波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方    第35回

2015-11-29 11:08:06 | Weblog
人間の習性は生まれながらにして出来ているものがあり、それは人生においてよほどの出来事がない限り変わらないことかもしれない。30歳近くまでゴルファーを目指してきた田口に「今日からお前はサラリーマンだから生活態度を変えるように言ったところでそれは到底無理な話だと思っていた。何しろ自分の練習時間以外は医者、弁護士、マダム、その他リッチな人間にちやほやされて好きなことをさせてもらいながら教えていたわけだから、それは自然と身についていただろうし、悪いとも思ってもいないからそのままである。朝の挨拶もなければ報告も形ばかり、時間が来れば黙っていなくなってしまう。そんな田口に欽二は黙って見ているしかなかった。
入社して間もないころ、上司ぶって「田口君、私も仕事でゴルフをしているが、いつか教えてくれないかなあ」と言ったことがある。その時何も思ったのか、冗談のように「箒で掃除でもしっかりしてたらどうですか」と言われてしまった。はじめはその意味も分からなかったが、自分はそんなつもりはないと言うことを主張したようで、それ以来ゴルフの話はタブーとなった。
しかし、彼の定時後の行動は不明であり、母親と二人きりの暮らしとは聞いていたが、その行動は分からなかった。半年過ぎるころ少しなれて仕事も起動になり始めたころ、田口から声がかかり「今日、お客さんから声がかかり、夕食をかねていっぱいやることになったんですが、所長も着てもらえませんか」と珍しく声がかかった。この会社へ入って兄の束縛から解放され外の世界を見ることが出来るようになった欽二としては何もかもが新鮮であり、興味があり関心があった。まして食事の席とあれば楽しい時間である。酒は飲めないが苦痛ではない。適当に合わせながら時間をすごすことは出来る。ましてお客さんでこれからの取引のことも考えれば、お付き合いは大事にしなければと経験がないだけにある意味、夢中なところもあった。
その時間はあっという間に過ぎて「お開き」となった。客と別れて帰宅しようとするころ、田口は相当のアルコールで出来上がっていた。「所長、お疲れ様でした。これから二人でちょっとお疲れ直しをしましょう。もう一軒付き合ってください」と言い出した。

思いつくままに   「喜びの発見」

2015-11-26 10:38:04 | Weblog
世界には日本人がいろいろな国で生活しているが、その中で紹介されたTVを見た。一人はアフリカのジブチで働く女性で看護師であり、一人はアルゼンチンで二人の娘さんと暮らしているお母さんであった。様々な困難の中で闘っている姿に感動させられた。特にその人が女性であることにも驚かされた。TVでも「男性では到底無理だろうな」と感想があったが、私も男性では難しいと同感であった。
かねがね人生を振り返りつつ、ついつい自分の生活に不満や苦情、そしていろいろな欲望や羨望が出てくることは止むを得ないとしても、このような実例を見るとき、日本でこのような平安の中で生活できることがどれだけ幸せなことかと改めて実感として反省させられると自分でも
反省しなければいけないことがたくさんあることを思わされる。
人間は一日を過ごすことに無頓着な面が多いが、この世に生かされている時間は少なくなっていることに少しでも気づかされて現在を素直に感謝と喜びの時間にしたいものである。
先日姪の息子の結婚式に招かれ、親戚の一人として出かけることになった。兄も弟もいなくなり
私自身も出かけることに自信はなかったが、そこで弟の嫁(義妹)とその息子に会うことが出来た。「叔父さんに会いたくて」とその一言で出席したことが報われたことだった。
その日は一日義妹は終始私をいたわり付き添ってくれていた。披露宴を半ばにして帰宅したのだが、義妹は電車に乗るまで手を振って見送って別れたのだが、おかげで親戚の一人としての役目を無事に果たすことが出来たのである。そして御礼の連絡をしたが、こんな些細なことが大きな喜びとして一日を喜びと感謝で満たすことが出来たのである。
帰宅すると孫から英検3級の試験合格の知らせを受けることが出来た。
まだ中学3年だが、その成長ほほえましくうれしい喜びとなる。
人生はこのように何事もなく過ぎているようで「受け止め方」で大きな喜びの中にすごすことが出来るのである。アルゼンチンの母も、生活の苦難を何が支えているのとの問いに対して
「娘たちと一日笑って話が出来ることかしら」と言っていたが、こんなところにも「喜び」があることを知らされてうれしかった。そして人生はそれぞれその中に生きていることを知らされたのである。

