数年前にこんな題の歌が流行したことがあったが、その時は何の感慨も無く聞いていたが先日娘に招かれて出かけて駅の改札に立っていた二人の孫娘を見て、その立派に成長した姿に一入の思いがあった。大学受験と高校受験に合格した記念と私の卒寿の祝いをするということであった。長女は真夏の8月生まれ、次女は真冬の1月に帝王切開で生まれたときの事をはっきり覚えている。そしてその後まもなく娘が盲腸で入院となり、その間二人の孫の世話を婿と一緒に授乳の世話をしたこともあり、幼稚園、小学校と運動会、文化祭と事あるごとに出かけてはその成長を共にしたのである。
その間には微笑ましいエピソードが幾つもあるが、割愛するとして、今こうして成長した姿を見て改めてその一つ一つが走馬灯のように思い出されてくる。
もうこんなに大きくなって親の手を離れるほどになり、祖父ともなればもう関係ない存在だが、何となく役目を果たした思いでもある。
人はこうして自分で生きていく身につけて成長するのだということをまざまざと感じさせられたのだが、不思議なことに自分の子供の重いでは何故か、薄いのである。
仕事人間になって夢中で時間を過ごしていて育児とか、世話については妻任せであり、他人任せですごしてしまったことで印象に残っていないのである。この事については反省であり、後悔でもあるのだが、
そこへくると孫との関係は接触する時間と密度があっただけに印象に残っている。そして彼らは大人になり、それぞれ家庭を築いていくことになるのだが、その時はわれわれの存在は無いのかもしれない。しかし、その思い出は消えることなく、又言葉でもなくそれぞれの心に根付いていることだろうと思う。
私たちの人生はこうして継承されていくのだが、その一ページを今日は美しい形で見ることが出来たことに感謝と喜びを覚えたのである。
その間には微笑ましいエピソードが幾つもあるが、割愛するとして、今こうして成長した姿を見て改めてその一つ一つが走馬灯のように思い出されてくる。
もうこんなに大きくなって親の手を離れるほどになり、祖父ともなればもう関係ない存在だが、何となく役目を果たした思いでもある。
人はこうして自分で生きていく身につけて成長するのだということをまざまざと感じさせられたのだが、不思議なことに自分の子供の重いでは何故か、薄いのである。
仕事人間になって夢中で時間を過ごしていて育児とか、世話については妻任せであり、他人任せですごしてしまったことで印象に残っていないのである。この事については反省であり、後悔でもあるのだが、
そこへくると孫との関係は接触する時間と密度があっただけに印象に残っている。そして彼らは大人になり、それぞれ家庭を築いていくことになるのだが、その時はわれわれの存在は無いのかもしれない。しかし、その思い出は消えることなく、又言葉でもなくそれぞれの心に根付いていることだろうと思う。
私たちの人生はこうして継承されていくのだが、その一ページを今日は美しい形で見ることが出来たことに感謝と喜びを覚えたのである。