波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

            オヨナさんと私   第37回    

2009-10-30 10:08:57 | Weblog
杜の都仙台は東北では一番人口も多い。市内の中央を通る並木通りの緑の木に囲まれると心が静まり落ち着いた気持ちになる。市のややはずれを流れる広瀬川は歌にもなるようにここに住む人たちの色々な思い出と共に流れているようだ。
青葉山に作られた伊達氏の居城とされる青葉城もまた仙台のステータスだ。
オヨナさんはこの仙台で一人の友人に会おうとしていた。彼女は仙台から上京していて出会いは東京であった。その頃お互いに会社勤めをしていて、時々会うことがあり、お茶を飲む仲になっていた。東北の人と言うこともあって無口だったが、ぽつぽつとした話し振りに癒されていたのだ。彼女から聞く地元の話はまだ行ったことの無い所でも有り、一つ一つの話が興味深く、新鮮だった。日本三景の一つとして有名な松島海岸から見る島巡り、青葉城公園が若者のデイトスポットで賑わっていること、広瀬川の灯篭流しのロマンチックな夜の風景。そして東北三大祭の一つになっている仙台七夕祭りと話は尽きなかった。どの話も彼女から聞いていると
そのイメージが膨らみ、仕事を忘れて夢中になっていた。
彼女は上京して交際していた男性と暫く暮らしていたが、その内いなくなっていたのだ。連絡を取り、数年ぶりの再会となった。
お互いにまだ老け込む年齢ではなかったが、やはり其処には時間の経過と共に
大人の分別が出来ていた。
「暫くご無沙汰だったけど、元気そうで嬉しいよ」ベレー帽をかぶり旅行鞄とスケッチブックを持ったオヨナさんを見て、彼女は戸惑いを感じていたようだったが、
「変わったわね。すっかり落ち着いちゃって、今何をしてるの」
「仕事を辞めて自由業だよ」「そう、優雅ね。」「君は」「まだ、親のすねかじりよ。好きなことしてるわ。」それから暫く近況を語り合った。
「前、君の話を聞いていて、何時か来てみたいと思っていて、今回思い切って出てきたんだ。確かに君の言うとおり歩いてみてとても落ち着く町だね。とても清潔感も感じるよ。木が多い所為かな。」
「でも、冬になるととても寒いの、雪は少ないけど、とても冷えるの。これからつらいわ。でも折角だから広瀬川がとても美しく見えるところへ案内するわ」
二人は車で名取川との合流地点の近くまで来た。その堤防からは海への河口が臨めて見事であった。”広瀬側、流れる岸辺思い出はかえらず、早瀬踊る光に揺れていた君の瞳”突然、彼女は歌いながら歩き始めた。オヨナさんは嬉しそうに彼女の後ろを歩いていた。

           思いつくまま

2009-10-28 12:05:07 | Weblog
数年ぶりに友人のジュニアが中国から訪ねてきた。彼は10年ぐらい前に日本から中国(深せん)へ進出し、小規模ながら一人で立派に事業を展開している。
良い機会を得られ、最近の中国事情を聞くことが出来た。2009年度のGDP
の目標を8%と掲げてスタートしたが、当初1~3月では6.1、4~6月で
7.3と低迷していたが7~9月で8.9%と急上昇したとの発表があった。
現地で生活していてその実感は確実にあるとのこと。輸出業を主としている業種は
輸出先の低迷で不調だが内需向けの産業は何によらず活況で供給が需要に追いつかない状態で、作れども作れども追いつかない状態で人手不足の現象が顕著だそうである。これは政府の実施した50兆円の放出が減税と補助金対策でその効果を確実に証明していることになる。
主に沿岸部の都市の産業が景気が良いのは当然だが地方の生活レベルも安定してきてどうしても出稼ぎをしなければ生きていけない状態ではなくなり、収入は少なくても地元で家族と共に暮らすことを望むようになりつつあり、このことが人出不足を起こしている原因になっている。
全体の人口も13億と言われているが、実際には15億とも言われる中で現在のような内需が潤えば大きな成長につながる事になり、益々力をつけるだろうと話を
聞きながら羨ましくも思えてきた。
一頃悪かった治安状態も改善され、今は安心して市を歩けるし、暮らせると少し
メタボの体型がそれを証明して様に見えたものである。
そんな中国の暮らしの中で(単身赴任)淋しい思いになることは無いかと聞くと
夕食を一人で取る時と休日に家族との時間が無いことだそうである。
仕事に没頭している時は気がまぎれるが、こんな時は所在無さをどうすることも出来ないらしい。余計なことと思ったが、そんな時は思い切って「仕事をすっかり忘れて、自分のしたいことや考えることに打ち込んでください。頭を切り替える事ですよ」と勧めてみたが、果たしてどう思っただろうか。
時折東京へ出てきてユーザー訪問することと、ここでしか得られない有形無形の情報は何時も大きな収穫があり、貴重ですとしみじみ話していたのが、印象的だった。「会席料理」おいしそうに食べている姿に彼にしかわからない感慨が感じられたのである。

