波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

          思いつくままに

2010-09-29 09:04:16 | Weblog
「あなたは毎日が楽しいですか」と聞かれて、どんな返事が返ってくるのだろう。私自身も自問自答してみて返事がすぐに出来ない。「楽しいときもあるし、楽しくないときもある。」「ではどんな時が楽しくて、どんな時が楽しくないときですか。」「楽しい時間は自分がその時間を楽しく過ごせると思われるときで、楽しくない時間は自分にとって面白くないか、苦痛を覚えそうな時間」この会話を聞いて分ることは、要するに自分が中心であり、自分の立場が第一であることが分る。ではそんな時間が何時も、毎日あるのだろうか。
ありえない。とすれば人は自分中心に動いていない時は楽しくない時間であり、苦痛な時間で自分中心である時は何となく楽しく過ごせる時間として感じていることになる。
これが全てだとはしないまでも、多かれ少なかれ人は無意識のうちに、潜在的にそんな意識の中で動いているし、精神的にはストレスを覚えながら過ごしているのかもしれない。
とすれば、この自分中心という考え方を変えない限り、人の健全な過ごしかたは出来ないということになる。そのことにどれだけの人が気付いているのだろう。
私も若いときから、いろいろな場面で、色々な思いをしてきた中で、無意識に(本能的に)そんな行動があったことを思い出す。時には「お前、目立ちたがりやだから」と言われたりもしていた。これなども典型的な自己中心の表れだった。
今、現役を離れ、ひとり静かに自分を見つめることが出来るようになって、始めて自分が良く見えるようになってくるようになる。自分の言動に自分がどれだけ責任を感じたことがあっただろうか。少なくとも今までは自分のしてきたことが自分の力で実力だと思っていることが評価されなかったり、与えられるべき権利が乱されたりすると、何らかの形で反抗したものである。
しかしどんな時代でも、どんな年齢になっても人にとって不都合なことがなくなることは無い。つまり自分中心の考えを変えない限り無くならないのである。
しかし、これを変えられることができたとき、世界が変わるのである。自分に心当たりの無いことを注意された時、「そんなことがあったのか、自分では分らないが、人から見ると
良く分るのだな。」と謙虚に思えるようになれば世界観が変わりつつあるときかもしれない
この変換が出来なければ、人は人生を半分しか生きていないことになるような気がしてきた。実りの秋を迎えている。何かを収穫できる秋にしたいものである。

         白百合を愛した男    第28回  

2010-09-27 09:44:09 | Weblog
サラリーマンで安い給料で働いている自分をどう見たのだろうか。この店の経営者で財産もある人間と見られたのだろうか。しかし、正直言って荷の重い話ですぐにでも断るべきだと考えていた。切々と話すその人の話を聞いているうちに、自然と同情している自分を見ていた。もう若くない年で、身体を壊しているとすれば気も弱くなっているだろう。子供も自分の言うことを聞かず、自分勝手に生きている。毎週教会へ行き、礼拝を守っている美継には
やはり身勝手な返事をすることは出来なかった。何の当ても無く、紹介も無く、突然飛び込んできたこの人はよくよく困ってのことなのだろう。断るだけなら簡単だが、それでよいのだろうか。「私には鉱業権を買い取る資金も、当てもありません。だからお断りするしかないのですが、お困りのようなので、私の出来ることを考えましょう。私の同業者でこの材料について興味を持っている人が居られるかもしれません。この話を紹介して、聞いてあげましょう。」「よろしくお願いします。」とりあえず、話を預かることにしたが、当てがあるわけではなかった。似たような顔料や、塗料、薬品を扱っている店を当って、話をして
興味を持ってくれたら、その人を紹介してあげようとその程度の軽い気持ちであった。
美継はいつもどおりの営業を続けながら、取引先や知り合いを訪ね、その話を持ちかけてみた。山は福島の吾妻山系の中にあり、火山系の延長にある。坑内掘りではなく、露天掘りの鉱山であるが、その鉱物(黄土)を平地まで下ろしてくる運搬が簡単ではなかった。
途中、木橇のようなもので滑らせ、谷越えはケーブルのようなもので飛ばし、可なり危険を伴うようであった。山から下ろした鉱物はそのまま袋に詰めるわけには行かず、水洗、乾燥、粉砕と加工工程が必要である。そして出荷となる。話を聞いていると簡単なようでもあったが、実際には大変なのだろうと思いながら、自分がするわけではないからと気軽に話を聞き、紹介しながら話をつないでいた。最初は誰かすぐ興味を持ってくれると思い、気軽に考えていたが、そのうち、この話は難しいし、売れないかもしれないと不安を覚えるようになって来た。数日過ぎて、当の野田氏が又やって来た。「どうでしょう。誰か買ってくださる人は見つかったでしょうか。」「いや、なかなか簡単にはいかないようです。山自体には興味を持ってもらえるのですが、実際にこの仕事を継続させることは簡単ではなさそうです。」

