波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「ナイチンゲール」

2021-05-12 08:47:21 | Weblog
今、私は娘の所で静養している。これから手術と抗がん剤治療を受けるためにその身体の維持のためである。生涯で初めての経験であり、すべてが未知である。幼少の時、「大腸カタル」で生死をさまよったことがあり、医者も見放したことがあったと母から聞いていたがその後に5歳ごろ、3階から落下して裏の路地に落ち奇跡的に気絶だけで無傷ですんだ。此のことは私自身の記憶にも残っている。その後は私自身が意識してなくて危険な状況を過ごしていたのかもしれない。しかし不思議な守りのの中に置かれて過ごしてきた。80歳を過ぎて繧繝中にめまいをおこし、事故を覚悟したこともあったが、無事にその瞬間を逃れた記憶もある。そしてその後あるクリスマスの集いの後、教会の中で記憶がなくなり救急車で運ばれ、途中で記憶が戻り、検査の結果。異常もなく無事に過ごしてきた。全ては自分自身であり、また全ては「委ねた」見えない大きな力」である
私の人生は」私の物ではなく見えない大きな導きのうちにあることを思わわせる。

「死線を越えて」①

2021-05-10 08:34:46 | Weblog
今年も元気で変わらずの生活を続けていたが、何となく体に異変を感じたことが続いてた。そんなある日行きつけの医者に検査を進められて初めCTスキャンをとり、検査入院をした。その結果、「直腸がん」と診断され、「手術と抗がん剤」治療をすすめられた。高齢ということもあり初めての入院で心身ともに疲労感と一時はショックもあったが全ては「神にゆだねた体」と思い直し、すべて指示に従ってこれからの時間を大切にすることを決意した。幸い子供たちの心強い協力を得て日々静養に努めている。、まだ回復途中だが時間がかかるが一日一キロの散歩を実行して手術に備えている。大きな動揺も」ショックも覚えることなく」この日を迎えることが出来ていることは、父よりの「信仰、希望、愛の」聖書の言葉であり、その核心である。

「閑話休題」

2021-04-09 10:04:28 | Weblog
私が東京から郊外へ移り住んで早10年以上が過ぎている。この小さな町には商店街もあり、桜並木、ハナミズキもあり、住み心地のよいところであった。しかし現在では商店街は年々店が閉鎖してコンビニ、蕎麦屋、花や、お茶店、食堂となくなり、自転車屋さんが残るのみとなっている。そんななかで、商店街を見守っている桜並木(わずか30本足らずだが)が今年も見事な花を咲かせ、花吹雪を散らして見せてくれた。然しこ桜も樹齢を重ねていて1本、1本と年々減り続けている。この流れを見続けてきた自転車屋さんの話によると空洞化した60年以上過ぎた桜は1本づつ処理されて穴が開いたように減っているそうです。何れこの桜並木も消えて商店街ともども、無くなってしまうのかと寂しい限りである。
そんな中で4月の末から5月にかけて桜通りに並んで立っているハナミズキがこれから咲き始めてくれる。私はこのハナミズキになぜか心惹かれている。
桜の次に咲くことも、静かに落ち着いた色といい、花弁もしとやかで、日本的で静かで落ち着いていて、それでいて色は七色といってよいくらい薄赤色、桃色、青、白と色とりどりに咲いてくれる。誠に日本人の姿を花にしたようでびったり落ち着くのだ。然し」この花は日本の物ではなく、減産はアメリカだということで驚きなのだが、桜よりは花の咲いている時間も長く、楽しませてくれるのがよい。
人の目には余り目立たないところも日本的と言えないだろうか。私はこのハナミズキが好きである。(先始めるのが楽しみで待っている。)
暑い夏を前にしばらくの間、こうして日本の春を静かに待ちわび、楽しめる喜びを感じている。