オヨナさんと私    第36回

2009-10-26 10:17:47 | Weblog
家に帰り一段落して落ち着いてスケッチブックを開いてみると、訪ねた場所と同時に出会った人たちの顔が思い浮かぶ。各々の人生が重なり、その後の様子が気になるが、もう二度と会うことも無いとおもいつつ、幸せを願う。
そして、いつものように子供たちが集まってきた。「どこへ行ってたの。」
「お土産は」「何しに行ってたの。」子供たちは思いつくままに、しゃべってくるが、その質問をかわしながら、いつもの学習に集中させる。
オヨナさんは原則的に成績のことは一切関知しない。成績を上げることを目的としていないからだ。しかし、中には子供の親が成績の良くならないことを訴えてくることがある。
「先日家庭訪問があって、先生からお話がありました。何時もとても明るくて良い子ですけど、社会科の成績が平均点までならないので、もう少しがんがって下さいといわれているんですけど」
「そうですか。私が見ている限り普通ですよ。悪くありませんよ。気にしなくて良いと思います。第一、ここではとても楽しそうにしています。休憩時間には友達とゲームの話をしたり、笑い声が絶えません。」オヨナさんは親と話しているうちに
親と自分の考えていることに大きなギャップがあることに気がついていた。
どうして成績にそんなに気にするのだろう。確かに成績が上がることは一つの目的であり、将来の目安であると思う。しかし、それは本人の素質もあり、いろいろな条件が整うことも大切である。
そして何といっても本人の意欲にある。そして意欲は体調を含めた本人の考え方にある。どんな思いで学習に立ち向かい、やろうとしているかであろう。
例えばゲーム機に向かうのと同じような意欲と好奇心と探究心を持ち、学習に向かえるかということである。つまりゲーム機と同じようなモチベーションをどうすれば持たせることが出来るか、そのことを周りの人達は協力しなければ成らないと思う。それで充分の筈である。疲れているようなら無理に強いることなく、寝かせることもあるだろう。喜んで学習に取り組み、楽しんでその時間を過ごせるようにしてやることこそ大事だろうと思う。
オヨナさんのところにいる子供たちは、一見遊んでいるように見えるほどである。
しかし、そんな中でオヨナさんの目は鋭く配られている。
楽しげに喜んでいる姿を観察しながら、何時か必ず、この時間の結果が良いものを生んでくれるものと信じているのだ。
そんな毎日を過ごしながら、オヨナさんは次の旅ことを考えていた。

