波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに

2012-02-29 09:45:02 | Weblog
3月の声を聞くとすっかり忘れていた「球音」が聞こえてくるような気がする。プロ野球のペナントが始まる前のキャンプが終わり、オープン戦の時期が迫っているからだ。年齢と共に自分が出来ることが少なくなり、相撲や野球そしてゴルフの観戦が
楽しみになり、関心が向くようになる。そしてそれぞれに自分の思いを重ねながら楽しむことが出来る。プロ野球は各チームの戦力を見ていると順位も結果も何となく分かるような気がする。(怪我人を除けば)だからそれよりもどんなゲームを見せてくれるのか、そしてどんな選手が(特に若手の選手)活躍するのかが関心事となる。そして監督の采配がどのように影響するのか
それが楽しみでもある。昨年、リーグ優勝を遂げ8年間監督としてAクラスを維持して任期を終わり退任をした落合監督が、最後の挨拶で「これからも選手は戦い続けます。どうか選手たちをこれからも温かい目で見守ってください」と言って頭を下げた姿が思い出される。監督のあり方の基本を見せられた一瞬であり、感動した。
良くも悪くもすぐ結果の出るゲームである。そこには人間性や性格、考え方が反映され分かりやすい。そんな中で今年は新しい監督が4人出来た。それぞれ個性があり、どんな試合を見せてくれるか楽しみでもある。そして何より自分が目立つのではなく、選手がより良い成果を発揮できる指導者としての力を発揮して成績につないで欲しいと願うものである。
又、今年はオリンピックの年になっている。ロンドンを目指して各種目の選手は努力を続けているのだが、その中で何としても
出場したいと思い、日本では無理なので外国の国籍をとりその国の代表選手を目指すという人がいることを新聞で見た。
(嘗てこのような例があったかは調べてもいないが)ルール違反ではないのかもしれないが、仮に出場できたとしてもそれは
果たしてオリンピック精神に照らしたときに、どれだけの人が応援し拍手を送るかと考えるとき、いささか考えざるを得ない気がした。「選手は紳士であれ」という事をモットーとしているチームもある。すべからくスポーツは健全であることを旨としたいものであるし、見るものに感動を与えるものでありたいと願っている。
間もなく開幕である。

 オショロコマのように生きた男  第76回

2012-02-27 13:58:40 | Weblog
初めてのことで戸惑っていると野間は嬉しそうにアルバムを開いて見せた。ぱらぱらとめくる写真には特別なものが写っているわけではなかった。ただ言えるのはどの写真も野間が一人で写っているだけで他の人が写ってないこととその姿が登山姿であることであり、どれも登山中の様子であることか、丘の休憩所のようなところであった。
「この山はどこかの有名な山に登ってるところかな」と聞くと「いや、特別なところではない。近くの山だ。」と言う。確かに
車にはいつもカメラが積んであり、何処でも写真が取れれるように準備がしてあり、特に城などがあったり、古い建屋などがあると記念に写していたが、それらの写真に特別変わったところは見られなかった。怪訝な思いで見ていると
「トレッキングって知っているか。」と聞かれた。恥ずかしかったが村田は始めて聞く言葉で「トレッキング」と鸚鵡返しに聞き返した。「何、それ」「やっぱり知らなかったか、何も言わないから知らないと思ったよ。今、中高年の間では結構流行っているんだけど自分も勧められて始めたんだ」「いや、それでそのトレッキングって何をすることなんだ」「簡単に言うとね、
初心者向けの登山のことさ、本格的な登山は色々と訓練や準備そしてトレーニングも要るだろうけどトレッキングは簡単な装備がちゃんと出来ていれば何時でも出来る山登りさ。だから、特別な山を狙うのではなく、むしろ丘のような山を楽しみながら歩くのさ。装備は本格的にしなければならなくて足の先から頭まで特別仕様のものが必要だけどね。」そんなことからそれから
トレッキングに関する薀蓄をしっかり聞かされる羽目になった。「そんな趣味があるとはちっとも知らなかったなあ。」と冷やかすと野間はニヤニヤ笑っている。「登山靴は勿論だが、シャツなんかも軍隊や航空隊員などが使っている汗をかいても汗を
吸収してしまう特別なものでね。暑いときでも結構快適に過ごせるようになっているよ。」と細かく説明をする。
村田はトレッキングの話を聞かされても特別な興味はぜんぜん出てこなかったが、突然のように野間が何故こんなものに夢中になったのか、それが不思議な気がしていた。
確かに趣味は多いほど楽しく、色々あってよいと思うけど唐突にこんな話が出ることを訝しく思うのだ。嘗て村田は自分がゴルフに夢中になっている時、彼を誘ってゆくことをずいぶん進めて何回かトライしたことを聞いていたが性に合わないのか、
練習2,3回で止めてしまったらしくゴルフの話は、それ以来話をしないようにしていた。

