波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「母と娘とそして孫」

2019-08-26 10:25:36 | Weblog
長い一人暮らしの私を忙しい仕事の中でやりくりしながら娘が月に一回程度訪ねてくるようになった。まだ一人で何でも出来るので大丈夫と思いつつも男では気のつかない家の中の片付けや身の周りのことをしてくれると、娘のありがたさを知ることができて嬉しいものだ。片付けが終わると二人でランチを楽しみながおしゃべりが始まるのだが聞いていると家族のことが中心で愚痴や悩みごとが多い。もう何も役に立つことは出来ないと内心思いながら生来のおしゃべり好きとおせっかい焼きの癖が頭を出し口を挟いむことになる。長女の孫は社会人で会社勤めをしている。家のことは何も出来ず帰宅しても仕事をしていたり、帰りも遅いらしい。そんな姿を見ていると母親としては心配が絶えないのだろう。(自分の経験を思い出してみると良いと思うのだが。)その孫がまだ入社3年足らずで転職したいと最近言いだしたらしい。そこでまだ入社したばかりで大丈夫なのかと私に聞くのだ。私も自分の経験からすると早すぎるし、私などは入社の時に滅私奉公と言う教えもあり、とにかく何があろうとどんなたいぐうであろうと我慢して務めるものという考えだったので、転職などはとても頭に浮かばないのだが、現代はどんな行動を取るのだろうか、仕事の内容もわからないし社内の人間関係もわからない。昭和の営業活と令和では営業スタイルもちがっているのか
そんな事を考えているうちに一度孫たちに会いたくなった。小さい時に公園へ連れて行くと子犬が鎖を放たれたように飛び出し、走り回っていた姿が思い浮かび
社会人になって成長した姿を確認したくなったのだ。「一度時間が出来たら孫たちに会って話を聞いてみたいものだが。どうだろう」というと「そうね、それがいいわ、本人に聞いてみるわ」となった。いよいよご対面が出来るかもしれない。次回その結末をお楽しみに

「ストレス対策を考えよう」

2019-08-19 11:16:39 | Weblog
人は生きている限り何らかの悩みを持ったりストレスを感じながら過ごしている。
。そしてその影響は様々な形でその人生に与えることになる。無意識のうちにその影響を受けて生活自体を悪くする場合もあるし、病気にさえなることが多い。。一人暮らしの私も他人事ではないと普段の生活でも気を使っっているが普段はその日の日課を処理することで満足してよいのだが、偶に「今日はどう過ごそうか?」とぼんやりすることもある。そんな時にパソコンを開き「ユーチューブ」を見る。そして若い頃カラオケやお付き合いで歌っていた歌を見つけて、その頃を思い出しながら歌うのだ。仕事ではお酒の飲めない私にとって逃げ場は歌であった。幸い歌は嫌いではなかったので、いろいろな歌を覚えながら歌ったものだ。演歌というジャンルに入るのだろうが、「襟裳岬」「夜霧よ今夜も有難う」クールファイブの歌などが好きだった。最近でもそんな中で見つけのが「六本木ララバイ」と新しい曲では「青いダイアモンド」などである。自分の好きなリズムとメロデイにあうと自然に覚えて歌えるので気分が高揚する。そんな時間が少し出来ると元気が出てくるのが不思議だ。
そして体調を整えることが大事なのだ。(皆さんにも是非オススメしたい)
そんなに難しいことではないし、あまり理屈っぽく考えることもない。單純に頭を空っぽにすることはかんたんなようで難しい。
もう一つは何と言っても「囲碁」である。最低のランクからやっとひとつ上に上がり「やや弱い」になったが、まだ一回も勝てない。しかしやり甲斐はある。それが意欲につながるのだ。努力しかない。それがその日の活力になる。
一日は一日で過ぎていく。その一日を大切にしたいものだ/