           オヨナさんと私   第35回    

2009-10-23 06:20:22 | Weblog
夕食は大食堂での泊り客が一緒の食事である。人手不足のためか、コスト低減のためか、ここではこのような工夫も必要なのだろう。食卓には山菜と川魚を中心にした素朴な献立が並び、みんな楽しそうである。オヨナさんはそんな中でもひときわ目立つ存在だったが、みんなに混じって食事をしていた。
隣りから「あんた、こんな料理で口に合うかね」と声がかかる。
「美味しいですよ。こんな料理は滅多に食べれませんからね。」そして、わいわいがやがやと夕食は進んだ。やがて一段落して、お茶を飲んでいると、又声がかかる。よく見ると70歳は過ぎているだろうオバアサンである。(若くは見えていたが)「今日は珍しく身体の具合が良くて、一人で湯治に来たのだが、この間まで入院していたんですよ。」「そうですか、大変でしたね。どこが悪かったんですか。」「血圧が高くて薬を飲んでいたんですが、具合が悪くなると時々倒れる事があるんですよ。」「お一人ですか。」「娘が二人、息子が一人、孫もいますが、みんな出て行ってしまって、爺さんと二人なんです」「そりょあ、ご円満で何よりですね。」と其処まで話すと、オバアサンの表情が急に硬くなった。
「とんでもない、何を言っているんですか。爺さんは私のことなど全然心配などしていませんよ。長い間爺さんの世話をしてきたが、都合のよいときだけ、声をかけてくるが、後は知らんふちをして気にもしない。私が具合が悪くても大丈夫かの一言も無いんだから」オヨナさんは話を聞いているうちに内心とんでもない人と関わってしまったと思い、何かきっかけを掴んで離れようとするが、オバアサンはちらちらこちらに目をやりながら話を続ける。「私はタバコの煙が大嫌いで、若いときはそれでも我慢していたけど、こうして身体が悪くなってくると、我慢が出来なくなり、爺さんに何度も止めるように言うんだけど、知らん振りをして止めようとしないし、私もこれ以上一緒に暮らせないと覚悟をしているんです。」
黙って聞きながらオバアサンの好きにしたら良いじゃないかと思っていたら
「あんたは、どう思う」と振られてしまった。こうなると逃げるわけにも行かない。よく考えてみれば、このオバアサンも淋しいのであろう、長い間苦労してきて、身体を悪くし、少し楽な生活を望みながら生活習慣を変えることも出来ない。
其処には苦しみを伴う我慢が強いられる。
そのことはつらいことだろうと思いつつも、「オバアサン、大変だろうけどおじいさんを甘えさせてあげてください。勿論悪いと分っていて、自分もタバコを止められないでいるんですよ。」と言うしかなかった。
それを聞くと、愚痴をこぼしたもののおじいさんのことは分っているようでオヨナさんの話を聞きながら頷いている
辺りには誰もいなくなり、静かに渓谷の夜は過ぎていった。

             思いつくまま  

2009-10-21 09:53:57 | Weblog
若いときには仕事と生活に追われて、何も考えられないままに人生を過ごしているが、年齢を重ねていくうちに不図何かの拍子で、人生に不安を覚えることがある。否、若いときであっても今の環境や境遇の中で、このままで将来どうなるのかと不安を感じることは大いにあることだと思う。
まして、健康を害していたり、家族に病人がいたりすれば当然不安と悩みとは切り離せない状態に置かれることになる。
そして、人は誰であれ、日々の生活の問題の中で「安らぎ」や「平安」を無意識に求めることになる。そこで、世の中には「癒し」のためのいろいろな方法が生まれてきて、音楽を聴くこと、食べ物や飲み物により精神を休ませる、アロマセラピーによるもの、マッサージで身体をほぐす、そしてペットを飼うこと等、様々な方法がある。これらは確かに一定の効果は間違いなくあるだろう。
少し、意味は違うかもしれないが、私は嘗て「ぎっくり腰」で悩んだ時期がある。
この頃は仕事に支障が出ることもあって性急に治療を必要とし、マッサージをはじめ、針、灸、カイロプラステックとあらゆることをしたのだ。
確かに施術時は治ったかのような気がするほど良くなるのだが、程なく元の悪い状態になり、苦しんだのだが、「安らぎ」対策も根本的な対策につながるものがあるのかと考える時、果たしてどうかと首を傾げたくなる。
先ほどの方法なども一時的であるか、その時だけのほんの一部分でしかないのではないだろうか。
ぎっくり腰はその後、ジムトレーニングにおける腹筋の矯正運動をしながら、腰にあまり重量負担をかけないことで行動し、予防対策をしている。
生きている限り様々な不安や悩みを抱え、其処から開放されること無く続く問題として考える時、自分の力の限界を感じざるを得ない。それは自分の思いがある程度かなったあり姿であったとしても、解決したことにはならない。
そう考えてくると、其処に解決を求めることが誤りなのかもしれない。むしろ
それはずっと存在し続けるものとして、そのことに自分がどう対応していけるのか、どう立ち向かえるのかと考えるべきだと思う。
そして、其処に人間の限界と人間以外の力を思うこともあるのではないだろうか。
秋の夜長に眠れぬままにこんなことを考えてみた。
政治も新政権になって一ヶ月、まだまだ日本のチエンジには時間がかかりそうである。少し長い目でも見守りたいものです。
庭には花も終わり、来年に向けてチュウリップの球根が植えられた。来年が楽しみである。

