波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに  「2016年を迎える  その1」

2015-12-30 10:27:16 | Weblog
間もなく2015年も終わり2016年の新しい年を迎えることになる。世界はこの宇宙を始め更に変化を続けつつある中でどんな年を迎えようとしているのだろうか。
この世にあって健康を与えられてその中に生かされている私たちにどんな暮らしがまっているのだろうか。そしてどんな影響を受けながらどんな時間を持つことが出来るのだろうか。各々が期待と不安の中にあることだろうと思う。
世界の国々は総意の元に各々の国々が話し合いを行い、自国の繁栄と発展を願ってその存続を図ることだろうが、その中で大きな影響をもたらすのはアメリカであり、中国の動きであろうか。この大国がその国力と政治を有効に発揮して「世界平和」のためにどこまで尽くすかを願わずにはいられないと考えられる。
日本は此処3年久しぶりに政治体制の安定とともに、良くも悪くも「安定」期に入り国力も僅かづつ上昇しつつあることは喜ばしいことである。やはり基本である政治による政策が正しく行われることが重要であることがわかる。(短期で変化していては何も出来ないし動揺するだけである。)2016年は4年後に迫るオリンピックへの準備の年の第一年を迎えることになる。国立競技場をはじめオリンピックを迎える諸設備、そして世界の人を迎える準備の年である。関連する建設投資をはじめその他の新規事業への影響を考えると日本全体への活性化は間違いないと思われる。またここ数年増加しつつある日本への海外からの来日人数の増加はその関心度と日本への魅力を示し、本年度約2000万人を数え、2020年には3000万人が予測されていると言われる。
この二つの大きな要因だけでも2016年は明るい材料と言えるだろうし、この波及効果は日本全体に何らかのプラス効果に繋がると思われる。
ただし、少子高齢化は来年もますます進むことも間違いないだろう。それは日本の活性化に反し、エネルギー不足を思わせるが、海外からの援助や日本人特有の英知が生まれることを期待したいものである。また想定外の予測されない災害などもあるかもしれないが、総じて安定した
年になると思われると同時に日本らしい叡智と文化を世界に発信していくものと信じている。

泡粒の行方    第39回

2015-12-26 10:54:01 | Weblog
事務所の昼間は男は原則誰もいない。電話番をかねた留守番は紅一点の佐久間女子が一人である。面接のときも「お願いします」と言う雰囲気はなく「困っているようだから留守番ぐらいしてあげようか」と言う雰囲気であったが、本社の研修で岡山まで行き、仕事の要領は覚えてきて呉れたが欽二が指図して効しろああしろと言うことはなかった。つまり自分のペースで自分の仕事をかなしているだけと言う感じであり、あくまでもそこには対等な関係だけであり上から目線も下から目線もなかった。元来欽二には女性に対する理解と接し方が全くと言うほどわかっていなかった。それは私生活でもそうであり、妻に対してもどのように接してどのように理解すべきかはわかっていなかった。生まれてこの方、女性との関係に関して経験や話をする時間を持っていない経験不足から来ているのだろう。
仙台から好きな男性を求めてきたものの沿うことも出来ず、と言っておめおめこのまま帰ることも出来ずに東京暮らしを始めた彼女にとって会社での仕事は生活の手段にはなっただろうが、何も目的に、何が楽しみで仕事をしているのか、そんな心理は全く掴むことはできなかった。
規則どおりの時間に来て、規則どおりの時間に変える。休憩時間になっても打ち解けて話すこともなく、話しかけられることもなかった。田口も浅野も同じである。それぞれがそれぞれの自分の殻にこもって仕事をしていたともいえるのである。
欽二はその頃から女性と言うものを意識するようになっていた。少し余裕も出来てきたのかもしれない。しかしそれは本来の純粋な思いではなく、むしろ本能に芽生えたものだったのかもしれない。どこへ行っても女性の姿を意識することが多くなっていた。
青春時代の圧迫されていた本能が少しづつ解き放たれて本来の自由さと肉の本能に目覚めていたのかもしれない。しかし佐久間女史は対象ではなかった。
と言って彼女が外見的に違和感があったわけではない。むしろ声をかけて親しく話してみたいと言う思いもないわけではなかったが、彼女にはそれらを受け付けるような女性的な色気ややさしさ、愛想的なものは全く見られなかった。彼女もまたそんな人生を歩いていなかったのかもしれないし、東北出身独特のせいだったかもしれない。

