波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「孫」

2015-03-31 10:03:27 | Weblog
数年前にこんな題の歌が流行したことがあったが、その時は何の感慨も無く聞いていたが先日娘に招かれて出かけて駅の改札に立っていた二人の孫娘を見て、その立派に成長した姿に一入の思いがあった。大学受験と高校受験に合格した記念と私の卒寿の祝いをするということであった。長女は真夏の8月生まれ、次女は真冬の1月に帝王切開で生まれたときの事をはっきり覚えている。そしてその後まもなく娘が盲腸で入院となり、その間二人の孫の世話を婿と一緒に授乳の世話をしたこともあり、幼稚園、小学校と運動会、文化祭と事あるごとに出かけてはその成長を共にしたのである。
その間には微笑ましいエピソードが幾つもあるが、割愛するとして、今こうして成長した姿を見て改めてその一つ一つが走馬灯のように思い出されてくる。
もうこんなに大きくなって親の手を離れるほどになり、祖父ともなればもう関係ない存在だが、何となく役目を果たした思いでもある。
人はこうして自分で生きていく身につけて成長するのだということをまざまざと感じさせられたのだが、不思議なことに自分の子供の重いでは何故か、薄いのである。
仕事人間になって夢中で時間を過ごしていて育児とか、世話については妻任せであり、他人任せですごしてしまったことで印象に残っていないのである。この事については反省であり、後悔でもあるのだが、
そこへくると孫との関係は接触する時間と密度があっただけに印象に残っている。そして彼らは大人になり、それぞれ家庭を築いていくことになるのだが、その時はわれわれの存在は無いのかもしれない。しかし、その思い出は消えることなく、又言葉でもなくそれぞれの心に根付いていることだろうと思う。
私たちの人生はこうして継承されていくのだが、その一ページを今日は美しい形で見ることが出来たことに感謝と喜びを覚えたのである。

思いつくままに  「お彼岸」

2015-03-27 10:37:40 | Weblog
 今年は昨年より寒さが厳しかった気がしていたが、この季節になると不思議に和らいで春を思わせ暖かくなる。「暑さ寒さも彼岸まで」とは良く言い表したものと今年も墓参を計画した。我が家の棚には亡き父、母、妻、そして子供が無くかわいがってくれた叔母の写真が置いてある。毎日祈るわけではないが、写真を見るたびに自分を愛し、育て慈しんでくれたことを思い感謝している。特に父の無言の遺影は見るたびに語りかけるものを感じて意味深い。
今日の新聞のコラムに「私は親から受けた遺伝子のおかげで内臓の病気をしたことが無い。血圧降下剤も飲むことは無い。健康診断も70歳から受けていない。人間は適当なときに死ぬのがいい。そしてその時は神様がお決めになると思っているからだ。」とあった。
しかし、普通の人はそうは思わない。むしろ一日でも長くこの世に生きたいと願って、あらゆる検査や薬、健康法を取り入れて治療にあくせくしている。そして又医者、メデイヤ
、その他の医学書もいかにもこうすれば長生きが出来るようなことを書き立てている。
しかし、結局は「死」への道を歩んでいるのである。この事実は変わらないのである。
若いときであれば家族への責任があり、その責任を果たすべく健康を維持することに専念する義務もあるし努力も必要であろう。しかし平均寿命を達成すれば、後は神からの
「ボーナス」として感謝して考えるべきであろう。
さすれば少々の身体の欠陥は当然であり、その修理のためのエネルギーも程々と考えても良いのではないだろうか。又、何もしてもその効果はさほどに関係は無いと考えるべきだろう。つまり自然体でのこの世の生活を全うすることが大事であり、その時間を無為に過ごすのではなく、「飛ぶ鳥跡を濁さず」の例えどおり、すがすがしくこの世を去ることに
思いを馳せることだと思う。
お彼岸で墓参をしながらそんな思いでその日を過ごしていた。

