波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

音楽スタジオウーソーズ    第34回

2015-01-31 10:28:00 | Weblog
光一も春子もその事に気づくことはまったく無かった。その日の出演者の行動については多少気にしながら話すことはあるが、その他の人たちが毎日出入りすることに気を止めることは無かった。店のスタッフも各々自分の持ち場で仕事をすることだけを考えて動いているし、余程のトラブルでもない限り他人のことは無関心である。
毎週行われる「コーラス練習」はその日ごとに出入りがあり参加者も変わるし多いときと少ない日がある。特に近所に同じような店が増えてきてその影響は大きかった。
そのコーラスの中にその男はいた。若くは無い。むしろ中年を過ぎた分別盛りである。
ピアニストのA子は「婚活中」とでも言えるだろうか。30歳を過ぎて「出来れば理想の男性」との巡り会わせを心の中で待ちながらバイトでの仕事である。(本業はОL)
しかし最近は男も女も出会いと結婚という環境としてはハードルが高くなっていて感嘆には結びつかなくなっている。特に男性は肉食系タイプが少なく女性に対する関心が薄くなりつつあり、無関心を装うものが多くなっている。これは経済的な力が環境的に厳しくなっていることや野心や闘争心が昔ほどなくなっていることもあるかもしれない。
それに引き換え女性はその分本能的に生存競争に対する力がつき逞しく力をつけて生命力をつけつつあるようである。平均年齢が男女の差で7歳近くあることがそれを証明しているような気がしてならない。
まして女性のほうからのアプローチは日本の文化では稀であるとすれば(外国でも同じ?)必然的に独身のままで人生を過ごすか、または歪な男女関係を生むことになってしまうのだろうか。そういえば統計でも男女ともに不倫に対する関心は30パーセントを越すと聞いているし、離婚率が年々高くなるのも時代の流れかもしれない。
A子に特別な特徴があったとは思えない。むしろ無口で目立たない存在だっただけ、内に秘めるものは強かったのかもしれないし。何かはけ口を求めていたかもしれなかった。その男の存在も教師であるということぐらいでその存在は薄かった。
そんな二人の出会いや存在は誰の目に留まることなく、静かに進行していたのかもしれない。春子は単に野次馬的な関心ではなく、その背景に人生の裏側を見ることになるのではと関心を持っていた。

思いつくままに    「誕生日」

2015-01-27 13:32:40 | Weblog
今年の誕生日を迎えた、「卒寿」と呼ばれる年齢である。ここまでくると迎えたではなく、文字通り迎えることが出来たとなる。日本人成人男性の平均寿命が「80歳」と
言われているのだから、平均を超すことが出来たと言うことは生命力があると言うか、
運が良かったとすべきか、いずれにしても平均を超したということは大変なことだと思わざるを得ない。誕生日の思いは年齢とともに変わってきた。小さいときは「バースデーパーテー」として賑やかに楽しんでしかも成長を待ち遠しく思って将来を夢見たことであった。しかしこの感慨も年齢とともに次第に変わり、いつの間にか誕生日が「冥土の旅の一里塚」な存在にしか思えない様になり、年をとるごとに感謝の念が強くなる。
その現実としていつの間にか私を囲む両親、兄弟、友人、知人が毎年のようにこの世に存在しなくなることである。この事実をどう受け止めるべきか。
80年を振り返るとき、様々なことが蘇る。その間には生命の危険を感じたことも数回あった。確かに人生はその意味では「自分の意のままになるものではない」ことを思い知らされたし、何時までも同じ状態ではありえない。それだけにその時、その状態を喜びと感謝と平安「シャローム」として生きることが望ましいのだ。いか
然しそれだからと言って悲観することでもない。すべては生きている限り神が与える大きな賜物であり、恵みである。そして「一日一生」でもあるのだ。
とすればこれからの時間は今まで以上に貴重であり、無駄には出来ないと自覚すべきであろう。私の知人が「肺がん」の宣告を受け「告知」を受けたとき、残された時間をどう過ごすかと考えて、酸素ボンベを手に遠くチリーにいる友人に別れを告げる手紙を託すために病院を抜けてその手紙を知人に託した事を聞いたことがある。
人は各々この世における大きな務めを負って生きている。その事をしっかりと自覚しその任務のために自分が何が出来るか、何をしなければいけないかを真剣に考えて、その意識と自覚を忘れないことが大切だと考えている。
そのためには自分のおかれた環境や立場がどうであろうと、生きているものの務めである。無駄なことはひとつも無く、全てのことに意義と目的があることをしっかり把握し、
時間を大切にしたいと考えている。

