波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

ハツピーバースデー

2019-01-28 10:57:35 | Weblog
先週「誕生日」を迎えた。この年齢で誕生日を取り上げることが気恥ずかしく静かにそっと自分の心のうちに秘めておきたいと思っていた。
思えば誕生日の思い出はその年ごとに歴史がある。特に小さいときは本人の意識はなくただ親たちが騒ぎ立て家族だけでなく友人知人を交えて賑やかに
したものだった。元来日本の習慣で誕生を祝う習慣は元服とか古稀とか喜寿のある特別な意味を持たせたものを感じていたが、最近は海外のパーテイ形式が主流になっているようで、お祭り形式が多いようである。そこには当然アルコールが入ることもあってその雰囲気も本来の意義が変わるのもやむを得ないかもしれない。我が家ではアルコールは抜きで私の思い出では母の手製の「手巻きの巻き寿司」が定番であった。今でも「恵方巻」を見ると母の「手巻き寿司」を思い出している。そんな誕生日であったが、大人になるにつれて日常の日々の中に埋もれて忘れられるようになっていた。
そんな中でその記念日も80回を超えて今年は84回目を迎えることができた。昨日も「お元気ですね」と声をかけられたが「明日がわからないのでね」と言ってしまい素直にお礼が言えなかった事が恥ずかしい。そんな誕生日であったが当日の朝、岡山に住んでいる義理の妹から祝いの電話をもらった。年に一度くらいしか話すことはないが、こうして忘れないでかけてくれることは望外の喜びであった。息子はラインで簡単なメッセージ、娘はランチとケーキをもって嫁ぎ先からやってきて親子で細やかな誕生祝をする。そして福島から」姪っ子からお祝いの電話、そして最後に孫が「じいじ、分る?」と電話をかけてきた。」「由希だろ」というと「誕生日おめでとう」と呼び掛けてくれた。孫からの祝いの電話は初めてで「よくわかったね」というと親に聞いていたらしい。それにしても大人になったものだと、その成長に心温まる思いをすることができた。
クリスマスはキリストの誕生では数人の羊飼いと三人の博士が東方から訪ねてきたとあるが、私もこんなにあちこちからわたしをおぼえて祝いのメッセージを受けることができたことは感激であった。人生は長いようで短く短いようで長いのかもしれない。
ただこの世に生かされている限り悔いのないように大切にその時を過ごしていきたいと改めて思わされる一日であった。


背負うもの

2019-01-21 09:54:44 | Weblog
「1年の計は元旦にあり」」お正月になると教えられたこの言葉が思い出され、何かを脱ぎ捨て、すべてを新しくやり直すかの如く考え新鮮な思いで迎えていた気がする。しかしそんな考えは年々薄くなりこの年になると「昨日の今日は明日の今日である」と日々変わらない思いで過ごしてきた。
私にとってはむしろ「1年の計は初場所にあり」の感がある。オフシーズンに入り、日々の楽しみであるスポーツ行事がなくなると、何となく寂しい思いで過ごしてきたが正月が明けると、初場所で大相撲が始まる。このきっかけが元気付けになり日々の楽しみと喜びを生んでくれる。今場所も日本人横綱の再起に関心が集中し期待が集まったが、あっけなく引退で終わってしまった。と同時に相撲の関心もやや薄れたが、場所は連日の大入り満員である。
相撲もアスリートのスポーツでありながらエンターテイメントの要素が強くなり、コアなファンよりもある意味エンターテイナーに対する応援を楽しみにするようになって騒いでいるようで相撲の内容に関心がないようにも見える。(そこは少し寂しい)そこへもってきて毎場所必ずと言っていいほど途中でけが人が出るのも興ざめである。そんな中で外人力士の強さが目立つのもいささか気になるところだ。
こうして新しい年は明けたが果たして日々楽しみを求めてるだけでよいのだろうか?との疑問もよぎる。意識の中にあるか,ないかは別にしても人はそれぞれ大きな荷を背負っていることを覚えたい。生かされて生きていることはこの世においてどんなに小さい存在であってもそれぞれに役目があるししなければならない「勤め」」があることを自覚したい。それを元旦にしっかりと意識のなかに植え付けて考えることが大切であろうと思う。
そんな意味ではもうお忘れになっていると思うが、私には学校の運動場に置かれていた「二宮金次郎」像が思い出される。
この像を見ていると単に荷を背負って仕事に精を出すというだけでなく人間は常にどんな人もそれぞれに荷を背負ってその勤めを誠実に果たして生きることが大切であることを教えているようでもあるのだ。聖書ではキリストは「十字架を背負え」と教えている。
お正月も過ぎ早くも新しいシーズンは世界中で動き始めている。日々何かが起きている。その一人としてしっかり一日一日を生きていきたい。

