波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

パンドラ事務所  第四話  その3

2013-10-31 10:40:02 | Weblog
まだ会社で仕事をしていた頃、年に何回か会社の案件で法律に関係することが起きると
顧問弁護士としてお世話になっていた先生がいた。青山は特にその先生とは親しくさせて頂いてことを思い出し、この際話を聞いてみたいと手土産を持って伺うことにした。
もう80に近いと思われるが、元気で懐かしそうに迎えてもらい嬉しかった。
二人はマージャンやゴルフの仲間としても時間を共にすることも多くあったことで色々な思い出を共有していてひとしきり昔話に花が咲いたのだ。
「所で青山さん、今は何をしているの」と言われ、何と答えようかと迷ったが、「よろず相談所みたいなことをしています。少しでも人の役に立てればと厚かましいことを考えて」「そうなんですか。」「そこで今日のお話なんですが」と切り出すと静かに話を聞いてくれた。当然のように結論は特別なことではなく、姉妹で話をつけることが時間がかかっても成果だと教えてもらう。
数日後、今度は夫婦で秋葉原の事務所へやってきた。「先生の話はどうだったですか。」
「特別なアドバイスはなく、二人でよく話し合ってくださいと言うことでした。」と言うと「分かりました。しかしこのまま話もできないとなればこちらでは弁護士を立ててでも交渉の場を見つけるしかないのですが、それでもしょうがないでしょうね。」と言う。
「そうですか。」と言ったものの、もしそうなればこの話はますますこじれて、悪い方は向かうかもしれないという考えがよぎったが、「それは避けたほうが良いですよ」とも言えなかった。夫婦の意思は固いらしく青山にそのことを伝えることで自分たちを納得させているようでもあった。それからあれこれと妹の様子を説明して二人は帰って行った。
青山はこれで自分の役目は終わったと忘れるともなく忘れかけていたが、ある日一通の手紙を受け取った。それは妹の方からのもので、それには長々と両親との関係や姉のそれに対する不誠実とも取れる行動が書かれていた。
それから姉からも電話で其の後の経緯を聞かされていたが、話は家庭裁判所へと移され
示談を前提に弁護士が中に入って調停だ行が進んでいるとのことであった。
一年を過ぎたころ、電話が入り、「お陰様で相続の手続きがおわりました。お世話になりました。」と簡単な挨拶であった。
具体的な何がどうなったのか、聞かされもしないし、聞く気持ちもなかったが、問題は立った二人の血を分けた姉妹がこの事を通じて他人同様の関係になってしまうことであった。そこに人間の業と罪の大きさを知らされて唖然とするばかりであった。

思い付くままに  「続々術後所感」

2013-10-28 11:05:25 | Weblog
3年前に「老人会」を通じて交わりを持ち、その会も年々減るところとなり今年の3月ともって止む無く解散となった。解散後も交わりを続けた三人のうちの一人が6月末の胃カメラ検査で「初期胃がん」を告げられ手術を受けた。手術は順調に終わり健康を取り戻し再び三人だけの食事会、健康ランド入浴など、楽しい交わりの時間を続けていた。
8月の末に手術を受けた彼が家族旅行で出かけ、半月程会う機会がなかった。
旅行から帰宅後顔を見せないので聞いてみると腰の痛みと食事が出来なくなり、取りあえず近所の病院で様子を見てもらうことになり、診察を受けた。すると「脱水症」と言われ
点滴治療を数日続けているうちに膀胱不調を訴えるようになり、大病院の泌尿科へ回され検査の結果、膀胱手術を受けることになり、9月にその手術も無事に終わった。
所がその頃から再び食事がとれなくなり、見舞いに行っても8月の時よりも一段と衰弱しているのがはっきりしていた。
其の後も病院での検査は続いたが、定かな病名も診断も聞かされなかった。確かなことは
この3か月のうちにすっかり体力が落ち、自力での生活が出来なくなった事である。
数少ない知人であり、友人でもある。同世代となると無関心でもいられず時間があれば
彼を励まし慰めてきたつもりだった。それは他人事ではなく「もし自分が彼の立場だったら」と言う思いもいつもあったことでもあった。だから彼の健康状態の推移は参考になることも多く、自戒の実態でもあったからだ。
悲観的な見方は不遜でもあり、個人的にもしたくはないが、年齢(80歳)から考えてもどこまで回復するか、あまり期待もできない気もして心が痛むのだが、これからのことは
何とも言えない状態が続いている。(現在神経内科)
そしてそれ故にこそ現在自分が健康であり、恵みの内にあることを改めて感謝するとともに大切に生かされている日々を大切にしたいと思うのである。
現在も入院中で、リハビリの訓練で自活への見通しを検査しながら様子を見ている状態が続いている。高齢化に伴う問題は様々だが、交わりを通して助け合い、励ましあうことが大きな効果をもたらすことも少しわかった気がしている。