         白百合を愛した男   第28回

2010-09-24 08:45:43 | Weblog
会社の後継者がいなくなるという不測の事態が起きて、一時は社内にも動揺があったが次第に落ち着いてきた。山内氏と美継の無言の連係プレーが功を奏し大きな影響を押さえる事が出来た。朝礼に始まり、工場視察、そして執務に入る。そのうち色々な来客が訪れる。村の役場関係者に始まり、病院、学校、そして備品、用品に関する業者、それらの人を各担当者が応対している。電話が鳴る。そんな中、静かに一人美継は仕事をしていた。
彼の来客は銀行関係者との打ち合わせが主である。手形を始め、資金の運用、出入は全ての責任を負っていた。終業のサイレンがなり、ホッとする間もなく整理と翌日の準備にかかる。終日事務所にいることは少なく、出かけることも多い。
そんな毎日であったが美継には誰にも話せない大きな問題を抱えていた。まだ東京で営業活動に専念していた時のことである。ある日、ひとりの紳士が何の予告も無く店に入ってきた。「こちらでは弁柄を扱っておられるのですか。ちょっとお話したいことがあるのですが、責任者の方はお出ででしょうか。」見ると身なりもきちんとした紳士である。しかしどう見ても商売人にも見えない。どちらかというと、医者か、教師か、学者かそんな雰囲気である。偶々居合わせた美継は「私がこの店の責任者ですが、」と挨拶をして椅子を勧めた
「突然お邪魔して申し訳ありません。私は福島に住んでいる、野田と申します。実は市内から少しはなれたところに小さな会社を持っていまして、仕事をしています。その仕事は
近くの山から採掘した顔料を製品にして販売するものですが、たいした量でもありません。
ここのところ、身体の調子も悪く、倅に譲って後を託そうと思い、話したところ誰もその仕事をやろうといいません。自分の好きなことをしたくて、そんな仕事は真っ平だというのです。その山の採掘を含む鉱業権も所有しているのですが、この山を買っていただけないですか。」突然、藪から棒のような話だった。きょとんとして話を聞いていたが、「買って下さい」ということを聞いた途端、正気に返った気持ちになった。「ちょっと待ってください。
突然そんなことを言われても、返事のしようもありません。もう少しゆっくり詳しい話を聞かせてください。」それから二人はお茶を飲みながら、話を聞いているうちに少しづつその内容を理解することが出来てきたのである。それは美継には荷の重いものとなっていった。