「新東京物語」⑤

2021-04-06 08:51:48 | Weblog
昌吾にとっては親元を離れ兄の所へ行くことは初めてということと同時に何かしら緊張感があった。年が離れていたことで兄弟としての生活感も感じなかったし、軍人生活をしていたこともあり、何かしら緊張と恐怖のようなものがあった。学校へは行っていたが、自由時間はなく遊びなどあるはずもなく厳しいものであった。そして卒業と同時に工場の作業員の一人として、朝から寝るまで拘束させられていた。帰宅後も報告書を提出して、注意を受け疲れて寝るだけの生活が続いていた。自由時間は教会へ行く日曜日だけで、この時間だけが生きがいであり、心休まる時間でもあった。遊んだり、休んだりしたい年ごろであったが、親もいないので甘えることもならず、壱穂は軍隊生活の習慣が抜けないままに厳しい指導を続けていた。そして4歳違いの弟も兄の希望で仕事の手伝いをするために福島へ来ることになった。名目は教育指導であったが、半分は工場要員であった。
そんなある日、二人は仕事から帰ると、いつものように仕事の業務報告をした。壱穂は二人の話を聞いていたが、何が気に入らなかったのか、二人の弟に正座をさせて長い説教が始まった。そしてそれに対して反省の詫びをしろと迫った。省吾はすぐ断りをして詫びをしたが、弟は何故か黙ったまま謝らなかった。壱穂の怒りは頂点に達し、二人をゆすすことなく怒鳴り続けた。省吾は弟を連れ出し、「詫びれば済むことだから」となだめたが、黙ったままである、そしてその日はそのまま終わったのだが、翌日弟の姿がなかった。慌てて探したのだが、見つからない。
そのままその日は過ぎたが、翌日になって美継から電話があり、岡山へ帰っていたことが分かった。やはり兄のしつけの厳しさに耐え切れなかったらしい。美継のはなしによると、帰宅すると蔵の中に閉じこもり、出てこないとのことであった。よほど我慢できないほどつらかったのであろうか。

「閑話休題」

2021-04-01 13:27:11 | Weblog
スポーツシーズンの春がやってきた。多相撲春場所、ゴルフ、そしてプロ野球。高校野球とこのコロナ禍の中で少しづつではあるが、以前の活気ある平和が戻りつつある気がする。その中で印象にに残った、また感動を受けたことを挙げてみたい。中でも多相撲ではか5年間の苦労の末にけがを克服して大関の地位を勝ち取った照ノ富士の成績は優勝と共に見事というか、その努力と精進の力をほめたたえるとともに見習うべき学びを教えられたことを上げたい。所属する伊勢ケ浜部屋は私も一度訪問したことがあり、親方の伊勢ケ浜親方とはマジックの趣味でクリスマスで交わりを持ったこともある縁があり、その人柄も存じ上げていたが、師匠と弟子との関係も見事な信頼関係にあったことでの結果であろう。目に見えない苦労と苦しみを乗り越えての結果としてこの栄冠を勝ち得たことに称賛したいと思う。人はその目標に向かって真剣に努力することで報われることを知り、また人それぞれに目標を立ててしっかりそれに向かって前進することを教えられる思いであった。プル野球もオープンしてペナントを争う戦いが始まったが、今年は戦力の差が少し減った感じで、上位4チームは接戦が期待されて面白そうである。毎日の楽しみが増えて期待が出来そうだ。扨てゴルフも女子ゴルフが中心で今年もにぎやかに話題も豊富だが、女性の場合は成長も早く、また体の変化の影響を受けやすいので群雄割拠の様子である。今年はどんな子が成長してくるのか楽しみに見届けていきたいと思う。巣ごもり生活の中でこうしたスポーツが私たちの生活に溶け込み刺激を与えてくれることは、ホウン等にありがたいことでこれがないと味気なく淋しいものになる。今年のオリンピックが無事開催されることを願うはかりである。

