波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

     白百合を愛した男    第55回

2010-12-31 09:34:50 | Weblog
会社というものは、生き物であり生き物である以上色々な器官、組織で成り立っているものだ。だからそれぞれの器官が優れていなくてはならないだろうし、其処にはエキスパートが備わっていることが必要であろう。従って最高学府で学識を身につけた人間もいるし、その知見知能から生まれるものも大いにある。それはそれで生かされて大切であろう。そんな組織の中で営業部門は異色な存在かもしれない。何故なら確かに学識も常識も必要ではあるが、日常の業務でそれを生かす場面は少ない。それらを包含した形で、それらを生かす場面が主である。言ってみればそのよって来る「人間性」であろうか。
とすれば、場合によっては知識、知能が充分発揮されるところとはならないかもしれない。むしろ人間関係が円満に潤滑に行えることが優先するところとなる気がする。
そのためにはむしろその知識、知見を閉まっておいて奥ゆかしく、謙虚にすることが大事となるのではないだろうか。
「ところで、君も一人前に学校は卒業しているんだろうけど、何か得意として出来ることか、何か言えることがあるかね。」先輩はいやらしく、突っ込んでくる。
「趣味でも、若いときに好きだったこと、人より優れていたこと何でも良いよ。なにかあるだろう。」改まって、聞かれて冷静に考えてみる。好きなものはあるけど、人より優れているとは思えないし、これは自信がありますなどとても言えるものは無い。
熱中してやったものもないし、自分では気が付いていないのかもしれない。
「営業は物を売る前に、相手の人間を理解するところから始まるんだ。初めて合う人をどう理解し、どのようにお付き合いをするか、出来るか。それを考えるところから始まるんだが、これが難しい事なんだ。なかなか自分を開いて見せる人はいないし、むしろ自分を守っていて、中を見せない人が多いんだ。当たり前だけどね。」
そう言われると確かにそうかもしれない。相手もこちらを警戒して見ているだろうし、
余計なことは言わないで、相手の出方を見ているだろうから、当然かもしれない。
「言ってみれば、営業の主なる仕事は学校では教えてくれないし、学習できない分野だったと思う。紙に書かれたものを読んだとしても、それはあくまでも机上の論理であって
それがそのまま生かされることはありえないだろう。」
いちいち尤もな話である。何気なく、営業の仕事をしてきたけど、基本から考えると、この仕事は人間学を基にした一番難しい分野かもしれない。

     思いつくままに

2010-12-29 09:55:00 | Weblog
2010年も間もなく終わる。もう二度と帰らない年月が過ぎていくのである。年をとった所為もあり、この感慨は一入である。なんでもない日々が一際「いとおしく」思える所以でもある。そういえば「愛しき日々」と言う歌があったことを思い出すが、この時になって一日、一日が大切に思えるのだ。
今年の言葉を字で表す行事があり、今年は「暑」とあったのだが、私は敢えて、「衰」と書いてみたい。ここ20年の間に日本は世界的にも、徐々に徐々に衰退していたのである。それは目に見ないほどにで、あまり誰にも気付かれないままであった。その大きな現象が「高齢化」であろう。このことで日本はエネルギーを減少し、すべてに力を失っていった。そのことは政治を始め、全産業、全業種へ影響を与えてきた気がしている。
そしてその減少する力を、新しい力で補い、カバーしていく若い力の成長がその衰えをカバーできないままに推移して来た。豊かな環境の中で育ち、豊富な物量の中では何も
意欲が湧いてこないのも道理かもしれない。その状境の中で育った若者には、「ハングリー」とは無縁の世界なのか。其処には怠惰、自己満足の延長でしかないものであったかもしれない。そんな流れを見ていると、今年も様々な問題がおき、そのたびに不平、不満はストレスと共に増大した年であった様な気がする。
それはいろいろな面で見ることが出来たのだが、特に関心のあったスポーツの世界で言えば、外国選手の活躍にそれを見る。ゴルフでは男子も女子も韓国の選手に賞金王を譲ることになり、いよいよ日本も世界的なレベルへの努力を必要とされるようになったのかと思うと同時に、更なるレベルアップをしなければ、今後も苦しいと思う。
そんな中で、自分自身をささやかながら振り返る時、やはり反省の念は大きい。
ともすれば、精神的にも、肉体的にも疲れ果て、意欲がなくなりそうになるのだが、そんな自分を生きることへのエネルギーを燃やす努力をしてきたつもりである。
年末になって、新年の挨拶を失礼しますとの訃報の連絡を今年も数枚受け取ることになったが、已む無いこととはいえ、一抹の寂しさと共に人生の時間を過ごしてきた思い出が
蘇り、淋しい思いにされたことである。何時か自分もその世界へと向かうのだが、
生かされている限り、その意義をしっかりとおぼえて、大切に時間を過ごして生きたいと思っている。年が改まっても何も変わることはない。もし変わるとすればそれは自分の心を変えることである。それがない限り何も変わらないことを銘記したい。

