波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

パンドラ事務所  第一話 その2

2013-06-27 10:24:02 | Weblog
次男が娘だけを連れて実家へ帰ってきて、おふくろの面倒を見ると聞くことは全く考えていなかったので驚いていた。何でも長男の兄とも相談し、兄弟で決めたことだからと言う。年老いていつかそんなことを聞く時が来ると考えていたから、その話を聞いてもごく自然に受け入れることが出来た。次男の嫁は男が出来て出て行ったと聞いていたが、娘はそんな母の姿に憎しみを覚え、「父ちゃんと一緒にいる」と残ったのだが、家にいることは殆どなく、友達同士で寝泊まりして暮らしていることが多かった。次男は東京で営業タクシーの運転手の仕事をしていたが、その内特殊免許を取り個人タクシーの看板で一人で営業を始めていた。「子供が帰ってきて、3人で何とか一緒に暮らす生活が始まったのですが、別々の暮らしが長かったせいで最初は色々と気を使いました。今でも食事なんか時間も食べるものも違うので別々ですが、偶にばあちゃんこれ食べてみねえかと言われて
食べることもありますが、若いもんとは味も違って食べられねえですわ」と笑いながら本音が出ている。この調子なら単なる愚痴話で終わりそうだなと少し安心しながら聞いていると「所が先日急に個人タクシーの仕事を辞めると言い出したんですよ。もう10年以上も続けていて問題もなく、私もうちに散髪に来るお客さんも年寄りが多く、中には足の不自由な人もいるので、送迎を兼ねて手伝ってもらえば助かると話したばかりなのに、辞めると言い出したので、理由を聞くと何でも先が見えたからもうこの仕事はやってても楽しみがないと言うんです。でも私はお客さんが一人もいなくなるというのではないし、慣れている仕事なんだから身体にも合っていて良いだろうにと言うのですが、頑として考えを変えず、さっさとナンバーも外して廃車にしてしまったんですよ」
青山はいよいよ本題に入ったなあとなんとなく思いながら「息子さんは幾つになるんですか」「たしか43だと思います。」「そうだとすれば、20年近くやってきたわけですね」「そうなります。」「それでお母さんにはこの仕事は先が見えたからやめるとだけしか言わないんですね。」「そうなんです」
「でも、これから先どうするんですかね。何か仕事でも見つけたんですか。」
「えー何か仕事を探しているようで、派遣の仕事のような本を見ていますよ。だけど私は個人タクシーのほうが安定しているし、よいと思っているし、第一急にどうしてこの仕事を辞めるのか、納得がいかなくて、何があったのか、そこの所が気になって毎日落ち着かないのです」

思い付くままに  「先進技術」

2013-06-24 10:02:25 | Weblog
私の住んでいる隣人が最近の健康検査で「初期胃がん」を言われ現在手術のための検査を継続している。参考になると思い当人の話を聞いていると事前の検査はかなり慎重に精密に行われているらしい。発症箇所の部位はもちろんもちろんだが、その他に腸をはじめその周辺の肺をはじめ転移を考えられるか所の検査とその範囲はかなり広範囲になっている。また、その手術切除も内視鏡にて正確にその箇所を確認し、その部位にマーキングまでしてあるとのこと、従来の手術手続きから考えると格段の医学の進歩がみられるし、その目覚ましい進歩は本当に信頼できる。更に切除についても患者との相談にて通常の切除手術だけにするか、別科料を了承するとその施術も変わり、内視鏡の使用範囲を延長し、拡大してリンパ腺をはじめ可なり精密な検査による方法もあるそうで、この方法を
「先進技術法」と言っているそうである。
元々毎年近くの医者で1月(誕生月)に行っていた「胃カメラ」検査を、なぜか3月にずらして行ったそうで、彼はそのことにこだわって、「寒いからもう少し暖かくなってからとか言っていたが、これで手術が手遅れでしたなんて言おうものなら、とんでもないことで絶対許さないぞと冗談を言っていたが、当人はいたって元気にその手術の日を待っている。自分も高齢になり、この様な話を聞くと全く自分のことのように効いてしまうもので、もし自分がその当事者だったら平静でいられるかと思うし、どう行動するかとも
考えてしまう。たぶん悩みと不安の中で落ち着いた行動がとれないのではないかと思う。もちろん、彼も内心は穏やかではないかとは思うが、表面には出さず、平静だったが、
覚悟の決め方であろうか。
そしてすべてをどこへゆだねて、望みを持つかを決めることが大切な事であろうと思う。
どんなに用心しても、人間は必ずどこかに弱い点が出て、衰えていくことになる。
その迎え方、そしてその生き方にどこに望みを持つかで覚悟の持ち方が違ってくる。
その事が大切であろう。私の知人の婦人で「肺がん」を宣告されて何年かを過ごしておられる方もいるが、お会いするといつも明るく微笑んでおられる。
如何に信頼できる方に望みをおいておられるかがわかる気がする。私もそうありたいと今から願っている。

