波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「噂話」

2014-10-31 16:50:00 | Weblog
何人かが集まると話が盛り上がって楽しくなる。そんなときどんな話をしているのだろうと気になる。その話題は集まる人によって違ってくるのだろうが、女性の場合は「噂話」が多いのではないだろうか。
世間話から始まって近所の人の動向、そして最近起きた出来事とあらゆることが話題になるのだ。問題はその中身である。まず事実関係が定かでないことが多いこと、そして
それを確かめないで自分本位に解釈して自分の都合の良いように話していることが多い。
簡単に言えば、良くは言わないで、悪く解釈してしまうのだ。つまり、「誰々さんは最近具合が悪いんですって」「最近お隣さんのご夫婦、殆ど顔を見たことが無いわ」「顔を合わせても挨拶もしないの」とか、どちらにしても自分中心の理解であること、無いことを
話していることが多い。
自分の不満を人の言葉を借りて話していることが多い気がするのだ。それはある意味で
自分のストレスの発散になっているし、解消にもなっているのかもしれない。
いずれにしても聞いていて気持ちが良くないし、役に立つことではないのだ。
と言って、人を持ち上げたり、ほめたりするのでは噂話にならないのかもしれない。
最近聞いた話で面白い話がある。私たち老人会の仲間の一人が「毎日何をしているか」と言うことで話題になったとき、「私は毎日プールへ行って3000メートル泳いで平然と言っているのを聞いた。その時はなんとも思わず「そう、すごいね」と相槌を打っていたのだが、最近じじ友とプールへ行くようになって、実際に水泳をすることになった。
確かに高齢者が多いことは間違いない。日中は仕事で来ることが出来ないから当然であるが、平均的には定年を過ぎた70歳代までの人が多いようだ。
われわれ80台はまれであろうか。そして実際に泳いで見ると25メートルを4往復つまり100も泳ぐと限界である。自ら「よく泳げるな」と思うほどである。
そして「この間聞いた彼の話3000メートル泳いでいると聞いたけど、俺たちにはとっても無理だな」となる。「それにしてもどうやったら3000メートル泳げるのかな」と
話しながらため息が出るのだ。
でもこんな噂話なら罪が無く可愛いものである。それにしても3000、メートルは
本当であろうか。気になって眠れないのだ。



音楽スタジオウーソーズ   第21回

2014-10-27 16:51:52 | Weblog
宮下に冷たくされ家にも招待されず出入り禁止状態に追い込まれた外処はさすがの強気な気持ちがなえていた。彼女をあきらめざるを得ないと考えるようになり、コーラスの練習も行く気持ちが無くなり、家で機械いじりをするようになっていた。
住いのある町内での付合いは仕事があると言うことで一切かかわりを持たないでいたが、
何年に一回かはブロックの班長の役割が回ってくる。すると町会費の集金やごみ収集の当番、そして「お知らせの」通知を配るとか、色々な役目をすることになる。妻が元気でいたときはやらせていたが、いなくなって一人になると全部自分がやらなければならず、仕事を抱えながらやりくりしながら、やっていた。年に一度の総会は班長が出席しなければならず、仕方なく顔を出していた。その時次年度の役員選挙が行われ外処は思わぬところで役員に推挙され副会長として決まってしまった。
突然の指名を受けて驚いたのだが、自分もまもなく定年を迎えるし何かしようと思っていたこともあり、引き受けてのだった。
暫くすると町会長から次から次へと雑用を頼まれるようなってきて、面食らうことになった。何しろ数百軒を超える所帯があり、総務をはじめ各部があり、年間行事もありで結構な仕事になる。第一事務作業だけでも繁多である。余計なことを引き受けるのではなかったと後悔したのだが、もう手遅れで何でも器用に片付ける彼の仕事ぶりにすっかり信用が出来て、毎週仕事から帰るとすぐ集会所での打ち合わせで、夜半まで時間をとられることがしばしばであった。昼間仕事場にも電話がかかるようになり、エスカレートしてきた。
「今晩お通夜があって、段取りの打ち合わせをしたい。」「市役所からお知らせをするように言われているが、文章を考えてくれ」など、とにかく繁多である。
酒もタバコもやらない彼のことを知っていて、あの人に頼めば安心と信頼され、夜の付き合いも送迎まで引き受けることになってしまった。何しろ他の役員は仕事を定年で終わった人ばかりで彼よりは先輩で、暇をもてあましているから良いのだが、彼は現役である。
しかし、性格的に引き受けたことは断ることも出来ないこともあり全部処理してっいた。
そんな日々を過ごしていたら、ひょっこり光一が帰ってきた。
「親父ちょっと話があるんだけど」家を出たことを断るでもなく、挨拶があるわけdも無い。外処もそんな息子の性格を知っているので、いちいちとがめることも無かった。