          思いつくままに

2010-09-22 09:32:56 | Weblog
この年齢になって、こんなことを言うのも恥ずかしいが「男」と「女」の違いをつくづく思わされている。今までの考えでは自分と同じように人間として判断し、考えも変わらないものだという気持ちが強かった。しかしそれは根底から変えなければならない気がする。
考え方が違う存在であり、その違いこそが大事なのだということを最初に認識した上で、話を進める事が大事なのだが、男は自分が考えていることを女も同じに考えていると思うが、
そうではない。だから最初にそのことを確認する必要があるのだ。その上でお互いに話し合い、どうするかを決めることが大切なようだ。
その最もはっきりしているのは男はひとりの女以外に関心が向かないということはありえないだろう。しかし女はひとりの男で充分満足し、安住することが出来る。この違いは男と女の違いの全てを表しているようだ。そしてそのことから発生する様々な問題は、二人の間に摩擦を起こすことになる。女は愛情も大切だが、経済的な安定が最大の条件になるし、男は愛しているという言葉は安易に使えるが、女には無理であるし、女には未来しかないけど、男には過去を振り返る気持ちが強い。(私自身にも何人かの記憶に残る女性がいることを告白しなければならない。その女性は私のパンドラの箱に入っていて、あけることの無いものだが、顧みる時の青春になっている。)
また、女はストイックな性であるが、男は基本的にアバウトな性であることであれば、この世の生活において色々な問題が起きるのは自然である。だからその上で二人で恋愛であれ、結婚であれ、夫婦生活であれ、全てを構築していく努力をしなければならないことをしるべきなのだろう。その辺の弁えが出来ていないと様々な問題が発生し、運命を変えていくことになるケースが至る所で見られるのである。
秋の彼岸を迎えながら、まだ真夏日の日を過ごしている。この異常現象がこの年だけであって欲しいと思うが、この暑さが人にいろいろな影響を与えていないかと心配になる。
高齢者は勿論だが、病気療養中の人々にも良い影響があるとは思えない。ひたすら、忍耐の日々ということだが、こんな時こそ心を平安に保つことが大事であろうか。
大切なことが人間や物にあるのではなく、それを超えた大きな存在に心を向けたいものである。

白百合を愛した男    第27回

2010-09-20 09:04:49 | Weblog
素封家にはありがちな養子縁組だった。学卒で見栄えが良く容姿端麗であることが条件であれば人柄はあまり重要視されていなかったかもしれない。どんな環境と生活から迎えられたか等もあまり関係なかったようである。子供が生まれ跡継ぎが出来たことで山内氏も安心し会社も落ち着いたかと思われていた。
お米がなかなか手に入らず、妻は東京から持ち帰った自分の着物や衣類を近くの農家に持ち込んではお米や野菜など食料に換えていた。主人の給料だけでは子供三人を育てるには到底不足だったのである。鍬など持ったことも無かったが、少しの空き地を見つけると其処に野菜(主に芋、かぼちゃ)を植えて、其処からも足しにしながら空腹をしのいだ。
そんなある日、突然事件が起きた。いつもの朝礼の時間に若社長の姿が無かった。最初は寝坊でもして遅れているのだろうと誰もが何も気付かなかったのだが、美継は会長に奥座敷に呼ばれた。「其処の戸を閉めるように」と言われて坐ると、「困ったことが起きた。実は金庫の金がすっかり無くなっている。どうやら社長が持ち出したらしい。身の回りのものも無くなっている。計画的だったかもしれない。しかし、ここではあまり騒ぎ立てると会社の名誉にかかわり良くないので、内緒にしたい。ついては後任の責任を君に頼む。」
美継は突然のことで驚いたが、会長の苦しみを思い、共にその責任を負わなければならないと覚悟を決めた。当面の資金について早速銀行と内々に相談をし、融資を仰がねばならず、その他の支払いの都合も調整しなければならなかった。
何があったのか、どこへ行ったのか、何が原因なのか。不可解なことが重なっているが、それらは会長に任せて一切関与しなかった。会社の中でも噂が立ったが、公けにしていなかったので、そのうちその噂も消えていった。その頃、少しはなれた町でこんな話が聞かれるようになっていた。その町に来てよく飲んでいたどこかの社長さんとその店の女性がどうやら駆け落ちをしたらしい。二人で居なくなっていた。
その話は会長に耳にも入っていた。しかしそのことでどうすることも出来ず、その事件はうやむやに終わってしまった。ただ、残された子供二人は父親の居ない子供として淋しい生活を強いられることになった。美継はこの事件を通じて人生は本当に不思議であり、金があって何の不自由も無いようでも、悩み苦しみ、不満は消えないものであることを教えられたのである。