    思いつくままに   「クリスマス」

2015-12-23 10:06:45 | Weblog
今年もこの季節がやってきた。嘗ては世界中でこのクリスマスを様々な行事で祝い、その様子が世界中で知らされ、日本でもキリスト教徒は少ないが(約100万人?)キリストの誕生とその存在が広がったものであった。しかし最近ではこの傾向も沈静化しているようで、昔ほど騒がれていない気がしている。私自身もこの時期になると一年でも一番心が騒ぐときであり、子供たちとプレゼント交換やサンタクロースを迎える準備やページェントの練習と準備とその思い出を楽しんでいた。昨年のこの日、高齢化の影響と肉体の衰えで失神して救急車で運ばれることになって以来その喜びの時間を持つことも出来なくなってしまったが、今でも思い出すのは子供のときのサンタクロースのプレゼントである。この日は親から言われてたんすの取っ手に長い靴下をぶら下げて寝床からそれを見上げながらサンタの来るのを待ちながら何時しか眠ってしまうことが
習慣だった。朝目が覚めると一番に靴下の元に駆けつけプレゼントを確認してそれを出すときの喜びと興奮は今でも忘れられない。プレゼントには必ずサンタからの手紙が添えられてあった。
「神様に感謝して良い子になるように、お父さん、お母さんの言うことを良く聞くようにそして来年も必ずやってくることを約束すると書いてあった。」
その文章も毎年同じような気がしていたが、サンタ爺さん(長いひげのイメージ)からのものとして素直に読んでいたものである。そのときの感動は80歳になった今でも新鮮に残っている。
教会から帰るとプレゼントで遊び夜は母の作ってくれる定番のばら寿司とデザートのケーキも楽しみの一つだった。物心がついたころからそんなときが何年続いたことだろう。
母の話では6年生(12歳)頃まで続いていたとの事。その頃やっとサンタの手紙が母の手絵によるものであることが分かって親の手によるものダル事も分かったのだが。その間本当にサンタとともに幸せな喜びと感謝のクリスマスを続けたのである。
純真で何の考えもなくひたすら神の誕生を祝っていたことを思い出している。それは今でも変わらないが、無邪気で純粋なイブの夜はもうなくなってしまった。
しかし神は世界中の人々が本当に平安と喜びと感謝の日を迎える日まで必ず毎年サンタとともにすべての人々のところへ訪れることを信じてやまないのである。

泡粒の行方    第38回

2015-12-17 10:20:41 | Weblog
毎日が水を得た魚のように楽しく生き生きとした日々となった。おりしも日本はオリンピックを開催し新幹線、高速道路と敗戦当時の状態から当に世界の日本として羽ばたき始めていたときでもあった。今までの業界と異なる異業種の業界で知識もコネもなかったが、客筋として知られているユーザーと分かると飛び込み同然で「売り込み」にかかった。
折りしもモーター業界はすべての電気製品に使用されるとあってどこも増産体制である。車にもモーターを搭載する開発が進みマグネットの用途は多様化されながら使用されていた。
そのほか生活用品への応用とか様々な用途が開発されつつあった。売り込み先のユーザーは主要原料として既にどこも原料は決まっており、採用の余地は原則的にはなかったが、背景として増産の傾向があったことから当社のものも試験的に使用してもらえるチャンスはあった。
それは後発のメーカーであった欽二と浅野にとってはチャンスであった。「ぜひ、一度使用してください」の一点張りである。何度もあしを運び頼み込むだけであった。
欽二が最初に口を利いて話が出来るように出来ると、そこは浅野に任せ欽二は新規のユーザーへと売り込みに行くようにした。
ユーザーの窓口は資材課である。その担当者は一様ではない。愛想のよい人で話しを聞いてくれる人もいれば「うちは間に合っているからいらない」と無碍に断る人もいる。
欽二は夢中であった。なんとしても使ってもらうチャンスをつくることをかんがえなければならない。ある時浅野と一緒にユーザーを訪問したときである。欽二は話しているうちに何時しか話に夢中になっていた。「お客さん、うちの原料は安くて優秀なんです。この機会に買っておかれないとお宅の会社損をしますよ。今のうちならお安くしておきます。」と言ってのである。
すると今までにこやかに話していた資材の担当が急に顔色を変えて「もう君と話すことはない。
帰りたまえ」と声を荒げたのである。何気なく話していた欽二は青天の霹靂だった。何がおきたかも分からないままに、隣にいた浅野に「タクシーを呼んでもらいなさい」と言ったのである。
浅野はあわてて資材の担当者に許しの挨拶をしてその場は収まったもののその日は気まずい思いで帰ることになったのである。