 オショロコマのように生きた男  第75回 

2012-02-24 14:10:22 | Weblog
オショロコマもやっと終の棲家を見つけたようだ。あちこちとさまよい何処へ落ち着くのか、それともこのまま流れに任せて
降海してしまい、海外へ出て帰ってこなくなるのかとさえ思ったこともあったが、自社を立ち上げ家族もそろい自営の会社を始めることが出来たことは一人の人間として考えれば、成功者として賞賛しなければならない。
どんなに優れた人であってもこれだけ変遷を重ね何度も挫折を重ねながら此処までたどり着くことは至難の業であろうと思われる。サラリーマンであれ官吏であれ、公務員であれ、一国一城の主となることはまれなことである。
ましてどんな役職につく事ができたとしても会社の一員である限り、定年までの限定であり、会社を離れれば唯の人となる。
地鎮祭以来村田も野間が落ち着いたことを知り、近くへ行ったついでに野間の会社へ立ち寄るようになった。アポを入れておけばいつでも気持ちよく迎えてくれて、何でも気楽に話が出来て二人の間の距離は一段と接近したことになる。
行くと野間はそのたびに新しいランチの店を探査して、あちこちと新しい店を紹介しながら食事を楽しんでいた。元来酒を飲まないこともあり、自然と食通になっていたが、会社の周囲10キロ範囲の名店をしらみつぶしにチエックしてあり、じゅんばんに回るのだから中々尽きないものがあったし、食事の後のコーヒータイムも貴重であり、話はいつも弾んでいた。
仕事も順調に運んでいた。タイミングが良かったことと彼の独特の技術を生かした製品は他社では真似のできないところもあり、重宝がられたようで特に形の小さい極小物のタイプは評価が高かった。何しろ米粒代のものであったり、蟻のような小さいものでも出来たのである。それがお客のニーズとマッチして大きな利を生む秘訣になったようである。。
しかし二人の話は出来るだけ仕事の話は避けるようにしていた。業界の動きを評論することはあっても具体的なことに触れることはなかった。
野間には特別な趣味はなかったが、車は大好きであった。二年に一度は新車に乗り換え新しい車を楽しみドライブをしていたようである。電車や新幹線、飛行機は極力避け、何処へ行くにも車が原則である。自分で運転することに疲労や考えられると思うが、むしろそれを楽しむかのようにマイペースだった。そんな交流が始まってたある日、いつものように会社へ顔を出すと
彼が珍しく写真のアルバムを持ち出してきた。