オヨナさんと私    第34回

2009-10-19 10:13:02 | Weblog
鴨川を出発したオヨナさんは少し長い留守をした家の事や子供たちの事が心配になり、そろそろ帰ることを考え電車に揺られているうちに、不図この近くに「養老の滝」とも言われる「養老渓谷」があることを思い出した。昔一度来たこともあり、懐かしくなり、立ち寄ることにした。
親孝行な子が親に美味しい水を飲ませようと、瓢に水を汲み持ち帰ったところ、
その水が酒に変わっていたと言う伝説があるが、その場所と混同するのだが、
その元祖「養老」は岐阜県の木曽川水系の養老町にあり、ここは単に養老川にある
渓谷であるだけで故事来歴とは無関係である。
いすみ鉄道から小湊鉄道に乗り換え、養老渓谷駅に着く。ここから川に沿って上流に歩くと渓谷があり、小さな滝もあり、又温泉もある。こうしてみると、全国にはここのほかにも養老と名の付くところは他にもあるのだろう。名前だけが一人歩きをすると、紛らわしいことになりそうだ。
秋には少し早い時期だが、この渓谷沿いの散策は静かで気持ちが良い。オゾンを一杯に吸いながら、何も考えず、オヨナさんはひたすら歩いた。
間もなく温泉らしき宿が見えてきた。説明書きによると、今から100年ぐらい前に天然ガスが湧き出し、鉱泉の温泉が出来たとある。
その宿の傍に「足湯」を使わせるところもあり、何人かの人が気持ち良さそうに足湯を楽しんでいた。
人は幸せを求めて生きているが、幸せはどこにあって、どのようにすれば掴むことが出来るのか、それはずっと昔からいろいろな人が考えてきた。
カールブッセと言う詩人は「山のあなたの空とおく、幸い住むと人の言う。あー我
人と訪め行きて、涙差しぐみかえりきぬ。山の彼方の尚遠く、幸い住むと人の言う。」と詠っている。また、チルチル、ミチルも幸福の青い鳥を探して旅に出ているが、果たして、青い鳥に出会えたのか。
何時の時代でも、どんな世の中になっても、人間の欲望と、それに伴う罪の存在は消えることは無い。また、どんなにものが豊かになり、望むものが手に入ったとしても、それで幸せになり、満足すると言うことにはならない。
足湯を使い、幸せそうな人たちの顔を見ているうちに、幸せはこんなところにあるのではとオヨナさんは気づかされた。心に不安を持たず、健康であって、必要なものが最低限あれば充分と心から思うとき、人はほのぼのと幸せを感じなければならないと思う。
また、それが家族であれ、友人であれ、誰であれ、その底に暖かい信頼関係が出来ていればそこに幸せは生まれてくる。

           オヨナさんと私   第33回  

2009-10-16 09:24:32 | Weblog
見てみると素直そうな可愛い子である。こんな子がこんな悩みを持って学校へ行くことが出来ないなんていうことがあるのかと不思議に思う。「君、兄弟は?」
「妹がいるよ。まだ三つだけど可愛いよ。」
世の中には「いじめ」のあること、そしてそれは何時の時代にもなくならず、まして現代のように先生の指導にも限界があり、また父兄への注意も素直に受け入れられないことが多いとなると解決への道は遠く、自衛手段に頼ることが多くなる。
「家はもうすぐだよ」と言われて、二人で歩いていると、公園が見えてきた。
「あっつ、お母さんだ。ミツ子もいる」男の子は駆け出した。オヨナさんも慌てて
走り出す。
「叱らないで下さい。達夫君は今日一人でシーワールドへ来ていたんです。私が偶々居合わせてお友達になりました。そして一緒に帰ってきたんです。」
何時の間にか、達夫は妹とブランコで遊んでいる。オヨナさんは手短に達夫から
聞いた事情を母親に説明をしたが、母親も薄々知っているようだった。
ベンチに腰をかけ二人の子供を見ながら、母親から話を聞くと、達夫は普段は
サッカークラブにいて、とても明るい子供だが、気の弱い所があり、小さい時から
友達にからかわれることが多かったようである。
「お母さん、達夫君はとてもよい子です。でも学校へ行きたくないときは無理に行かせないで、休ませてあげてください。学校へはいつでも行けますし、挽回も出来ます。勉強のことは心配要りません。そして行く気持ちになったら行かせてあげてください。そしてお母さんは先生にきちんと事実をお話してください。
それだけで良いのです。そのときは必ず、メモを持ってゆき、先生のお話をきちんと書き留めておいてください。そして達夫君には普段どおり接してください。決して特別な態度を取らず、テストの点などもあまり気にしないで、良い点を取ったからと言って、ご褒美を挙げたりしないで下さい。」
何時の間にか、日が暮れかけていた。オヨナさんはスケッチブックを片手に立ち上がり、ベレー帽にちょっと手をかけ、挨拶をした。
母親は何かお礼をと、言葉をかけたが、オヨナさんは聞こえなかったかのように
その場を静かに立ち去っていた。

