波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

    思いつくままに   「春近し」

2013-02-26 10:18:54 | Weblog
”2月は逃げる”とも言われるほどに、日数も少なくあっという間に過ぎ去ってしまう
程に短く感じる。そして来週には3月を迎えるのだが、今年は例年になく3月が待ち遠しく思えるのはなぜだろうか。確かに例年になく寒さが強く(年齢のせいか)感じていたこともあり、日ごとの暖かさに縮こまっていた寒さから解放され、庭を見るといつの間にかチューリップ、水仙、今年新しく加わったムスカリ等の球根の芽が元気よく伸びている。それだけではない、政治にも内閣が変わって動きが活発になり、経済、外交両面に積極的な姿勢が見られるようになった。為替、株価共に今までにない変化があり、何となく(何時まで続くか)期待を持たせるような予感を思わせている。
すると不思議なものでこんな片隅に生きている自分にも、何となく勇気のようなものを感じるのだ。しかし、この事は単なるムードや雰囲気で片付けてはならないだろう。
各々が日々の「心の持ち方」の基礎を何処において、何を基準にして生活を組み立てて
いくか、冷静に考えれば何も変わっていない、常に「死」と隣り合わせの不安な中にあっても、何にすべてを委ねて生きていくかを考えなければいけないだろう。
例え自分に不都合な出来事があったとしても(自分中心的な考えの中あると、こんな場合不都合なことは不安に変わる)大きな器の中に自分をおいて、その中でそれを受け止め気持ちを平安に保ち、尚且つそれを生き返らせてその出来事を越えることが出来るようにありたい。そして時間的にも物質的にもそれを豊かなものに変えることが出来るようにしたい。(味わって、見て、食べて、感じてがなければとするのではなく)
私たちのこの世の生活の中では色々なことが起きている。時には「何故なの」と思えるような不思議な出来事もしばしばある。
しかし、それらの事でも「特別な識見と智慧」とが」備わっている大きな力の前では
不思議でも何でもないことであり、そのことが存在すると言えるのである。
自らが生きて動き、生み出していく。そして自分自身を見つめながら新しく生きようと
言う心を持つことは大事だと思う。
今年は今までにない「蠢動」のようなものを感じるし(環境が出来つつあるのか)
その動きに合わせて「春を待つ」姿勢を持ち続けたいと思っている。

 コンドルは飛んだ 第40回

2013-02-22 11:13:45 | Weblog
数日後社長と専務は工場進出を何処にするか、その調査のために東南アジアへ向かった。予め調べてあった資料でタイ、フイリッピン、ベトナムなどは除外してあった。
候補に挙がっていたのは、インドネシア、シンガポール、マレーシアである。
現地にはそれぞれ日系企業が進出していたし、各国ごとに工業団地や誘致の機関もあった。暑い国ばかりで調査は簡単ではなかったが、二人は熱心に歩いた。
10日ほどの調査が終わり、帰国、その整理にかかった。どの国も一長一短あることは分かっていたが、今回の工場建設は人手が余り要らないこと、敷地もそんなに広く必要としないことなどを勘案するとむしろインフラが良く、治安の良いところでリスクがないところが良かった。専務は総合的には経費の安いマレーシアを推薦したが、社長はシンガポールを希望し意見が分かれた。(インドネシアは治安上除外した)
「シンガポールは確かにすべてに便利であるし、条件を満たしていますが、投資経費が高くつきますよ。少し我慢すればマレーシアでも十分大丈夫ではないですか。あそこには当社と取引のあるユーザーも数社ありますし、」
「それは確かにそうだが、日本から行く社員の生活のことも考えなければならないし、
環境のことも考慮しなければならないから」と社長は持論を変えない。
結局は投資金額から判断することになる。つまりどのくらいの資金が調達できるかにかかってくる。「どれくらいかかるか分からないがシンガポールでやるとしてどれくらいの金がかかるか、一度試算してみてくれ、その資料で判断しよう。」と言うことになった。場所も工業団地のほぼ中央に格好の敷地が得られそうである。
それを基に試算作業が始まった。
メインスタッフ10名、作業員40名、日本人スタッフ5名を含めて約10億の資金総額になることが分かった。建設期間約6ヶ月、これで大体の計画が決まった。
そして各部門の責任者が決まり、計画は一気に走り出した。辰夫はすでに常務との約束で資金の内諾は受けていた。「任せておけ。心配要らないから計画をどんどん進めろ」常務の強い後押しの言葉に辰夫は勇気百倍であった。
預かりになっていた辞表も受理した。しかし社内の動きに何の変わりもなく、人の動きもなかった。当人の気持ちは図り知れなかったが、現実には影響はまったくなかったと言える。そして海外計画は順調に進んでいった。