     白百合を愛した男   第54回

2010-12-27 10:51:54 | Weblog
会社が営利を追求する企業体であるかぎり、その手段として営業活動として物を売ることは免れない。そしてそのために必要な営業活動は不可欠である。ただその営業形態はその業種によって様々であり、そのスタイルも様々になる。そこにその結果としての成績も
異なってくるが、競争社会であり優劣による差も出てくる。美継の会社も東京に直轄の営業所を作り、会社は全力を上げて協力した。そもそも営業は車で言えばエンジン部門とも言える。だからエンジンの馬力がおとろえると、それはそのまま会社のパワーに準ずることになる。従って営業所の経費として上がってくる申告には苦情をはさむことなく承認されていた。その基準と判断とは非常に微妙な所があり、その線引きは難しい所があったのだが、担当者の心の強弱によるところが大きかった。
東京営業所では親会社の管理に関して、指示のある経費は無条件であったし、その他にも
取引先との人間関係を強化するために使用されることが多かった。しかしこの費用対効果
のあり方は必ずしも的を得ることはなく、結果的には無意味であることの方が大きかったのだが、流れとしてそれをとめることは出来なかった。
「M君、君は営業の仕事をどのように考えてやっている。」ある日、親会社の大先輩の管理部長から質問を受けた。唐突な質問に戸惑い、すぐの返事に窮していると「勿論、額面どおりの仕事はあるし、そのことは心得ていることだろうが、つまり教科書外の面で必要なことがあるんだよ。」と言う。漠然とした問いに「何だろう」と戸惑っていると、
「所詮は営業と入っても、会社対会社の関係であり、人間対人間の関係であることには変わりは無いわけで機械で操作されて動くものではないと言うことさ。このことはどんなに
技術が発達し、世の中が変わっていったとしてもかわらないし、昔からやっていることは同じだ。勿論その決断の要素は価格、品質、数量と言う要素で構成されているのだが、
その優劣を含めた条件の決定をするのは機械ではなく、人間だ。ここの所が肝心なのだ。その人間関係を左右するのは、色々あるが、対顧客との間における「信頼」関係を
何処まで作り上げてその懐に入れるか。もっと具体的に言うなら、「俺はあいつの言う事を100%信用しよう」と言わせることが出来るかどうか。其処に尽きることになるのだ。」何時しかその先輩の言葉に引き込まれて聞き入っていた。其処までは考えていなかった。ただ漠然とこんなものかと思っていたのだが、

      白百合を愛した男    第53回   

2010-12-24 09:37:47 | Weblog
当時、マージャンはサラリーマンの娯楽として全盛であった。何処の町にもマージャン店はあり、盛況を極め予約制でありそれほど大きな店は無いために満室になると手軽に出来ないのだった。お偉いさんは好みがうるさく店の指定から、集合時間、メンバーの指名
そしてその日のお土産から車の手配、各賞の品物そろえ等、準備が大変だった。
それらの雑用は各関係会社が指示を受けて、手配をする。彼の会社もその指定を受けていた。メンバーも限定されていて、誰でもが出来るわけではない。
ゲームが始まると主賓のご機嫌を伺いながら、顔色を伺う。自分の手の内が良くても、すぐには上がることをしない。そして結果的には出来るだけ負けを少なく、勿論勝ちも少なく終わることを願うのである。この呼吸を覚えるのに時間がかかった。勝ちを急いで、喜んでいると、すかさず「お前、そんなに勝ちたいのか」と声がかかる。当に冷水を浴びされる思いであり、その言葉は何時までも残っていた。
数時間のゲームの時間はある意味、針のむしろであり、我慢の時間でもあった。ただひたすら時間の過ぎるのを待ち、何とか無難に終わることを願っていたのである。
車のお迎えが来てお見送りが済むとほっとして、「今日も終わった」の思いが強かった。
勿論、そのことを咎めることも無い。美味しい食事とお土産は当然付録として付いている。その事がどれほどの意味があるのか。深夜のタクシーで帰る道は遠かった。
親会社と関係会社との関係は公的な時間、私的な時間を問わず拘束があったのである。
その中には自宅へ帰り、朝の配達で来ていた牛乳を飲み、着替えだけしてすぐ、会社へ出勤していたというつわものもいたが、そんなことが出来たのも若さの特権であった。
一つの部署で交際費と称する費用が、百万円以上使用されていたというのだから、現在では到底考えられない時代であり、その使われ方もかなりずさんであったと思われる。
D社との関係を持つまでは到底考えられないことであり、勿論そんな経費が社内で許されることではなかった。しかし、その費用目的がどのように処理されたかは不明のままに
使われていたのである。
ごく一部の限られた人たちでの遊びであったが、その功罪は大きいものがあった。
それは会社の取引関係にも及び、マージャンのお付き合いで人間関係は構成される傾向もあった。お客さんの資材からお呼びがかかると、これで商売は安泰だとする傾向は強かったのである。

