波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

 コンドルは飛んだ  第14回

2012-08-31 09:13:26 | Weblog
話を聞きながら、辰夫は不図不思議に思うことがあった。谷脇取締役とはまだそんな面識はない。自分もこの会社で仕事をするようになって、まだ数ヶ月である。そんな存在なのにわざわざ自分を指名してこんな話をするのは何故なのだろうか。
そんな空気を知ってか、知らずか取締りの話は続いた。「そこで当社はこの山からの撤退を決断した。しかし当初の開始から現在まで10年以上の年月が過ぎている。何もない標高4千メートルのボリビアの高地に数百人の労働者を集めて、仕事をすることは簡単ではなかった。山の採掘に関する設備から始まって、そこで働く人たちの宿舎、家族のための病院、子供たちのための学校、その他諸々の必要な設備を完備しなければならなかった。言ってみれば、何もない荒野に一つの町を建設するようなものだった。しかし決めた以上、それを途中で辞めるわけにはいかなかった。日本からの派遣社員が中心になって着々と進められ事業を始めることが出来た。」初めて聞く話に辰夫は興奮を覚えた。まだ日本から出たこともない自分にとって、外国の話が珍しいことと、そのスケールの大きさに想像も付かなかった。「現地での仕事は何とか順調に計画通り進んだが、最初に言ったように有資源であることは分かっていた。それはいつか閉山の時が来ることを計算に入れておかないわけには行かないと言うことだ。そしてその時が来たと言うことなんだ。」何時の間にか冷えてしまったコーヒーを口にして、時計に目をやった。
「もうこんな時間か。岡本君、この辺で休憩をかねてお昼にしよう。好きなものを取るから何でも言ってくれ。」秘書が呼ばれた。「それじゃあ、いつもの所からうな重の上を二つ頼むよ」と言った。
それにしても何時の間に自分の事を調べたのだろう、そのことが頭を離れなかった。お昼をはさんで話しているうちにそのことが何となく分かってきた。岡本についての調査はかなりそれなりになされていたようだ。それは学究的な識見ではなく、むしろ人間的なものであった。役員ともなれば、その意味では人間を見る眼があったと言える。普段の行動、言葉、その眼光一つ一つにあるものをしっかりと捕らえていた。それは文字や言葉で表せない感覚的なものもあったであろう。
時間が過ぎるに連れて、辰夫はその話の中に没入していったのである。

思いつくままに

2012-08-28 08:56:43 | Weblog
間もなく9月の声を聞こうとしているが、真夏の猛暑が続いている。何とか日々工夫をしながら耐えているが、体力気力に影響が出るのは仕方がないことと思いつつ、昨年との比較をしてみた。去年の日記には確かに8月に入り少しづつ気温は上がり
30度を越える日が続いているが、20日頃から30度を越える日は少なくなっている。大した違いではないと言ってしまえばそれまでだが、「暑さ、寒さも彼岸まで」ではないが、お彼岸が待ち遠しいこの頃である。
オリンピックも終わり、夏の高校野球も終わった。町内の夏祭りも終わり、夏の行事が過ぎていこうとしている。
若い選手が活躍し成長しつつある姿を見ながら、自分もそんな時代があったことを懐かしく思い出していた。
高校時代には弁論大会や討論会へ出場し、新聞部であちこち駆け回ったこともあった。今から思うと何とか自分を目立たそうとする意識が働いていたのか(自分の才能は別として)そんなことをしなくても人の目に止まる人は何もしなくても目立ったものだった。それは女性の場合だと顕著である。美しいと言う姿、形で知らないうちに男の学生に目をつけられて、何時の間にか噂になり、学校中に知られていたりしたものだ。(男性の場合としても
あると思う)
そんな時、何となくその人が羨ましかったり、気になったものだが、それはこっちは知らなくても、知られていると言う光栄見たいのものがほしかったのかも知れない。
実際、人間がこの世で生きていて誰からも振り返ってもらえない、声もかけられないと言う事は淋しいことかも知れない。
家族はその中で最低限の「輪」であろう。小さくても、少なくても家族はそんな時大きな力となっていることを改めて知らされる。しかし、ここでもし、目に見えない神を信じることが出来るならば、神はいつも「あなたのことは全て知っている」と
言われるに違いないと考えることが出来る。それは何時、何処にいても、そして何をしていても大きな喜びであり、力であることを感じることが出来るのである。どんなに美しい人であっても、姿かたちの良い人であっても、権力のある人でも何れは
消えて、衰えていく。そして人の心は移ろいやすいものであり、その場限りかも知れない。
しかし神の目は永遠に変わることなく私たちを見つめ続けているのだ