       思いつくままに

2012-02-22 11:18:44 | Weblog
人間は長く生きていくうちに環境とそのおかれた状況の中で変わっていくものだと思う。そしてそれは退化するのではなく
年齢を経てもそれなりに成長を目指すべきであろう。(それは願望であっても無理だと笑われるかもしれないが)
私の言いたいのは心の内面へ向かっての成長である。そしてこの事は人として生かされているものの義務であり、努めであろうと思うからである。まして「死」に対面するに相応しい準備につながるはずである。
従って人生をもう一度振り返りながら自分が忘れていた、あるいはクリアー出来なかったことに思いを馳せたいと思うのだ。
その中にはいくつかの大切なことがあるような気がする。例えばその人の職業でまたは身分で先入観を持たないことがある。
それは職業で先入観を持つと人を疑わないから、詐欺に合うというケースが出てくる。(高齢者に多いとされる。)
逆に言えば自分は何でも出来るとあまり格好をつけないようにすることも大事だし、自分自身を過信することも気をつけなければならないだろう。
また、こんな話を聞いたことがある。「インドの人はらっきょの皮みたいなところがあってね。むいてもむいても中身が良く分からない。そんなところでは外人は正気でいられない」と言うのだ。つまりいろいろな人がいてその人それぞれに違っていて
当然と思い、自分の考えで人を間違っているとか、好きだとか、嫌いだとか決め付けないことだと言うことだろうか。
又、本当の人間の思いは決して他の人には理解されないことも知っておく必要があるかもしれない。また、世の中には
「人付き合いのいい人」と言われる人が良くいるが、その人を本当にいい人として理解していいのだろうかと思うことがある。
むしろ内面的に暗い人が意外と外面的に明るく振舞い付き合いが良いように見えることが多いことがあるような気がする。
事ほどさように人間は複雑であり、画一的には説明がつかないものだ。だからこれらのことを充分理解したうえで人間関係を
円滑にしかもストレスを溜めないようにしていくことが内面を成長させる一つにならないだろうかと考えている。
(今頃そんなこと要っても遅いよと言う声もあろうかと思うが)私は決して遅くないと思っている。
意外とそんなことに思いを馳せないでいる人も多いし、その事でストレスを背負っている人を見ることがあるからだ。
気がついたらどんな小さいことでも修正する姿勢だけは持ち合わせていたいものだと思う。

 オショロコマのように生きた男  第74回 

2012-02-20 09:23:13 | Weblog
横浜の工場での仕事は不便であった。元々多田氏の家の片隅に出来たもので手狭であったが、宏が仕事を進めていくうちに
これでは近い将来このままでは無理であることが分かってきた。そして自分の新しい工場を作ることを決心した。
そして何処に自分の工場を作るか、それが大きな問題となった。千葉の自宅から考えていくうちに自然にその郊外へとつながった。そしてその近辺を調査しているうちに海岸に近い所で、道路からやや入った畑に格好な土地を紹介された。
此処なら工場に隣接して自宅も出来るし、出来れば子供たちの家も傍に建てることも出来る。周囲には住宅もなく環境としては今のところ大丈夫と見た。宏は早速土地を手当てして整地に取り掛かった。昔、工場の設計図を書き夢のような計画を持ったことがあったがそれが実現するときが来たのだ。しかし飽くまでも慎重に冷静に建設を進めることを心がけていた。
いよいよ地鎮祭の日取りも決まり準備が整った。宏は思い立ったように村田に電話をした。「今度の日曜日に工場建設の地鎮祭をすることになったので悪いけど来てくれないかな」電話を受けた村田は寝耳に水の話を聞き驚いた。
「そうなのか。分かった。喜んで行かせてもらうよ」そしてその日は来た。暑い日がさんさんと降り注ぐ中で野間の一家と神主による儀式が行われた。終わった後二人は仮事務所にいた。
「おめでとう、よく頑張ったね。立派だよ。今までの努力が実ったね。」と村田が言うと「いやあ、たまたま多田さんとの関係で仕事を引き継いだだけだよ。その仕事を少し広げて自分なりにやってみたくてね、それで少し広いところへ越したんだ。」とあくまで謙虚だった。「それに君には長い間あちこちで保証人になってもらって迷惑かけていたから、ぜひ出てもらいたかったんだ。これからもよろしく頼むよ。」そういわれてみると二人の付き合いもかれこれ20年近くなっていた。つかず離れずの
関係だったが、考えてみると木梨の会社にいたときから知り合ってずっと続いていたことになる。
仕事で特別取引があったわけではない。行っても見れば人間関係であったが、不思議な縁でもあった。
娘夫婦が仕事にもなれて工場を管理し自分は全体を見ながらパートで雇った人たちの指導をする。ここでは外人も安く簡単に契約できるのも便利だった。仕事は順調に始まりそうである。久子の穏やかな笑顔が印象的であった。