    思いつくままに  「寅さん蘇る。」

2015-03-23 08:47:34 | Weblog
隣のババが亡くなって一週間が過ぎた。信じられない思いでいたが、元気な声を聞くことが出来なくなって次第に寂しさがつのってくる。もう電話の声が聞けるかと待つていても雨戸がしまったままの様子を庭越しに見るたびに「もう会えないのだ」と元気が出ない。
そんな思いでTVを見ていたら「寅さん映画」が映っていた。寅さんの映画は上映のたびに欠かさず見ていたつもりだが、48作もあると全部を覚えているわけではなく、忘れていることも多い。だから新鮮な思いで再放送を見ることが出来る。
そんな中でこんなシーンがあった。いつもの団子やを営んでいるおじちゃんの家に帰ってきた寅さんを囲んで家族が揃っている。その中で寅さんが「人間を上流、中流って言う人がいるけど、どんな人間が上流でどんな奴が中流なんだ」と聞いている。
博が「兄さんは上流ですよ」というと「俺が上流だって」と怪訝な顔をしているとすかさずサクラが「人は高いものを一杯持って広い庭のある家に住んでいるから蒸留って言うんじゃないと思うの。その人がどれくらい愛情を持っていて、その愛情をどれくらい皆に分けてあげられるかで決まると思うの。お兄ちゃんは立派な上流よ」という。寅は分かったような分からないような顔をして「俺が上流ってか」と照れ笑いをしている。
久しぶりに蘇った寅さんを見た思いで勉強をさせてもらった。この映画にはどこかに作者の本音が隠されているのだが、ここで人は貧しくても苦しい状態に置かれても心に一杯の愛情を持ちその愛情をどんな時でもいつでも与えられることが出来てこそ上流といえる人間であることを神も又望んでおられる事を知らされたのである。
ともすると不自由で厳しいこの世の生活の中で自分のことだけを考えがちな日々の中にあって最も大切なことを忘れないように生きることを知らされ、すがすがしい思いに戻ることが出来た。
ようやく春めいて少しづつ暖かくなってきた。桜もまもなく今年も咲いてみんなの心を和ませてくれるだろう。そして全ての人が豊な愛情に育まれて幸せであって欲しいと願わずにはいられない。

音楽スタジオウーソーズ    第40回

2015-03-20 10:23:18 | Weblog
あいr光一の仕事はよくも無く悪くも無く続いていた。世間の風潮としてはこんな商売も運営の仕方によっては成り立つのかもしれないが、光一にはそんな才覚は無かった。
ひたすら音楽の世界に漬かっていられれば良いというだけのことで、経済観念はなかったし、この店を大きく発展させるとか、新しいものを取り入れるとかという夢も無かった。
最近は出演者殻の申し込みも半減してステージが開くことが多くなっていた。
空いている時間を埋めるために色々な団体や学校のクラブからその場所を提供してほしいとの申し込みが多く、レンタルで其のまま店を貸すことも多くなった。
これも時代の流れでニーズが昔と変わってきていることの証明であった。オーナーはすることも無く、従って店はお休みとすることも多くなっていた。
田中はコーラスの練習は参加することを止めていたがA子との時間は続いていた。
今は妻もいなくなり、生活は乱れがちで時間もルーズに成っていた。然しどうすることも出来ないでだらだらと続いていた。彼女もそんな田中の様子が分かっていながら何も言い出せないままであった。自分から積極的に強く言うことの出来ない性格がそうさせていたのだ。
「この仕事もこの先長続きしそうも無誘うだから、どうしようかと思っているんだけど
どうしたらよいかしら。」田中はそう聞かれても返事が出来ない。
「他の仕事を探せば何かあるかもしれないと思っているんだけど。最近休みがおおくて仕事にならないし、お金にもならないの」「ためしに他の店や仕事を探してみる時期かもしれないね。」この店は駅から近く、場所は悪くないが、やはり仕事が無くては困るのだ。
「探して見つかったら又連絡するわ。」それから二人はメールのやり取りで関係を続けていた。大人の関係で熱くなることも無く時折あって近況を話すだけで満足していたのである。人間は一人でいることは幸せを売ることは出来ない。
どんな形でも交わりを持って家庭でもそうでなくても生きていくものである。