「一分間の重さ」

2019-01-14 09:37:16 | Weblog
毎日の日課に「囲碁」がある。昔は囲碁を楽しむためには碁会所(現在も存在する)に行き、相手を探して打つのだが、一人で其処まで行くのが大変になり困ると思っていたらゲームソフトができて一人で囲碁を楽しむことができるようになった。このソフトは良く出来ていて相手、棋力、その他さまざまな条件が備わっていて何時でも楽しめる便利なものである。最初は何気なく門前の小僧のごとくただわかっている範囲で楽しんでいただが、偶々TVで観戦しているプロの棋戦を見ていると「早碁」と称するものでも2時間、一手を打つのに最低でも一分を基本としている。ゲームソフトはコンピューターが即座に打つので、こちらも自然にそれにつれてそのリズムで打つので、その手は自然と早くなり一局終了に10分もかからないで終わっていた。当然その結果も雑なもので本来の囲碁の姿ではない。そこでソフトは間髪を入れずに打ち返しても、こちらは1分を使いその石をどこに打つかを考えて打つことにした。すると今まで気が付かなかった様々な手が見えてきて、それなりに考えいくつかの手の内から最善を決めて打つようになった。しかしそれで勝てるとか、間違わないというわけではない。ただその時間を冷静に思考する時間として持つことができる。そして「一分間」の時間の長さと重さを知ることとなったのである。そして一分の時間のなんと長い事かと改めて知らされたのである。普段の生活の中での一分はだれしも気にも留めない時間だと思うし、私自身もわずかな時間として気にも留めなかったが、一分という時間がこれほど貴重で大切な時間であったかと学ぶことができたのである。
囲碁の棋士はおそらくこの時間の中で何手もいくつもの手を考えて相手より有利な手を先んじて読んでいることだろう。そして相手の手を封じて自陣を有利に展開することを考えているに違いない。そう考えると一分は単なる一分ではなくその生死を決めることさえあるのかとさえ思わされるのである。
自らの生活においてもただ漠然と時間をt無駄に過ごすのではなく、時間は一分の積み重ねてある。その時間をどのように考えて次につないでいくかでその結果は変わってくるのだと思う。まして人生は止まることなく時間とともに過ぎていく。大事な時間を無駄にすることなく生かされている意味を考えながら大切に使いたいものである。

2019年を迎えて

2019-01-07 10:13:37 | Weblog
「生かされて新しき屠蘇の身に沁みて」今年の年賀状に書いた雑句である。80歳を過ぎたころから元旦を迎える気持ちが変わってきた思いがあり、その気持ちがそのまま句になり書いたものである。お正月の家族そろっての祝いもお節もお雑煮も遠い昔になり、普段と変わらぬ日を過ごす。
TVをぼんやりとみていると、懐かしい昭和の時代の歌が流れていた。紅白歌合戦の第一回出場者(昭和25年ころ?)の歌手が92歳で登場して懐かしい歌を元気に歌っているのを聞き、感動と喜びを受けた。そんなのんびりした時間を過ごしながら「今年はどんな年になるのだろう」と思いを巡らすことになる。改めて日本人として存在していることに感謝である。世界は国々がそれぞれの繁栄を願いつつも争いや困難が付きまとい、平安とは言えない状況が続いている。情報だけが世界を駆け巡るので猶更に自己の安定を求めて混乱が増幅しているようだ。日本も例外ではなく年々海外からの訪日者が増加し(3千万人を超えている)その中には日本での居住者も比例して増えている。この傾向はオリンピックを契機にますます増加することだろう。
それに比例して今までにない障害も増えていくことだろう。嘗てない問題に直面しつつ対応策を講じることになる。しかしこの問題はむしろ遅すぎるほどで日本もいよいよ先進国としての世界の役割を果たしていくことになる。今年の気象予報も発表されている。エルニーニョ現象次第で今年の夏が昨年同様になるか、変わるか決まるとのことだが。温暖化の傾向は大きく変わることはないだろう。日本は「四季」があることを恵として受け止めなければならない。そんな中で我が家も孫たちが受験を控えて時間を過ごしている。人生の最初の難関を迎えて本人たちは大変だろうが、それは成長の過程では越えなければならない経験である。結果はどうあれ一人の人間として尊い経験をしてもらいたいと思っている。
私自身も新しい年を健康を持って迎えることができたことを感謝したい。しかし今年も健康管理が」第一であろう。とはいうもののこの年齢では体調も日によって変わりやすく油断はできないので今年も「一人KY」を忘れないで過ごしたい。
生かされている喜びを感じながら今年も良き日を続けたいと願っている。