          思いつくまま      

2009-10-14 09:09:13 | Weblog
「ちょっと聞いてくださいよ。家の娘は物をやってもお礼の電話一つよこさないし、ありがとうも言って来ないんだからね。」ある歯医者さんの待合室で隣に座っていたお婆さんの話である。「この間も孫の成人式にお祝いを贈ってやったら、孫が来てこんなにたくさん貰うことは無いと半分返しに来たんだよ。」延々と続く
老婆の愚痴話を聞いているうちに、他でも似たような話を聞いたことを思い出した。「人から物を貰ったら、すぐお礼の言葉を返すものですよ。何にも言わないでいることは失礼だし、真心の知らない人です」と言う。
話をそのまま聞くと、そのことは正しいと思うし、その通りである。しかし往々にして出したほうと、受け取るほうの間で疎通が起きていることも多く、特にそれは身近な家族間に多いことである。(他人の場合は滅多に無いことだろう。)
これは何を意味しているのだろう。親子だから、兄弟だから、夫婦だからといって
貰うことや、あげることに、あまり感動が無く、ある時は当たり前とさえ思って、うっかり「ありがとう」の一言を忘れてしまうのだろうか。良くあるケースでもある。当然ながら物をあげた方は何故お礼の言葉が無いのかと、ずっと心のどこかに残っているだろうし(本当に受け取ったのかしら?)そして、それは何時しかその人の人格まで疑うことになり、信頼関係まで損なうことになる。
貰った側からすれば、忘れていることもあったり、恩着せがましい意図を感じることもあったりで素直にすぐお礼が言えないこともあるかもしれない。
つまり人は相手の無意識に反応することがある。この事は持ってしかるべきことかもしれない。
つまり誠意の押し売りのようなことになってはいけないのである。
本当にその人のことを思い、その人に対する思いから出たものであって欲しいのだ。とすればその相手から反応が何もなくても気にならないはずである。
また、それが本当の贈り物であるなら、それは相手にも自然に伝わり、又自然の反応として返ってくると思うからである。
善意の押し売りは相手にも分ることを知ることも大切なのである。
コスモスも、そろそろ終わりが近づき、代わりにホトトギスの花が咲き始めた。
色も、花の形も地味で目立たないけれど、それだけに秋を思わせ、雰囲気を漂わせている気がする。