 コンドルは飛んだ 第13回

2012-08-24 11:27:07 | Weblog
D社はこの業界でも長い歴史を持っていた。それは社内の何処そこに空気として伝統的に残っていた。辰夫は最初転勤してきて上司に連れられて挨拶をしていたが、その時のことを思い出していた。大きなビルの何階かを占有していたが、役員室は六階の奥にあった。エレベーターを降りると正面に受付があり、そこで用向きを伝えるとそこから全社へ伝達される仕組みである。
役員室への場合は社員であっても、その許可がなければ出入りは出来ない。
重い扉を開くと赤いじゅうたんが敷かれていて、その突き当りの左側に秘書室がある。そこには10名ほどの女性秘書が待機していて、その統括者として室長の男性がいる。奥まったところにいくつかの応接室があるが、その一室に通されて挨拶をしたのだ。この日も取り締まりは岡本を、その一室へ連れて行くと、差し向かいに座った。取り締まり担当の秘書がお絞りを持ってきて「お飲み物は何にしましょうか」と聞いている。「岡本君はコーヒーが好きだったね。美味しいコーヒーを頼むよ」とにこやかだ。「どうだい。少しは慣れたかな。初めてのところだと多少気まずい事もあるかもしれないが、だんだんなれると思うから
よろしく頼むよ。所で君はどのくらいこの会社のことをどれくらい知っているか知らないが、実は海外にも結構山や工場、そして事務所を持っていてね。」と話し始めた。秘書の持ってきたコーヒーを少しづつ飲みながら、注意して話を聞く。
確かに、アフリカ、南米、他つまり非鉄金属の生産されるところへは、何らかの形での関係を持っていて人も派遣していることは漠然と知っていた。アフリカのニジェールへ派遣されていた社員が、同じ総務へ帰ってきて机を並べている人もいたこともあり、実感としては分からないまでも話は分かる気がしていた。
「南米のボリビアには、数年前から同業他社と共同で採掘のために投資をして、日本へ原鉱石を送って加工をしていたが、何しろ有資源であり、無限ではない。そろそろ枯渇することも分かっており、撤退を検討し始めたところなんだ。」
話がいきなり具体的になり、核心に触れてきて辰夫は緊張と驚きを感じはじめていた。
しかし、まだ他人事のようで自分のことでは聞くことが出来なかった。小さい会社と違って、大会社とも成れば数年先をシュミレーションして計画を検討することは常識であることは分かっていた。

      思いつくままに

2012-08-21 09:12:18 | Weblog
私が散髪に行っている理容師さんは70才をこえるお婆さんである。女性特有の話好きで、その都度問わず語りで話すのだが
「今年の夏は昨年より暑いけど、どう過ごしていますか」と水を向けてみた。すると「クーラーは一切使わない。(店は別だが)最初から自分の部屋にはつけないことにして(つけると使いたくなるし、結局使うことになる、なければ使うことはない)
。扇風機もなく、団扇を時々使うだけだと言う。夜は窓を開け放し寝る。冬は逆に毎日天気が良いと布団を毎日干して暖めて
夜はホッカイロを偶に使う程度で過ごすのだ」という。初めて聞く話で信じられないような気がしたが、冷静に考えてみると
自分たちが過去の習慣に捉われて、以下に安易に何の工夫もなく生活していたかを考えさせられた。
なんでも贅沢に、あれもこれもと何の工夫も我慢もせず、必要なものをそろえて楽に楽に身体を慣らしてしまっていたことを
改めて考える機会を持った。自分でしたくないこと、他人が嫌がることなどすることはまずなかった。
仕事にかこつけて、家の事は一切しないのは当然ながら、自分のことすらしない習慣が身についてしまっていた。
やがて一人になって生活をするようになって、否応なく自分で身体を動かすことを覚えるようなり、少しづつ行動を起こす。掃除、洗濯、食事をはじめとして、その日一日の行動計画を自分なりに考える。
そして一日が終わり、反省を込めて祈りをする時、計画の半分も出来なかったことを思う。また、逆に思わぬ喜びや幸せがあって心が和むこともある。
「もし身体の一つの部分が苦しめば、全ての部分も一緒に苦しみ、もし一つの部分がほめたたえられれば、全ての部分も一緒に喜びます」とあります。
仮に病気や老齢のために人手がかかり、この人がいなければ、生きていなければどんなに楽になるだろうと思うような人でも、その人の「困った存在」が「困らされた人」にいろいろなことを与え、後に良かったと思うことさえも出てくるのである。
人間は、全てにひとりの存在であることを覚えて、自分で行動することを覚えていきたい。そしてその中から身体全体が動き
自分で出来ることの喜びを発見し、自信を持つと同時に、そこから新しいものを生み出すことが出来ることを覚えたいと思ったのだ。