「新東京物語」④

2021-03-29 09:46:16 | Weblog
家族というものはどんなものか、世界でも国々によってその在り方は違うかもしれないが、親を中心にその固い愛情の強さは変わらないものと信じているが、その在り方はその家族ごとに異なるようだ。その生まれ、育ち方、環境のちがいもあるだろう、家族とはいえその人の性格も考え方もそれぞれである。佳子は男家族の中ではその存在は女ということもあって特別だったようだ。「私は絶対その話は許しません」との一点張りで壱穂の話を聞くことはなかった。二人は仕方なく岡山の教会で無理やり結婚式をしたが、美継と佳子は参加しただけであった。そんな二人を見かねてか、美継は父として何とかしてやらなくてはと二人を呼び「福島に私が預かった鉱山がある。それを今、親戚に預けて頼んでいるが、お前たちで後を見てくれないか」と持ち掛けた。壱穂は理解してもらえない母親から離れるならと結婚と同時に岡山を発ち、さっそく福島へと旅立った。子供はそれぞれ大きくなり大人になると旅立って独立するのは動物の世界も同じであるが、特に男の子は妻を取り、一家を成立させて独立する習わしは日本の家庭の習わしでもあった。学生だった二人の弟は黙って親の言うままに暮らしていた。そんな時壱穂から父に電話がかかってきた。「お父さん。昌吾を俺が大学の受験の面倒を見るからよこさないか」との申し出で会った。10歳も離れていると兄という感覚より面倒見の良い叔父のような感覚があったのかもしれない。
父は早速、承諾し,昌吾はさっそく福島へと旅立った。壱穂には勉強の指導ということもあったが。福島の事業が初めての仕事でもあり、何かと手伝いが欲しいこともあり、新婚ということもあり、そばに手伝ってくれる人間が欲しかったこともあったのだろうと思われた・

「閑話休題」

2021-03-26 10:33:40 | Weblog
嘗て「寅さん映画シリーズ」を見ていた時に、こんなシーンがあったのを思い出した。ある時、寅さんが旅に出る時に柴又の駅まで見送りについてきた甥っ子の満男が寅さんからお小遣いをもらい、嬉しそうだった。そしてその時「おじさん人間って何のために生きているんだろう」と突然聞いている。寅さんも突然の難しい問いかけに戸惑いながら「そりゃあ、生きていてあんな良い時があったなあ。またこんな楽しいことがったなあ、と思える時があるからじゃないのか」と答えている。一見寅さんらしい答えのように聞こえるが、実はこんなところに山田監督の独特な哲学が表れていて、自ら考えさせられたことがある。「人間は何のために生きるか?」この問題は永遠の問いであろう。誰もが一度はふと考えることかもしれない。私自身もこの年になって「自分は何のために生きてきたのだ折ろうか?」と自問自答することがある。確かに寅さんの答えも一理あるだろう。私自身も自分の人生を顧みるに「何のため?」と自問自答することがある。確かに「生きていてよかった。」と思う瞬間もあった。また「こんなに苦しんだり、悔やんだりしなければいけないのか」と思う時もあった。しかし今では何があっても「生かされている喜び」のうちに感謝しかない。私のような人間がこんなに長い間生かされ、喜び、悲しみを覚えながら生かされていることだけが幸せである。現在もまた、日々感謝のうちにある。そのことが嬉しい。
だから日々をささやかながら、できるだけ楽しみ、喜び、小さな幸せの中で生きることを願っている。

「新東京物語」③

2021-03-23 09:35:58 | Weblog
壱穂は困惑したが親友の頼みとあって断ることも出来なかった。許嫁の相手の家は岡山市の高級住宅地の一角にあった。何しろ親は軍隊の立派な偉い人とあってお屋敷である。家には三人の姉妹と両親で住んでいた。相手は長女でカソリックの信者で聖歌隊のメンバーでピアノをたしなむ子女であった。
壱穂は恐る恐る訪問しその趣旨をつたえた。泣かれたりするかとも思っていたが、話はすっかり変わっていった。壱穂は思わぬ歓迎を受けて、もてなされその家で歓迎されたのだ。そして何時の間にかその娘と壱穂はすっかり良い中になっていたのである。壱穂もまんざらではなかったらしく何時の間にか二人は付き合うようになっていた。(女心と秋の空)ということわざもあるが、果たして二人の結びつきに何があったのか、それはふたりにしかわからない。やがて二人の関係は佳子の耳にも入ることになり、美継も知るところとなった。明治の古い教育と厳重な家庭で育った二人にとって大事な長男の結婚は最大の問題であった。当然相応しい嫁を迎え跡を継がせることを考えていたところ、若い二人から結婚の意思を知るところとなり、それは青天の霹靂となってしまった。とりわけ佳子にとってはかわいい息子を泥棒猫にとられてしまったように激怒することになる。
当然それは許されることではなく二人はその権幕を知り、話は大義絵になりそうになってしまった。佳子は三人の息子を育てているうちに何時の間にか息子たちをわがものしている気持になっていて自分の意志通りにする傾向にあったが、この事件をきっかけに一段と感情が高ぶり始めていた。当然二人の結婚は許されることなく、破談とするように言われたが、二人の気持ちはさらにつりょくなるばかりであった。そんな若い者の姿を美継は静かに見守るばかりであった。