思いつくままに   「神の席」

2015-03-19 11:35:45 | Weblog
イタリヤのある地方では食事の度に一人分の空席を作る習慣がある。それは通りがかりの人やお金の無い旅人などが気楽に一回の食事が出来るようにするためだそうである。
しかしそれは実は「空席」と見える座席に座っているのは人間の目には見えない「神の席」として供えてあるのだといわれている。新聞にこんな記事が載っていた。そういえば
前にもボリビヤ地方にも似たような習慣があると聞いたことがあったが、日本では貴意いたことは無い。然しわが国でも毎日「炊き出し」の準備をしてNPОの人たちが奉仕をしていて日本の文化に即して行われていると考えていいだろう。
私の日常生活でも男の独り身を案じて、時に触れ折に触れて援助をしてくださったご婦人のおばあちゃんがいた。若いときから面倒見が良かったせいもあり、若いパトロールの警察のお兄ちゃんも良く休憩に利用していたと聞いていたが、今では年もとりたいしたことは出来なくなったが、時折、電話で鍋とタッパをもって来い
と呼び出しが来る。そんな事が続くともらうだけではすまなくなり、三度に一度は好きな缶ビールを手土産に買って御礼をするようになり、「助け合い」の隣人関係が出来ていた。「神の席」ならぬ「神のプレゼント」とでも言うのだろうか。
毎日、誰か彼かがそのばあちゃんを訪ねて愚痴をこぼしたり、相談をかけたり、近所の噂話を聞かせたりと人が耐えることが無かった。そして帰り際には必ず、何かかにか
それが「お漬物」であったり、「おもち」であったり「お饅頭」であったりするが、
必ず手ぶらで返すことは無かった。
性格かもしれないが、世の中にはそんな人もいるのである。僅かなものでも気持ちを表す好意はその交わりを深くしたことであろう。
まったく逆に誰が来ても用件だけで玄関払いをする人も多い中で、暖かさをこんな形で味わって帰ることが出来ることは幸せな気分になるものである。
近所の掃除をしている人に夏の暑い日に「麦茶に氷をいれて」差し出してあげるのも
気持ちを形で表すことになる。それが気持ちをつなぐのである。
「神のせき」は何時でも、何処でも出来るのである。
それはその人の心の中に作る気持ちで決まるのである。

思いつくままに   「ジジババトリオ突然の解散」

2015-03-15 10:55:35 | Weblog
トリオのジジがいつものようにふらりと夕方ババの家を訪ねた。何十年と続いている習慣で一日のうち一回ばばの顔を見て癒されることを習慣としていたからだ。
然し、その日は足の悪いばばが顔を出さない。何か億で仕事でもしているのだろうと断りも無く、あがっていくと台所の冷蔵庫の前で倒れているババを発見した。慌てて隣の元看護師の奥さんに来てもらって心臓ばっサージをしたがすでに冷たくなって硬直が始まっていた。恐らく突然の発作で何も出来ず、誰にも知られずに息を引き取ったと思われる。
第一発見者のジジが救急車を呼び警察にも報告し、家族も集まってきたが、すでに手遅れで検死を待つのみとなった。
まったくの突然の死に接して驚きと信じられない思いであった。何しろその前日の午後訪問してお茶をしながら楽しく話をしたばっかりだった。4月になったら花見をお弁当を持って楽しもうと決めてスケジュール表にその日をメモしていたのがいんしょうてきだった・何によらず、几帳面でまめであり、最近は忘れっぽくなってといいつつすぐメモをするのが習慣だった。特に楽しい事を書いているときの嬉しそうな顔が印象的だった。
一週間に二三度は電話で呼び出され、味噌汁が出来たから、煮物が出来たからと電話で呼び出されなべとタッぱをもって来なさいと呼ばれて一人身の私のことをきにかけてくれていたばばである。そしてこちらから訪問を告げると「待ってまーす」とまるで子供のように無邪気に嬉しそうに返事をして好物の「缶ビール」をお土産に持っていくと大事そうに冷蔵庫に終いにいく姿が忘れられない。
話は20年近く五人の町会長に仕え、民生委員を10年してきた話を何回聞いたことだろう。
そしてその話の根幹には必ず、「一歩下がって」の謙虚な姿勢があり、私は話を聞くたびに世の中の大事なことを学ばされていた。
昨年9月に10年の間施設に入っていたご主人の世話を終わり(脳梗塞から老衰で死亡)
その後片付けを少しづつして、それも一段落し、最近は「私、これから未亡人になったの」と年甲斐も無くいって周りを煙に巻いて大笑いを誘いジョークを飛ばしていたばばである。そんなばばがあっけなく天国へ行ってしまった。検死の結果は「心筋梗塞」であったが、真にあっけないすがすがしい最後であった。
わずか3年ほどのトリオの会もこれで最後になってしまった。

