波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方    第21回おう

2015-08-29 11:28:56 | Weblog
台本を渡されたときの嬉しさは言いようが無いほどであった・東北六県向けの帯番組で担当している。自分の声が放送に乗ると言うことで何か不思議な気持ちでもあった。
台本は数日前に渡されていたが、収録は決められたその日のうちに終わってしまう。つまり一発勝負なのだ。収録室へはいり、マイクをはさんで相手役の人と立ちの練習に入る。番組の定番の音楽が始まり、放送が始まった。場面は家の庭先の廊下で学校の休みに同僚の先生と将棋を指しながらの会話である。擬音が将棋の音を入れて、その間を縫うように会話が続く。その場面でのせりふは僅か二度か三度であったが、緊張でのどが殻からであった。収録が終わりその日は特別弁当が出された。そしてギャラというかお礼として500円が渡され、局の車で送迎してもらうことが出来た。
録音しておいたテープを聴いてとてもうまく出来たとはいえず、これでいいのかと思えるほどで恥ずかしい思いであった。そして昼間の苦しい仕事と教会の礼拝、日曜学校の先生と20代の青春をすごしていた。番組の出演はその後、少しづつあったが、殆どせりふが一言か二言と言う僅かな役で主役は回ってこなかった。とても無理だと思われていたのいたのろう。そして3年が過ぎていた。
ちょうどその頃仕事のほうも順調に伸びて東京の得意先が少しづつ増えていた。兄はそのたびにトラックでの東京への配達を指示し、欽二は一人で東京への配達を始めていた。
その頃、父は兄と相談をして東京への進出を検討していたようである。
そして同時に結婚させることも考えていたようだ。しかし当の本人はそんなことは全く考える暇も無く朝から夜まで指示通りの仕事で精一杯であった。
そんな時、岡山から母が福島までやってきていた。母はこうして息子たちの家を回ることを楽しみにしていたので、単なる遊びだと思っていたが、欽二の結婚話を進めていたようである。そしてある日のこと、「今日はある女の人が来るのでその人とお話をするようにといわれた。突然のことであり、何処の誰かも知らず只あって話をしなさいといわれてもどうしたらよいかと思ったが、親の言うことは絶対と言う育ち方であったのでいやだとも言えず会うことになった。

思いつくままに  「話すことの大事さ」

2015-08-26 11:55:19 | Weblog

最近は人と話す機会が極端に減ってきた。まして若い人との出会いや会話はほとんどないと言ってよい。孫たちとも年に一度くらいしか会う機会が無いし、話すことも無く成長した姿を見るくらいである。会話をしないと言う環境におかれてみると会話と言う物が以下に大切であるかと言うことそして会話を如何に大切にしなければいけないか、そしてどんな心構えが必要かということを考えさせられることが分かってくるのだ。
べらべらと考えなくしゃべっていたときは失言、放言が多く、失敗も多かった。
嘗て先輩からも教えられてきた「男子は寡黙であることをよしとする」と言う風潮があり、饒舌を軽薄とみなす傾向もあった。そんな時「聞け、悟れ」とか、「行間を読め」と言うことも教えられた。つまり細かく噛み砕いて説明をしないで自分で考えて行動せよと言う教えでもあった。当時は言われたことの意味が良く分からず、おろおろしたり、教えてもらうこともあったが、次第に上司の言わんとするところが分かるようになり、以心伝心で仕事も出来るようになったことも懐かしい思い出である。
つまり直接話法は無く、間接話法であることもるし、暗示をかけるときもある。(頭の良い人ほどその傾向があった)そしてその理解力によって期待感や信頼感を得て支持を受けることも多かったこともあった。
具体的には黙って相手の考えや方向性をすばやく察知して行動することが美徳とされる傾向があったのである。
現代はすっかり変わってしまった。欧米の風潮も強く影響があり、言葉使いも自己表現も身振り手振りが入り、その表現も大げさになり、年代とともに使う言葉もその年代にしか通用しない言葉を出るようになった。独特の表現を生み出していくことに最新の流行を伴うことになりつつある。従って標準語的な改まってその場、その場にふさわしい言葉使いというものが失われつつあるよう泣きがする。
外国映画やドラマの影響もあるのだろう。体を使った表現や感情を表すことも多い。
日本では心の伝え方でも言葉ではなく、風情であったり、目の置き所であったり、
仕草であったり「目は口ほどにものを言い」的な日本独特の表現があったが、今となっては昔の語り草になってしまった。
しかし黙って心と心を通わせるとか、心に秘めるものは日本独特の良さであり、大事に残しておきたいと最近は強く感じるのである。









