波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡    「 晴れ着  」

2018-01-30 09:29:25 | Weblog
亡くなった母は私の記憶ではいつも和服であったことが強く印象に残っている。暑くてもきちんときりっとした姿であったが、それは明治生まれの女としてのたしなみだったのかとも思うのだが、趣味としてやっていた、「お茶」、「琴」「生け花」、「謡曲」など自分でできるものには何でも手を出して指導者の資格まで取り、近所の子女に手ほどきをしていたことをおぼえている。私など体のよい「茶坊主」代わりに使われて、あちこちされていたのだ。そんな母も老いてからは着物を着るのも面倒になったのか、服を着るようになっていたが、病に倒れてからは何もできなくなり、嫁と痛みをまぎらわせるために「花札」で時間をつぶしていた。
そんな母が初めての女の子の孫ができたことを祝って(私の娘)成人式に合わせて「晴れ着」をあつらえてくれた。自分で呉服屋を呼び
着物を選び孫を立たせてあれこれと指図をしていた。自分が着物に執着していたこともあって立派な晴れ着ができた。孫娘はそれを着て
成人式をすることができた。そしてそれはそのまま曾孫へと引き継がれ、今でも大事に保管されている。
今年この成人式の「晴れ着」で大きな事件が起きて、たくさんの成人式を迎えた女性がその被害にあったことが伝えられた。
今では成人式の晴れ着は「衣装や」さんから安易に手当てをして済ませるのが、常識になっているようで時間のない現代ではそれも致し方ないことだが、あまりに形式にとらわれた行事のようである。
晴れ着がどうしても欲しかったら、自分でアルバイトをするなり、自分で買うくらいの工夫をするか、努力を考えることも必要であろう。
なんでも金で簡単に手当てができることで親に出してもらったりしていては、自分の人生を一人で歩き出す準備ができているとは言えないのではないだろうか。「晴れ着」を用意することは成人式を迎えて大人としての第一歩を歩き出す最初の仕事として考えもよいのではなかろうか。そんなことを考えてみた。

    思いつくままに   「一人祝い」

2018-01-26 14:18:35 | Weblog
あるホテルのバーに一人の中年の女性が片隅のテーブルにすわっている。素敵なドレスで髪もパーティーの帰りかと思うほどに
美しく飾り、通りかかる人が振り返るほどであった。誰かを待っているようだが、だれも来る様子もなく長い間一人でわいんをかたむけている。しばらくすると一人の男性が片手にケーキをささげて近寄ってくる。ケーキには一本のろうそくが立ててあり、テーブルにそれをおくと、「誕生日おめでとう」と声をかけた。見知らぬ男に急に声を掛けられケーキを置かれて女性は驚くが、しばらく二人は何事もなかったようにワインを傾け立ち去っていく。(ドラマはその女性が昔好きだった男と出会ったこのホテルで誕生日を思い出してきてくれることを願いながら一人でいる女性と行きずりの男とのだ愛から殺人へとつながるのだが)
そんな映画を思い出しながら、自分の誕生日日をすごしている。(26日)こちらはそんなロマンチックなものではないが、一人で誕生日を祝うのも悪くはない。何しろ83歳である。ことわざではないが、「誕生日、めでたくもあり、めでたくなし」というところである。
何しろ80歳でじんせいが一応一段落したような気がして何となくもう一つ気合が乗らないところもある。しかしこうして「生かされているとすれば」やはり大切な時間である。無駄にはできない。昔「一日一善」ということを学んだが、何か役に立っているか、生きていることに「生きがいを感じることができないか、」そんなおもいはきえない。
と言っても体はそこそこ自分のことで精いっぱいである。その中でできることは知れているが、迷惑をかけず、自分の身の回りのことをできる範囲で片づけていきたいと思っている。
酒飲みならワインでも素敵なウイスキーでも「一人で味わいたいところだが、何しろ下戸である。コーラを一気飲みでもしながら好きな相撲をTV桟敷で今日もじっくり楽しむことにしたいと思う。
それにしても初場所から今年は世代交代ですっかり雰囲気が変わった。違った意味で面白くなったし、これで満員御礼は今年も続くこと間違いなしというところか。