思いつくままに  「バレンタインデー」

2013-02-19 09:48:37 | Weblog
先週、バレンタインデーの日があった。例年恒例になった「チョコデー」とも言える日である。全国の菓子店がこの日とばかりに一斉に力を入れるが、その由来を知るものは殆どいないようである。ちなみにこの日は3世紀ごろ聖バレンタインと言われるキリスト教徒の一人が当時のローマ皇帝が戦いのために若者の婚姻を禁ずる法令を出したのを哀れに思い、密かに結婚の手助けをしたことから始まったとされている。日本では1970年ごろ、ある外人がチョコを恋人にあげたことから始まったと聞いているが、まだ歴史は浅いことになる。
そんな所から始まったこの習慣も時代と共に変化して今年の統計調査によるとチョコを
あげる人のランク一位は「友人」、そして親、その次に彼氏となっているそうである。
つまり誰でも、ある意味義理を感じているか、いつも話し合える人が対象になっているようである。それはそれで良いとして、現代の若者は「男」と「女」の関係、わけても
年頃の男女の関心はどういうものだろうかと考えさせられる。少なくても男女間の交流は時代と共に疎くなり、関心も薄れて共にその人格、人間性を正しく見ることが難しくなっているのではないだろうか。
自分が高校生の頃を思い出すとちょうど異性への関心が芽生え始め、その言動が気になり、容姿に目が行くようになった。そしてさまざまなきっかけを作り、話をすることで自分が男として感じ得なかった反応を知り、新鮮さや好奇心を持ったものである。
そしてそのうちの一人に好意が生まれ、その女性のことが気になっていく。
そこには妥協のない男女間の違いと言うものが歴然とあり、その違いを男として理解しつつそこから新しいなにかを発見し、それを楽しんだものだった。
現代の若者はどんな感覚で男女の違いを自覚しているのだろうか。
余り意識にはないように見えるし、その時その時の刹那的な感情であったり、利害で
付き合っているようにも見える、(全員がそうだとは思わないが)
純粋に男女の尊さとか、違いを正しく弁えてそこから学びあうことを持ち合わせて
くれることを願っている。
今となってはまったく縁のないバレンタインデーとなったが、この日を迎えるたびに「初恋」のような淡い気持ちを持った最初の女性のことを時々思い出す。疎開した田舎でいじめを受けたとき、やさしく話を聞いてくれて慰めてくれた人だったが、
今頃は良い「おばあさん」になっているのだろうが、元気で美しいままでいてほしいと願っている。