音楽スタジオウーソーズ   第33回

2015-01-24 10:43:28 | Weblog
光一は何故か女性に対する関心は薄かった。春子との出会いもその他の女性とも
接触が無いわけではなかったが、何があっても熱くなることはなかった。春子との結婚もむしろ春子の熱心さにほだされて、その時の心の寂しさを紛らわせるためであったのかもしれない。それはその時だけの感情であったのか。男であれば誰もが女性にあこがれるのではない事を知る思いであった。彼の情熱は全て音楽に向けられていた。もし彼がじょ聖への関心を強く持ったとしたらそれは一時的なものだったのかもしれない。
同じような例を聞いたことがある。ある名人と言われる「釣り人」の話である。釣りの大会では優勝を何回もして知られているが、若いときは仲間と飲み屋での客でもあった。
そこで一人の女性に会い、何故か見初めてしまった。その女性はかなり年上であったが
彼にはそんなことは関係なかったのだ。そして結婚を迫った。その女性は年の差のことも子供のこともあったが、その熱心さに負けて同棲をするようになった。
すると男性は何か獲物を吊り上げた後のようにけろっとして釣りだけに時間と関心を傾けその女性に顧みることはなかった。つまり身の回りの世話だけをさせるだけになった。
その人にとっては夫婦と言うのではなく一人のパートナーを得たと言うことだけだったのかもしれない。つまり一人の人間として共同し相互にいたわり助け合うと言う度合いは各々のスタイルで作られていくものであり、理想的なものは少ないと言うことであろうか。ピアニストに何があったか、光一はその事に特別な関心も思いも無かった。
春子は女性として強い関心を持ってその周辺を調べていた。「そういえば店が終わるとそわそわと帰ることが多かったし、きっと誰かと会う約束があって帰っていたのだと思う。
そういえばコーラうに毎週来る人の中で親しく話をしていた男の人がいたわ」と
思い出したようにつぶやいていた。
その男性はある学校のきょうしであり、もちろん家庭もある人であった。
たぶんこの男性と交際があるのだと気がついて「一度話してみるわ。」と光一に言う。
「店に出れないなら次の人も探さなくてはならないから」とだけ言うと楽器の手入れがあるからと出かけていった。

思いつくままに  「自分の分別に頼らない。」

2015-01-20 09:34:56 | Weblog
昨年のクリスマスに失神で倒れてから約一ヶ月を迎える。身体的には眼窩骨折以外には
異常はなかったのだが、やはり不安があり、出来るだけ外出を避けて用心をしている。
幸い日々の生活では変化は無く普段の自分を取り戻しつつある。
しかし、こうして時間が過ぎて冷静にものが考えられるようになると、いかに自分が弱いものであり、何も自分の思うように出来ない存在なのだということをしみじみと気づくようになる。若いときには多少の権限、経済力を持ち人生を歩いていたときは何となく
「自分力」を感じて何事も自分で思うことが出来、自分のすることが正しいのだと思い込み、他のことは考えることは無かった。しかし「果たして全てのことが自分力で出来ていたのか?」と言うことである。仮に数分の時間であってもその失神時に起きた全てのことが記憶が無いのである。それはそのまま死亡となっていても不思議は無いことである。
また、記憶が戻ったとしても後遺症その他の障害があっても仕方が無いはずであり、それらは自分の力ではどうすることも出来なかったことだ。ましてこれからも絶対自信を持って健康管理が出来ると言う保障も自信もない。極論すれば「何時、何処で何が起きても不思議ではないし、又それを自分の意のままにすることは出来ないのである。それがこの世における私たちの生活なのだ」人は自分に何らかの力を過信しその過信はその言動に表されるものだ。しかし、それらはある意味、錯覚に近いものであり、全ては目に見えない大きな力によって動かされているのだと言うことに気づくべきなのである。
偶々自分がしていることが自分の力で出来ているように感じるだけであって、その背後には大きな力(神)の力によって生かされていることを知らされるのである。
そしてそのことに気づかされ知るときに人は「謙虚」と「忍耐」を知るのである。
このことを人は知るか知らないか各々の人生であるが、その中で人生を歩いているのである。人はどんな生活をしていても皆同じであり所詮は弱い存在であるし、そのことは変わりは無いのである。それだからこそ「自分の分別に頼ることなく、謙虚であるべきであるし、無事で平安であることが自分の力ではないことを知るべきだと思っている。

