べると、言動に少しずつ変化が見られていたことに気が付いた。そうだったのかと納得するとともに「他人事ではないと」自戒するとともに一抹の寂しさがこみ上げてきた。
考えてみると昨年の6月に自ら胃の検査を受け「初期胃がん」の診断を受け、即自ら手術に踏み切ったのだ。その後9月に「膀胱がん」を併発し11月に手術を受けた。この間に何が起きたのだろうか。どちらの手術も無事に成功し、術後も順調だと聞いていた。それなのに「なぜ?」
「認知症」という事になるのか、その経過をずっと見てきた婆と二人で話してみた。
その兆候の表れは9月に近所の小さい病院で点滴をやっているときの事であった。見舞いに行くと話している内に意識が消えたかのように空を見つめて話さなくなる姿を見た。そして話は同じことを何回か繰り返された。そしてある日、点滴の袋をぶ下げたまま病院を抜け出して自宅へ一人で帰ってきてしまったのである。
そして大病院へと転院となったのが、なぜこんなことが起きたのか、考えられるのは80歳を超える高齢でありながら8時間を超える全身麻酔に耐えながら手術を行ったことによる影響でしか、考えられない。その話を聞いたときに個人的にはセカンドオピニオンの意見も聞いたうえで
決断してもと思わないでもなかったが、本人は自信を持って手術に踏み切り、意に介するところはんかった。(自信を持っていた)
然し肉体的にはその麻酔による体力に限界があったのではなかったのだろうかと思われる。
(後日知己のあるドクターに聞いたところ可能性としてないことはないとのコメントがあった)
いずれにしても三人の関係が無くなったわけではない。彼には三人で話しているときが唯一の慰めになるらしく、とてもうれしそうである。月に一回は誘い合って食事会もできている。
嘗てのような旅行は出来ないまでも出来る範囲での事を続けている。
現実に起きた身近な隣人の出来事から自らの生き方に大きな教訓を受けたことを無駄にしたくないとしみじみ考えさせられている。