「新東京物語」②

2021-03-15 09:50:04 | Weblog
武家屋敷としてできた住まいはかなり年数がたっていると思われたが、とてもしっかりとしたつくりであった。離れの静かな部屋の前には枯山水の庭があり、立派な松が枝を周りへたれている。池こそないがその雰囲気は充分であった。その離れの部屋に一枚の写真が飾ってある。先祖の親の写真と思いきやそこにはかわいい赤ん坊が写っていた。ベビー帽をかぶり当時では珍しいと思われるかわいいべぴー服を着せられ、そのつぶらな目はぱっちりとしたかわいい女の子である。次男の昌吾が「これ誰なの」と聞いたことがあったが、美継も佳子も答えなかった。後日分かったことだが、その写真の女の子は長男の壱穂の次に生まれた長女だった。生まれて一年半ほどで大病に架り、亡くなったらしい。美継は悲しみに打ちひしがれてしばらくは口もきけないほどだったらしい。その後も写真をずっと懐にに入れて過ごしていたという。そんなことがあって、二人目の男のことの年の差が大きくな慣れてしまったらしい。佳子は3人の男の子を育てるうちに何時の間にか強くものいう言葉になっていったのはその影響もあったのかもしれない。そして長男は家庭教育でも「跡取り」の思想が強く大事に育てられ、教育にも配慮して家庭教師をつけ、学費も糸目をつけず力を入れていたようです。
その長男の壱穂が結婚適齢期を迎える年ごろになると佳子は「何としても相応しい嫁を」と真剣にその問題に関心を持ち始めていた。
そんな時、壱穂は学友と何不自由なく学生生活を謳歌していたのだが、親友の友人からあることを頼まれたのである。彼が話すのには「実は俺には岡山に許嫁がいてその女と結婚を約束しているんだ。しかし新しく好きな女性が出来て彼女とは結婚できなくなったのだ。そこで悪いがそのことを彼女に伝えて断ってもらいたいのだ。親友の頼みとしてよろしく頼むよ」と言われてしまった。

「新東京物語」①

2021-03-12 09:38:38 | Weblog
美継は戦後、岡山の県北の田舎へ家族と一緒に引き上げた。田舎に家もなく帰るところがないために勤めていた会社の世話で住む所を用意してもらえたからである。落ち着いて数年後、会社からそう遠くない所に武家屋敷跡が売りに出たのを買い求め、そこを終の棲家として住んでいた。若かったミ美継も何時の間にか70歳を過ぎ、子供たちはそれぞれ成長し、家を出ていつの間にか老夫婦の二人暮らしが始まっていた。若い時から実直で真面目な美継は
創立者の山内氏から信頼があり、本社では創立者に代わり会社の代表として責任を負い、銀行をはじめ、工場の労働組合の管理まで一手に責任を負い、頑張っていた。そんな夫を妻の佳子はあまり顧みることなく、自分の好きなことをして暮らしていた。佳子も美継と同じ岡山の田舎育ちだったが、長女として生まれ、わがままに育ったせいもあり、あまり家庭的ではなかった。東京の店は倉庫や事務所もかねて借家とはいえ3階縦の家に住み、田舎から姉を頼って出てくる妹やいとこの面倒を見ながら女中代わりにしていたこともあり、気ままに過ごす習慣がついていたようだ。美継はそんな佳子をあまり気にせず、ひたすら自分の努めに時間を過ぎしていたこともあり、田舎生活で時間と余裕ができると佳子はお茶。お花。琴と田舎でもなかなかできない趣味を生かして火を過ごしていた。家は古かったが、武家屋敷とあってつくりはしっかりとして庭もあり、裏には畑も僅かながらあったので食べるには困ることはなく、余裕の生活が出来ていた。
二人には子供が三人いた。何れも男の子で長男は軍隊経験を一年して終戦を迎え、戦後仕事がないので美継が所有していた鉱山会社の管理を任せていた。次男は10歳年下になり、東京でサラリーマン、そして3男は大阪で就職していた。