 パンドラ事務所  第四話  その2

2013-10-24 12:56:57 | Weblog
二人の姉妹には両親がいたが、母親が早くなくなり、それを追うように父親も間もなく亡くなっていた。話を聞いているうちに問題が遺産相続のことらしいと分かってきた。
二人だけの然も姉妹でもある。二人で仲良く話し合って法律で決められている通りに等分に分ければ済むことだろうと単純に聞いていたが、そうでもなく双方の言い分があって
話しが付いてないらしい。妹のの言い分によると姉は嫁いでから親の所へ訪ねることも少なく病気になった両親の看護や見舞いにも来れなかったらしい。それは嫁ぎ先の舅、姑の世話があることと家風にあったらしいので本人の意図とは違っていたが、それが出来なかったのだ。それが分かっていたこともあって妹は婿養子同然の所へ嫁に行き、自分の思うままに親の所と行き来をしていた。それは親の望むところでもあった。
当然病気になると妹は両親の面倒を全身で受け止めて世話が出来たのである。地理的にも近いことも有利であった。
そんな事情もあったのであろうか。納骨も終わって一段落して二人で遺産の話をしたいと姉からその話を切り出したところ、妹から事務整理がついたら二人で話をするからと言ってすぐには取り合わなかった。(死ぬ直前まで面倒を見ていた妹が親の管理を任されていたらしい。)「妹から落ち着いたら二人だけで余人を交えないで話をしようと言われて半年が過ぎても何にも言ってこないのです。内の親からもどうなっているのと言われて嫁の立場として説明もできないのです。それで亡くなった父から青山さんのことを聞かされていましたので今日伺いました。」「そうですか。お父さんが亡くなられてもうそうなりますか。まあ、常識的には誰が考えても残された遺産は遺言にもよりますが、何もなければ
子供さんで等分に分けられるものですから心配しなくてもそのうちきちんと説明があるでしょう。」と言う。「でもあまり長いので、何か考えているんじゃないかと思ってしまったり、私に渡したくないと考えているのか。何しろ私の所には親のことを知るものが何もなく、何も聞かされていないので、何もわからないので不安なんです。妹が全部握っているので」「しかし、これは法律で決められていることですからどうしようもないはずですよ。念のために弁護士に聞いてみましょうか。」「すいませんがお願いします。」
「この頃は電話にも出なかったり、会って話をしようと言っても会おうとも言わないのです。」「わかりました。念のために弁護士にも聞いてお返事しますよ」
その日はそれで帰ってもらうこととした。

思い付くままに   「台風」

2013-10-21 10:33:36 | Weblog
今年は観測史上記録に残るような台風日本上陸「9回」に迫る8回の台風(26号)が日本を通過して、大島に大きな被害を残した。そして更に27号(9回)が北上中である。
そもそも10月に台風が通過することが珍しいとされているのに、これだけ回数が多く
そしてその度に日本のどこかに被害をもたらし人々に恐怖を与えていることになる。この原因が異常気象によることは分かっていても対策も防御も充分できないことは昔も今もあまり変わらず、ある意味なすが儘の状態であることも事実だ。
この台風と洪水のニュースを見るたびにある物語を思い出す。それは「ノアの方舟」として知られる聖書に出てくる話である。神は人間の思い上がりを戒めるために40日40夜の洪水を地上にもたらした。その時、神を敬い信じるノアに長さ150ほどの大きな船を造ること命じた。そこにはノアの一族と多くの動物が乗り、無事にその災害を免れたという。時代とともにすべての生活環境は豊かになり、立派になったが、この自然災害に対する備えは変わらないことを教えていると思うからである。
日々の暮らしで言えばそれぞれの「健康管理」であろうか。毎日自分の体の状態が同じのようで同じではないし、ちょっとした異変に気付かないで過ごしてしまうことも多い。
私自身で言えば25年ほど続けていたジム通いも、きつくなり卒業したがその後はこれと言うこともできていない。(友人は毎日5キロの歩行訓練を続けていると聞いている。)
最近は立居振舞に昔のような身軽さはなくなり、ホームの階段も踏み外さないように真剣に下を見て歩くようになっている。そんなある日、TVで見た「椅子体操」を実施することを覚えた。椅子の背もたれに手を置き、「つま先たち上下」をワンセット60回、「椅子の座りたち」を20回ずつ行う。これを1日2回から3回行うことで血流の改善と膝の屈伸を強化できるという。
スポーツの秋であり、食欲の秋と言われるが、さすがに食は無理が出来なくなり、体の調子を見ながら少なめに食べるしかない。スポーツも偶にゴルフでもと思わないでもないが
自信がない。先日も中国へ仕事の話も出たが、自重して辞めたが、これが「年相応」と言うものかと思っている。しかしそれでむなしいとも、悔しいとか、後悔はない。
充分色々な恵みを受けることが出来るし、楽しむことも出来る。
神は私たちのことをすべて知っておられ、いろいろな形で叶えて下さるからだ。