   音楽スタジオウーソーズ   第32回

2015-01-17 09:14:27 | Weblog
チラシをよく読んでみるとシステムが殆ど同じであり、料金だけが僅かづつ安くなっている。確かに光一の店を基準にして始めたことであることは間違いなかった。
「これからは競争になるけどしかたがないなあ」とぼやくと、春子が「うちはうちの良いところを認めてもらうしかないわ。負けるわけ無いわ。」と強気に張り切っている。
光一は元来自分のしたかったことをしたいだけで利益については執着が無かった。赤字にならないで好きな音楽方の攻めれば後のことは装置や設備を高級にしてレベルを上げることだけが希望であった。だから客の入りやサービスのことはあまり気にしていなかった。
「この店を好きで着てもらえる人で音楽が楽しめればそれでよい」
ホームページにはシステムと出演者のスケジュールを乗せるだけであった。
ただ、フリーの時間に行っていた若者や学生のコーラスの練習に来ていた人たちには
影響が出た。やはり少しでも安くサービスの良いほうへ行くのは仕方が無く、それを
とめることは出来なかった。
光一と春子はそんな仕事をしながら店がブランクになると店をレンタルして休みにして
二人でドライブに出かけるのが楽しみであった。仕事の都合でとまることは出来なかったが、一日のドライブと近くの温泉で日帰りのする小旅行は何よりの骨休めであった。
そんな毎日を楽しんでいたが、契約していたアルバイトのピアニストの一人が予定通り来ることが無くなり、休むようになった。「A子さんこのごろ休みが多いんだけど、体でも悪いのかな」と光一が春子に聞く。「そんなこと聞いていなかったけど、何か具合でも悪いのかしら。今度着たら聞いておくわ」そんな事があって、店のほうは何とかやりくりをしていた。
そしてA子の出番の日に春子は着替えをしている部屋へ行き、そっと聞いてみた。黙って何となく言いにくそうである。あまり追求しても悪いかと思いながら下着姿のA子を見ながら「あれ」と気がついた何となく下半身がふっくらとしている。
「ひょっとしてお目出度なの?」と聞いてしまった。A子は思わず下を向いて体を隠すようにしている。

思いつくままに   「今年を占う」

2015-01-13 08:39:11 | Weblog
元来占いは「当たるも八卦、あたらぬも八卦」と言われあまり信用していないのだが、この年になると何となく分かることもあるし、考えることもある。そこで新年ということもあり、今年はどんな年になるか、そしてどんな年にしたいかを考えてみることにした。
公的には何といっても昨年2020年の東京オリンピック開催の決定が大きな要因となることは間違いない。これから5年間はこのオリンピックへ向けて日本は経済を含めて大きく変化することは皆が認めざるを得ないことだろう。ソシテこのことが日本を活性化し日本の存在を世界の人が新しい日本として認めざるを得ない事実を残すことだろうと思われる。その兆候は昨年から見え始めており外国人の訪日人数が増加していることで証明されている。(1300万人推定)そして会場を含めた建設関係を含めた確実に増加することになり、すでに建設資材は従来の1.5倍の価格高になっているし、それに伴う人材不足も出始めている。こうして今年はその関連事業が活発に動くことに成り、消費も増税の影響を消すほどに伸びることだろう。そのことによって生産はあがり、物資の補給は活発になり、実態はともかく良い方向へと進むに違いない。加えて阿部内閣は暮れの選挙を踏まえて、もう一歩充実した政策をうてばそれは世界への発信と繋がることだろう。
諸外国との関係こそが大きな課題となることは間違いないので、この点は慎重に対応していただきたいと思う。
私的には卒寿をむかえて今年はある意味、人生をリセットする年のようなきがしている。
暮れに怪我もあり、不思議にも生かされたこともあり新しい気持ちで生かされている期がしている。したがってこれからの人生において自分が何を委ねられているかをしっかりと見極めその思いで専念しなければならないと考えている。
残されている時間は長くないのである。悔いのない事をできるだけ行い、喜びと感謝の思いを持ってこの世の時間を終わりたいと思うのだ。
その第一年である。そのことにふさわしい一年に出来ればと漠然と考えている。次第に出来ることは少なく限られてくる。しかしどんなにささやかでわずかなことでも、神に喜ばれる業をなすことに専念したいと思わざるを得ない。