     パンドラ事務所   第一話

2013-06-21 11:33:53 | Weblog
誰も来なくても気にはならない。青山はこの事務所で時間をつぶし、用を足して帰るだけである。いずれにしてもこの事務所での時間が大切なのであり、事務所での時間が楽しいのである。その日も午後になってそろそろ買い物でもしながら帰宅することを考え始めていたら、ドアをたたく音がした。ビルの管理人でも来たかと出てみるとそこにかなりの老婆らしき婦人が立っていた。「ビルの管理人の人に聞いたらここを訪ねるように言われたので来たんですけど」と言う。青山は黙って手を差し伸べて応接室へ入るように手招いた。「まあ、お座りください。何か聞いてもらいたいことがおありなのでしょう。」と言い「ちょっと待ってください。メモを取ってきますから」と言って仕切りの部屋を出ると
お茶を入れてメモを持ち応接室へ入った。
「ここは誰も聞いている人はいませんから遠慮しないで話したいことを話しても大丈夫ですよ。」と言うと、おずおずとその老婆は話し始めた。
「実は私はやもめで夫を早く亡くしました。息子が二人できましたが、どちらも家を出ていません。若い時夫と二人で始めた理容業をそのまま今は一人でやりながら細々と暮らしています。」話が長くなりそうなので青山はお茶を進めながら「時間はたっぷりありますから、あわてないでゆっくり話していいですよ。」と言うと、少しほっとしたような表情が浮かんだ。
「息子さんが二人じゃあ、お孫さんもいるんでしょ」と言うと、「最初は長男が嫁を貰って一緒に暮らしていたんですが、嫁との折り合いが悪く、出て行ってしまいました。
孫は二人出来て、よくなついていたんですが、何しろ嫁とは口も利かないようになってしまって、何が悪かったのか、私にはちっともわからないんです。」「おばあちゃんだけが悪かったわけではないでしょう。お嫁さんのほうにも何か原因があるのだから気にしないほうが良いですよ。」「息子は出てからも時々顔を出して私の様子を見に来てくれます。
悪い子ではないし、優しい子なので私はそれでよいと思っています。」
本題は何だろうかと、気になり始めたころ、突然「実は次男が娘を連れて突然帰ってきたのですよ。」そういえば二人の息子と言ってたから次男だなと思って聞いていると、
「何年も会っていなかったんだけど、急に帰ってきて兄貴と相談しておふくろの面倒を俺が見ることにしたから」と言うんです。私はどう返事をしていいかわからなかったんですけど、もう年も年なので、承諾はしたんですけどと言って黙ってしまった。