思いつくままに    「2015年回顧  その2」

2015-12-14 10:45:35 | Weblog
暑い夏をすごし、秋を迎える頃体調も春の頃より安定していることに気づいていた。薬を飲む数も少なくなり「今日も平安に過ごすことができた」と思える日が増えた。1月と4月に手術を受けた息子は定期検査を受けながら過ごしているが術後の様子もよいようで順調に回復しているようだが本復には少し時間がかかるだろう。
とは言え気温の変化も含めて体調管理は油断が出来ないので、すべてに自重の毎日である。
今年は世界でテロ問題と避難民の移住の問題が毎日取り上げられている。私は新聞を見るたびに聖書に書かれている「出エジプト記」を思わされていた。紀元前2000年の昔ユダヤ人はエジプトの王に奴隷として使われていた。神はモーセを遣わしエジプトを脱出させ長い旅の末にカナン(イスラエル)の土地へと導いたとされている。この21世紀においても同じような出来事が繰り返されて苦難と困難の中に大勢の人が苦しんでいることを思う時、神の導きを願わずにはいられない。
秋も深まる10月になって事業のほうも新しい展開があった。中国と韓国の国内事情の変化の影響を受けて台湾の会社への移管の依頼を受けたのである。このことがどんな影響をもたらすかは分からないが数年台湾との交流を続けていた当社の責任はさらに大きくなったことは大きな事実であり、責任も重くなった。
来年は孫の受験を控えて子供たちは正月返上で協力しているようだ。大きくなった孫たちはすっかり大人になりつつあり、学業やバイト遊びに忙しいらしい。(来年は海外への計画もあるとか)そんな話を聞きながらその成長が楽しみである。
長い間自動車の運転をしてきたが今年を持って、車の運転も卒業することにした。
この60有余年の間、事故もあり違反もあり様々なことがあったが人身事故に至ることもなく無事に走り終えたことを感謝したい。毎日の事故の記事を見るたびに自分のことのように不安があったが、ほっとしたおもいである。
総じて今年を振り返りいつも年に比べて、変化の年であり、転換の年のような気もしている。
来年がどんな年になるのか、楽しみであるし不安もある。どんな年であろうと
「インマヌエル」の祈りとともに迎えたいと思っている。