 コンドルは飛んだ  第39回

2013-02-16 10:44:06 | Weblog
困ったもんだ。駄々っ子のように自分の主張を変えないこの部長の態度を社長は思いやった。そんなに剥きになって言うほどのことでもないし、それに会社を辞めるとまで言うことはない。大人げのないその行動を考えて「困ったもんだ」と一人ごちていた。
暫くそのまま様子を見ていたが何の動きもなく過ぎていく様子を見て辰夫は仕方なく
腰を上げることにし、専務を呼び、部長と三人で話すことにした。
「君の考えは良く聞いたし、又分からないでもない。しかし会社はこれからも発展して成長しなければならない。その為には冒険とも思われることも時には検討してトライすることも考えなければならないと思っている。確かに君の言うようにリスクは大きいし、無理かもしれない。しかしこれからのことを考えるとチャンスともいえるのだ。
慎重に検討のうえで私は出来ることなら、この計画を実行したいと思っている。それが
会社の皆さんの為にもなると思うからだ。」
「それは逆ですよ。そんな大きな負担を抱えることは会社に大きな借金を背負わせ、それをみんなで払うことになる。それよりも少しでも今の待遇を改善してやることのほうが
みんな喜ぶんじゃあないですか。私は組合からも随分話を聞いていますよ。」
話は平行線のまま進んだ。そして社長は「この辞表は一度返したい。そして君にはもう一度良く考えてもらいたいと思う。長い間会社のために尽くしてもらい、これからも
お願いしたいと思っているんだから。」と翻意を促した。
「私は考えを変える気はありません。組合の幹部からも会社へ良く話してくれと頼まれている。私が会社を辞めれば、ついていきますとまで言われているんです。」と聞く耳を持たない風である。
「分かった。それでは今週いっぱい待ってくれ。私も色々相談したい人もいるし、検討して回答する」として終わった。
部長が部屋を出た後、「専務、これはどうにもならないな。やむを得ないが辞めてもらうことにしよう。来週になったら、受理して手続きを進めてくれ」きっぱりを言うと
毅然と背筋を伸ばしていた。
「所で現地調査の予定を具体的に進めたいのだが、検討資料は出来たかね。」
「ええ、一応候補地と内容、その日程などできる範囲で作成しました。読んでいただいて希望がありましたら、言ってください。」少し分厚いレポート用紙を出してきた。
「本社のほうでも賛成でね。楽しみだと言ってくれてね。それに東京の営業所長も相変わらず強気で詳しい話を聞いてきたよ。」

     思いつくままに

2013-02-12 12:50:42 | Weblog
最近の新聞によるとスポーツ界で、たたく、蹴る等の「暴力」?に対して指導的立場を利用した言葉の暴力とも言える「パワーハラスメント」をどう考えるかと言うことで改めて検討されていて、その中で「言葉尻を捉えて選手からパワハラと言われたら指導なんて出来ないという人もいるとあった。私はこの記事を読みながら改めて「言葉」ということ、「心の伝え方」についてつくづくと考えさせられた。
確かに自分の意思を正しく相手に伝えることについて事あるごとに気になることが多くその度に「本当に自分の意思を理解してもらえたか?」と思うことはしばしばある。
勿論、その中には自分が冷静な状態ではなく感情的に熱くなっている時などは到底相手の立場など考える余裕もなく自分の思いだけをぶつけてしまっていることは言うまでもない。そうなれば当然ながら相手も自分の立場を守るために反発を招いて目的には達せず何の意味もない時間になっているのである。
昔読んだ本に松本清張の「霧の旗」と言うのがあった。(読んでいる方もあるでしょう。)兄の冤罪を晴らそうとその妹がある著名な弁護士のところを尋ねて依頼をしたが多忙と費用の負担が無理だろうとの理由で断られてしまった。兄はそのまま死刑となり
獄死、そして数年過ぎてその弁護士の愛人がある殺人事件の容疑者となる。そしてその容疑を晴らすためにその弁護士はその現場にいた妹にその証言と証拠品の提出を依頼した。
妹は否定を繰り返し、弁護士は過去の許しを乞い頭を下げた。妹はその誠意に打たれ、弁護士の申し出を受け入れ?同意して身体まで許すのだが、その数日後警察へ出頭するとそこには弁護士に対するその妹からの「脅迫と暴行」の告訴状が出されていた。
この物語でも分かるように如何に「心の伝える」ことの難しさ、否、むしろ不可能とさえ思わされるものがある。他人はどんな言葉であっても正しく理解すると言うよりも
自分に都合の良い理解とする傾向があり、自分に不都合なことは理解していないことが多い。すべてがそうだとは思わないが「人間の性」、「原罪」とも言える現実をしっかり踏まえて「心を伝える」ことに注意を払うことを忘れてはならないし、「心を使う」ことも大事なことであろうと思う。
「沈黙は金」「雄弁は銀」と言うことで済まされないのだから。

