波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに  「他人事ではない。」

2015-02-28 09:13:38 | Weblog
新聞記事で「閉店セールの実態調査」の記事が出ていた。私自身も近所で似たような場面に出くわした経験があり、その時も好奇心と期待感と最後は何時までやっているのという
不快感を持った記憶がある。これを「フレーミンブ現象」といい、思い込みが心理的に働くようである。この意図がやむをえない事情で継続しているのか不明であるが、さすがに半年を過ぎると誰も見向きもしなくなり、いつの間にか店内改装をしてクリーニング屋さんになっていた。私の隣に文房具屋さんがあった。家庭の事情で店じまいをすることになったと聞いていたが、その店の店主は「長い間、地元の子供たちや学校に世話になった」と在庫品を全て近郊の学校保育園、公共施設を回り全て必要に応じてきそうして処分してしまった。そして大変感謝されたと聞いている。
同じ閉店のしかたでもこれほどの差が出てくるのである。そしてそこにオーナーの人間性を見る思いがするのである。
しかし私たちも日ごろの生活の中で同じような「閉店セール」の商売をしているのではないか。と不図考えさせられたのである。例えば「今日から~は止めました。」「明日から
それはかならずします。」など、約束や誓いのようなことを公言することがある。
しかしそれは長い間の習慣や怠惰な性格を変えることとあいまって、中々閉店しないのである。だらだらと継続していることは無いだろうか。そしてそのことのメリットはまったく出てこないのである。そうかと思うと閉店は一旦してもいつの間にか開店していて
同じ事をしていることは良くあることである。
看板を上げることで言い訳と理由付けは出来ても実体の伴わない医師の弱さを暴露することになる。
大事なことはそれらのハードルをクリヤーして継続し実行することにあるので、看板ではない。もし出したいのなら、実行できる「半額セール」だったり、「処分セール」として
欲しいものを自由にもって言ってください。お気持ちだけいただければというのもあるだろう。いずれにしても何事も出来ることでなければ公言しないことだと思う。
「みせかけ」はいつか暴露するし長い目で見れば信用と人格を貶めることになる事を心に
銘じたいと思うのだ。人間の行動は神の目で見られているのだ。

音楽スタジオウーソーズ    第37回

2015-02-24 11:42:46 | Weblog
世の中には男と女しか存在しない。そして同じ人間である。然し私は小さいころから男女の違いをあまり考えたことは無かった。確かに姿かたちは違っていても行動することや考えることは同じであり、自分がこう思えば人もこう思うだろうという安易なそして単純に考え、夫婦であれ、兄弟であれ、家族ならなおさらに同じ考えでいるのだと単純に考えていた。然し年齢を重ね歳を経る語とにこの考えは間違いで、どんなに親しい家族でも、
否家族だからこそ、考えることやすることが違うのだ。まして男女であれば同じ人間でもすることなすことは違うのが当たり前で、違わないのがおかしいのだということを次第に自覚するようになっていた。
そして違えばこそそこに存在価値があり、お互いに足らざるを補い合い、助け合っていくことが出来るのだということを認識するようになったいた。
田中は長い夫婦生活で妻がどんな事を考えて一緒に生活をしているかということを考えたことは無かった。ただぼんやりと女は男に従ってくれるものだという先入観で生活をしていた気がしていた。それは職場でも同じだし、何処の世界でも男性優位の歴史の中で支えられてきたと思うことに何の疑問も持ったことは無かった。然し現実の生活の上ではいつの間にか女性優位の状態が築かれつつあり男性の優位性は次第に弱まりつつあることに気づいていなかったことになる。それは女性の生命力に明確に証明され女性の寿命は男性の年齢をはるかに超えて7歳も伸びていることでも分かるのだ。
そして女性はどんな環境におかれても生き抜いていく力があり、世界の果てまで行って
一人で生きている姿をTVでも紹介しているのも見ても分かる。
「あなたが誰と何をしていても今更何もいうつもりは無いの。だけど私と一緒に住んでいることもあまり意味が無いことも良く分かったの。だから離婚したいと思っているの。」
気持ちが悪いほどに冷静である。全てを悟ったかのように声を荒立てることは無い。
それだけに田中にはその言葉が不気味だった。
そしてその妻の言葉に言い訳をする気持ちも無かった。A子のことについては何もいう気は無かった。
妻は最後に行った。「私もこれから田舎に帰って母と食らうつもりだけど生活費はかかるので、慰謝料だけはお願いします。」そして離婚状をおいた。
そして数日後田中が帰宅すると家の中はすっかりがらんと荷物が整理されてなくなっていた。