思いつくままに   「顔」

2014-10-24 16:56:24 | Weblog
「目は心の窓」と言う言葉がある。普段は自分で自分の顔を見るのは朝の洗顔のときだけでその他ではめったに自分の顔に関心を持つことは無い。但し、女性の場合はそうはいかない。朝、起きたときから家族にさえも見せないうちに化粧をしてしまうので、素顔でさえ知らないでいることさえあるのではないだろうか。
ある時から私は自分の顔が気になり始めたのである。それはある葬儀で見た故人の写真であった。そこには生前の面影を偲んで写真が飾ってあるのだが不図自分も同じ運命になることを思うと同時に、その写真の自分を想像してしまったのである。
それは見る人によっては単なる一枚の写真であり、思い出の写真かもしれないが、見る人によっては見方が違うこともある。死んだ叔母が生前よく私に「私の葬式には必ずこの写真にしてね。」と一枚の写真を私に託したことを覚えているが、確かに少しでも自分を美しく見せたいと言う女心のようなものは理解できた気がしている。
しかし、男性の場合は化粧をするわけでもないし、今更どうしようもないと思いつつも
自分の顔に責任を持つことも大事ではないかと思うのである。
「目は心の窓」とはやはり普段の心の状態が目に現れる、つまり卑しい心、汚い心、
よりも、日々の心がけで気持ちは変わるものである。どんな問題どんな状況に置かれても
自分中心に独りよがりをしないで、日々新たにしながら生活を続けることを心がけるようにしたら良いのではないかということである。
ともすれば「隣の芝生は青い」「隣の花は赤い」ではないが、人のことが気に懸かり
羨んだり、僻んだりするものである。
それは仕方が無いとしても、気持ちよく一日を終わることを大事にしたいと思うのだ。
「もう遅いよ」と言う声も聞こえてくるが、遅くても良い、生かされている間だけでも
時間の許す限り自分を磨いて少しでも垢を落とすことが出来ないものかと思うのだ。
秋である。本格的な寒さももう底前着ているような気がする。紅葉も今年は少し早いかもしれない。来週あたりいつもの公園へ紅葉の様子を見に行きたいと持っている。

音楽スタジオウーソーズ  第20回

2014-10-21 10:17:43 | Weblog
光一は春子と話しているうちに少しずつ心が揺れていた。自分の考えで自分で行動することの苦手な光一であったが、春子の言葉に次第に傾いていたのだ。
「光一さん一度この家を出て私達二人で暮らして見ましょうよ」と言われて二人は父のいない留守の間にアパートを決めて引っ越したのである。それは父が福島へ行っていて不在だったし、宮下を連れて父が温泉旅行をかねていたときでもあった。外処はその間10日ほど留守をして帰ってきた。何となくがらんとした家の空気で二人が出て行ったことは分かったが、何となく分かっていたし、驚くことではなかった。誰もいなくなった自宅は
何となく冷たさだけが残って空虚だった。
外処は腹を立てることも無く、「そうか、出て行ったか」と特別追求することも無くいつもどおりの生活を続けた。彼の頭には宮下とどうすれば一緒に暮らすことが出来るか、そのために何が出来るかと言うことだけだった。彼女からは「絶縁状」を受けた形であったが、そんなことは意に介していなかった。全ては自分が差配し自分の考えで進める、そしてそれは間違っていないと言う自分の信念は変わっていなかったのである。
今考えていることは彼女が住めるアパートを自分の家のそばに置くことであった。適当なアパートを探して彼女をそこに住まわせ自分がそこへ通えばよいと言うことであった。
そうすれば子供たあのちは独立して母親をあきらめるだろうし、邪魔されないで二人で楽しい時間を持てるということだった。彼女は自分の言うとおりになると言う自信があったし、何だかんだといっても所詮は自分を頼り、自分についてくるという自信は変わらなかった。幸い適当はアパートが自宅から遠くないところで見つかった。
そして彼女に「子供たちはもう大人だ。子供離れをして私のところへ来なさい」
彼はこれでうまくいくと自信満々だったが、彼女の気持ちは違っていた。彼に逆らわないで、ついてきていた。確かに男として魅力もある。頼りがいもあると思っているが、
子供とはなれて生活すると言われてはっきりと母性本能に目覚めた。
「とんでもない。そんなこと出来るわけ無いでしょう」あまりにも強いその態度に外処はびっくりした。「どうしたんだ。何かあったのか」
驚いてあっけにとられていた。