  思い付くままに「自分の首を絞めてきなさい。」

2013-06-17 10:17:47 | Weblog
たびたびで恐縮だが、このコメントは岡本綾子さんの言葉である。数名の選手のコーチとして指導している。そのうちの一人がトーナメントの最終日にトップに立っている選手へ電話でのやりとりらしい。スポーツ界には野球を始め色々な場面で監督とかコーチがいてそれぞれ選手の指導に当たっているが、少なくても表面に出てくる言葉として、この様なコメントはあまり聞けないのではないだろうか。聞きようによっては冷たく、突き放したような言葉であり、「私には関係ないわ。好きにすれば」と思われても仕方がない感じでもある。しかし、冷静にこのコメントを噛みしめると「獅子が子供を千尋の谷へ突き落して鍛える」のことわざではないが、まさに強い愛情からでなければ、出てこない言葉かもしれないのだ。
よく新聞に出てくる言葉では失敗した選手に対して、試合後の言葉として選手を叱らず
「使った自分が悪い。」と自らを責めて選手をかばうか、感情を爆発させてしまう人もいるように様々だが、それでは本音の部分がみえてこないし、少なくとも本当の愛情を感じることが出来ない。一つには岡本さんが同性(女性同士)の立場であることも影響していると思うが、真に選手のことを思いつつ、敢えて厳しい姿勢を示して、当人に考えさせているのである。
最近の日本人は全体の約80%の人がうつ病を抱えた予備軍だというニュースを見たことがあるが、ある意味日本全体があまり良い状態ではないのが実情と伝えられているが、果たしてそうなのだろうか。
親の子に対する指導も先生任せとしながら、自分の考えを相容れないとわかると豹変し、自分の責任を転嫁しがちでもある。各自が自己欲を満たすために動き、それが満たされないとそれを消化しようとせず、ストレスとして残してしまう。
そんな状況の中で強くいう時は心を鬼にしても言うべきことを言う。それは正しい愛情のもとに真心を持って当たるべきであろう。
20歳そこそこの選手であれば、その意図をどこまで理解しているか、当人でないとわからないところもあるが、その日言われて最終日を戦った選手はその日一日自分の首を絞めるように苦しみながら戦ったのであろう。そして見事に優勝したのである。
試合後おそらく電話でのやり取りの会話があったことであろうが、その時岡本さんは
今度はどんな言葉をかけたのか、そのコメントも興味深いものがある。

パンドラ事務所   プロローグその2

2013-06-13 09:15:11 | Weblog
青山は4階の事務所に入った。ここは定年前まで勤めていた会社の事務所として通っていた場所である。会社が大手に買収されて移転、それまで20年ほど来ていたこともあって
住み心地がよかった。そのビルのオーナーとも親しくなり、空室になっていたこともあって自分が使いたいといったところ、他より少し安く借りることが出来た。
しかし、特別ここで何をするという特別な仕事があったわけではない。部屋に事務机と応接セット中古で買い求めて設置、事務机の前に少し贅沢な背もたれ椅子を用意した。若い時と違って老化しつつある身体に合わせ少しゆったりとした気分が味わいたかったからである。筆記セットとパソコンそして書止めノートそれだけが机に乗っている。
その横には粗末なサイドボード、簡単な茶器セットが備えられ、いつでも茶の用意が出来る。ドアのすぐ横に応接セットが置いてあり、間仕切りで囲ってある。そこにはTVも置いてあり、退屈すると足を延ばして横になって見ることが出来るようにしてある。
青山はセカンドバッグから本を取り出すとお茶をすすりながらページをめくり始める。
時間は関係ない。逆に言えば彼にとって時間はある意味止まったままのようなものである
事務所のドアには粗末なネームプレートが取り付けてあり、そこには「パンドラ事務所」と書いてある。深い意味があったわけではない。若い時読んだ本でギリシャ神話に出てくる全知全能の神と言われたゼウスがすべての贈り物として与えた女性神のパンドーラに持たせた箱(壺とも言われている)その中には世の中の全ての災いが集められ詰まっていた。パンドラは天空から地上へ降りてその箱を好奇心から開けた処、全ての災いが地上に飛び出してしまった。彼女はあわててその蓋をしたので、何とか「希望」だけが、そこに残されたと言われている。彼がここを「パンドラ」としたのはそんな罪と悪の世の中で
この一角でその災いを何らかの希望で灯すことが出来ないかと漠然と考えたものである。パンドラによってばらまかれた世の中の罪悪の中で自分も汚れながら、何が出来るのか、
そしてどうなるのか、何の計算も目的もない。ただこの空間と時間だけが彼の落ち着ける場所として存在したのである。