思いつくままに 「噂・真実・そしてとりなし」

2015-02-20 10:31:36 | Weblog
毎日の生活では様々な情報が飛び交い、私たちの耳に入ってくる。それらは大小あり、なかには自分の身の回りや自分のこともあるいは知らないところで噂になっているかもしれないのだ。それらは都市よりは地方になるほどその比重は大きく広がる傾向がある。
都会では隣人のことに関心は無く、無関心である傾向があるが、地方へ行くほど隣近所のことが話題にあることが多く、何かしら話題をうみ、それが独り歩きを始めることが多い。「誰々さんではこんなことがあった。」「誰々さんは今こうなのよ」と何処までそのお話に根拠があるかは別として伝播していくのだ。しかしこの話の根拠と事実はどう確認できるのだろうか。おそらく単なる伝聞でしかないのだと思う。
昔子供のころ「電話遊び」というのがあった。数人の子供が輪になって隣の子に耳元であることを伝える。その話は輪になった子供たちへ伝言として伝わる。すると最初に伝えた話と最後に聞いた話とはまったく違った内容になっていることが多く、笑いを誘ったものだった。噂とは総じてそんな域の物であり、大人の知恵で言うならそれらは其のまま事実と認めないことのほうが正しいのかもしれない。但し一旦大人の世界で出た話になると
簡単に消せないこともあるだろう。
へそんな場面に遭遇するといつも悩むのである。「仮にその噂が事実としてもそれをとりあげるべきか」とか、「取り上げるとしてもそれをどう処理するか」「その噂が自分とかかわりを持つとき、どう対応することが正しいか。」
場合によっては人が人を裁くこともあるかもしれないし、その事が正しい人を被害者にしかねないことも無いのだ。
最近裁判委員問題が話題にもなっている。映画やTVにも取り上げられるようになっているが、ある意味同じような重さを持つ問題だろう。
ここで結論的なことはいえない。ただ基本的な原点に立って考えるならその事実がどうであれ、まずはその人のために「とりなし」の思いを持つことが大事だと思うし、出来ればその為に祈ることも大切だろう。それから次のことを考えるべきだと思う。
そうでなければ何か自分自身も加害者の過ちを犯す気がしている。

音楽スタジオウーソーズ   第36回

2015-02-16 15:34:47 | Weblog
「お話していてとても楽しいんです」遠慮がちに話始めた。最初の出会いは仕事帰りに偶然一緒になって話しかけられ、誘われて食事を一緒にしたことがきっかけだった。
誰に対しても積極的になれない自分に声をかけてくれたことが嬉しかった。地方から音楽の勉強がしたくて東京へ出てきたが、とても住みにくく大宮へと居を移し仕事を探しバイトでピアノを弾くことになった。生活は楽ではなかったが、あまり緊張しなくて暮らせるのが良かった。「相手の男の人はどんな人なの」「田中さんという人で子の市内の中学校の先生をしているかただと聞いています。毎週のコーラス練習で着ていたそうですけど
私のピアノを聴いていて一度ゆっくり話がしたくなったとおっしゃっていました。」
「でもあの年では独身ではないでしょうね。」春子は無遠慮に言うと「エー奥さんも役所のお仕事をしておられるそうですけど、お子さんがいなくて淋しいんだとか」
お互いに仕事を持ってすれ違いの共稼ぎらしいが夫婦の会話はあまり無いようである。
「それであなたが目をつけられたわけね。」「そんなことは無いと思いますけど、とてもやさしく私の話を良く聞いてくれるので、色々相談に乗ってもらって助かります。」
奥さんのことはあまり気にならないようである。
これで大筋の二人の関係は分かった。特別店の仕事には影響が出ることもなさそうで春子は安心した。後は二人の大人の話である。二人が何をしようと関係ないし口を挟むこともなさそうだ。
田中には子供いないことが妻に対して不満であったがその責任がどちらにあるかも分からず過ごしていた。ある日二人は珍しく同じ休みが取れて家にいた。
「ちょっと話があるんだけど」と突然話し始めた。田中は珍しいことだと思いながら旅行にでも行きたいというのかと考えていると「今の仕事を止めたいと思っているの。そして親が元気なうちに実家へ帰ろうと思っているのよ」「それじゃあ、お前、俺と別れるということか」「あなたが承知してくれるならそれでもいいと思っているわ。だって、あな田は良い人が出来たみたいだし。私はいなくてもいいでしょ」
まさかと思っていたが、知っていたとはうかつだったと思ったが、ここで言い訳するほど若くは無かった。黙って聞くしかない。「大分前から急にあなたの行動が変わったので
おかしいと思っていたけどやっぱり好きな人が出来たのね。私もこの年であなたと争う気は無いの。好きな人が出来手も仕方ないと思っているわ。でも?