白百合を愛した男   第26回

2010-09-17 09:02:05 | Weblog
「お父さん、これじゃあ話が違うじゃない」ヒステリックな母の金切り声が聞こえる。狭い家だから、二階の子供いるところへも筒抜けである。父の美継の声は聞こえない。
確かに疎開して帰ってきたら一軒家の家を準備して待っていると言われていたことは事実であった。美継はそれを妻にそのまま伝えていたのだろう。しかし事実は違っていた。
会社につながったところにある狭く小さい長屋風の社宅である。隣りにも会社の人が住んでいる。妻としたら東京での三階建てのゆったりした家の生活が身についていて、あまりの変わりように我慢が出来なかったらしい。その不満が事あるごとに出るのも仕方の無いことだったかもしれない。仕事は7時から始まるので、美継は6時ごろには家を出ていない。
海軍に入っていた長男も終戦となって、帰って来た。軍隊で外地へ派遣される前で無事帰る事が出来たのである。三人の子どもが無事に揃い、親子5人の生活が始まった。
小学校は4キロ先のところにあり、都会で育った子供には少しきつかったが、元気に通学を始め、長男はぶらぶらとまだ軍隊の影響が抜けないようであった。
会社は山内氏の個人会社で従業員は地元の人たちが集まっていた。始めてきた人たちは驚くほどの姿で「赤鬼」と言われるほど上から下まで作業着は真っ赤に染まっている。
工場は峡谷の谷間に沿ってあり、その坂を上ったり、下ったりして行われている。原料の加工中に出るガスの匂いが強く鼻を刺激する。真っ赤な排水が谷間を流れ、川に注いで川を汚染している。当に垂れ流しである。
鼻髭を立派に蓄えた山内氏は社長室にて執務し、夫人はその奥座敷にて家事をしていた。
しかし不幸なことに子供が出来なくて養子(養女)を迎えていた。適齢期を迎えたころ養子を迎えて結婚したが、不縁となり家を出ていた。ある日、美継は社長から呼ばれて社長室に入った。「このままでは私の後を継ぐものがいなくなるので、養子を迎えたいと思っている。新しく若い者が来るので、君からよく指導してやってくれ」「それはおめでたいことで
何よりです。」そして新社長のもとに会社は経営されていくことになった。順調に会社は進んでいるように見えた。美継には何の野心も無かった。ひたすら新社長を立て、自分の仕事に専念していた。彼の仕事は会計であったため、銀行との付き合いが主な仕事になった。日々の金銭業務を始め、取引先とのやり取りと銀行の手続きは結構繁多なものであったが
勤めを果たしていた。

          思いつくままに

2010-09-15 08:55:48 | Weblog
今から9年前の2001年9月11日のアメリカの貿易センタービルの事件から9年が過ぎたが、今でもあの光景は目に焼きついている。とても現実のこととは思えず、あの場面を見ながら呆然としていたことを思い出す。しかし、よく考えてみるとあの事件の起きた背景には色々な原因と要素があるが、突き詰めていくと人間の憎悪に基づく感情に発している事が分る。それはあのような事件にまでならないまでも日常の私たちの生活においても毎日起きている。自分の感情に合わないことや不都合なことが起きるとそれは顔に出るか、出ないか又は言葉になるか、ならないかは別として心の中は揺れるものである。相手に対しての憎しみは決してなくならないし、又何時までも残るものでもある。しかし、その原因を生んだ側は意外とそのことに意識を持たないことも多い。そしてそれは何時か何らかの形になって爆発することになるか、何かの形で現われることになる。
私の経験でも若い人に仕事のことで少し強い口調で注意をしたことがある。(夢中になると正義に駆られて分らなくなっていた。)後日、当人からある席でその話が出てあの時、強く注意されたことが頭に残っていたらしく、その夜寝言を言い、うなされて妻に起こされたと述懐していたことを聞かされたことがある。私は全くそんなことがあったこととは露知らず、無頓着であったことを悔やむと同時に反省をしたのだが、言葉が剣となって人を射し、傷つけることを、この時ほど覚えたことは無い。
聖書に「汝の隣人を愛せよ」とあるのは、人間関係において最も大切であり、必要なこととしてこの言葉があることに改めて考えさせられるのである。
暑かった夏の暑さもやっと峠を越して、朝晩の涼しさを感じるようになってきた。
8月もジムのトレーニングを欠かさず出来たことを体調のバロメーターとして嬉しく思っている。そんなトレーニング中にある婦人から声をかけられた。通い始めて5年になるが、始めてのことである。話は弾んで暫く立ち話をしたのだが、聞いてみると介護士の仕事をしているとのこと、健康管理についてのアドバイスを聞きながら、こんなことで交わりを持つことがあるのかと、普段感じないふしぎな思いになった。やはり孤独で居ることのなかで
声をかけられ一人の人とのつながりを持つことが何か力として感じたのかもしれない。
「まだまだこれからじゃない。」激励の言葉が耳に残っている。