泡粒の行方   第20回

2015-08-22 09:46:55 | Weblog
受験のときの事を思い出しながら廊下で待っていた。ローカルの地方だから多少難点があったとしても標準語で読んだから何とか使ってもらえないかなと淡い期待もあった。
そして名前を呼ばれて部屋へ入った。「ご出身はどちらでしたか。」『田舎は岡山ですが、生まれて育ったのは東京でした。」「そうか、それで関西訛りが残っていとるんですね。分かりました。その関西訛りが少し気になるのですが、一応採用とします。明日から
レッスンがありますので午後7時までにきてくださいお。」そしてその日、何人かの人が採用された。閉じ込められていたところから開放されたような嬉しんでさと自分のしたいことが出来る喜びで、その日は興奮が冷めなかった。
翌日から仕事が終わると着替えをして放送局へと向かった。疲れもあるのだが、若さと喜びでそんなことはすっかり忘れて、期待と希望であふれていた。
最初は言葉の基礎となる発声と活舌の訓練と練習である。指導は多分アナウンサーだと思われるが、中々厳しく何度もやり直しをさせられた。こうして普段は午後の10時ごろまで練習をして帰るのであるが、地方局とは言え週に何回かの定期番組を持っていた。
東北六県で順番の番組と福島だけの農村向け番組である。従って当然その番組が予定されている時は台本が作られその役にあたった人はその日の収録で大変である。
もちろん台本は事前に渡されているが、収録当日は夜中までかかって何度もリハーサルを繰り返し収録が行われる。欽二は少し慣れてくると練習が終わるとその収録の様子を見たり自分にも役が回ってこないかと期待するようになっていた。
もちろん古参の先輩も居たので大体主役はベテランが当たっていたので新人には回ることはなかった。しかし日々の練習とその雰囲気の中で昼間の仕事のストレスを解消できるだけで満足していた。
そしてとうとう役をもらえる日が来たのである。「今度の番組であなたにもやってもらうことになったので、よく台本を読んで置いてください。」嬉しかった。どんな端役でもよい、出られることが嬉しかったのだ。台本には一番後ろのほうに「若い先生」となっていた。

思いつくままに    「夫婦」

2015-08-19 10:25:49 | Weblog
今更何をと思われるかもしれないが、この人間関係を改めて冷静に考えるとこの形態にこそ人間形成の最も大事な物があることが分かる。しかし現代ではこの関係がどの程度に考えられているか、冷静に考えてみたいのである。
この夫婦と言う人間関係の原点は聖書における「アダム」と「エバ」にあると考えられるが、神はここで男が一人で居ることが良くないとし、女をおつくりになり、ともに暮らすことを教えられたとある。即ち人間は男と女が夫婦となってこの世を生きていくことを指示しているのだ。そしてその結婚と言う結ばれ方も古来から時代とともに変わってきている。私の場合は昭和の時代ではあったが、自由恋愛が認められず、親が決めて紹介され見合いと言う形であったが、NОといえるものではなかった。
しかし本来は当人同士の自由意志で結ばれすべきものであり、現代ではどんな出会いであろうとも当人同士の自由意志で結婚へと進んでいる。しかし逆に当人同士の主張が食い違うと簡単に離婚へと繋がるケースも多くなることも事実である。
嘗て結婚と言う儀式は厳重な物であり、女性が親を離れて家を出るときは二度と帰ってくることを許さないと言う証として「小刀」を持たせ死を覚悟させたといわれるが、今では「いやなことがあればいつでも帰ってきなさい」という時代になり、夫婦関係も全く様変わりである。もちろん結婚自体も「不必要論」もあり、独身貴族が増えていることも現代の特徴であろうか。
しかし夫婦としての人間関係で変わらないこと、守るべき大切なことは変わっていないはずである。それは後継者を子孫として残すこと、もうひとつは相互に助け合い、守りあってこの厳しい人生を生き抜くことであろうか。
私自身を顧みてその義務を十分果たすことが出来なかった失格者であり、妻を早くに天国へ送ってしまったが、その事は忘れることの出来ない。
人は一人一人不完全であり、必ず助けを必要とする弱い存在である。そして家族であれ他人であれ必ず助けを必要とする存在である。
神が「一人はよからず」と言われたのはまさにそこに大事な意味があることを改めて考えなければならないのではなかろうか。