  パンドラ事務所 第四話  その1

2013-10-17 09:16:09 | Weblog
静かで穏やかな日が戻ってきた。秋葉原の事務所の雰囲気も依然と同じように戻り、青山もここの所あれこれ気を使って落ち着かない時間から解放されていた。
杉山夫人への報告も充分とは言えなかったが、出来ることはしたつもりだった。「いつか墓参に伺いたいと思っています。」と別れ際に言った時の夫人の涙が印象的であった。
昼時静かな事務所から外へ出ると現実に戻されたかのような賑わいの中に入ることになる。ビルの1Fはファーストフードの店で、その隣は和食食堂、そして中華と並んでいる。若い時は「ラーメン、ライス」が定番でよく食べていたが、さすがに年とともに食も細くなり、バランスを考えるようになっていた。そんな中で彼が気に入って足を運んでいるのはお客が5,6人も入ればいっぱいになる小さな「飯屋」である。暖簾には「たけのこ」と書かれていて主なメニューは焼き魚である。(少し遅くなると満席で断られることが多い。)店は右側がカウンターで左にテーブルが二つほどある。(夕方から飲み屋になる)焼き魚は鮭をはじめその日仕入れた生きのよい食材を亭主が吟味して出すのだが、
丁寧な仕上げと言うこともあって、高級料亭の料理の味がしたものだ。カウンター越しにおかみと軽い会話を楽しみながらゆっくりと味を味わいながら食べる昼食はほかの店で
ばたばたと済ますものでは味わえないものがあった。
「今日は午後からお客さんなんだ。ごめんね。ご馳走様」とお茶をすすりながら腰を上げると「あら、青山さんいつもゆっくりしていくのに珍しいわね」と冷やかされる。
何時もなら爪楊枝をいじりながらのんびりしているのだが、二三日前に知人の娘から電話があり、訪問の約束をしていたことを思い出したのだ。長い友人だったががんを患って亡くなった事は知っていたが、その友人に二人の娘が残されていた。
エレベーターの前まで来ると、葬儀の時に挨拶をした娘が立っていた。上の娘のようだった。詳しくは知らないが、秋田の方へ嫁に行き、姑をはじめ家族5人で暮らしているようだが、古い家風の中で苦労も多いらしい。
「青山さんですよね。その節はありがとうございました。今日は又お忙しいところをありがとうございます。」とあいさつを受ける。
「どうぞゆっくりしていってください。誰もいませんから」二人は事務所でお茶を飲み
暫くは死んだその知人の様子や近況を聞くことになった。
話を聞いているうちに幸せそうな秋田の家の様子が想像されて、青山も秋田へ行ってみたくなっていた。「実は今日の話は妹のことなんです。」突然現実に戻されていた。

