波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡     「カジノができる時代」

2017-04-27 11:08:35 | Weblog
日本でカジノができるかもしれないという話が出ている。かつてサラリーマン時代にソウルへ仕事で行ったとき郊外にあるカジノを見学に行ったことがあるが、確かにそのときの印象も入場に検査があったり、一般の人が気軽に入れるような雰囲気がなかったことを覚えている。日本も海外からのお客さんが年々増えてきて世界のVIPやセレブの人たちも増えてきているので、そんな意味では世界波になりつつあるのかと思うがオリンピックの開催を含めてタイミング的にはあっているのかもしれないが、日本人にはなんとなくそぐわない感じもしている。一般的には今でもパチンコとゲームセンターのレベルと感覚が強いし、まさに一部の特別な人のためとしかいえないもののような気がする。昭和39年のオリンピックの時代にも高度成長期があり、日本は景気が高揚して何かと派手にさまざまなものがはやったものである。当時はカジノではなく、日本ではマージャン全盛時代であった。私もサラリーマンの一人として毎日のような借り出されていたが、夕方になると幹事はメンバー(4名)の確認と場所、時間の設定、特に場所は限定されていて原則予約制であり、場所取りがたいへんである。特にメンバーがVIPになるとどこでもというわけには行かず指定されるだけに、取れないとなると懲罰ものである。したがって午後になるとおちおち仕事も手につかず、ましてお帰りのときのお土産、満貫賞品の準備なども用意しておかなくてはならない。
時間になるとお迎えに始まってゲームもそつのないように終了させお迎えの車のお見送りまで気が抜けなかったものである。
当然勝ち組と負け組みは最初から決まっているようなものでただひたすら失礼のないようにほどほどにお相手をすることだけであった。
それはまさに勝負を争うのではなく時間つぶしの時間で言ってみれば「修行」の時間のようなものでもあった。
21世紀になり、時代は「カジノ」の時代になったのだが、果たして日本の風土にそぐうのか、すでに園準備が進んでいるのかもしれないが、このことで外貨を得ることが果たして日本のためになるのか、私自身は疑問にも感じるが、時代は進んでいくことだろう。
マージャンはいまや老人ホームのゲイケアの遊びと化し現代でも細々と生きているようだが、
カジノの話をきいて久しぶりに昔を思い出すことになった。

思いつくままに    「天国と地獄」

2017-04-24 10:38:38 | Weblog
昔このままのタイトルの映画があった気がしているが、誘拐事件をテーマにした内容だった気がする。確かにこのテーマは生きている人間にとってふと立ち止まって考えさせるものがある。それは人間が最後は「死」を迎えなければならないからである。
その時人は苦しみを避けたいという思いが無意識に働き、天国を望むのだ。そして天国とはいったいどんなところでどうすれば手に入るかということを考える。天国が保証されれば安心できるからだ。そしてこのテーマは何千年も前から語り継がれてきた。
ある人は「それは畑に隠されている宝のようなものである」だからその畑をなんとしても買うことを考える。また天国は高価な真珠のようなものだ、だから持ち物を全部売っても手に入れたいと思う。そして湖に網を投げいろいろな魚を取る。その魚の中からよいものだけをとるようなものだ。とさまざまなたとえの中で試行錯誤して天国を手に入れて安心を願うのである。
日本での神社のお札もそうであり、お守りもおなじであろうか。しかしそれらは気休め的なものにすぎないのではなかろうか。そして天国は「幸せ」と同じようにそしてまたチルチルミチルの「青い鳥」のように見つかるものではないのかもしれない。
しかし真の天国はおのおのが自分の心に持ち合わせているとも言える。しかしその天国であり、幸せに気づくことが少ない。先日も「ダウン症の女の子が天才的な書道家を目指しているTVをみたが、神は人をそれぞれに「タラント」を与えている。そのタラントをどのようにかすかを静かに見ているのである。
天国もそれぞれの人の心にあるのだ。それをしっかりと自覚して生かす努力をすることを考えなければそれは宝の持ち腐れになることを
しるべきだろう。世の中は考えようで「天国にも地獄」にもなることを、自覚して生きるべきだろうと思う。