 コンドルは飛んだ 第12回

2012-08-17 08:57:52 | Weblog
前の会社の時と全く雰囲気が違うことに気がついた。部署に配置された人数もそんなに変わらない。男女の比率も少し男性が多いという感じだが、似たようなものだ。それなのに何故か違う。前はそんな中で何となく柔らかな、そしてまどやかなものが感じられた気がしていたが、ここは何となく全体の空気が硬い。そして何となく冷たい感じがしていた。会社の主業の内容や歴史から来るものなのかと辰夫は仕事をしながら、自分もここの空気に慣れるようにしなければならないと感じていた。
昼になると一斉に上階へあがるので、付いてゆくとそこには社内食堂があった。「これは便利だ」とほっとする。前のときもそうだったが、弁当などと言うめんどくさいものには絶対手をつけない久子に辰夫は頼んだことはなかった。しかし昼になると外食に外へ出るのも億劫だった。あまり人付き合いも上手ではないこともあって、声をかけられることもなく一人で済ますことが多かったし、そんなことで気を使うのがわずらわしかった。
此処なら安心である。少々のメニューの少なさと、好みを我慢すれば適当に済ませることができるし、何より屋上へ出ての
タバコの一服は何よりのストレス解消だった。何時からだろう。気がついたときには結構タバコを吸うようになっていた。
家ではおおっぴらに吸うことを注意していたし、何となく肩身が狭い感じがしていたが、ここでは胸いっぱいに遠慮なく吸えることが嬉しかった。営業のように外出して夕方まで帰社しないのではあれば、適当に場所を探して休憩も取れたが会社ではそうもいかなかった・一週間の出張が終わると、また、デスクワークに戻る。嫌いではないが変化がなく、行動派の辰夫には何となく物足りないものを感じていた。
自分では気がついていなかったが、エネルギーの消化不良のようなものを感じていたのだ。
そんなある日の夕方そろそろ仕事を片付けようかと思っていたときだった。机の脇に何となく大きな影のようなものを感じた。
「君が岡本君か。よろしく。」と気軽に声をかけられる。総務の担当役員として紹介されていた、谷脇取締役だった。
その頃の社内の役員は昔のまるで殿様のような雰囲気があり、部屋も廊下のずっと奥にあり、赤いじゅうたんがしかれ、
特別室になっていた。当然普段はめったに会うことも出来ないし、まして話などできる機会はなかった。
「突然だが、君に少し聞きたいことがあってね。時間あるかね。」「はい。分かりました。いつでもどうぞ」と緊張して言うのが精一杯だった。