   思い付くままに  「オモテナシ余話」

2013-10-14 10:38:15 | Weblog
東京オリンピック開催が2020年に行われることになった事は国民の一人としてとてもうれしいと思う。色々な功罪があることだろうが何よりも日本が「元気になる」こと、そして日本の良さを世界へ発信する機会とすることだと思うからだ。最近日本のTVで世界の各国に移り住んで活躍している日本人を訪ね紹介している番組が人気だが、これも日本人の良いところを世界の人が知るところとなる番組として評価される。オリンピックとなれば尚更であり、世界中が注目するところとなる。
そして幸いにも昨年末の選挙で国政が安定し久しぶりに新しい政策を国全体で歩調を合わせて始まったばかりである。7年後には何らかの形でその成果が出ていることを考えると良いタイミングでの開催とも言えて喜ばしい限りである。そして忘れてはならないのは、この招致のために何年もかけて準備をしてきた大勢の人たちがいることだと思う。
世界への呼びかけにアッピールとして「オモテナシ」と言う言葉が使われたと聞いた。
久しく聞かなかったような気もするが、昔から大事にされてきた言葉である。世界の人がどのように理解できたか分からないが、現在の日本の国情が世界のレベルに比べて比較的に平安に保たれていることは事実であり、これからも益々浸透していくことだろう。
そもそも「オモテナシ」と言う言葉は自分のことを中心に考えるのではなく、相手のことを慮って行うことであり、聖書にある「汝の隣人を愛せよ」にあると考えられるが、人間の原点にしなければならないことだと思う。
誰しも年齢を重ね年を取ると家族はいても老後はさみしいものになってくる。そこで同年代の者が数人集まって食事に行ったり、近くの温泉に行ったりすることも悪くない。
それこそが一つの「オモテナシ」行為であり、ここに共通の信頼感も生まれてくる。
イタリアのある地方の習慣に、どこの家にもテーブルの椅子が必ず人数より一人分余計においてあるそうである。不思議に思って聞いてみると、それは突然やってくる人であったり、(それは知人で会ったり、時には困っている近所の人、又は旅人であることもある。)がその人たちが気楽に席について共に一緒に食事が出来るよう二だと聞いたことがある。強いて言えばそこは目に見えないいつもともにいて下さる神の席だともいえるのである。いずれにしてもオリンピックは7年後である。80に近い自分の年を考えれば
その記念の年をこの目で確認できる自信はないが、そんな事に拘りはない。
そのことを通じてオモテナシガ世界へ発信できるのを願うばかりである。

パンドラ事務所  第三話  その7

2013-10-10 10:38:31 | Weblog
瀬戸内海に近い海岸沿いに訪ねる岡山工場はあった。既に訪問者名簿に名前が書いてあり、すぐ応接室へと通された。こうしてお互いに会ってゆっくり話をするのは何年振りかと考えながら忙しい中を時間を作ってくれた相手のことを思い、余計な昔話をしてはいけないと早速本題に入ることにした。「他でもないのだが先日杉山氏の奥さんが来てくれて
七回忌の話を聞いたのだがその時当時の思い出話になってね。」「彼のことは忘れられません。もうそんなになりますか。あの時は本当に残念な事でしたね。私もあの時のことは良く覚えています。」「そうですか。それであの日のことを少しでも知っている人にその時の状況を出来るだけ詳しく聞きたいと頼まれて、お話を聞きたいと思って伺いました。」と単刀直入に話す。
彼はそれを聞いた瞬間、一瞬顔をこわばらせたかのように少し黙り込んでから話し始めた。「私はあの時間所用で部屋にはいなかったので、何があったのか何も知らなかったのだが」と口ごもる。「あのトイレは社内用のものでトイレには社員だけであり、トイレの
中からの異変に気付いた人がいてもおかしくないと思えるのですが」と突っ込んで聞く。答えはない。「ましてデスクの上はパソコンをはじめ、いろいろなものが置きっぱなしだし部屋の誰かがおかしいと気付いて調べてくれても良かったと思うのですが、そのへんの状況を誰かに聞いたり、話は出来ませんでしたか。」青山はいつの間にか冷静さを失い、少し興奮気味になっていた。同僚であり、生活を共にした一人として他人事には思えなかったのである。「そうだねえ。そう言われれば確かに部屋には誰かがいたはずだし、おかしいと思って探した人がいてもおかしくなかったかもしれないけど、何しろ自分の仕事に追われて人のことに構うほど余裕がないのも事実だったと思うよ」「じゃあ、もし杉山君ではなくプロパーの仲間だったとしても同じようにそのままだったでしょうか。」ついに青山は一線を越えてしまったように言い放った。内山の沈黙は続いた。
そしてその後しばらく他の話をして別れることになった。何となく後味の悪い別れ方になってしまったが、それも仕方のないことだった。
岡山駅のプラットホームで列車を待ちながら、今日一日を振り返りながら自省していた。「じゃあもしお前がその場にいたら杉山君のために正しい行動がとれたという自信があるのか。真剣に彼のことを心配して行動したか」どこからか聞こえてくる裁きの言葉が
青山の胸を打っていたのだ。、