思いつくままに    「産めよ、増やせよ」

2018-01-23 10:27:35 | Weblog
かつて日本は表記のように人口増加のために国策として協力して人口を増やした。それは」国力を増加し協力にする力となったことは
言うまでもない。(戦争による犠牲者があったことは誠に残念なことではあるが)
しかし21世紀の現在は全く逆になり、ここ数年は「産むな、減らせよ」ではないが、毎年のように日本の人口は減っているのだ。
今の国情からすれば、致し方ないことであり、仕方がないことかもしれないが、問題はそれだけでは済まないということにあるようだ。
なぜなら、人口がハイペースで減っていくにもかかわらず、人口が増加しているときと同じように増やし続けているものがたくさんあることである。新幹線、高速道路は延伸計画が続いているし、空き家や土地の空洞地にはどんどん新規住宅ができている。(私の住んでいる近所でも老人夫婦の空き家の跡に駐車場か新規住宅ができている。)
ネットでショッピングができるようになって店舗は今でも十分かと思われるが、まだ増え続けているようだ。
更に学生が少なくなっているのに大学を新設する計画はやまないで増えている。そのうえ、自動無人化のロボットやドローンの開発と
すべては人間の過疎化にそぐわない現象である。まして15年後には80歳を超える老人が「7人に一人」という推定さえあるといわれていれば、現状のありかたは実態とかなり「ずれ」が生じてきているような気がしてならない。
それぞれがそのことで生じる利益を「勝ち組」として考えているのかもしれないが、日本全体からすればそろそろ現実の実態を見直して国全体の在り方を将来に向けて考え直す時が来ているような気がしている。
海外からの外国人の導入も併せて「新しい国つくり」を抜本的に作成し、効率の良い投資を国全体で考え直す語気が来ていると思われる。
今年は例年になく「ドカ雪」が昨夜にかけて降った。まもなく春だという時期とあってこの雪が「名残雪」となるのかもしれないと窓から眺めつつ、「もうすぐ春ですね~」と口ずさんでみた。

     思いつくままに   「冬来たりなば~」         

2018-01-19 10:29:16 | Weblog
1月も半ばを過ぎた。冬も峠を越すころとなる。まだ寒さが続き東北、北陸は大雪の中にあると聞き大変であろうと察する。関東は今年は例年になく晴れの日が多く気温も10度を超すことが多いのでしのぎやすい。(10度以下になるとさすがに防寒着がきになるが)
人は勝手なもので寒いと文句を言い、暑くなるとまた不平を言う。しかし私はこの四季の変化こそが日本人の叡智をはぐくみ、知恵を生む元であると勝手に思っている。個人的には夏の暑さよりは冬の寒さのほうがありがたい。
体への影響も違う気もする。そんなこの頃であるが、東京は3月の20日、すなわちお彼岸の頃には桜の開花も見込まれるとあって今年は行くも見ないで冬が越せると嬉しく思っている。
そして今年は「ポデテイブ]を目標にしたのだが、毎日の生活ではやはり不安な日もある。しかしそんなときにこの言葉を思い起こし
気持ちを変える努力をすると、何となく心が軽くなるし考え方も変わるような気がするようになった。
人間気持ちの持ちようで人が変わるとはよく言われる言葉だが、あまり信用もせず気にしなかったが、やはり目標は大事だと今更ながら思わされている。毎日の会話も同様である。何度も言い聞かせているが、口にする言葉は心の思いの結晶のようなものだり、そうでなくては
言葉になって口にはできないだろう。もし言葉が心の「結晶」でないなら言葉は全くむなしいものになり、「心にもないことを言う」ということになるだろう。それほどに「言葉」は大事である。そしてまた「言葉」は人間関係おいて大事なカギになる。
つまりそこに「愛」が含まれているかどうかで、そのことばは相手との連帯感を生むか、生まないか、あるいは悪くすれば連帯感を壊すことにもなりかねないのだ。それは言い換えれば同じ立場になっているか、どうかともいえるだろう。
そしてその言葉は生きているか、どうかという大きな意味を持つものでもある。
冬はそんなことを静かに考えさせたり、これから始まる新しい出来事を期待するときでもある。そんな時今年のお相撲の初場所が始まった。昨年大騒動を起こしてどうなるかと思ったが、無事に満員御礼の興業がつづいていることはよろこばしい。
特に世代交代が始まり20台の若い関取の活躍は見ていてほほえましく期待に夢が膨らむ、
冬もまた良いものである。