      思いつくままに

2012-08-14 13:38:32 | Weblog
毎日を平和に過ごしている現代はとても幸せだと思う。同じ日本において今から500年前の戦国時代では日々が同じようでもそこに暮らしている武士は誰の下に付けば生きながらえることが出来るのか、一族は助かるのか必死であったし、そこに住んでいる庶民は何時何が起きるか、一寸先も分からない毎日を過ごしていたのである。現代の日本は表面幸せに見えるし事実平和かも知れない。しかし毎年三万人以上の人が自分の命をなくしている事実や表面に出てこない心の悩みで苦しんでいる人が大勢いることを考えるとそこには何があるのだろうかと考えてしまう。
その背景の一つには先々のことを考えて失望落胆して希望を失っている人があることを思うし、「先のことは考えたって、わかんないのだから」と割り切って考えようとしない人も多いと思う。
しかしどちらにせよ、人間が生きていくうえで絶対的なものは何一つなく、「明日何が起きるか分からない」と考えることのほうが本当であろうと思う。その上で自分がどう考えて生きることが大事か、若いときには無我夢中で過ごしてきた日々を大切に思うこの頃では、このことをつくづく思わせられるのである。
考えようによっては毎日は不安だらけであるはずだ。まして自分の思うとおりに出来ているようでできていないことが多い。
勿論そこには何の保証もない。そう考えると、考えれば考えるほど不安が迫ってくる。個人的には個々に貧困、病気、災害、
裏切り、死別、精神的なもろもろの迫害等、数えればきりがない。
反面その弱さの中にあって、心の中では豊かさ、健康、平和、日々の糧、家族の長命などを願いつつ努力をしている。
そんな毎日の中で教えられる言葉がある。「あなた方を襲った試練は人間に耐えられないようなものではありませんでした。
‥‥むしろ耐えることが出来るように、試練とともに抜け出る道をも用意してくださるのです。」
毎日が自分にとって良い日ばかりがあると思わず、むしろ願わしくない面が多いと覚悟していることを教えられると同時に
その試練がその人を強めることになるということもしっかり覚えておきたいと思う。
日本の期暦では「旧盆」になる。人々は思い思いに余暇を過ごしていることだと思うし、中には先祖を思い墓参へ赴いている人もいることだと思う。しかしこんな時こそ、真の「平安」はなんであるかを考えてみることも大切だと思う。

 コンドルは飛んだ  第11回

2012-08-10 10:23:59 | Weblog
注意を受けてそれで済んだのかと普段どおり仕事をしていたある日、上司の部長から突然呼び出しを受けた。「岡本君、突然だが、今月末でこの部署の仕事から転勤を命じる」ということであった。何らかのお咎めはあっても仕方がないと覚悟はしていたが、自分で良かれと思ったことをしたことだから、あまり後悔はなかった。何れは何処かへ行かされるだろうと思っていたし、遅かれ早かれの事と割り切っていた。「分かりました。ご迷惑かけました」と挨拶をすると「実は関係会社の方で、君を依頼されているところがあるので、そちらへ行って欲しい」と言われた。
聞くと、今の会社の大株主でもあるD鉱業というやはり大手の上場会社である。一言で言えば「山やさん」とも言われる会社で世界に多くの鉱山を持ち、古い歴史のある会社であった。
その日、帰宅して久子に早速報告する。「今度、会社を替わることに成ったよ。」「ああ、そう」と軽く頷く。辰夫は思わず
「心配しないのかい」と言うと、「だって、会社が変わるだけでしょ」とこともなげに言う。「それはそうだけど、どうしてとか、今度はどんな会社なのかとかあるだろう」というと、「だって、私が行くわけじゃないしお仕事が出来ればいいんじゃない。ノアちゃんのミルクが買えればいいわよね」と笑っている。辰夫はやっと顔を見るとニコニコ笑うようになったノアの顔を見て少しほっとしていた。久子の物に動じない強さは知ってはいたが、こうして現実の問題にぶつかっても、平気でいる姿に、これで自分も安心して仕事に専念できると、改めて自覚することが出来たのだ。
新しい会社の部署は、やはり「総務」であった。今度は人事専門である。D社は子会社が20社以上あり、親会社がその全権を管理している体制である。勿論各会社の社長を始め役員は親会社の総務の仕事の範疇に入るし、下は労働組合の管理も入る。
全国から、様々な情報が入り、それを整理しながら上の指示を仰ぎ、それを伝達し潤滑に運営がなされる状態にするのだ。
その問題によっては現地に赴くこともあり、辰夫の仕事もその行動範囲も以前よりは広く大きくなり忙しくなった。
出張も多くなり、家を空けることも増えていた。
「久子、今度は秋田へ一週間ばかり缶詰になりそうだ。支度を頼むよ」「いいわよ。でもあなたの好みもあるでしょ。自分でおやりなったほうが間違いないわよ」「そうだな。」そんな日常会話が自然であり、何の不満もなかった。