思い付くままに    「イースター」

2017-04-17 09:52:25 | Weblog
昨日の日曜日教会の前を通ると大人も子供も手に卵を持っている。卵は色とりどりの色の包み紙に包まれている。キリスト教では世界中で昨日の聖日を「イースター」とする三大記念日の一日なのだ。キリストが十字架に係り三日目に蘇ったとする日でありそれは「命の誕生」を意味するところからきているらしい。
その日私たちは家族が三人で会う時間を持つことが出来た。家族と言っても私と息子、娘の三人である。そんな家族だが三人がそろう事は年に何度もないのだが、昨日は偶然でも会った。
それぞれに家庭もあり、大人になったが、私にとってはかけがえのない家族であり、三人がそろって話す機会はあるようでなく、貴重な時間となった。
話は息子の新しい職場の環境が悪く、悩んでいることが中心であったが、離しているうちに新しい前向きの話になり、息子も気持ちが変わったらしく明るくなり、「がんばってみる」という
姿勢が見えてきた。娘も自分が働いている職場の経験から「入って三ヶ月ぐらいが一番大変なのよ。何処の職場にも変わった人はいるわ。それは仕方がない事だけど、聞き流す事ね。」と自分の経験を通して説き聞かせている。
そして話は海外旅行の話になった。私が今年台湾へ行く予定になっているのだが、子供たちが心配して「どうしても一人では行かせられない」と言い出し、娘が同行すると言う。
息子も「それなら安心だ」と納得する。そんな話で三人は久しぶりに和気藹々とした時間を過ごすことが出来た。それは今までにない、生き生きとした楽しい時間であり、蘇った時間でもあった。そして三人はそれぞれに分かれたのだが、私は「これこそイースターの日にふさわしい
蘇りの日だなあ」と神に感謝を覚えたのである。

足跡    「ヘイキア」

2017-04-13 10:59:40 | Weblog
新聞に出ていた言葉で人間には三つの区切りがあり、それは人の力では動かせない事である事を言うらしい。一つは「寿命」そして「身長」最後は「適職」だそうである。この言葉が何処の言葉が分からなかったが、(ラテン語?)この中で仕事は自分の力で可能であるような気がしていたが、意外とそうでもないし、自分の力が自分でよく分かっていない事もある。
小さいときからひ弱に育ち、いじめられっ子だった息子は社会人になってもたくましくなる事はなかった。縁故関係で仕事を与えられて出来ているうちはよかったが、自分で仕事を見つけることが出来ず、そのまま縁故で数社を経験したが、全くの他人の競争社会に入り、保護がなくなると肉体的にも精神的にもダメージが大きく、身体を壊しはじき出されるように止めるしかなかった。そして親子で自営業を始めたが、経験不足と甘い計画で思うようにならず、資金ショートで閉鎖せざるを得なくなった。しかしこれが原点であり、本当の適職への道はこれからと言う事を知ったのである。
究極の末に再就職が出来たところは技術を主としたワーカーであるが、これが彼にとって本当の出発点だったのである。3ヶ月の試用期間を得て社員として採用されたが、まだスタートしたばかりである。大きな負荷とハンデがある。しかしここでようやく自分の力でためし自分の力で人生をどう生きるかを知るところとなったのである。
この先がどうなるかは分からない。全ては当人の力次第であろう。私としては励ましてエールを送ることしかない。何時ギブアップするかも分からない。ただ年齢を重ね、家庭を持ち責任感ができつつあることはじじつである。
本当の人生をどう生きるか、そしてその中でどう生きていくかを学ぶ機会なのである。それは
誰でもない、「ヘイキア」の一つなのであろう。
私は静かに全てを委ねて見守るだけである。人生とはそんなものかもしれないし、分岐点かもしれない。

思い付くままに   「新しい旅たち」

2017-04-10 14:32:15 | Weblog
日本での4月は全ての機構が始まりとなる。そんな意味では何か一つの区切りと言うか、けじめと言うか、今までの流れを新しいものに変えて古いものを捨てる、切り替えるというきっかけのような時期ともいえる。野球もペナントが新しいスタートをしているし、ゴルフも新しいシーズンを迎えて選手もリフレッシュして臨んでいる。
我が家でもそんな雰囲気が漂っている。それぞれが新しい生活に挑み挑戦が始まっている。私も毛筆用がないと思って期限切れのパスポートを新しく更新した。それは台湾との交流が継続していて何時必要となって出かけるかもしれない川からないという状況に備えるためである。
そんな訳で4月はやはりその年の切り替えであり、新しい出発のときでも歩きがする。
そんな意味では精神的にも新しく思いを新たにする事も大切かもしれない。
今までの 漠然とした生活をそのまま引きずるのではなく新しい思いで考え方や言葉、人との交わり方も大切に今まで以上に謙虚にありたいと思う。
身近に交わりを持つ家族との関係も大切にしたい。今までは父親と言う意識が強く自分の思い通りにしようという意識が無意識に動いたものだが、これからはまず相手の思いを考え、どういう状況の中にいるか、その中に会って自分がどのような存在であるかを間がるところからはじめたいと思う。
4月はそんな意味で一年で一番新しい芽生えにふさわしい気がする。桜が咲き、もくれんが咲き、かたくりが咲き、チューリップ、桜草、山吹と新しい息吹が私たちを呼びかけてくれる。
眠っていた意識を呼び覚まし、新しい活動を呼び起こすときでもあろう。
そんな雰囲気を持たせてくれる大事な時期を私たちも享受しながら生きて生きたいと思うのである。