   思いつくままに 「飛目長目」

2015-02-12 10:59:34 | Weblog
遠く離れた地の情報を見聞きして収集するという意味で使うそうである。初めて聴いた言葉だが中々含蓄のある言葉として読んだ。この年齢になると動くというエネルギーが不足する。言い換えれば余程のことがなければ動きたくない状態になる。しかし、そんな時こそ本当は「老化防止」に備えて動くことは大事なのである。それは自分のためだけではなく家族を含めて近所の人たちへの配慮でもある。その為に何か情報を得たいと思う気持ちが働くのだが、その方法としてはパソコンによるインターネットの利用、新聞、文献などしか思いつかない。中でも一番関心があるのは自分が会社人間として仕事をしていた世界のことは小さな情報でも大体内容がすぐ分かる。狭い業界だったことでそんなに大きな変化が無いこともあり、小さなニュースでも実感として理解できるし、自分がまだその世界の一員のような錯覚さえ持つからだ。不思議なもので時々夢の中で自分が現役で働いている姿を見て、まだ自分は仕事をしているとさえ思うときもあるほどだ。
しかし、夢が覚めて現実に戻ると自分の姿を老いた一人の老人として、口の出せる機会は無い。そしてその移り変わりを懐かしむばかりだ。
しかし、その一方でじっとしていても何となく物事の流れが見えるような気がするときがある。「ジジババ会」のジジの一人が軽い認知症になって一年半が過ぎようとしている。一種間のうちに何回も顔を合わせる機会があったのにさいきんはそのきかいもめっきり減ってきた。寒さのせいかと思っているがそれだけではなさそうである。その言動に少しづつ変化が見える。2月の食事会であれほど「酒は嫌いではないがアルコールが受け付けない」を宣言し、乾杯のときもストローでビールに口をつけるだけだったのが、いきなりコップに注がれたビールを飲む始末でそばに置いたコーラには手もつけないほどになった。
そして三人で話す会話も自分のこと以外はぜんぜん会話に混ざらず、聞いているのか、いないのか、関心を示さない。つまり社交性が乏しくなっている。
人間は各々変化していくものだとは思うが、自分もその一人として現実を受け入れながらその立場をしっかりと自覚しなければと思っている。
全てのことがあまり見えてもよくはないし、分かりすぎても良いことはないだろう。
静かに自分の成すべき事をわきまえて隣人を大切に自分より優れた人と考えへりくだった気持ちで注意を払うことが出来る人間になれればと思っている。、