          泡粒の行方   第19回

2015-08-15 10:20:33 | Weblog
昔は就職を奉公という言葉で店で働く、それを丁稚奉公と言っていた。それは明治大正時代であったから、昭和の戦後の民主主義の時代になって、もう無いと思っていたが、まさにその再現であった。朝は早く起こされ工場へ行き、菜っ葉服に長靴、そして手甲に手袋のいでたちで一日黄色に染まって働く。終わると夕食を済ませ寝るだけと言う毎日が続いた。テレビもラジオも無い。そう、娯楽は一切無いのだ。
兄は自分が軍隊で強いられてきた習慣を其のまま弟に強いて鬱憤を晴らしているかのようであった。何故だろう。欽二は寝ながら不図考えることがある。もし父や母のところに居たらきっと自分のしたい仕事を選んで好きな生活をさせてくれていたのではないか。
何故自分はこんな生活を強いられなければいけないのか、確かに父の事業として与えられた仕事ではある。しかし個人の生活は自由であってよいはずだし、好きなこともあってよいはずである。これではまるで奴隷ではないか、と恨むことさえあった。
しかしこれも修行であり、勉強であり、訓練であろう、教会での説教を聞居ていた欽二は
そんな運命を甘んじて我慢することが出来たのである。
そんな毎日の中で唯一の楽しみは朝の通学のときに出会う、女学生の姿だった。それは
僅かの時間の中で心が躍り、そして燃える瞬間でもあった。その中には美しく目に留まる女学生も居た。その時間に合わせてバスの停留所の前を通るのが楽しみであった。
ある休みの夜、新聞を何気なく読んでいると、片隅に出ていた広告欄に目が留まった。
「NHK福島放送局」からの物で放送劇団員募集の広告だった。
欽二は無意識に兄に相談をしてみた。「この広告に応募してみたいのですが、」すると
いつもは反対する兄が許可してくれた。早速手続きをして応募すると、面接日を知らせてきた。当日は仕事を早めに終わり、市内の放送局へ出かけた。
そこには何人かの応募者が居たが、お互いに知らない者同士黙っている。
やがて名前を呼ばれて面接官の部屋へ、そして名前、じゅうしょ、履歴を聞かれ
最後に紙を渡され、読むように言われた。緊張が走ったが、出来るだけつまらないように注意して呼んだ。「これで終わります。後で名前を呼びますから外で待ってください。」
雰囲気が味わえただけでも良かったと、いつも家にしか居ない外の空気を新鮮に感じながら待っていた。暫くして「お入りください」と声があり、全員が部屋へ呼ばれた。