泡粒の行方   第34回

2015-11-23 10:45:20 | Weblog
岡山の会社での製品は主に津辰であった。一つは創業当時からの顔料の弁柄であり、(ちなみに弁柄はインドが発生と言われるが、日本では岡山県の高梁の鉱山で掘られていた流化鋼から取れるものであった。主に銅や非鉄を取った後の鉱石を化工)生成するのに大変時間がかかるが、出来た製品はすばらしい赤の顔料として、塗料、顔料、など多様に使用された貴重なものであった。出来た製品は紙袋に少しづつ小分けし、薬のように大事に包装され手売られた。そのために価格は薬並みに高く売れて収益はよかった。
これを手つくりから工業化されたのが、岡山の工場なのだが、何しろ原料から公害に近い煙(ガス)がでるのと、水洗用に使う水が赤く染まるために住居地域では作れず、人里はなれた辺境地でなくては製造許可が下りなかった。戦前欽二の父はこの弁柄を東京で販売したのだが、同じものを息子が東京で売ることになったのである。
同業者はそんな事情もあり、日本でも十社もなく市場は宣伝次第で売ることは出来た。
担当の田口は岡山から送られてきた得意先リストを頼りにお客周りをしながら注文を受け本社へ連絡しその販売を担当した。カタログとその製品の特性説明が出来れば出来る仕事でそれほどっ難しくはなかった。半年も過ぎるとすっかり慣れてきて、地域別に客先を回りまた要請があればどこへでも出向いていた。顔料を扱う商社も多く、そのほかゴムメーカー化粧品メーカー、塗料メーカーインクメーカーと多岐にわたっていた。
田口は仕事が終わるとそのまま会社へは帰らずそのまま客先で接待に回ることが多かった。
何しろアルコールがないと落ち着かない体質になっていたので(糖尿病)昼間はともかく時間外になるとアルコールがないと落ち着かないらしい。何らかの都合をつけて食事をかねて飲んで変える習慣がついていた。しかし朝になるとそんなそぶりはぜんぜん見せずに会社へ出てくるので欽二はその裏側のことは全く分からなかった。このことは後にいろいろと問題が出てくることになった。

思いつくままに  「楽しい話が出来る人」

2015-11-19 10:47:03 | Weblog
周りの人を注意して観察してみると、みな同じようでいて様々な人がいることが分かる。
私自身のことを言うと会社で起こる問題について語り合っているうちにその焦点が、いつのまにか私に集中していて、その問題の原因や対策が私自身に責任があるかのような雰囲気によくなっていることが会った。私は部外者で関係ないと思っていたのに何時の間に私がその問題の責任をとらなければいけないのかと聞いていた。そして会議が終わってから社長に「私はこの問題はあまり関係がないと思うのですがね」と率直に聞くと「いや君には何でも話しやすいし相談しやすいからつい頼ってしまうんだよ。愚痴も聞いてもらえるしね」といわれたことがある。そんな訳で問題の尻拭いをよくさせられたことがある。
また「寅さん映画」では苦境なるヒロインが寅さんに出会って「寅さんと話しているといつのまにかとても元気が出て楽しくなるの、だから寅さんといつも一緒にいたい」と言わせている。
これは作者のこの映画に対する姿勢を寅さんという人物を通じて人生を語っているのだが、世の中にはこのようなことは注意してみていると多くいることが分かる。
私はかつて上司として20年近くともに仕事をした人を知っているが、当に「楽しい人」であった。実務について仕事をしているときは強面で真剣であるが、私的な時間になるとすべてに開放的で私的なことでもすべて隠すことなくオープンで常にユーモアとエスプリの聞いた会話が楽しかった。またとても博識で個人ノートにはスペイン語でのメモしか書かず(すぐに誰にも分からないようにしていた。)勉強家であった。
しかしその彼の経歴は知られざる苦労の連続であった。上場会社のエリートとして入社しながら学閥の差別を受け入社早々アフリカのニジェールへ出向させられ、帰国後組合関係の労務課で苦労しその後南米ボリビアの閉山責任者として十数年単身で生かされ、帰国すると日本のチベットといわれる僻地の子会社の再建者として派遣され、立派な功績を挙げて本社役員として迎えられる筈だったが、、最後は本社監査役で終わって肺がんでなくなった。しかし真の意味で人間の喜び、悲しみ、楽しさを身につける人は人生において辛酸をなめた苦労人しかわからないことであることを私はこの人を通じて教えられたのである。