泡粒の行方   第37回

2015-12-11 10:16:22 | Weblog
本社からの要請は新しく開発されたマグネットの原料の売込みだった。何しろ長い間弁柄と言う顔料一筋に事業を続けてきた会社としては、新しい未知の分野の開発である。しかし取引先からの要請もあり、是非にと依頼され取り組んだのだが専門の技術者がいるわけではないし自信がなかった。何回課の失敗を重ねて何とか使ってもらえるようなものが出来て供給することになった。しかしこの仕事は一社では採算が取れない。大量生産をして採算が取れるのである。依頼を受けたユーザーだけでは継続できない。そこで東京を中心に宣伝と同時に売り込み活動を進めることになり、その大役が回ってきたのである。この原料はマグネットの製品を作るメーカーが一家生産で行っていたのだが、時代の要請で一気に生産を拡大することになり、善良自社でまかなうことが不可能となり原料だけを補充して買い製品の増産につなぎ供給することになっていたからである。
田口に弁柄の販売を任せて浅野と欽二はこの仕事を担当することにした。しかしこの業界では全くの後発であり、信頼も紹介もない。ぶっつけの飛込み販売である。
しかし二人はそのことに抵抗はなかった。裸一貫での意気込みだけである。断られることは承知の上であった。「今度私たちの会社で出来た製品です。ぜひ一度使用してみてください。」とそれだけが挨拶であった。既存のユーザーは先発の原料メーカーから既に買っていて賄っているために「うちじゃあ間に合っているよ」とあしなわれることが関の山だった。
それでもあきらめることはなかった。関東近辺で10社近くあるユーザーを定期的に売り込みに歩く毎日が続いた。浅野は東北の出であり、親もいなかったこともあって中学しかいっていないが
根性はあった。どんな断られ手もあきらめることはなかった。
チャンスは来ると信じているようなところがあった。欽二も同じであった。兄の仕事で東京へ売り込みに来たときも東京を中心に土建屋を回り品物を置かしてもらい売れただけの商売をしていた経験がここでも生きていた。
「倉庫へおいておきなさい。売れたらその分取引するよ」と言うだけの商売で始まっていた。今回も似たようなものである。看板が違ったことと、売るものが違うだけで仕事は同じで簡単ではなかった。しかしそれが二人の闘志を燃やしたのである。

思いつくままに   「2015年回顧 その1」

2015-12-08 09:57:57 | Weblog
今年もまもなく終わる。振り返って今年を回顧しその一つ一つの出来事ともに自らの人生を反省し新しい年への思いとしたいと思う。
昨年は今まで同様に過ぎて終わるかと思っていた暮れに(12月23日)、突然意識を失って倒れ救急車で病院へと運ばれた。生涯初めてのことであり時と場所によっては自分の生涯もこの時点でも終わっていたかもしれない。しかし幸いにも私の倒れた周りには多くの理解者がいて病院へ運ばれ早い手当てのうちに検査が行われ、無事に帰宅することが出来た。(迷走神経反射)
そして新年を迎えたのだが、冬季ということもあり家中にて安静の時間を過ごすことからはじまった。春が来て彼岸を過ぎる頃には健康も落ち着き、何事もない日を過ごせるようになっていたが再発の恐れを拭い去ることが出来ず、外出を極力避けるようになっていた。
考えてみれば80歳と言う加齢とともに知らず知らず体の老齢による変化に気づかないままに現象だったようだ。
しかし異変は私だけにとどまらなかった。1月11日朝一人息子の嫁からの電話で急性心筋梗塞で入院と言う知らせを受けた。昨年の秋に検診で肺がんの影状のものがあり、今年は再度の検査で手術も必要と聞いていたが、二重の重荷を負うことになる。幸い命には別状ないとのことであったのでほっとしていたが、長年会社の重責を背負い戦ってきた負担が40才の半ばを過ぎて耐え切れなくなっていたのかと思い、親としてその重荷を負うことの出来ない歯がゆさを感じていた。
そんな今年前半の期間を過ごしたこともあり、まずは健康維持という内容であった。
そして通常の生活に戻りつつあったのだが、自覚症状として時折日々の生活の中で「動悸」が激しくなりそのために息苦しくなる現象が起きることがあった。安定剤や血管の流れを間然する薬などの服用で大事に至らず過ごせたが、これも再発の不安をぬぐうことが出来ず、総じて今年は一年静養の年で終わりそうである。
長い人生であるし平均年齢80歳の節目とあればこれも仕方のないことかと思うと同時に毎年の行事や行動が出来なくなったことに一抹の寂しさを覚えたのである。