          白百合を愛した男   第25回  

2010-09-13 09:53:24 | Weblog
朝の日差しを浴びながら子供の手を引き、美継は歩いた。道にはたくさんの怪我人と死人が横たわり、その匂いも異常であった。しかし、自分たちが助かったこと、怪我も無く無事でいることを本当に感謝せざるを得なかった。お昼頃ようやく飛鳥山の家にたどり着くことが出来た。食事をとると、急に眠くなり、三人はぐっすり眠った。前夜一睡も出来ないでいた緊張感が急にゆるんだのであろう。しかし、ゆっくりしているわけには行かなかった。美継は翌日早速、埼玉の次男の疎開先へ急いだ。すでにそれぞれの親が子供たちを引き取り、別れを告げていた。しかし中には親が空襲の際、焼死して迎えに来る事が出来ず、子供はそのまま親戚に預けられる子供もいた。誰も迎えに来てもらえない子供の淋しげな姿を見ながら友達との別れは哀しいものであった。
しかし、いつまでも感傷に浸っている時間は無かった。四人はその足ですぐ東京駅に向かい、岡山へ向かった。岡山では山内氏が美継たちを迎える準備をしていてくれるはずであった。列車は満員状態で大きなリュックを網棚へ上げ、大きな風呂敷包みを抱えていた。
どの顔にも疲労がにじみ出て笑顔は無く、中に身体の不調を訴える年寄りもいた。岡山までの時間は長く苦しいものであった。岡山から乗り換えて更に北の奥深い田舎へと向かった。
車もあまり走っていない道を迎えのトラックに載せられ、社宅へたどり着くことが出来た。
今までの都会暮らしからいきなりの田舎であった。子供たちはものめずらしげにきょろきょろしているが、美継や妻には狭い長屋の社宅の暮らしは不自由を感じないわけにはいかなかった。疎開する時の話では、一軒のきちんとした家を借りて其処へ住めることが条件での話だったのだが、何時の間にかその話は消えていた。妻には大きな不満になって、残ったが、
そんなことがかなう環境ではなかった。育ち盛りの子供二人を抱え、美継は早速本社の仕事に付いた。得意の経理の仕事を任されて、支配人としての業務は社長の山内氏を補佐して重要な職務だった。厚い信用は美継の大きな支えとなり、仕事は順調であった。東京の営業の仕事はすぐには難しいとして、取引先の商社に看板を預け代理店として依頼することとした。経済復興を目指して立ち上がり始めていたこともあり、弁柄の需要も途切れる事も無く徐々に増えていた。戦後の復興が始まりつつあった