思いつくままに   「実りの秋」

2014-10-17 10:55:13 | Weblog
秋を象徴する言葉はたくさんある。「読書の秋」「食欲の秋」「行楽の秋」などがあるが、その中で一番好きなのは「実りの秋」がこの時期一番心にかかる。
アメリカではこの時期「サンクスギビングデー」という祝日を設けて収穫を神に感謝することを大切にしている。10月の終わりに行う「ハローウイン」も重なり国民全体で楽しんでいるが自然であり、微笑ましい行事である。
一般的に四季の中で一番好きなのはいつですかとアンケートをとると「春」とする人が多いと聞いたことがある。寒さから開放されて桜の花を見た時、今年も元気で桜を見ることが出来たという思いが強いのだろうと思われる。(夏と冬は無い)
秋も何となく寂しさや「黄昏」を想像して落ち葉、枯れ葉と連想することからあまり好きだと言う人はいないだろう。然し私は一年のうちで一番充実を感じて、身の引き締まる時期として「秋」を大切な時として捉えている。春から始まり、暑い夏を乗り越えてやっと
身体が自由になるこの時期に何が出来たか、この一年を振り返り、その成果は何かあったかとこの時期にその結果を考える時期だと思っている。
スポーツの世界では野球も、ゴルフも、相撲もある意味この一年の総決算としての区切りをつけるときとしている。
そんな訳で私も個人的に一年を振り返り考えて見たい時期なのである。その内容はいちいち取り上げるほどのものではないが、一日、一日を自分なりに「これで良いのだろうか」という思いで過ごしてきた気がしている。その中には「後悔」が多いのだが、「これで良かった」と思うこともある。ゲーテが「青春とは顧みるときの微笑である。」と言ったと読んだことがあるが、人生は出来ることなら過去を思いながら微笑むことが出来るものにしたいと願っている。信仰者の一人として相応しい言動で過ごすことが出来ているかと言うことでもある。
何事につけても無意識に自分中心に考えて損得を計算したり、自分の思い通りにならないことに不満を持ったりしている自分に後悔があるが、それが少しでも少なくなることを願って「目に見えないもの」への感謝と恵みを覚えつつ生きたいと考えている。
そんな魂の存在を覚えて自分が今年どれだけの実りをつけたかを考える時期でもあると思っている。