足跡    「2018年」

2018-01-16 10:03:04 | Weblog
今年の歩みも始まった。昨年は日本でも都知事選挙に始まって衆議院選挙と落ち着かない年でもあり、変化の年でもあったが、今年はどんな年になるのだろうか。
アメリカはトランプ大統領が2年目を向かえ秋には中間選挙がある。アメリカの国民層は白人が年々減っておりヒスパニック系のメキシコ、スペインほか南米からの移住者が年々増えている。(黒人は定数)このために大統領は境界線を強化して移住を止めようと必死になってる。総じてアメリカはこの白人中心主義を守り、移民対策が当面の大きな問題のようで世界への考えが、あまり及ばないかもしれない。日本から見ると北の核実験を含めた問題が今年持つ面の大きな問題であり、アメリカを頼れなければ自衛できちんと対策を準備することが当面の大きな問題になってくる。アメリカも日本もそんな意味では経済面は二の次で外交対策が重要になってくる気がする。中国も経済伸張が一段落して国内の思想統一と「一帯一路」戦略を進めることになるが、
世界の各国も中国の援助は仰ぎつつも自国の守りも大事な問題と合って、その政策には各国とも今年も苦心が必要であろう。
欧州は嘗ての移民問題が一段落して各国ともその影響が少なからずありながら落ち着きを取り戻しつつあることはうれしい傾向である。(やはり歴史的な伝統がしっかり根付いている)
相対的には世界は良くも悪くも「バランス」がとれて大きな変化は予想されないのだが、どうだろうか。(テロ対策を含む)
日本も消費税も先送りになるとすれば景気の上昇は見込めなくても昨年並みの生活が保障されると思う。大きいのは外国からの訪日人数が昨年の約3千万人を今年は上回り2020年に6千万人とする推測が早くなる傾向の増加ぶりである。
この影響が日本へどのような効果をもたらすか楽しみでもあり、問題でも歩きがしている。
いずれにしても出来るだけ穏やかに平安な一年にしたいものである、
今年は犬年である。犬のイメージは「忠実」だとあるので、全てに忠実に自分の務めを正しく果たして生きたいと願っている。

思いつくままに  「ガラケイからスマホへ」

2018-01-12 11:41:45 | Weblog
突然のことであった。息子から「今の携帯電話はもうなくなるのでスマホにするよ」と言われた。使ったことも触ったこともなかったが、今やスマホ全盛時代で回りはスマホだらけである。
私の使っているガラけいを使っている人はいない。第一ガラ系という言葉も今が分からなかった。聞いてみると「エクワドルの国の西に浮かぶ無人の島」のことらしく、つまり日本だけしか使っていない携帯電話のことらしい。もはやこの携帯電話も生産されなくなり、在庫もなくなるということらしい。技術の進歩と普及の早さに驚くと同時に自らの老化現象と時代遅れを嘆くしかなかった。とにかく必要書類を整えて息子に連れられて手続きに立会いスマホを手にしたが、
とても手につくものではなく、少し説明を受けたから使えるものでもない。とりあえず電話と
メールとの使い方を教えてもらったが、すぐに覚えられず、しばらくはあちこちと衣j里まわしてみることになった。
しかし思うようには使えるわけもなく、ただうろうろとして落ち着かなくだけであった。
生活基準も乱れて落ち着かず、当分はパニックになりそうである。
電話が鳴っても、ドレを触ったらよいのかドキッとするだけで困ったものである。
しかし、今や若者は小学生にいたるまでこのスマホを持ち、いつでも、どこでもなにをするにも
是がないとだめなようで、世の中が急に進んでしまって老体はついていけない気がしている。
しかし、スマホを少しでもおぼえて使えるようにしなければ生活にえいきょうがでることになる。
何とかしてがんばって覚えたと考えている。

足跡    「隣人」

2018-01-09 11:10:29 | Weblog
正月松の内に二階に住む隣人家族の新年のご挨拶を受けた。ちょうど引っ越してきて一年になるところだ。40代前後の夫婦と男の子一人、4所帯の小さなアパートで右と左に分かれている。
一階の私のところの真上なので、少し気を使わなくてはと思ってどんな人たちがすむのか少し気になったが、家族でご挨拶を受けて少し安心していた。
奥さんは気さくそうな明るい雰囲気の人で自分の子供が障碍児であること、特殊学級で学んでいること学校へ送り迎えをしていることなど問わず語りにはなしていた。そんな事があって私はその子供に何となく親しみを感じていた。見た目にはそんな雰囲気はなく、明るくて(お母さんに似て)あどけない様子がうれしかった。何か家族が増えて二階に息子夫婦が暮らしているような気にさえなるくらいだった。普段はとても静かで物音も話し声もほとんど聞こえることはない。おそらく普段から静かな生活なのか、性格的に穏やかな人なのか、聞こえるのも家族で時折聞こえる笑い声くらいで、私はそれが聞こえるとこちらまでうれしくなるほどである。
そんなお付き合いが始まって、私は時折、その男の子の顔を思い出してもらい物の果物やお菓子を何度か届けたことがある。すると必ず数日後に父親がお礼だと言ってきちんと挨拶にこられていた。いまどきの人には珍しく礼儀正しい人だと感心もし恐縮していたのだが、
今年のお正月には早々に挨拶を受けて「今年は春から縁起が良い」とうれしく思っている。
「隣人を愛せよ」とは聖書の大切な言葉とs手記憶されているが、まさにこれほどに幸せな隣人にめぐり合わせられたことに感謝しかない。一人住まいでも狭い感じがしないでもない住まいで三人が是ほどまでに幸せに住んでいる姿を見ると人は「もの」ではなく、心であり、魂のあり方で幸せをつかむことが出来ることをつくづくと思わされている。
今年もこの隣人と共にポジテイブに生きていくことを改めて思わされている。