泡粒の行方   第36回

2015-12-05 10:23:46 | Weblog
お客さんと別れたところは上野近辺であったが、もう田口の足元はふらついていた。仕方がないのでタクシーに乗り、どこへ行けばよいのか聞いてみると新宿へ向かってくれと言う。着いたところは中野の近くのようである。欽二は下町の人間で知らないところへ暗いところでおろされてもどちらへ向かうのか、さっぱり分からず田口について歩くしかなかった。酔っ払ってはいるが、地元と見えて田口はすたすたと歩き出した。大通りを少し曲がったなと思っていると一軒の雑居ビルの二階へあがり、そのひとつの扉を押した。すると中から「たーさん、こんなに遅くどうしたの」と声がかかった。カウンターの向こうに中年のままが一人、その前はスタンド、そして小さなテーブルが二つほどある小さな店である。田口はそのテーブルのいすにへたへたと座るとほっとしたのか首をたれて眠り始めていた。欽二は田口との関係を説明しながら自己紹介して帰ろうと思ったがその様子を見ると起き上がって「少し飲んでいってください」と言う。
仕方がないのでママの相手をしながら休むことにした。「いつもはもっと早い時間に来て、楽しくお酒を飲んでお帰りになるんですよ、こんな時間に来るなんて珍しいんですよ」
田口がよく来ている店が此処で、彼はこの店で時間をつぶして帰っているんだと分かった。
一時間もいただろうか、いつの間にか電話をしたらしく、「帰る」と言い出した。店を出るとっ一人でふらふらと歩き出したので、欽二は此処で分かれても大丈夫なのかと後姿を見送っていると小さな影が見えた。暗いのでよく分からないがどうやら母親が迎えに来たらしい。
二人は腕を抱えあうように歩いている。
田口の本当の姿を垣間見た思いであった。その頃から欽二もまた毎日の生活が変わりつつあった。定時に帰宅して買えることは少なくなり、5時を回っても仕事を片付けたり、訪ねてくる人は部下や客との時間でつぶすようになっていた。
浅野は遊びも知らないし、付き合って話す相手もまだ出来ないこともあり、規則正しく時間通りの仕事ぶりであった。何しろ町の電気屋で丁稚奉公の生活から抜け出したばかりである。
仕事はきちんと済ませ報告書を書き、その成果を挙げることに真剣であった。独身であるが、同郷の女の子がいるらしく「歌声サークル」の日はうれしそうに帰っていた。

思いつくままに    「シーズンオフ」

2015-12-02 10:59:05 | Weblog
暑さ寒さも彼岸までと秋の季節を満喫していたら、いつの間にか12月に入り急に寒さが増し気温が下がってきた。日本の四季の冬を今年もしっかりと感じてこの冬をすごしながら、この一年を振り返ってみたい。
スポーツは日々欠かせない楽しみの一つだったが、プロ野球もプロゴルフもオフシーズンに入った。プロ野球で言えば一言で「世代交代」が始まった年と言う印象だった。嘗て活躍して勝利に貢献していた選手に衰えが見え、若い選手の成長とともにその力で優勝へと繋がったと言うことは大方の予想を覆し、時代の流れを感じさせ、若い人の成長を間近かに見て微笑ましかった。
しかしゴルフ界は男子も女子もこれと言った日本選手の活躍の現象が見られなかったことは残念だった。男子も女子も賞金王は外人であり、女子にいたってはわずかな外人の選手に上位を独占されて終わったことは嘗てない危機感も感じるほどである。来年のオリンピック種目に入り
世界でメタルを争う場が出来たところで果たしてメタルに手が届くような活躍が出来るのか、少々心配である。スポーツの世界は勝負の世界であり、それを導くのは「心、技、体」と言われているが、「心」の要素となるメンタルな面での心の持ち方が大きく影響している気がしてならない。日本はすべての面で他の外国と比較して恵まれていることが、やはり選手のモチベーションに影響して「甘え」と「楽をしたい」という本能につながっているのだろうか。
道具に頼り、スポンサーに頼りよい環境の中では強い闘争心は養われないことかなと思ってしまうのは私だけであろうか。
日常生活にあって活動範囲もままならない中でTVは頭休めの時間としては欠かせないのだが、
このシーズンオフは少しさびしい時間になる。そこで今年から積極的に取り組んできた
「囲碁」の番組を楽しもうと思っている。勿論大それた事をするというわけではない。
「囲碁」の時間をどのようにして楽しく、頭を使った時間としてすごせるかと言うことである。
現在はプロのトーナメント戦(二時間)を中心と「初歩の初歩」の本と囲碁ゲーム
であるが、これだけでも十分有効である。皆さんにもぜひお勧めしたいと思っています。