思いつくままに    「親子  その2」

2015-08-12 09:37:32 | Weblog
親子関係は時代とともにその形態は変化しているのだが、意外と当事者はその事にあまり関心を持っていないだろうし、その事に気づいている様子も見られない。
しかしそのおかれた環境の変化や周囲の人間関係(特に友人関係)で無意識に影響を受けているし、その事から今までに見られない現象も起きているのである。
嘗て小さいときは子供は親の所有物的存在であり、親は子供を自分の思い通りにしていたはずである。しかし、子供の成長とともに親と子供の力関係は逆転に向かうことになる。つまり子供が親を自分の思いに従わせるか、親の言うことを聞かないで自分の思い通りに行動するか、さもなくば様々な形で抵抗行動をとることになる。
その事から起きるトラブルも起きることになるのだが、この事も時代とともにその内容が変わるのである。私自身の経験でも現役で仕事をしていた時代は無意識に子供は親の従属物的な考えであった。しかし子供は成人して立派に大人になっているのである。
とすれば、その時点ではっきりとけじめをつけて一人の大人としての対応を言動で示さなければならないのだが、それがあいまいであり、中途半端のままなのである。
あるときは権威で押さえつけたり、「言うとおりにしろ」的なことで押し付けることもある。しかし「老いてはは子に従え」の例えのごとく、その事に気づくときがくるのである。子供はひとりの大人としてけじめをきちんとつけなければならないし、新しい人間関係を築かなければならないのである。
そしてときのこに教えられ、自分の意に沿わなくても従うこともあるのであってとうぜんなのである。親の任務と代償は子供が一人の大人として立派な人格を備え、成長したことを確認することであろうか。その事を見極めることが出来たときに、親はその任務と責任を果たせたと思うべきではないかと自戒している。
それは男同士で話せる新しい意味での友人関係のようなものでもあろうか。

泡粒の行方   第18回

2015-08-08 10:31:21 | Weblog
兄にどんな考えがその時あったのかは知らない。只結婚早々であったこと(母親の猛烈な反対があったが)親元を離れたいと言うこともあったのかもしれない。夫婦で福島の父の事業をするために岡山から東北へと足を向けたのである。
欽二は大学受験についてあまり関心が無かった。今の自分の力で行けるところがあれば
と思うだけであまりこだわりは無かった。そんな様子を父は見ていて長男の兄に相談したらしい。兄はその時どんな考えがあったのか、父がどんな頼み方をしたのか、ただ
「私が教えるから、福島へよしなさい」と言ったのである。欽二は父の言うとおりに福島へ行くことになった。そこには公立の大学があり、受験科目も少なくて倍率も小さかった。そしてその大学へ行くことになった。
高校の寮生活や親の自由な生活しか経験の無いところから、兄夫婦の家庭へ世話になる事になった。あまり大きくない狭い部屋で新婚生活の兄夫婦の家庭で世話になることは、今までに無い生活に一変したのである。
兄の家庭は軍隊生活そのままであった。まだ軍人かたぎの習慣が抜けていないのか、命令どおりのことしか許されず、わがままも自由も何も無かった。学生時代は学校と帰宅してからは兄夫婦の命令どおりの仕事の手伝いに明け暮れ、何も楽しいことは無かった。
強いて言えば日曜日の教会生活だけが許されていた。自分の言葉で自分の心を開けるのは僅かにこの時間だけで、その時間も限られていて厳重な監視下に置かれていた。
楽しいはずの学生時代のクラブ活動、友人とのふれあい、そして青春を謳歌する年代の欲望は一切途絶されていた。
そしてあっという間の学生生活は終わっていた。学校からは就職先の斡旋もあったが、兄は最初から工場の工員として使用することで決めていたようで、欽二の希望も何も一切相談は無かった。卒業と同時に工場で朝から晩まで何も判らないままで働いて寝るだけの生活が始まった。  