思いつくままに  「正月風景」

2018-01-05 11:10:58 | Weblog
2018年も静かに明けた。新しい年を迎えて不思議な期待と不安を感じる。今年はどんな出来事があるのだろうかと、しかし何事があろうと全ては「ゆだねた方のうち」にある。自らはただ静かに落ち着いて導かれるままに歩きたいと願うのみである。
さて、お正月とあって家族と会食の時間が出来て出かけてみた。驚いたことに市の様子は普段とまったく変わりがない。10年ぐらい前までは正月三が日は何となく市の様子も違って、家の角先には国旗が建ててあったり、少し余裕のある家には立派な門松が飾ってあり、しめ縄が玄関を清めていたのだが、今年はその様子は探してもない。僅かに近くの神社での「初詣」の行列が何となく普段と違う雰囲気を見せているくらいで、並んでいる人たちの姿も女性の晴れ着もみられず、まことにさびしい限りの様子であった。デパートへ入ってみると人は普段よりは多いいが特に目立つほど絵もなく「福袋」の売り場に人は集まっているが、飛びついて買うのでもなくただ
見るだけの人たちであった。僅かに食堂街だけが人が並んでいるくらいで、それも数店だけのかぎられたところであった。これでは普段の休日と変わりなく、正月と言うめでたさも華やかさも感じられず、何となく時代の流れと変化をまざまざと見た重い絵だった。昭和に生きて古い正月の習慣で育ってきた自分にとってはこの変化と現実を受け止めて、その有様を受け止めるしかないのである。家庭でも「お年玉」はあっても、お雑煮や御節はテーブルに載ることはなくましてお屠蘇をいわうこともないのであろう。日本の文化の特色でも合った「正月風景」はこれからは
文化財として、どこかで大切に保存されないと忘れ去られていくことだろうと思う。
それはそれでよいのであろう。現実には厳しい目の前の問題にとりくんで、しっかりと生活の目標に進んでいかなければならない。そのためにはそんな余計なことは必要ないのかもしれないし、そんな余裕もないことだろう。
お正月、それは単に便宜上の一ページに過ぎない一日になったことを知るこっとなった。

足跡    「ポジテイブに生きる。」

2018-01-02 16:24:32 | Weblog
2018年を迎えることが出来た。3年前に80歳をこえて人生の平均年齢をこえてから
人生観が変わり、これからの人生はこの世での大切な時間として毎年迎える気持ちに変わった。
生活感も衣。食。住全てに今までの欲望はなくなり、ただただ健康のみが自らのせきむとなった。
それは長生きをしたいと言うことではなく、家族を含めた自分とのかかわりの中で、迷惑を変えないで人生を全うしたいと言う思いである。従って現在の一人暮らしを続けて、できれば人知れず人生が終われば、この世の任務を全て終わることが出来る。それが自らに課せられた勤めであると、年々その思いが強くなる。そかんがえると毎日の生活も行動も考え方も少しづつ変化していくのがわかる。
そんな中で、新年を迎えることが出来た。そして今年を向かえその心構えを決めたいとかんがえた。ここ数年年齢のこともあり、生活環境のこともあり、全てに消極的に否定的に考えることが多かった。それは生かされているものとして「誤り」であることに気がついた。
どんなに年齢を重ねてもどんな生活環境にあっても生かされてこの世にある限りにおいて
一番大事なことは生きている限り、この世の勤めがある。それはどんなことであれ自分に課せられたつとめである。決して手を抜いて怠惰に何もしなくてもよいと言うことではない。
その日の課せられた勤めを真剣に考え、それを出来ないながらも真剣に取り組むことこそ大事なのである。昨年スポーツの世界で野球、ゴルフ、相撲と楽しんできたが、全てを通じて
つくづく思わされたことは其処にどれだけの目的に対する「ポジテイブ」な意識が生きているかということであった。その実力はなくても、そのプレーにどれだけ集中して目的のためにプレーに取り組んでいるかと言うことがその結果に繋がっているかに考えさせられたものである。
そのためにはまず健康であることであるが、自分のおかれた境遇や環境で、そのプレーに対する意識が大きく影響し変化するかを、現実に見ることが出来た。
私の人生も同じである。それはひとつひとつの行動や言動に確実に表れてくるのである。
どんな問題、どんな場面におかれてもどの基本に、まずポジでイブな意識を忘れないで
生きることを目標としたいt。