 オショロコマのように生きた男  第73回

2012-02-18 13:53:47 | Weblog
いつものように笑顔を絶やさない暖かい表情のの池田を見て村田はほっとしていた。自分とは一回りも下であることもあり、ある意味自分自身を見ているような気もしていた。しかし彼のように穏やかさを絶やさず可愛さのようなものを持ち合わせていないことは分かっていた。「いやあ、暫くだね。今年もよろしくというよりは君の方がずっと若いわけだから、これからも長い付き合いをお願いしたいもんだね。」と切り出した。「こちらこそ」と言いながらいつものようにハイボールとカンパリソーダでの乾杯が始まった。「所で野間はどうしているのか、何か聞いているかい」「詳しくは知らないけど何でも横浜のほうで自分で仕事を始めたらしいですよ」とさらりと言った。「そうなのか。一体何が始まったんだろう」まだ村田は怪訝そうな顔である。
そして二人はいつものように暫く業界の話や近況を話し合い別れた。
二人がそんな話をしていた頃、野間は工場で夜遅くまで働いていた。家族を呼び寄せて出来ることを少しづつ教えながら製品を作る準備を整えていたのだ。多田から譲り受けた工場で何とか商売になるものを作ることに懸命だった。
今度こそ自分の仕事であり、ライフワークでもある。その覚悟と決断は大きいものであった。今まで蓄積してきたことがここで
一つの完成を目標に区切りをつけなければならない。その事は今までのような半端な気持ちでは出来ないことを自覚していた。
日中は今までの市場の精査しながら自分のユーザーとして出来るところをチエックしながら予備調査をする。
そのための原料の調達など、しなければならないことが一杯だった。
それを丹念に進めていくために久子も子供たちも真剣だった。そんな生活が宏の力となった。多田は野間との間で話がついたことで安心したのか、それとも寿命だったのかそれから間もなく燃え尽きるように亡くなった。
生前の約束を夫人と取り交わし、全額とは行かなかったが分割で株券を買い取り、名義変更の手続きを済ませた。
D社とは円満とは行かなかったが(あまりにも短期間だったため)温厚な波賀氏の取り計らいもあり、あまり大きな問題にならないで退社することになった。それにしても僅か3ヶ月はあまりにも短かった。
寒い冬の中を宏は熱い思いを抱いて毎日を過ごしていた。そして春を待って仕事は新しくスタートすることになった。

思いつくままに

2012-02-16 10:33:44 | Weblog
人の行動はよく注意して見ていると同じようで同じでないことが分かる。それはその人の考え方、性格、又そのときの状況にもよるが、それぞれ違うのだ。しかし大きく公約数でまとめると特徴で分けられることも出来るようだ。
「物事を行う場合、イギリス人は走りながら考え、フランス人は壁にぶつかってから考える。それに対してドイツ人は走り出す前に考えるんです」と言う言い習わしが昔からあるそうです。(昔何かで読むか、聞いたことがある気がする)
今この話題がヨーロッパで話題になっているとのことだが、それは守れない約束はしてはならないと頑なに主張しているドイツの首相がヨーロッパの債務危機に対して慎重な態度をとり続けていることで取り上げている。その事で世界全体が影響を受けることも事実で、そのためにいらいらしながら世界が見守っていることを知らされた。
さて、そんな話から日本人はこの三つのどのタイプに当てはまるのだろうか。それともどれにも当てはまらない特色を持つ国民だろうか。そこまで考えてその一人として自分はどうだろうと考えてみる。短気な人(結構多い気がする)のんびり屋さん、
日和見な人、それぞれ行動も話すことも違うだろう。でも大きくまとめると「いらいら屋さん」タイプが多いかもしれない。
私の知っている人で新幹線で何処かへ出掛ける場合、出発時間の2時間前には必ず着いているという人がいた。最初は驚いたが
決して悪いことではなく、むしろ慎重な人とも言えるが、気が早いとも言える。そう考えてくると総じて「走り出してから考える」というイギリス人タイプに似ているのかなと思ったりする。
しかし全てのことの判断は基本的には慎重であるべきであろう。直感的に判断したことをもう一度ゼロに戻して「待てよ」と
考えられる人のほうが安全かもしれない。そして結果的に答えが同じことになったとしても、それは無駄ではない気がする。
それは言葉として話すときに大きく響くことが多い。話す前に「これで良いかな」と思いを致すことが出来るくらいが、大きな過ちや失言をしないブレーキになるのではないだろうか。
ドイツ人の国民性はそのま今のドイツの存在を表しているんだろうし、それぞれの国がそうなのだろう。(良い、悪いは別として)感情に駆られて、言い過ぎたり、言わなくても良いことを言ってしまったり、しなくてもいいことをしてしまうことのないようにと、この事から自戒の言葉としたのである。