音楽スタジオウーソーズ  第35回

2015-02-08 09:44:30 | Weblog
演奏が終わって店がクローズになるのは12時をすぎる。自宅は大宮市内なのだろうが
どうやらどこかへ車を置いているらしい。深夜営業の店も最近は増えて彼女も疲れを癒すためか、どうやら行きつけの店があるらしく一人でその店へ行く。春子もその日はA子のあとをつけてその店に入った。薄暗い淡い暗光色のライトがボックスシートを照らしている。A子がその片隅に座るを見届けると春子はカウンターへ座りカンパリを注文した。
30分も過ぎたころだろうか。バッグを片手にコートの襟を立てて一人の男が入ってきた。そして真っ直ぐA子の座っているボックスのとこへ向かった。話は聞こえるわけも無く、春子は二人がそこに座るのを確認すると店を出た。
間違いなくA子には男がいる。何時かこのことを店で話すしかないと覚悟を決めていた。
そしてその時はまもなくやって来た。珍しくいつもより早い出勤だったので春子は何気なく声をかけた。「今日は早いのね。」と声をかけると「少しレッスンをしたくて」とピアノに向かった。春子は紅茶を入れると「少し休んでお茶でもしたら」と声をかけた。
「ありがとうございます」と素直にステージを降りてきて二人でお茶をする。
「最近お客さん暇ね。どうしたらお客さん増やせるかしら」と話しかけてみる。
「マスターは結構凝ってレベルの高い人を呼んでいるけど少し難しくてコアのお客さんしか分からないし、一般受けしないのかもしれないわね。」A子も言いたいことをいっている。多少不満もあるのかもしれない。「そうね。私たちも毎日聞いているけど分からないこともあるわ。」春子も相槌を打つ「でもコーラスは大分固定したお客さんが来てくれるので助かるわ。」と水を向ける。「そういえば、毎週来てくれているお客さんで中年のちょっとイケ面のおじさん貴女好みじゃない。」とずばり突っ込んでみる。
A子はそれを聞くと急に顔を赤らめ下を向いた。ずばり見抜かれたかのように黙り込んでしまった。どうやら図星だったようだ。「お付き合いしているんじゃないの」
「あの人奥さんがいらっしゃるんです」と小さい声で言う。「そうなの。」春子はそこまで言うとその次の言葉が出なかった。

思いつくままに   「考えすぎない生き方」

2015-02-04 08:57:01 | Weblog
世の中には良く知ったかぶりをする人が多いようだ。(私もその一人だとして反省している)どんな話題になっても必ず口を挟んで薀蓄を語る。これは自分の存在を示す手段として自然な行為かもしれない。しかし誰かが何かを知っていて如何に語ろうとそれはその事実のほんの僅かのことであり、全てをしり、ルーツから知っているわけではないだろう。
そんなことから考えてみると他人は各々様々な問題を抱えながら「あれこれ」と自分なりに考えながら思い巡らしているものなのだろう。
それは仕方が無いこととしてその内容はいったいどんなものなのだろうか。これらは考えている問題で色々であろうが、私自身の場合を考えてみると一様にあまり良い方向で考えていないことが多い。言い換えれば「心配」「不安」「悲観」的なことである。
つまり自分の思ったとおりになるという自信がないのだ。例えば病気になると、自分の健康はどうなるんだろう、良く分からないが悪くなっているんではないだろうか。「受験」を控えている子供たちは希望校への試験の合格が目標であるが、これで大丈夫という保証は無い。そして最後まで心を騒がせながら時を過ごすことになる。事程左様に物事をすすめていく上で「絶対に合格する」「必ずうまくいく」とかは考えにくいものだ。
ある識者が評論に「他人はどんなことに当たって自信があってもその何処かにだめかもしれないという一部の失敗を考えておくことが必要だ」教えていたが、逆に何をするにしても「きっと駄目だ」と決め付けた考え方をするのも良くないのだろう。つまり何をするにもこれで正しいと思って行うが、それを決定するのは自分ではないのだ。正しいこたえは自然に見えてくる、それがどんな答えになろうとも厳粛に受け止めて、それに対して対処していくことが大事なことなのだろうと考えている。
いたずらに全ては自分の思うとおりになるとか、自分のすることは間違っていないとか、反対に何もかもうまく行くことはナイト悲観するのではなく、「フラット」な気持ちをいつも持ち、何が起きても、どんなことが起きてもその事にしっかりと対応できる姿勢を
持ちたいものだと考えている。