足跡    「マニュアル人間」

2017-04-07 12:54:07 | Weblog
4月は学校の新学期が始まり、会社は新入社員をスタートさせる時期である。私の孫も短大を卒業して社会人として就職してはたらしていると聞いている。その姿を見ているわけではないので
果たして仕事が出来ているのかと心配もあるが、意外と溶け込んで楽しんで働いているのかもしれない。都庁では小池知事の「安全と安心」をモットーに激励を受けて新しい体制でのスタートをきったと聞いているが、果たしてこのモットーがどのように浸透しているのか、多少心配の向きもある。最近の若者とは接する機会がないのでどんな反応があるのか、そしてどのように受け止めて仕事にかかるのか、もしマニュアル的に一律に右へ倣えでは祖のぞれの良さが見えてこないのではないかと心配もある。つまりマニュアル的に「安全、安心」の枠の中に全てを閉じ込めるのは良い事かどうか、若い人には本能的に独自の行動で動く事もあり、その行動の中に新しい芽生えのようなものもあるのではないかと思う。
そんな時亡き父の話を思い出していた。昭和20年3月10日は東京大空襲の夜で我が家も全滅したが、その夜空襲と共に避難の場所として浜町の明治座と付近の学校が決められていた。
サイレンと共にいっせいにその避難場所へと向かったのだが、父は消火活動に向かう前に母と押さない弟に「浜町公園へ非難するように言った。翌日の空襲後に公園で再会することを約して非難に向かったのである。そして翌朝三人は滑り台の下で再会を果たし、無事に疎開へと向かうことが出来たと聞いている。
マニュアルどおりに指定されていたところへ向かっていたら大勢の人と共に少子の憂き目に会っていたかもしれないのだ。つまりマニュアルを避けてとっさの知恵で空間と物陰をりようすることが浮かんだ父のとっさのアドバイスであったのだが、忘れられないエピソードであった。
いざと言うときに危険予知の行動も必要になる場合もある事は知っておく必要がありそうである。

思い付くままに  「小さな喜び喜びの発見」

2017-04-04 14:16:02 | Weblog
私の毎日の日課の中に、この目的がある。毎日の生活で何かを見つける、否、気づく事に気を使う。すると必ず見つけることが出来る。それが私の喜びであり、一日を平安に過ごす秘訣でもある。昨日思いがけず娘から電話があった。「明日時間が取れたら舟橋まで出てきて食事会でもしない」毎月の薬を取りに行く用事があったが、一日伸ばしてゆく事にした。
春の陽気ですっかり暖かく風もなくすがすがしい容器であった。駅には娘と孫、そして橋本さんが来ていた。特別な話があるわけではない。お互いに近況を語り合い、健康である事を確かめ合うだけの時間である。そんな時間が約30年の歴史をしっかりと固めその中に凝縮された信頼関係を味合わせてくれる。数時間の顔合わせであるが、なんとその時間の大切さとおもさであろうか。「孫の成人式まであと何年?」「三年よ。」「そうか、三年待たなくてはならないのか、できれば成人式を見たいものだね。」そんな会話が弾む。
やがてういつの間にか時間も過ぎお互いに別れを告げるときが来る。またの再開を楽しみに別れを告げる。
何時また会えるか、それまで元気でいられるか、そう思いながら電車に乗る。しかしその時間で今日の幸せと喜びをかみ締めるとき、はのぼのとして幸せと喜びをかみ締めることが出来る。
人生の喜びとはこんな素朴な時間で充分七のである。
今日の喜びはこれで充分だった。なんと平安で喜びに満ちた時間が与えられたか、その感謝でいっぱいだった。

足跡     「富の危険」

2017-04-01 09:34:46 | Weblog
人は生きていくためにはある程度の富、即ち財産が必要であろう。人によってはこの目的の為に
人生をかけている人もいるかもしれない。そしてある程度の富が得られると人は名誉と権力を身に着けることを考える。これは良し悪しを問わず歴史的に物語っている。
富を得ることが悪いとは言わない。また生まれながらに富の豊かな家に生まれ貧しさを知らないで生きる人もいる。それは様々であろう。ただ人生の生き様として富みある人とない人では考え方や生き様が変わってくるのも当然かもしれない。
「貧すれば鈍する」のことわざもあるようにそれぞれに人生にえいきょうをもたらすことになる。総じて富のある人は物事を計算的に考え手しまう傾向が出てくるのではないだろうか。
例えばこのことをする事は自分にとって損になる、無駄になると判断するとか、益にならないだろうとか、だから全てに自らを犠牲にするという考えは生まれにくいと思われる。
まして人のために尽くすとか、自らの財産を犠牲にすると言う考えも出にくいことだろう。
富の少ない人ほどその痛さ、苦しさが分かるだけにお互いに分け与え、助け合い、喜びを分ち合うと言う思いが自然に出てくる気がする。
これは人生において大きな違いであろう。どちらが全でどちらがあくと言う問題ではない。
ただ人生の過程においてその場面場面で大きな違いで出てくることになる事だけは間違いなさそうだ。
一度しかない人生においてどのようにきるか、いや生きてきたかの来し方を顧みるときにそんな事をつくづく思わされるのである。