思いつくままに   「調子は悪くない。」

2013-06-10 10:32:09 | Weblog
勝負事には勝ち負けがつきものである。そして当然ながらその目標は「優勝」の2文字であろう。その中の選手の言葉で気になる言葉がある。それは「調子は悪くなかった。ただ結果がつながらなかっただけよ」又「今日は自分の日ではなかった」と言う。
確かにそうだったのだろう。一生懸命プレーして自分では思うようにできたと思ったが、結果として成績につながらなかっただけのことだということだろう。
しかし、仮に別の選手に同じことを聞いたとき、「調子はまあまあでした。そんなに悪くもなかったと思います。でも結果につながらなかったのは私にまだ足りないものがあるのだと思って、これからそれを考えて次に備えたいと思います。」と言ったとしたら、この言葉を先ほどの言葉と比べてどう聞くだろうか。
様々な自然条件の過酷な戦いの中では予測できないことはたくさんあり、必ずしも調子が良かったとしても結果を伴わないことになることは多いと思う。しかし、この二人のコメントを比べるとき、前者に比べて後者のコメントのほうが好感が持てるし、次の期待度も違う気がするのだ。確かに勝負をする者にとって弱気はタブーであろう。だから強気であることを強いられる。それは決して間違ってはいない。だが、現実には優勝に届かなかったら、まずその事実を素直に認めてその上で次の意気込みを表したら聞いている側からすれば、どれほどすがすがしさを感じることが出来ただろうかと思うのである。
「結果がつながらなかっただけだ」というコメントだけでは「それは残念だったね」とはいうものの本当にその選手を温かい目で見守ることにつながるとは思えないのだ。
毎日の生活も同じだろう。その日を大切に自分の納得のいく一日にしたいと思って臨むのだが、その日一日が終わって振り返るとき、あれこれと納得のいくことばかりではない。
むしろ反省の思いで「ああもすればよかった」「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。」「これからは注意してきちんとするようにしよう。」とか、いろいろと反省させられることが多い。選手も、自分もベストを尽くすことを思って臨んだのだが、結果が必ず自分の納得のいくことにならないのが、人生であり、勝負事でもあろう。
どうしたら目標を達成する結果につなぐことが出来るか、それは毎日、謙虚に自分自身を
振り返りながら、次に備える気持ちがあるかどうかであろう。
そう考えられるかどうかが将来への結果を左右する大きなカギになることを老婆心ながら反省を込めて考えてしまうのである。

パンドラ事務所  プロローグ(その1)