音楽スタジオウーソーズ   第19回

2014-10-13 16:10:00 | Weblog
結局は自分の役目はこれで終わるのかと思うと少し寂しい思いもあったが、サラリーマンであれば、これも運命かとあきらめるしかなかった。福島は少し遠い気がして気が重かったが新しい始めての土地も気分転換で良いかと考え直していた。
週末に自宅へ帰ることは出来たし、コーラスで彼女との出会いも出来た。二人の間には大人としての振る舞いであったが少しずつ距離が近くなっている気がしていたが外処が踏み込もうとすると彼女は本能的にそれを避けるのだった。
不思議なもので人は追われていると感じると逃げの姿勢になり、避けられていると思うと追う気持ちが働くものらしい。むしろその度合いは強くなるものなのだ。(ストーカー)
彼は結婚前の青春時代を思い出しかのように情熱が戻っていた。仕事も順調であり、家族も何の問題もなかった。だからこそ、何のためらいもなく一途なそして純粋な恋愛感情を持つことが出来たのだ。何時しか彼女の住まいも分かるようになり、コーラスの帰りをともにして送る機会を持つようになっていたが、彼女は彼を決して家に入れることはなかった。彼女には主人がいないことは知っていたが、大人の子供が二人いることは分かっていた。子供たちも大人の親たちのことは承知で理解していると思われ、母親を一人の女性としてみていると思っていたが、真実は分からなかった。
彼女の子供たちが外処の存在を知ったのは、コーラスの帰りが遅くなり始めたころであり、出かけるときの様子がいつもと違ってきたことであっおた。いつもはあまり着るものや化粧に時間をかけることがなかったが、最近は出かける前になるとそわそわと落ち着かない様であった。娘は目ざとくそんな母を見て問い詰めた。「お母さん、この頃少し変よ
誰か好きな人でも出来たの。もう年なんだからよく考えてね。」と釘を刺していた。
然しそんな家庭のこととは関係なく、二人の関係は続いていた。彼女のほうも外処のマスクやその熱意に少しずつ負けて頼るところがあったのである。
たびたびの密会、時間外の帰宅がつづき二人の関係は次第にエスカレートしていた。
しかし、その度合いと反比例するように彼女の家庭は次第に壊れていったのである。
そして彼女は決心に迫られて、外処に「これ以上の関係を続けると子供たちを犠牲にすることになります。それは私には出来ません。許してください」それは母としての自覚に目覚めた言葉であった。

思いつくままに  「一歩下がって」

2014-10-10 09:45:05 | Weblog
ばば友が10年の間介護をし愛してきた主人のじじが先月中旬に他界した。
誰に知らせることもなく通夜、葬儀が行われたのだが、町内の告知もないままに

思わぬ大勢の人々が参列して別れを告げた。そして自宅の居間に現在は位牌が
置かれているが、毎日のように訪れる人が絶えない。少し落ち着いてきたばばを
慰め励ますために聞くともなく生前の話を聞くことができた。この地へすんで50年と
言うことで一番長くすんでいるということと、学校が近いことで文房具の店を開いて
商いをしていたと事もあり、町の発展とともに住居が増えその店を町内の集合場所として
利用することが多くなっていった。じじは仕事で出かけていたが、ばばは店番をしながら
子供を育て、町内の総務の役を頼まれていた。20年近い月日の中で住民の声を聞き、
相談に乗り、民生の仕事もすることになり、町内の相談に乗って手助けをする毎日だったと言う。自分の店や子供の教育もあり、断ろうと何度も思ったが、会長から頼まれ
そのたびに「じじが良いと言うなら」と断るとじじは決して止めろと言わず、表に立たないでばばを補佐していたと言う。必要とあらば自分の家の居間を開放し必要とあらば
無償で家具や食事の世話までしたと言う。
この地区をパトロールする若い警官も、店へ立ち寄ることも多く、ここで休憩してはじじ、ばばに甘えていたという。今ではすっかり成長し各地で立派な仕事をしているが
ここでの事は忘れないでたびたび便りをよこしているとの事。感謝状も飾ってある。
そんな尽きることのない話を聞きながら、不図思ったのはじじのこの人徳はどこから
生まれてきたのだろう。そしてそれは何だったのだろう。新潟の十日町の農村から出てきて職人としての一生であった。そのじじばばが何時も言っていた言葉に「一歩下がって
話を聞きなさい」と言うことであったと言う。
人はつい無意識のうちに話をしていて自分が前に出てしまうものである。自分の自慢であり、知ったかぶりをしてしまうのだ。このじじばばはこの一言を胸に50年貫いたことが
この地の人々の心に残り、動かし続けているのだろう。
私は改めて自分の人生をこの言葉を噛みしめて、省みて教えられ、諭されたのである。