  思いつくままに 「親子ーその1」

2015-08-05 09:19:09 | Weblog
最近新聞紙上で嘗て見たことが無かった(と思う)有名人の親子の問題が話題になっているのを読んだ。私自身も親子の問題をさほどにも思わないで居たが、この歳になると改めて重要であり真剣に考えて本当の親子の関係にしておかなければいけないと思い始めている。良く考えてみるとこの関係は生まれると一番に出来る人間関係であり、その原点ともいえるのではないか。そしてそれはその人の一生を貫く絆として続くのである。
その長い関係は常に「理性と感情」の間で揺れている。漠然とその時々の感情に任せていたが、やがて来る別れとともに親子とはこうあるべきだと言うことも考えておかなければと思うのである。
自分のことで恥ずかしいが、私の家もほかの家と変わらず、典型的な家族主義の家風であり、「親の言うことには絶対服従」的な習慣で育ってきた。従って自分の意思で行動出来るようになったのは何時ごろだったであろうか。?恐らく40歳を過ぎていたのではなかろうか。それまでは親であったり、兄であったり(10歳上)で自分の意思でしゃべったり
行動することにはためらいがあり、戸惑うことが多かった。
特に戦前、戦中、戦後は全てに生活するうえで不自由さが伴ったのでなおさらである。
(自分の力で自活することが不可能であった。)
しかしそんな中リッチな家庭ではそうではない家庭もあった、全ては満たされ自由に手に入る環境であれば各々が自由に生活をエンジョイできたと思うからだ。
もうひとつの要因としては「家風」と言うものも影響しているかもしれないし、親の性格や癖などもあるかもしれない。
従って親子は各家庭でそのあり方はそれぞれであったであろうが、本来親子はこうあるべきだと言うことは親として子供との関係を続ける上でしっかりとした理念を持った上で
成長させ、維持していかなくてはいけないのではないかと思うのである。
(後悔跡に立たず)しかし今からでも遅くない。私は私なりに新しい親子関係を育てて生きたいと思いつつこの問題を取り上げてみたいのである。

   泡粒の行方   第17回

2015-08-01 10:08:33 | Weblog
欽二の父はクリスチャンであった。日曜日は近くの教会へ毎週礼拝を守り、欽二も日曜学校へ行っていた。しかし神様が何であるかそしてどうして教会へ行くのか、分からなかった。そんな父のところへは色々な人が訪ねてきていた。岡山の田舎からは親戚の人が行儀見習いであるとか、仕事の世話とか学生の下宿だとか、色々なことを頼まれたが、いやと言ったことはなかった。そして出来ることを一生懸命世話をしていた。母はそんな父の姿をそんなに快く思っていなかったかもしれないが、従っていた。ある日、ある紳士が訪ねてきた。福島から来たと言いながら、お話をしたいことがあるというのだ。
「自分はある事業をやっていたが、歳もとりこの先この仕事を続けることが出来なくなるので、自分の息子に仕事を託送と思って話したが、誰もそんな仕事したくないと言われ、
この事業を手放そうと思っているが、この事業を売却したい。あなたがこの仕事を買ってくだされば助かるが、もし出来ないとあれば、誰か知っている方を見つけて欲しい」
突然見も知らぬ人にそんなことを頼まれて、すぐ断っても良い話だが、父はその人のために出来ることを考えた。しかし、自分は今大事な仕事を抱えているので、その事業をするわけにはいかない。そこで「私の知っている人に聞いてみてあげましょう。暫く時間を下さい。」そういうと、同業者や得意先、知人と出来る限りの人にこの話を相談したが、
誰も相談に乗る人は居なかった。父はこの話は断るしかないと決心して後日その人に
「申し訳ないが、この話は無理でした」と説明した。するとその人は「あなたに是非この事業を譲りたい」と熱心に頼み始めた。父は仮に買ったとしてもそんなまとまった資金はないし、その事業をする人もすぐには見つからないと再三断ったのだが、頑として聞き入れない。とうとう根負けして父は借金をしてその事業を買い取ることになった。
「取り合えずその鉱業権を譲渡してもらい、その内何とかしよう。何か役に立つこともあるだろう」と考えたのである。
戦後岡山の本社へ引き上げ仕事を続けながらその事業の事は父の頭にあったことは間違いない。そして親戚のおじに福島の事業を託して仕事を見てもらうことになった。
しかし、そんなに長く続けることが出来ないことが分かっていた。そんな時、欽二の兄が戦後軍隊(海軍)から帰ってきた。戦後のことで仕事も無く代用教員などをしていたが、父はその事業を兄に託したのである。