      思いつくままに 

2012-08-07 09:06:20 | Weblog
嘗てサラリーマンとして勤務していたとき、シンガポールに工場があり、出張で何回か行くことが出来た。観光は出来なかったが日本から派遣されている社員の家庭を見ることが出来たが、その印象はやや余裕を感じさせる(部屋が幾つもある)ものであった。夫人の話を聞くと大手商社の場合などは社宅とはいえ、かなり大きな一軒家で別棟に「使用人室」まで付いていてメイドさんがいるそうである。そしてそのメイドさんのいるところに小さな子供までいる事もあるとか、何故か聞いてみると親が病気でメイドさんの所でともに面倒を見ているのだと言う。つまりその社宅にいる人が子どもも含めてメイドさんの生活を賄っているということになる。余裕と言えばそうかもしれないが、考えてみると出来そうで出来ないことだと思う。それは自分の収入の内で行うと言うことであり、自分の金は自由に使ってかまわないというものの、誰が他人のために金を使うことを考えるだろうか。
「私たち強いものは強くない人の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とはパウロが言った言葉とされていますが、これは「互いに重荷を担い合いなさい」と言うことであろうが、頭で分かっても、普段の生活の中で考え付かないことであり、まして自分のものを人に与えることを進んで行うことは考えも及ばないことであろうと思う。
その行為には当然ながら自分が他人のために「耐え忍ぶ」という犠牲を伴うこと等出来ない事だからでもある。
例えば、良くあちこちのグループ(学校、町内会、教会等)でバザーが行われているが、ある人がこんな事を話しているのを聞いたことがある「寄付でも、品物でも出すときはこんなに出して大丈夫かなと不安になり、後で困ったことになりはしないかと心配になるのではと思うことがあるが、その結果、何時の間にかその分くらいの埋め合わせがちゃんと出来ていることにびっくりすることがあるんですよ」というものである。しかしそれを意識して(計算して)打算に走ったならばその事は意味を失っていることになるのだ。今、日本では増税をめぐって大きな動きが始まっている。
この結果がどうなるのか分からないが、本当の社会の平等、福祉の精神は喜んで自分の不利を耐え忍びながら受け入れることを認めることから始まるのだと言うことを、改めて考えさせられている。

 コンドルは飛んだ  第10回

2012-08-03 09:50:49 | Weblog
普段口数も少なく、優しい言葉を言えることの出来ない辰夫だったが、気持ちは人一倍気を使う所があった。久子は妊娠中から仕事もやめていたが、それほど家のことが出来る(好きなタイプ)ではなかった。辰夫は仕事から帰ると落ち着くこともなく表に出て小さいながらもある庭の掃除をしたり、ごみ捨てなどできることで身体を動かしていた。
二人は何時からかお互いを呼び合うときに「タッチ」「チャ子」と言うようになっていた。それは偶然からだったのだが、二人はそのことでお互いの信頼を信じあうことが出来た。生まれた女の子は「ノア」と名づけられ、すくすくと育った。
辰夫はその頃会社での立場が何時の間にか微妙な存在になりつつあることを知らないでいた。ある日、同僚の一人に昼休みに声をかけられた。「ちょっとお話したいことがるのですが、時間をいただけないですか。」「いいですよ。休憩室で待ってますよ。」
早めの食事を済ませて部屋へ行くと、某氏はすでに来ていてタバコを吸っていた。
「実は内々に給料の前借をお願いしたいのですが、何しろ親が急病で倒れて入院し差し迫って金が必要になって」と言う。
辰夫の仕事のうちにはそんなことは入っていない。それは飽くまでも財務部であり経理の仕事である。はっきり断れば、それで済む話であったが、話を聞いているうちに不思議な気持ちになっていた。そして総務で扱っている経費のうちで、何とかそれを補うことが出来る方法はないかと考え始めていた。当然決まった日になれば返しに来ることは分かっていたし、その間の何日かを融通してあげればよいことである。「本来出来ることではないけど、君が言うように給料日にきちんと返してもらえるなら、そのお金を用意してあげられないこともないよ」と返事をしてしまった。
冷静に考えれば、とても常識的に出来ることではないことだが、その時は魔がさしたようになっていた。
「助かるよ。必ず返すから、ありがとう。」その嬉しそうな顔を見て辰夫は自分も救われたような気持ちになっていた。
その事は約束どおり、無事に返済され何事もなく過ぎたはずだったが、後日帳簿処理の検査のときに明らかになり、辰夫はその説明にあたり、その事実を明らかにせざるを得なかった。金が戻って影響がなかったから良かったではすまないのだ。
それは一時的とはいえ、当然ながら不正行為としてみなされるのだ。