泡粒の行方   「第33回」

2015-11-16 11:03:49 | Weblog
1973年春東京営業所はスタートした。とは言えそんなに華々しいものではなかった。ただ4にtんが集まりそれぞれが自分の仕事を割り当てられ、その勤めを果たすということであった。
田口は顔料という分野のお客周りを中心として歩くことになった。客は多岐に渡り勝者もあるが、インキ、ゴムその他のメーカーとある。全く知らない分野であるが、注文をとり、客の要望を聞き取りそれを本社へ連絡するというものだ。その事務処理は佐久間女史がするのでそれを伝えるだけでよい。朝ちょっと顔を出してお茶を飲むと出かけてしまい、夕方まで帰ってこない。場合によってはそのまま帰宅ということもあり、仕事をして何があったかとか、何をしたとかの報告は一切ない。そんな義務はなかった。まさに自由である。浅野はモーター関係の材料を扱う工場を専門に客回りをした。ずぶのしろつと出何も専門的なことは分からないが、扱う材料だけは分かっていた。そんな訳で客先で在庫であれ次の予定量であれ、品質などを聞いてそのよう棒をまとめて工場へ連絡する。そして客先と工場の連絡をとる。几帳面な彼は事務所へ帰ると必ずその日の内容を記録し、報告もあった。客先での問題点は欽二と話し合い、どのように対処するかも相談があったし、場倍によっては欽二が出向くこともあった。
欽二は本社と連絡をしながらその要点をまとめて報告し自分の客先や仕事先の仕事をこなしていた。岡山が本社とは言え、客先は関東が中心であり関西は少なかった。したがって
東京での仕事は本社穂の影響は大きくひびく。まして浅野と二人で担当したモーターを中心とする客先は業界としても始まったばかりで岡山の会社は業界でも後発だった。したがって客先はあっても口座として取引をしているところは少ない。この客先に氏鞘の製品を売り込みをかけることが主目的だった。
欽二はこの仕事に情熱を燃やした。浅野には既存の取引のあるところを回らせ自分はまだ取引がない客先を開拓することに注目した。
客先としてはそんなに多くない。これらの客先に自社の製品を以下に売り込み買わせるかそしてどうすれば取引がしてもらえるか、この一転に集中した。

思いつくままに  「理解できないこと」

2015-11-12 10:47:52 | Weblog
ある著名な大学で承認された「博士号」の資格が再審査の結果、取り消されるという記事が出ていた。どんな経緯でこのような結果になったのか、詳細は分からないが常識で考えて到底理解できないことのように思われた。当然資格審査が厳重になされた結果の授与だと思えるからである。しかしこの事から私は自分の身の回りのことを考えてみた。
これは単なる社会問題で自分とは全く関係ないことだろうか。いや意外と自分たちも似たような過ちを犯してはいないかということである。
例えば運転中の交通違反である。見つからなければ良しとして、つかまったときは「運が悪い」として片付けていることも、ある意味同じようなところがある気がしている。
(次元が違うと言われればそれまでだが)
法に触れなければ、見つけられなければとする安易な気持ちが日常生活の中でも多く存在している筈である。そんなときの自分の自覚における、または心がけ次第で変わってくることもあるのだ。特別ストイックになることもないが、安易な気持ちでの生活を続ける中でこの程度ならとか
他人の目を気にしなくなっている自分がいることも考えてみたいのである。
何気なく無意識な行動が人を傷つけたり、迷惑を欠けたりしていることも時には考えr見ることも大切かなと思った次第である。

泡粒の行方   第32回

2015-11-09 09:56:19 | Weblog
その時欽二は世の中にはいろいろな人がいるが、これほど強引に一方的に自分のいいたい事だけを言って帰る人は始めてであった。もしだめだと断ったらどうするつもりだろうかと半ばあっけにとられた形で見送った。しかし自分ひとりで勝手に決めるわけには行かず、本社へ事情を話し、検討を依頼した。本社からは「よろしく頼む」という簡単な返事で負かされた形だったのでほっとして返事をすることが出来た。
何時だったか、映画で黒澤監督の「七人の侍」があり、貧乏村の名主が毎年襲ってくる野武士の襲来に対抗するために浪人の侍をわずかな金で雇い、村を守ってくれと頼む話があった。
今回こうして新しい事務所を始めるために人集めをしなければならなかったが、図らずも一人ひとりが、一般の応募者ではなく、むしろこの会社のために与えられたかのごとく、不思議な縁で集められたことを不思議さと恵みとを覚えていた。
誰一人としてこの仕事の目的ではない、まったくの素人であり、経験も準備もない。(最低の本社研修時間は終了した)果たして仕事が出来て目的を果たしていくことが出来るか、欽二もまったく自信がなかった。
しかし、よく観察すると各人とも個性があり、その特色があった。元ゴルファーの田口はサラリーマンという雰囲気は全くない。人に頭を下げるとか、お世辞を言う雰囲気もない。むしろ自分の個性だけを前面に出して相手をひきつけるものを持っていたし、電機や上がりの若者の浅野は一番若いこともあったが、何か真剣に仕事に取り組む玄人っぽい雰囲気があり、またすべてに真剣に取り組む姿勢が見えていた。
ただ一人の女性の佐久間女史は年齢的な関係もあったが(年齢不詳)大人の雰囲気で我々を上から目線的なものがあり、媚を売ることなく堂々としていた。
欽二はこんな若者を見ながら自分は自分の任務を果たしていかなくてはならないと思いつつ、
あまり心配をしていなかった。
各人は担当の客先が決められ毎日の業務が始まったのである。