音楽スタジオウーソーズ  第31回

2015-01-08 09:55:26 | Weblog
光一は音楽以外のことには殆ど関心が無く友人も少なかった。春子はあちこちの仕事をした経験や考え方の中で色々なことを思いつくことがあったが光一はその話に興味を持つことは無かった。店のことが噂になり評判になっていることがわかり、客の入りも毎日順調であった。100人足らずの場所だが、半分も入ると結構賑やかになる。
ある時開店前に数人の男女が店にやってきた。「まだオープン前ですが」と訝る光一に
「実はちょっとお願いがあってお邪魔しました」と話し始めた。彼らは町内の有志で集うコーラスグループの代表であった。「実は私たちは歌が好きで毎週集会所や学校で場所を借りながら歌ってきたのですが、色々と障害もあり、落ち着かないでいたのです。こちらの事を聞いてお店の邪魔にならない時間で場所をお借りして歌わしてもらえればありがたいのですが、謝礼も使用料としてわずかですが、差し上げられます」との事だった。
「店の始まる前に終わってくださるなら」と返事をすると「ありがとうございます」と喜んで帰って行った。春子も少しでも店に利益が出ると励みが出ると喜んでいた。
ピアニストの二人には特別にその日は早出を頼み週一回のコーラスの日が始まった。
そんなある日、光一は新聞のチラシを見ながら「何だ、これは」と思わず声を上げた。
自分の店の近くに「音楽パブ」がオープンするという内容であった。
どうやら光一の店の評判を聞きつけて自分も同じ事をしたいと考えたらしい。
「うちの店に偵察に来ていたかもしれないなあ」と光一はつぶやいた。「春子ちょっとこれ見てみろよ」とチラシを渡す。「なーに」とそれを見るなり、「なにこれ」と驚く。
「いや、必ずいつか同じような店が出来るだろうと思っていたよ」「そうね」
その店が評判が良く、儲かっていると効くと同じような店がすぐ出来るのはいつの時代でも同じである。それは予想されてはいたが、こうして出来てみると競争である。
何かと比較されて、どちらか好きなほうへ客は流れる。これからはうかうか出来ないと思わなくてはならない。そうは思ってみたが、こういちはそれで何かしようとか、かんがえるとかそんなことをする気はなかった。「今までどおりの事をしていく」それだけしか考えていなかった。

思いつくままに    「新年に思う」

2015-01-04 16:50:38 | Weblog
今年の干支は「羊」である。あのおとなしいイメージから何となく今年は穏やかな年あに
なりそうな思いがあるが、果たしてどんな年になるのだろうか。選挙も終わり、第三次阿部内閣が新しい信頼の元に日本再生への道を進むことだろうと期待したい。
そんな中で私は「卒寿」を迎えることが出来た。日本男子の平均年齢が80歳と言われているが、ここで終了となっても不思議ではない。「事実昨年は大きな事故からすくわれた」こうして健康をもって生かされていることに、なぜ自分が生かされているのかその事を考える必要があると思う。生きていることの意義を啓示として考えながら、何を目的として何をしなければいけないのか、何のために自分の存在があるのか、そんなおもいである。「健康」については今まで以上に気を配ることも大切だし、人間関係も今まで以上に大切にしたい。そして残されているのは「神との対面」であろうか。
この時間を大切にその果たすべき務めを大切にしたいと思う。目を外に向ければ、様々な出来事が見える。2020年に行われる東京オリンピックに伴う計画に繋がる事業はいよいよ本格的に始まることだろう。そして出来れば天災人災の災害の少ないことも願いたい。そして若い人の躍動するスポーツの世界での成長を確かめることもtあのしみのひとつだ。私も何か出来ることをして自分の希望を達成したいと願っている。
それは「出来ることを行う」と言う強い信念がなくてはならない。
そしてどんな環境におかれても「心を騒がせず」上からの啓示を待つことである。
全てのことが自分の思うようになることではなく、示された道をまっすぐに歩くことが大切だと考える。