 オショロコマのように生きた男  第72回 

2012-02-14 09:25:25 | Weblog
「村田さん、つかぬ事をお聞きするんですが野間さんは今何処にいるんですかね。先日から会社へは顔を出さないし、連絡がつかないんですよ。何かご存じないですか。あなたが保証人と言うことで何か知っておられるかと思って」全く思っても居なかったことを聞かれてとっさの返事が出来なかったが「えーそうなんですか。私のところへも何の連絡もないんですよ。自宅は分かりますが本人との連絡は出来ますかねえ。」と言う。「自宅はこちらでも分かっているんですが、本人との連絡がつかなくて困っているんです。」「分かりました。何とか調べて分かり次第本人から連絡させますので、ご迷惑かけてすみません。」
電話を切った後、村田はやれやれまた病気が始まったかと暫くは呆然として何も頭に浮かばなかった。少し冷静になったところで、池田なら何か知っているかもしれないと思い、連絡を取ってみた。
「池田さん、野間さんに連絡を取りたいんだけど何とかならないかなあ。」「いやあ、私も野間さんの連絡先は聞いてないんです。何しろいつも一方的に彼のほうから連絡が来て話すくらいで、こちらから連絡したことはないんですよ。」という。
村田はそうかもしれないと改めて納得した。そんな事をいちいち気にして行動している男でないことは充分知っているつもりだったが、咄嗟に何とかしなければと思ったが、よく考えれば分かることだった。そして探すことを諦めた。
村田はその後忘れるともなく忘れて過ごしていた。そんな所へ野間から電話がかかってきた。「悪い、悪い。迷惑かけたようだね。すっかり連絡するのを忘れていて今会社へ電話して波賀さんに謝ったところだ。又ゆっくり話すけどちょっと急用が出来て身動き取れないんだ。」と説明があり、やれやれこれで一安心とほっとした。
特別悪い影響はないと思いながら何かよくよくの事があったんだろうと驚きと安心が半々だった。何も話さなかったけど元気そうな声を聞いて安心していた。それとひょっとして又D社を去ることになるんではないかと不図思ったりした。
その後野間のことはその一件以来すっかり忘れていた。池田からも連絡はなくその年も暮れて新年を迎えていた。
池田からいつものように新年の挨拶があり、二人は「一度食事でもしようか」ということになった。神田駅前の居酒屋はまだ新年会のグループでにぎわっており、どの店も混んでいる。そんな雰囲気を楽しみながら二人は向き合っていた。
正月休みで少し太ったかに見える池田が頼もしかった。