2013-06-06 10:15:17 | Weblog
目が覚めて時計を見る。別に時間を決めているわけではなく、ただ何となく見るだけだが
時計の針が7時を過ぎているのを確認すると「起きるか」と一人ごちて立ち上がる。
玄関で新聞を取り上げると、そのまま居間のソファーに座り一通り目を通す。最近は新聞を読む人も少ないと聞いているが、昔人間の彼には朝の新聞は欠かせない。
記事のチエックが終わると、徐に「血圧計」を手に取る。ここまでは無意識な行動で決めているわけではないが、毎朝の行事となっている。
時間とともに身体が覚醒してくる。着替えを済ませ洗面を終わると窓を開けてベランダへ出る。狭い場所に鉢植えの草花が並び季節の花が彼を迎えてくれる。
ベランダの向こうは昔ながらの隅田川が流れている。夏になるとこの川風が涼やかに心地よく部屋を通り抜けていく。
仕事、仕事で夢中で暮らしていた頃、妻を亡くしその後娘、息子が結婚し家庭を持ち、それぞれ独立して離れていった。一人暮らしをするようになったころ隣人から「まだ若いんだから再婚して新しい生活を」と言われたが、家庭を無視して妻を亡くした罪悪感が頭から離れず、家庭を持つ気が薄れていた。
しかし、別に女性嫌いになったわけでもないし、むしろ関心は強くなったかもしれない。
ただ、今まで見えなかった女性の人間性とか、理解力とか男性との違いや考え方がわかるようになったことで、果たして今の自分にそのような「包容力」を持って、接することが出来るかという自信がなかった。
簡単な朝食を済ませ、コーヒーを飲みながら机に向かう。パソコンを開けて、チエックが終わると、適当な時間に玄関を出る。
人形町の地下鉄までの甘酒横丁の通りを歩く。この時間になると通りの商店街もそろそろ店を開け始めその日の仕事が始まっている。
この時間になると地下鉄もラッシュが過ぎていて混んでいない。日比谷線で「秋葉原」まで15分、ここで下車。
昭和通へ出る。電気街の通りと違いやや人通りの少ない横断歩道を渡ると左へ曲がり
少し歩くと少し古ぼけた雑居ビルが立ち並んでいる。
ビルのロビーに看板があり、「パンドラ事務所」が4階にあった。
青山は小さなセカンドバッグを片手にお気に入りの黒い帽子を被ったまま事務所の扉を開けた

思いつくままに  「人生って何?」

2013-06-03 17:59:19 | Weblog
昔から人生を色々にたとえて語られているが、中でも一番多いのは「旅」に例えたものが多い気がする。すぐ思いつくのは「元旦や冥途の旅の一里塚目出度くもあり、めでたくもなし」がある。そうは言っても、この旅は私たちが考えている「旅行」と言うイメージではない事は言うまでもない。自分で勝手に内容を盛り沢山に楽しく作り上げて、思い通りに運んで終わるというものではないのだ。まず自分の思い通りにならないこと、まだ旅を続けたいと思っていても、いつ終わりが来るか、それも自分で決められないのだ。
まして軽い身で一人で歩けるものではないし、誰もが目には見えない大きな重荷を租負わされているのだ。言ってみれば「障害物競走」のように目の前に起こるハードルをかわし
ながらでもあり、止まってしまうと倒れてしまう「自転車操業」ともいえるかもしれない。こう考えると、人生とどう向き合って、どう生きるかと言うことを改めて考えさせる。(もうこの年齢になって考えても遅いと思われるかもしれないが、)
「仕事」はなんによらず「計画」と言うものが伴います。人生をたとえば仕事と考えれば
計画を立てて考えることが出来るかもしれません。
人生が仕事と同じように計画通りに進み完成するなら、こんなにいいことはないでしょう。しかし、これは中々難しいし、計画通りいったと思っても又、新しい計画が出て変更せざるを得なくなることでしょう。
では計画通りいったとしてその人生を人が感心したり、ほめたり、うらやましがったりしたらその人生は成功なのでしょうか。その人は満足するのでしょうか。これは中々人間の目から見て簡単には決められないことでしょう。
むしろ人から馬鹿にされたり、さげすまされたりする人生もあります。
人間にとって大切な事がそんな人生にたくさんあり、そういうところから生まれてくるということが出来るのです。簡単に言えば、「自分の願い」のためだけの人生に走らないと考えることだと思うのです。時に損と思われること時に自分が犠牲になったと思うこと
人のために苦労をするということ(利害を抜きに)
人は往々にして自分の利益、得にならないことをしたときに自分をむなしいと思ってしまうものだが、その時、自分以外の大きな目が自分を見ていることを知ることが出来ることが人生は変わってくるのではないかと考えている、
「梅雨入り」とともに「あじさい」の季節に入った。今年もそろそろあの不思議な色合いの花を楽しみたいと思っている。