思いつくままに  「成り行きのままに」

2015-11-05 10:24:41 | Weblog
人は毎日の人生を送る中で、何かしら計画を立て目標を持って生きている。私のような人間でも「今日はどんな一日にして生きるか。」ということは大きな目標であり、大事な仕事でもある。
(人から笑われようとも)
過日東京まで出かける予定で準備をして出発したが途中で体調に異変が起きて休憩を取らざるを得なくなった。計画を変えて帰宅することも考えたが、常備薬を飲みしばらく休んでいるうちに程なく落ち着いたので予定通り目的を果たして帰ることが出来た。
しかし人生においては事の次第にも夜が、中々思っているようにまた望んでいるようにすべてのことが運ぶことは少ないのではないだろうか。そんな時人は様々な反応を示す。
とたんに機嫌が悪くなる人もいれば、相手に何とか自分の思い通りに説得する場合もあるかもしれない。また自棄を起こして考えもしない行動をとることもあるかもしれない。
仕事の場合だとそれは露骨に結果に出る。そしてその結果はどうすることも出来ないのだ。
そのために準備をして、実行したことが名がう結果にならないことは往々にしてあることを何度も実感してきたことである。
今にして思えばそんなときこそ冷静に現実を見つめなおすべきだと思うのだが、その当時はただただ、不満と腹立ちだけが感情的に残ることだったことを思い起こす。
自分の思い通りになることなどこの世では少ないことを自覚できていれば、事の流れに『流される』ことも考えられたのだ。そしてその成り行きを見ながら、もうひとつの「別の道を見つける」事もできたかもしれないのだ。
自分が行動すること、自分の思いがすべて正しく可能なことではありえないことを自覚しておくべきことなのだ。すべては未知であり、自分の手の内にあるわけではないことを知るべきであろう。
そんな場合、あきらめず成り行きに任せてそこから新しい別の道筋を見つけることもまた大切なことではないだろうか。
自分に適さない自分勝手なことを考えて行動してもそれは成立しないことに気づくこともある。
そしてそれが本当の自分らしい道筋であることを知らされ、教えられることもあることを知るべきであろう。それは自分の考えではなく、神からの正しい教えとして受け取るべきこととして
考えられるからだ。

泡粒の行方   「第31回」

2015-11-02 09:54:01 | Weblog
まだ正式に東京事務所として始まっていないと時である。誰に聞いてきたのか、そして初めて会う来客にも戸惑っていた。確かに得意先の人であることは分かったが初めて会う人であり、挨拶はしたことはあるがゆっくり話したこともなかった。しかし部長さんで担当の人とあっては話を聞かないわけにも行かない。近くの喫茶店へ案内し話を聞くことにした。
「今回東京事務所を開設されるそうですね。」「えー。本社からの頼みで始めることにしました。よろしくお願いします。今までは岡山へ直接連絡をしてもらっていましたが、今度は東京で業務をしますので、」型どおりの話が済むとおもむろに話し始めた。
「実は私には弟がいまして、大学へ行っていたのですが、今は休学しているのです。」「何があったのですか。どこか体でも悪いとか。」というと、「実は彼はプロゴルファーを目指していまして、今アシスタントプロとして教えているのです。でも今のままでは社会人として一人前には慣れそうもないのでちゃんとした仕事に就かせたいと母とも相談してお願いにあがったのです。」「でも今のままでもプロになれば立派な仕事として有名になれるじゃあないですか。」
「いや、私たちもそう思っていたんですが、体を壊しましてね。」どこか悪いのですか。」
「病院へ行くほどじゃあないのですが、プロゴルファーとしては通用しないことが分かって」
「どうしたんですか。」「糖尿病なんですよ。だからちょっと無理なんですよ、それでこち他の話を聞いたものですから、こちらでお世話になりたくてお願いに着たんです。」「本人はどういっているんですか。」「本人はよいのです。私と母で決めてこちらでお世話になることをつた耐えてありますから」「ちょっとまってください。私のほうも岡山の上司に報告してしかるべき
手続きをしてお返事をすることになりますから」「彼には話しはしてありますから」
「そう入ってもこちらは会社として手続きがありますからお返事は後ほどということで」
「彼には来週からこち多へ出社するようにいっておきますからよろしく。」「ちょっとそれはまってください。」そんなやり取りのうちに、話を済ませると帰ってしまった。
まったく乱暴な話で一方的なやり取りで勝手に話し勝手に帰ってしまったのだ。