思い付くままに  「台湾有情」

2013-10-07 16:59:36 | Weblog
私が日本を出て海外へ行った最初の国が台湾であった。今から37年も前のことである。
それから仕事上の関係でアジアをはじめ、アメリカ、ヨーロッパとその一部の国ではあるが、行くことが出来た。それぞれの国に思い出と印象深いものがあるが、こうして引退して振り返ってみると一番多く行ったのは台湾になる。もちろん定住したわけでもないし、常駐したわけでもない。すべてが仕事の用務であり、その内容も客先での商談と工場視察が主であり、強いて言えば「故宮博物館」「中正広場」ぐらいであろうか。(数か所のゴルフ場でプレー)そして現在はその台湾に愚息が全く同じように台湾と取引をして、行くようになっている。それは40年前に始めた客との関係で取引が新しく始まったことによるのだが、そこに不思議な歴史と縁を思わざるを得ない。
しかし、この40年で台湾自体はそれほど変わったとは思えない。毎晩のように賑わう
「夜市」も昔と全く同じだし、古い店先のいすに座って店番をしながら何かを食べている光景も変わらない。変わったとすれば当時工事中でいつ行っても完成しない「地下鉄」の一部が完成したこと、「101タワー」が完成してその周辺が再開発されて(昔は全くの何もないところだった。)立派な観光スポットになったこと、新幹線が走っていることだろか。高級レストランの玄関のきらびやかさは昔も今も変わらないが、裏に回るとそのギャップを感じるところも昔の儘である。
そんな台湾でいつ行っても変わらない印象は「対日感情」であろう。それは現代の日本が国際化につれて各国からの来日が増えるごとに日本人自体の意識が少し筒変わりつつあることを考え合わせるとその差を感じざるを得ないところがある。
勿論台湾も昨今は中国大陸からの観光客が多く来るようになって、少しづつ変化をせざるを得ないところもあるようだが、日本語を理解しその信義を大事にする人情の厚さは今も昔も変わっていない気がしている。
台湾も富裕者はアメリカをはじめ海外へ移住している人も多いと聞いているが、そこに住みその国民性を大事にしている人が多いことがわかる。
それほど大きくなく、多民族でないこともまとまりが良いことにつながり良い習慣を保持出来ているのだろうと思う。
私は行くたびにその暖かさに触れることが出来た気がしている。
元気でいるうちにもう一度機会があれば、ホテルの「朝粥」を食べてみたいものと願っている。

 パンドラ事務所  第三話  その6

2013-10-03 09:43:27 | Weblog
結局これと言う話も聞くことが出来なかったことに失望し、これでは報告にもならないと思い何か方法はないかと考えてみた。確かあの時彼の上司であった内山がまだ会社にいるかもしれない。年齢的にも私よりは10年以上若いからひょっとして在籍していたら話が何か聞けるかも祖思ったのである。早速調べてみると現在は岡山の責任者として仕事をしていることが分かった。岡山まで行くことに少しの逡巡があったが、久しぶりに岡山を訪ねるのも一興かと思い直し行くことにした。簡単な日帰り旅行も悪くないと思いつつ、
不図小学校時代のことが頭に浮かんだ。青山は東京で小学校を過ごしていたが、戦災に会い(昭和20年3月10日)父の勤務先であった岡山へ一家で引き上げたのである。
そこで同じ「疎開っ子」と言われながら田舎の学校へ通った一人の女の子のことを思い出していた。「万里子ちゃん」と呼んでいたその女の子は色白で面長だったが奇妙に品がよく、美しい子だった。同じ東京からの疎開っこと言うこともあって言葉を交わすこともあったが中学を卒業してから、忘れるともなく忘れていた。一度中学の同窓会で顔を合わせて記憶もあるが、確か岡山で仕事して住んでいるとその時聞いた気がした。
「もういいおばあちゃんになっているだろうけど、もし会えたら嬉しいなあ」そんな愚にもつかないことを考えて、名簿を開いて電話をすると当人が出てくれた。
事情を話すと岡山駅の改札で待っててくれるという。青山は予想外の期待感で急に元気が出てきた。何となく若返ったような華やいだ気持ちになることが出来たのである。
やがてその日が来た。あいにくのどんよりとした天気で今にも雨が降りそうな天気であったが、気持ちは晴れやかだった。
本当は内山に会い、話を聞くことなのにいつの間にかそれは二の次になっていた。
「のぞみ」は予定通り4時間で岡へ到着。改札には昔の面影を残したままの彼女が迎えてくれた。その瞬間二人の間には昔がよみがえり小学生時代にタイムスリップしていたのだ。特別な話で弾んだわけもない。ただ、お互いの健康のこと身の回りの日常のことをさりげなく話しただけであったが、それで充分であった。
別れてから「玉手箱」を開けた時の気持ちはこんなものだったのかと一人苦笑いをしながら彼女の年相応の白髪が美しく染められ昔ながらの気品のある美しさを確認できたことに満足したのである。「良かった。」ただそれだけである。この時間を大事にしまっておこう。