 コンドルは飛んだ  第38回

2013-02-08 10:46:22 | Weblog
辰夫は東京営業所に廻り、所長と二人きりの時間をすごした。話を聞きながらその内容を吟味しながら自分なりの判断をしていた。それは彼の言葉をそのまま鵜呑みするのではなく、時に納得し、時に疑問視し、時に否定することもあった。長い時間だった。
いつ終わるともなく話は続いたが、外はいつの間にか暗くなっていた。
「そろそろ終わろうか。」と言う辰夫の言葉に所長の大村もほっとしたようだった。
「そうすると、結論は月間販売量として2千トンは見込めると言うことだな。」と
念を押す。「先のことは分かりませんが、それ位は見込めると言うことです。」
辰夫もこの時話を聞きながら、どこまでこの大村を信頼するかと言うことを考えていた。営業と言う立場にある者として、どうしても実績よりも大きな数字を考えがちなことは分かるが、基本的にはこの男をどこまで信用し、どこまでついていくかにかかっているような気がしていた。
それは海外進出をする先行投資の金額の責任を最終的に負わなければならない自分の
立場とそのとり方でもあった。資金は常務に任せておけば、いざという時に力になってくれることは分かった。しかし、販売量と生産量については担当者がいるとしても最終的には自分である。この決断は難しかった。
当人にも分かっていないことでもある。だからこの人間をどこまで信用してついていくかにかかっている。
帰宅して久子の手料理を食べながら声をかける。「いよいよ海外へ出ることが決まりそうなんだ。」「あら、だってあなた自分でもやりたかったんじゃないの。良かったじゃない。」「そうなんだけど、今の小さな会社で金を本社から引き出して出ることは
駄目だったときにはその責任も大きいからな。」
「その時はその時でしょ。」「まあね」辰夫の性格を知る久子はそんな辰夫の様子を
喜んでいるようであった。
会社の業容報告や雑用を片付けると辰夫は岡山へ帰った。出社すると、すぐ専務が
部屋へ入ってきた。「社長、ちょっといいですか。」と言いながら一通の封書を机の上においた。「辞表です。一応私からも撤回するよう言いましたが、とにかく社長に渡してくれと言うもんですから」
「分かった。後で部長を呼んでくれ、三人で話をしよう。」
やっぱりきたか、予期しないわけではなかったが、できれば穏便に進めたいと思っていたのだが、出たものはしょうがない。一度慰留をして様子を見よう。どうせ言い出したら後には引けないだろうがと思いながら、いつもの仕事に取り掛かっていた。