          白百合を愛した男   第24回

2010-09-10 09:20:16 | Weblog
悪夢のような一夜であった。美継は無我夢中で消火活動で家の周りを巡っていたが、所詮はどうにもならなかった。全焼した我が家を呆然と眺め、夜明けと伴に佇むだけであった。
すっかり変わってしまった焼け跡には、唯一つ金庫だけが形として残っていた。そこには会社の書類と現金が納められていた。高熱にも耐えられると保証されて購入したものであった。美継はそっと、その金庫の鍵を開けた。厚い扉を開けて中を見る。しまわれたままの状態ではあるが、それは灰の状態であり、扱えるものではなかった。限度を越えた高熱が続き、完全に蒸し焼きになっていた。全てはあきらめるほか無い。無事に生き残ったことを
喜ぶしかないことに気付いていた。そして我に返ったように公園へ急いだ。僅かの道が遠くに感じた。無事でいるだろうか。何処に逃げたのだろうか。行く道筋にはあちこちで同じように家族を探すもの、傷ついて肩を借りて歩いているもの、歩けなくなり、道の端に座り込んでいるもの、真っ黒に焼け爛れて倒れているもの、様々であった。
公園には多勢の人が右往、左往している。逃げ遅れてどこかで倒れているのではないだろうか、どこかで怪我でもしているのではないだろうか、木の影、建物の中と人を掻き分けながら歩いた。そして滑り台のそばでぼんやり立っている親子の姿を見つけることが出来た。
「無事だったか」思わず駆け寄り、子供を抱きかかえた。子供は父親の姿を見た途端、大声で泣き始めた。嬉しさと、緊張が解けた安堵感に三人は暫くそのまま抱き合ったままだった。助かったことが不思議であった。その夜の下町だけの爆撃による死者は何万人といわれ
明治座に逃げた人たちは殆ど助からず、学校、その他安全といわれて逃げた建物での人たちは殆ど助からなかったといわれている。むしろ外にいて、火の危険を避けた人のほうが助かる率が高かかったといわれ、実継は不思議な神の導きと予感が当った事を不思議な思いで感じていた。
着の身着のままの状態で歩き始めた。道筋に横たわる人があまりにも無残なため出来るだけ目をそむけ、見ないようにするしかなかった。何処に行く当ても無かったが、妻の妹の住いが飛鳥山の方にあり、とりあえず、其処へ行くことにした。リュックを背負い、子供の手を引き、三人は歩き始めた。昭和20年3月21日の朝のことである。

        思いつくままに        

2010-09-08 09:36:59 | Weblog
「データー持ってきて」「無理っす。」ある職場での会話である。この話を聞いた時に自分のサラリーマン時代を思い出し、こんな会話が想像できないことであったことと同時にそこには言葉に気持ちを込める感情交換の面の無い場面が増えつつあることを感じた。
(自分自身の経験ではあまり無かったことで想像もつきにくいのだが)ある店に行って品物を物色して自分のサイズに合うものが無いか店員に聞いたところ、(在庫は)ありませんと誠にそっけない答えに買う意欲も無くなり、店を出たという話も聞く。これが現代であり、つまり目的の無い会話は不必要であり、無駄という考えなのだろうか。識者による解説でも「パソコンや携帯の普及で早く効率的な時代になってきたけど、その分自分自身の考えが減ってきて、自分を楽しむ感情すら分らなくなっているのだろうか。」という。
この事を良い、悪いと言う気もないが、毎日の生活の中でこんな味気ない日々を過ごしていることの淋しさを思わざるを得ない。長いようで、短い人生であり、一日の時間も長いようで短く、考えようでは睡眠時間や、雑用時間を除くと、自分の意思で自分の出来る時間はほんの僅かな時間しかないことに気付くはずである。その時間をどう使い、どう自分の時間とするか、それは自分次第なのである。私は最近(9月になってからだが)毎日の日記の最後に一日を振り返り、「小さな幸せ、喜びの発見」というコーナーを設けて其処に一日のうちでどんな些細なことでも良い、自分の心の琴線に触れたことを書くことにしている。
例えば、「夏休みが終わり、新学期が始まり孫達が元気に通学を始めたとの電話を受けた。」「脳炎を患っている弟と電話で話が出来た」とか言うものである。人が聞けばくだらない、そんなことかと思われ、なんでもない事柄である。しかし、私自身にとってはかけがいのないその日の喜びの発見であり、幸せなのである。
その積み重ねの中に人生の尊さと生かされている意味を知ることが出来る気がするのだ。
我が家の夏野菜と花もようやく終わりを告げた。とまと、きゅーり、なす、そしておくらと随分収穫をえて、楽しむ事が出来た。花も朝顔、風船かつら、コスモス、ミニひまわりと
咲いて水をやりながら、毎日癒されてきた。今日は一ヶ月ぶりの雨を見る。
初めての猛暑の夏をやり過ごし、これから少し落ち着いて日々をじっくりと味わうことが出来るかと楽しみにしている。