「友人達」その1

2019-08-12 10:12:09 | Weblog
人はこの世に生まれ家族をはじめとして多くの人との交わりをもって始まる。その中から「友人」「知人」と呼ばれる交わりができる。そして悲しい時嬉しい時悩みを持つとき折々に語り合い、慰めあい、励ましあって生きていく。成長と共に様々な人と巡り合い、繋がりを持つ。その中にあって友人と呼ばれる人間関係は大人になる過程で生まれてくる。私の場合は学生時代に閉鎖的な環境に置かれていたこともあって友人として語りあうほどの
人間関係が生まれなかった。(一般的には大人としての成長過程である学生時代に何人かの友人ができて大人になり、離れ離れになっても折に触れ、時に触れて連絡を取り、語り合うものだが)そんな人生だったが、私にも遅ればせながらその機会を得ることができた。
それは社会人として務めにつき実務についてからだった。入社した会社の技術者で私とはジャンルの違う世界の人であったが、話し合うと専門外のことになると何かと波長が合った。その主張は異なってもお互いに理解しあい納得する間柄に成長していった。やがて二人の間には共通する夢が生まれた。それは狭い日本を超えて海外へ出るというものであった。そのチャンスが来た。私が取引していた華僑の人から日本の技術を指導してくれという依頼だった。私は彼に話すと大賛成だった。しかし二人とも会社人間で拘束され、何でも許されるわけではなかった。しかしその思いは抗しがたく、二人は協力して台湾への道を築くことができた。やがて彼はその会社の役員として日本の会社を辞めて招かれ、自己資本で会社を設立して離れていったが、私との友情は固く結ばれ続いたのである。中国、香港と海外生活が長く続き苦労を多かったのだろう。帰国してから病に倒れ療養していた。見舞いを兼ねて訪ねたときはすでに話もできない状態であったが、私のことが分かったらしく手を握り合い、言葉にならない言葉でうなづきあったのが最後となった。

「エピソードーボリビアに生きた男」

2019-08-05 10:56:08 | Weblog
亡くなってから、何年過ぎたことだろう。私は今でも時々ふと彼の姿を思い出す。そしていつかまた会って話ができる気がしている。亡くなったことを知らされたのは葬儀が終わってしばらく過ぎていた。知らないでまだ自宅で療養されていると思っていたが、医者に言われた2年の告知期間は」「肺がん」過ぎていたので心配はしていた。私はお供えを持ち自宅へと向かった。
仏前に線香をたて最後のお別れの祈りと生前受けた数々のご指導を思い感謝の祈りをささげた。奥様と向き合い、その後の最後の様子を詳しく聞くことができた。彼からの呼び出しがあって会社の専務をしていたY氏と3人で会食をしたのが最後だったが、それから死の覚悟を決めた彼の行動をつぶさに聞くことができた。
彼にはそれからいくつかの責任を果たす仕事があったようだ。第一はボリビアに残してきた女性への思いであった。日本へ帰国してからも毎月東京銀行へ行き月々の養育費を送金すること。亡くなったその月も気息器を抱えて東京まで行き、ボリビアに帰国する友人に手紙を添えて託していた。(それにはおそらくこれが最後になることが書かれていたことだと思われる。)それから、しばらくは静かな生活をすごしていたが。その年も暮れになり、大みそかを迎えていた。奥さんの話によると普段からやさしい人であったが、大みそかの夜、珍しく「足の爪を切ってあげよう」と爪切りをしてくれたそうです。奥さんは長いリュウマチで体が不自由になっていて彼は何かと介護かねて世話をしていたのだが、その日は珍しく何かと世話をしていたようです。
そして夜も更けてやすんでいると隣で寝ていた彼が急に苦しみ始めうなり声をあげたが、そのまま息絶えて倒れたそうです。あっけない最後ではあったが、また誰にも世話にもならずあまり苦しむこともなく天国への旅立ったとのことでした。それはその年の元旦の朝だった