       オヨナさんと私   第32回

2009-10-09 10:02:04 | Weblog
中でもオーシャンスタジアムで行われるシャチやアシカのパフォーマンス、サーフスタジアムのイルカのハイジャンプ、それに続くマリンシアター、ロッキーワールド、トロピカルアイランドと見るものを飽かせない楽しいものが満載である。
オヨナさんは時間も場所もすっかり忘れたように園内を歩いた。途中ダイバー気分でサンゴ礁が体感できると言うトロピカルアイランドの水族館は圧巻で「キリバス
共和国」のサンゴ礁をモデルにしたと言われる熱帯のサンゴ礁は世界でも珍しいとされている。ここでは海中散歩をするような気分を楽しめたし、スケッチにはもってこいのところでもあった。ランチは太平洋の広がりを眺めながら、クルージング気分でゆっくり味わうことが出来るのも楽しみの一つだった。バイキングテーブル
から好きなものを皿にとって腰をかけた。すると隣りのテーブルで男の子が一人で食事をしているのが目に入った。
始めは何気なく見過ごしていたのだが、周りには親らしい姿も見えず、どうやら一人らしい。その内、オヨナさんは不思議に思うようになった。
「今日は学校が休みではないはずだ。。友達もいないし、親らしい人も居ない。」
普通なら見逃しそうな光景だが、普段子供と接する機会の多い彼には気になるところだった。「君、何年生なの」思わず声をかけていた。「小4年だよ」とぶっきらぼうだ。「今日は学校休みじゃあないだろう。どうしてこんなところにいるの」
「学校へ行きたくないんだ。」「どうして」「友達に意地悪されるんだ。上履きを取られて隠されたり、たたかれたりすることもある。」「友達にそんな子がいるの」「4,5人ぐらいが何時も一緒で僕をいじめるんだ。もう学校へなんか行きたくないよ」オヨナさんは聞いているうちに唖然となっていた。
話には聞いていたが、実際にこうして聞くことは初めてであった。
この男の子は恐らく親にも話せず、誰にもわかってもらえないと思ったに違いない。そして、持っていた小遣いで心の休まるこの場所へ一人でやってきたのだ。
しかし、こうして時間をつぶしたからと言って問題が解決するわけではない。
オヨナさんはとりあえず、家まで送って行こうと決心した。
「君,家はどこなの」「近くなんだ、歩いていけるよ」「そう、おじさんも一緒に家まで行くよ」二人はこうしてシーワールドを後にした。

             思いつくまま

2009-10-07 09:25:49 | Weblog
10月の声を聞くと子供の頃の村祭りのことを思い出します。戦後東京から岡山へ疎開し、娯楽らしい楽しみの無い田舎でのお祭りは大きなイベントであり、心の躍るものがあった。小さい社へ続く道の両側にたくさんの屋台が並び、いろいろな食べ物やおもちゃが一杯置いてある。特別なものがあるわけではないが一つ一つが
目新しく、興味をそそらせ胸をどきどきさせてくれたことを思い出す。
僅かなお小遣いをしっかり握って、それらを見ながら何を買おうかと見て歩く楽しさは忘れられないものがある。そして、それが小さい亀の子だったり、ひよこだったりしたのだ。また、ごとの青年団による余興の舞台も楽しみの一つだった。
何故かその舞台に自分が上がり、「湯島の白梅」を「おつた、ちから」の役で歌うことになろうとは夢にも思っていなかったが、そのときの事は鮮明に覚えている。
今でもこのメロデーが流れてくると、その時の風景が目に浮かんでくるのが不思議である。その頃のもう一つの楽しみは村々を年に一度廻ってくる「女剣戟」の
お芝居であった。まだテレビも、何の娯楽も無い時であることもあって、すごい人気で芝居小屋は何時も満員であり、お風呂を覗くものがいるほどであった。
親からはダメを押されていたが、どうしても少しでも見たくて友達と行ったものである。この芝居小屋はお芝居以外にも利用され、講演会なども行われていた。
あるとき、父に連れられてえらい先生のお話を聞くことになった。始めて其処へ入ったが、椅子は無くて、座るところにゴザ(筵のようなもの)がおかれていた。
舞台の上で黒めがねの先生が一生懸命何か話していたが、その内容は分らなかった。ただ、大きな紙に筆に墨をつけ「神は愛なり」と書き、又「罪を悔い改めよ」と書いてあったことをかすかに覚えている。
後で聞くと、賀川豊彦と言うキリスト教の偉い先生であることが分った。
10月になると、不思議なもので何時の間にか、朝晩はめっきり涼しくなり、日の暗くなるのも早くなった。季節の移り変わりをはっきりと知ることが出来る。
時間に余裕ができるようになったが、その分、身体があまり言う事を聞かなくなり、これから何が楽しみだろうかと、村祭りのことを考えていたが、それは何でもいい、「何かに打ち込んで何かが出来ている時」と思うようになった。
そして、したいことではなくて、すべきことをしたときにこそ、人間は満ち足りることが出来るんだと思うことで、その日を過ごすことが大切だと思っている。