音楽スタジオウーソーズ  第18回

2014-10-06 11:43:33 | Weblog
光一と春子は新婚早々だったが、お互い毎日仕事に追われ別々の時間の中で生活をしなければならなかったのでゆっくりと話をする余裕もなかった。父が東京勤務となり、春子は朝晩の食事、洗濯など家事に追われ忙しく立ち回ることが多かった。舅は怖いものという
観念は父親を早くになくして経験のない春子にはあまりなかったのだが、父の光一に対する態度を見ているうちに分かってきた。それは決して優しく教える態度ではなく、何事にも半ば命令調であり、自己主張を許さないつまり自分の言うとおりにしていればよいと言う無言の力が働いていた。光一は自然に無口になり、二人には殆ど会話もなく家の中も自然と暗いものが漂い、交わるものがなかった。そんなある日春子は「光一さん、お父さんは私たちのことをどう見ているのかしら。あんまり何もおっしゃらないし、何を考えておられるのか、よく分からないのよ。」「俺だって同じだよ。あまり話をしたこともないけど、でも、なんでも好きなことはさせてくれてるからね。」「これから私たちのことも
このままなのかしら、これだったらしたいことも、行きたいところへも行けないんじゃないの。」「そうだなあ。どうしょうか。」「光一さん、一度家を出て安いアパートを見つけて二人だけで暮らしましょうよ」つまり家出である。「えっつ、それはいいけどお金があるのか。」「少しなら貯金もあるわ。」「俺も少しはあるけど」二人はそれから話し合って計画を立て始めた。そして仕事場に近いところで便利なところと言うことで不動産屋に頼んでアパートを探し始めた。仕事を終わると紹介されたアパートを見て回ることになった。そしてある一軒のアパートに決めたていた。
外処はそんな二人のことに思いを寄せることもなく、東京での仕事に没頭していた。何事にも手を抜かず真剣にあたることには変わらなかった。個室を与えられて役員待遇に近く、直接指導に当たるではなく、教官の指導役である。彼のノウハウを若い教官に少しづつ教えるのである。
そんなある日彼を信頼している常務から呼ばれて役員室へ行った。
「外処君、今度又新しく要請があってね。ぜひ教習所を設置してほしいと頼まれたところが出来てね。君にしか出来ない仕事なんでね。何とか、又頑張ってほしいのだが、」
「今度はどこですか。」「ちょっと遠いんだが、福島なんだよ」
少し気の重い役目であった。

思いつくままに    「週に一度の出会い」

2014-10-03 11:43:41 | Weblog
今から28年前、妻が難病である「アルツハイマー」にかかって以来、お世話になってきた女性がいる。当時子供二人を抱え、妻の介護をしながら仕事を続けることは出来ないことではなかったが、安易に派出婦会を通じて契約を交わした。然し病人にもよるのだろうが、当初何人かの人は介護をめんどくさがり長続きせず止める人が多かった。途方にくれながら代わりの人を頼んでいたが、その中で一人だけ最後まで真心こめて介護をしてもらった人である。そして妻が亡くなった後もずっと世話になってきた。それはその女性に子供がいなかったことで母親をなくした残された子供のことが心配だとその世話をしながら家を守ってくれたのである。つまり子供たちの成長とともに成人式、そして結婚、出産、そして孫の世話と母親の側面的な女性でなければ出来ない事をすべてであった。もちろん仕事を持っていた私のことも含めてである。もちろん彼女には家庭があり、ご主人もいたが、子煩悩な性格からか私の子供を実の子供のように面倒見たのである。
そして何時しか年月を重ね、当時50歳だった彼女も80歳を迎える年になっている。
さすがに老いてきて出来ることは少なくなったが、週に一度の出会いを続けながら
子供たちのことや孫の成長や様子をお互いに話しながら過ごしている。
昨今は足が悪くなり歩行もままならないが、この時間を大切にしている。しかし、この人の存在が私の人生になかったとしたらその生活はどうなっていただろうかと考えるとき
私は想像の出来ない運命を感じる。少なくても私自身の負担は大きく、重く又そこから生じる様々な問題をはたして乗り越えてくることが出来ただろうかと思うとき、私は大きな導きのような定めを思わざるを得ない。
私の人生がこのように安定して平安の流れの中に過ごせたこと、健康を維持続けることが出来たこと、これは自分ひとりの力であったとは到底思えないものである。
こうした目に見ない大きな力で支えられて今日あることを改めて感謝したいのである。
人は自分の力を過信して自分に負い目を負うことを嫌うものだが、力のない土の器のような自分(もろくて、こわれやすい)であると考えるとき、目に見えない魂の働きがあることを知ることが出来る。この世的には契約であり、仕事のひとつであったが、今ではかけがいのない宝のような存在であり、関係でもある。そして長い時間をかけて育てた信頼関係でもある。週に一度の時間をこれからも大切にしていきたいと思っている。