音楽スタジオウーソーズ   第39回

2015-03-11 18:21:08 | Weblog
「とにかく6人集めてくれないと旅行会社へ顔が立たないのだ。」今回の大型旅行の責任者のボスはいきり立っている。どうやらこちらの町会の人数が揃っていないらしい。
何回もかかってくる電話を受けていた彼はどうやら頭にきてしまったらしい。希望者がいないのだから仕方が無いという理屈がどうらないので、張会長を差し置いて「今回の良好の参加をことわりましょう」相手に「当町会は今回の旅行には参加しません」と断ってしまった。このことによって連合町会から奪回することになり、今後の親睦は全て白紙となってしまったが、彼は平気だった。
町会独自の行事は変わらなかったが、役員は年々歳をとり70歳を過ぎるころから限界を感じるようになっていた。そしてその年の暮れ町会長の引退宣言を期に役員が辞めることをほのめかすようになった。
そんな時を見図っていたように今まで班長会議に出たことも無かった新しいグループが退去して総会に出てきた。それはある団体のメンバーの用でもあったが、とがめることもできない。そして会長改選で一気に推薦とともに票を集めて新会長を祭り上げてしまった。
旧役員はあっけにとられ、何のすべも無く交替をやむなくされてしまった。
幹部はすっかり新メンバーに代わり、新しくなり、全ての今までのやり方はかわってしまった。当然行事もお知らせも全てが新メンバーのやり方で進んでいる。
町会の雰囲気は自然と変わり、商店会のメンバーも町会を抜けシャッターを下ろすところも増えてきた。町の中央に並んでいた桜並木は春になると近郊の学校や公的機関でバンドを組み、その中央通を更新して盛り上げていたが、火が消えたような何も無く、桜のきも
車の通り道で危険とあって、垂れ下がって興趣を盛り上げていた枝葉は切り捨てられ、
高い上のほうにだけ残って昔の風情はすっかりなくなっていた。
昔を懐かしむ老人たちは変わり果てた町の姿をみて、すっかり力を落とし、口々に愚痴をこぼすだけであった。
旧役員は新年や暮れに旧交を温めていたが、どうすることも出来ず、昔を懐かしみ愚痴をこぼすのみに終わっている。若い人たちのエネルギーの期待も出来ず、ただ時代の変化を見つめるのみであった。