     思いつくままに

2013-02-05 10:13:07 | Weblog
先週の土曜日の朝、電話の音で目を覚まされた。弟が急死したとの知らせだった。
その一週間前に電話で話し、入院しているが、来週には帰宅できると聞いていた矢先だったので信じられない思いだったが、冷静に考えれば発病以来三年半入退院を繰り返し
体力を消耗しながらの療養だったので、体調がいつ急変しても仕方がなかったのかもしれない。むしろ余り苦しまないであっという間の死は当人にとっては良かったのかとも思えた。その証拠に駆けつけて会ったその顔は本当に安らかで、少し口をあけた表情も
心なしか微笑んでいるかに見えて思わず「そろそろ起きないか」と声をかけたいほどであり、冷たい頬に手を当てて見るほどであった。
四歳と年の差もなく小さいときから一緒に育ち、同じような道をたどりながら二人で人生を歩いてきた。「双子かい」と言われるほどに似ていた時期もあり、お互いにカラオケで競って歌うときは、夢中になったほどである。
しかし彼の歩いた道は私とは同じようで違っていた。兄弟で立ち上げた事業の中で
長兄(二人には10歳、14歳離れた兄がいた。)その長兄に逆らって途中から二人は
離れ、又別の会社で共に働いていた。しかしそこでも弟は社長と衝突、退社して
独立して自分の道を作った。(私はその会社で定年を迎えた。)
それから二人はおのおのの道を歩いたのだが、時折会うときは何のこだわりもなくすぐ昔に戻ることが出来た。
今、こうして弟の死を迎えて改めて振り返ると映画「エデンの東」の主人公のアロンとキャルの兄弟のことが思い出される。これは聖書の「カインとアベル」の物語をアレンジしたものだが、親に従い忠実に歩いた兄と親を同じように愛しながらその愛を伝えられなかった弟、そして弟は自分なりの行動で人生を歩み、最後に父の死の前に本当の親の愛を受けることが出来て涙する物語だった気がする。
弟もそんなキャルの辿った道を歩いたようなところもあり、先日の山田監督の映画
「おとうと」の主人公も似たような場面があった。
いずれにしても兄からすれば、弟の行動は時にうらやましく、時にその奔放さに眉を潜ませながら見ていたものだった。発病以来電話から聞こえてくるたどたどしい声は
「元気でがんばろうな」の一声であったが、その声ももう聞くことが出来ない。

 コンドルは飛んだ  第37回

2013-02-01 11:07:00 | Weblog
数日後社長は出社すると、朝礼のあとすぐ専務を社長室に呼んだ。田舎の狭い事務所だが、何とか社長室と専務室は個室として備えられていた。
モーニングコーヒーをおいしそうに飲みながら社長は専務を迎えた。
「近日中に上京してこようと思っている。本社常務にあって、今回の計画を一応私の個人的な希望として説明しようと思っている。問題は資金でいよいよとなった時に常務の権限で何とかバックアップして貰うことをお願いしておこうと思っている。最低でも10億くらいは概算見ておかなければならないからなあ。それと東京営業所へ廻り、所長とじっくり営業の見解を確認しようと思っている。もちろん数字だけではなく裏付けとなる市場が見込めるのか、どうかその辺がポイントになるがね。」とそこまで一気に話した。
専務は「そうですか。社長はこの計画を進めるつもりですね。分かりました。」
社長はその相槌を聞いてから続けた。「問題はこの間の会議で分かったように社内に
反対意見がまだ多いということだ。勿論トップダウンで決めてしまえばやれないことはないが、できれば社内統一意見として進めたいと思っている。その辺の根回しと調査も頼んでおきたい。それと出来れば工場建設地の現地調査をしたいと思っている。
行くすれば東南アジア(アセアン)地区となると思うが、具体的にどこの国を回るか
その検討をしっかりしておいてほしい。常務の同意が確認できれば、二人ですぐ出かけたいと思っている」成るほど社長はもう腹を決めている。専務はそこまで考えていなかったが、改めて社長を見直した思いで聞いていた。
「分かりました。この間の財務部長の意見はあれ以上になるとは思えないし、それに追従するものもそんなにいるとは思えませんが注意して行動を見ておきます。
現地調査は現段階では台湾、タイ、フイリッピンは除かなければならないでしょうけど、その他のインドネシア、シンガポール、マレーシアは候補に上がりますね。いずれにしてもお帰りまでにインフラを含めて詳しく調査書を作成しておきます。」
専務も乗り気だった。辰夫は久々に水を得た魚のように元気を取り戻していた。
元来不可能なことを可能にする挑戦意欲の強いところへ火がついたような感じである。
社長が上京して社内が少しいつもより静かになっていたある日、財務部長がひょっこり
専務室へ入ってきた。
「専務、社長がお帰りなったら、これをお渡しください。」と言って一通の封書を机に置いた。そこには「辞表」と書かれていた。