 オショロコマのように生きた男  第71回 

2012-02-11 15:28:46 | Weblog
横浜の病院から帰る電車で彼の頭の中を駆け巡っていたのは今までの人生の内容が大きく変わることだった。多田から譲り受けることになったこの会社は自分の会社として立ち上げることだ。それは今まで漠然として夢に描いてきたことではあったが、何時どんな形で生まれるかは想像も出来なかった。それが明確なイメージとなって浮かんできたのだ。
この工場を基本として今まで考え調べ積み重ねてきたことを此処で集約して自分のライフワークとして始めることを決断することでもあった。
「久子、実は多田さんから話があってね、会社の株を買うとることにしたのだ。だからこの工場は私の会社として動かしていくことになる。そのために使う金なんだ。一度に全額支払うわけにはいかないので分割と言うことでお願いしようと思ってるんだがね。」「誰がその工場の仕事するの」女はいつも現実的である。理屈ではないし理想を語るわけでもない。
「勿論、誰に頼むわけにもいかないよ。私たち皆でやるしかないんだ。その内人手が要るようになればパートを募集することは出来るが、亮も真弓も大きくなったので仕事は私が教えるから出来ることをしてもらうし、お前も協力して欲しい。それに真弓が婚約している和也君にも手伝ってもらうつもりだ。」久子はそこまで聞いてそれ以上は何も聞かなかったし、言わなかった。
久子にはそれを聞いただけで全てが見えるような気がしていた。これで家族が一つになれる。
そのことがいつも頭にあり、いつかと思っていたことが実現する。それが分かっただけで何も言うことはなかったのだ。そして
家族が一緒に仕事が出来ることで過去のことも宏の今までのことも許せる気持ちになり「分かったわ。お金はあなたが必要な時に言ってくれれば用意するわ。いよいよの時は銀行にも手続きすれば何とかなるんじゃないかしら。貸してもらえるかどうか分からないけど」D社のことはすっかり頭になかった。翌日から宏は一人で横浜の工場へ寝泊りしながら仕事の準備にかかった。
することは一杯あった。設備の点検、建屋の普請のチエック、その他稼動をするために必要な調査をしなければならない。
何しろ多田氏が病気で倒れて以来、ずっと全く手をつけないでそのままになっていて、あちこちが荒れていてすぐには動かせないものばかりだった。
そんなある日、村田のところへ突然電話がかかって来た。D社の羽賀氏からだ。

思いつくままに

2012-02-09 10:28:27 | Weblog
人間はつくづく不思議な生き物だと思うことがある。自分では気がつかないで居るが、日々いろいろな意味で変わっていることに気づくことが少ないからだ。
新聞のコラムにこんな記事が出ていた。「就職試験での質問では家庭環境のこととか親の職業には触れてはいけないことになっている。自分の美点を述べて面接の練習どおり済ませれば個性はなくなっている。無難であることが一番大切であることを覚えてしまうと勇気のない人間が何時の間にか出来てしまう。その結果は全ての結果は他者のせいにする、おとなしいと思っていた人が後で困った存在になっている。‥‥}
私はこの記事を読みながらこれは他人事ではないぞと思わされた。自分の思い通りに生きていると何時の間にかこの世の生活は自分の思い通りになるかのような錯覚に落ちることもあるし良くも悪くも習慣になってしまうことがある。
良い習慣もあればまだ良いが悪い習慣を身に着けてしまっていることもあるはずである。それを改めることに気づかないで居ると、そのチャンスを失ったままになる。結果は問題がおきたときに、突然現実の言動になって現れる。いざと言うときに、自分の思いを正しくきちんと表現できるか、また表現する内容を持ち合わせていなかったら、すぐには出てこないしそれが人間関係を意思疎通にしてしまうことさえあるのだ。
また自分のしたいことも見つからないことさえあると言うことになっていく。そうすると世間に流されて精神的な欠陥人間に何時の間にかなっていることになる。せめて自分が何をしたいのか、何を目指して生きているのか、そしてその為に何をしなければいけないかを常に考える習慣をつけたいものだと思うし、考えたいと思う。
このコラムも最後にこう書いている。「自分にない<いい人>になるな」と警告している。
その為には自らを省みながら本を読み、自分にないものを補っていくことも大切だと思うし他にもいろいろな方法があると思う。いずれにしても大いに反省させられた時間であった。
外を見ると何時の間にか庭の片隅から、水仙やチューリップの芽が顔を出し始めている。鉢植えの梅ノ木の枝についた花芽が
赤く膨らんでいることに気がつく。何時の間にか春がそこまで来ていたのだ。
今年は少し寒さが厳しかったがそれでも春は来る。心の中から本当の春を迎える準備をしたいものだと思う。