    思いつくままに   「春よこい」

2015-03-07 10:44:42 | Weblog
小学生のころ、「春が来た。春が来た。るるr~」と歌ったものだったが、3月になると急に春を感じるようになった。晴れた日の朝に窓の日差しが指して来ると心なしか、2月の日差しと違い暖かさが増しているように3月の日差しを感じるのが嬉しい。
今年は12月に体調を崩したこともあり、冬篭りの生活を余儀なくされたこともあってこの3月の春の暖かさが身にしみて元気を与え力づけてくれる気がしている。
人は生きている限り大きな重荷を背負わされていることは避けることの出来ない任務である。そしてそれはその人の得意な面、おかれた環境によって一人一人に仕事として命じられていることでもある。そしてその仕事は目に見えない形で神によってあたえられているのだが人はそれを見過ごしたり、見ても見ない振りをしてしない人もいる。しかしそれを命じた神はそれをじっと見つめておられることを感じるのだ。
そして神の目を感じる人は他人の仕事を羨んだり、自分の課せられた仕事を疎んだりせずに専念するのであある。つまり私たちは神の道具として登録されて一人ひとりが任務を持って生かされているのである。
金槌とのこぎりが別々に使われるように使われていることを知らなければならない。
そしてその成果は順境にある人よりも逆境にあって生きているひとのほうが強い人格を作ることになることが多いのであるが、逆境に負けてしまう人もあることは残念である。
春は色々な意味で意欲を持たせてくれる時でもある。人はその環境を自力で変えることが
出来ないで流されることが多いのだが、この時期には新しい希望が芽生えるときでもある。学生が受験をして新しいステップを踏むのはまさに典型的な姿だが、
それぞれが芽生えてくるものを大事にしてそれを育て成長させることが大事なことだと思う。自分の目指す方向へ向かって歩みを止めないで少し筒前進することを止めないことだ。誰にも知られず、誰にも分からないかもしれないが、見ている神の目がある事を意識したい。春はそんな気持ちにさせる大事なときである。
無駄に時間を過ごすのではなく、全てのことに意義を持たせて過ごしたいものである。

音楽スタジオウーソーズ    第38回

2015-03-04 11:22:06 | Weblog
慰謝料の金額は田中にとって考えていなかったし、もちろん準備も無かっただけに大きな負担となった。保険料を解約したり、親や知人に借りたり、何とか工面することが出来たが、生活は一変した。今までは何となく心にも余裕があったが、今は毎日の暮らしも楽ではなかった。しかし彼女とのデートは止めるわけにもいかず続けていた。
コーラスにも出ていたが、今までのような気持ちで歌う気持ちにもならず、彼女との時間だけが慰めだった。店の好きジュールは相変わらずだった。評判を聞いてぜひ出演したいという申し込みは続いていて一ヶ月の予定は決まっていたが、全部埋まることは無かった。そんな時間はコーラスの練習に当てたり。、ホールの貸し出しに当てたりしていた。
時には光一がバンドの助手でアルバイトで頼まれていくこともあったりである。
でもぽっかりと休みが取れると張ること二人でドライブを兼ねて近所の温泉でのんびり時間をつぶすのが最大の楽しみだった。
元来好きな音楽の世界で時間が過ごせることだけが楽しみである光一にとってそれで不満は無かったが、春子はそうは行かなかった。経理を任されてその日の売り上げや経費の事を考えるときが休まることはなかった。
来客の波は激しくチケットが売り切れるときもあるが、ばらばらとホールが空いているときは経費倒れになりはしないかと採算が気になる。
チケットの価格は相場もあり、出演者のきぼうもあるので勝手には出来ない。
そしてギャラは当然客の数に関係なく支払うことになる。とう全赤字になることもあるのだ。そんな毎日の中で春子は光一に相談することも出来ずひとり出悩むことが多かった。父はそんなことには無頓着でコーラスの日には出かけてきて楽しんでいる。
偶に町会の人たちをつれてくることがあるが、父の付き合いとあって、二度とくることは無かった
そして父は相変わらず普段は町会の仕事に熱心だった。最近は他町会と渉外の役を買って出てた他町会へも良く出て行くようになっていた。
近所の町会との連合長老会があってそこへ出かけていくのである。
その会合で年に一度の「旅行会」の打ち合わせが行われた。