      思いつくままに     

2010-12-22 10:29:49 | Weblog
この時期は一年に一度のクリスマスに関わる予定や行事で人々は動くことになる。
あえて言えばお正月の行事よりも賑やかで、目立つことになっているかもしれない。
サンタクロースであり、プレゼントであり、デコレーション(電飾)などである。
私はこの時期になると必ず一つの物語を思いだす。それはトルストイの書いた
「靴屋のマルチン」の話だ。マルチンは毎日道より低い店の窓から道行く人の靴を見て
仕事をしていた。靴を見るだけでその靴をはいている人のことが良く分るようになっていた。愛していた息子が死んで希望を失っていたとき、聖書を勧められ読むようになった。
そこにはまだ見ぬ神のことが書いてあり、何時か神に会いたいと思うようになっていた。すると「明日私があなたのところへ行くから」という声を聞いた。
その日の朝、店の前の雪かきをしてくれた友人にお茶を出し、通りかかった赤ちゃんを抱いた女の人にシチューとパンとマントをあげた。そしてりんごを盗まれたおばあさんの代金を出してあげた。そして一日が終わったが、待ち望んでいた神は来ませんでした。
すると、その夜「あなたがしたその一つ、一つのことが私だ」という声を聞いた
人はどんな環境におかれても、どんなに豊かなものに恵まれていてもそれで満足することは出来ない。何時も不安と心配の中にある。それは生きている限り続く。
幸せの「青い鳥」を追い求めた人、また「山のあなたのそら遠く幸い住むと人の言う」と
詠った詩人もいる。しかし、どこまで行っても幸いを掴むことは出来ないことを知る。
マルチンも毎日の生活の中に神の存在を知ることが出来た。そこにこそ平安のあることが分ったのである。
目の前の現実にとらわれすぎてしまうと、あまりにも理想とのギャップに自分を見失うことの多いこの頃である。ともすれば人間関係の中で「争い」とか、「敵意」とかを感じやすい時に自分に与えられている賜物をもう一度見直して、それをどのように生かすかを
考えてみるのも良い時期ではないだろうか。
子供の頃、たんすに靴下を下げて、一晩中、眠らないぞとサンタの来るのを無邪気に待ったことを思い出しながら、今は今日まで生かされてきた恵みを感謝しながらクリスマスを
迎えている。

白百合を愛した男    第52回

2010-12-20 11:47:38 | Weblog
美継が大正時代の終わりに東京での営業を始めてから60年が過ぎようとしていた。
東京もオリンピックを境に大きな変化を遂げ、すっかり大都市の様相である。高速道路が縦横に走り、自動車の数は圧倒的に増えている。会社の主要製品であった弁柄は研磨用
の用途を終え、錆び止め用としての需要で継続しているが、その数量は横ばいで伸びる気配が無い。主な船舶用の市場が海外の競争の中で変化をしていることと、鉄骨用の下塗りの用途が止まっていることが大きかった。しかし、その中にあって磁材用のフエライトの
市場が新たに始まり、この市場が昭和40年ごろから始まり、50年を過ぎる頃から急に増え始めたのである。音響用のモーターに使われたのが始まりで玩具用モーター、家電用
(洗濯機、エアコン他)そして、自動車用とその範囲が広がってきたためであった。
東京の営業所はその為にスタッフを少しづつ増やしていた。弁柄(顔料)、そして磁材(フエライト)のユーザー管理は勿論であったが、その上にD社の本社(東京)との関連業務が重なり、当に多忙を極めつつあった。
その中でも磁材の営業活動は熾烈を極めた。新しいメーカーも参入し、その顧客の取り合いは水面下でかなり激しいやり取りが行われていた。各社はユーザーの資材との人間関係を中心に何とか売込みを図ろうとする。そのためにはその資材担当の印象を良くし、取り入らなければならない。そこには単に表向きの営業だけではなく、金銭を交えた接待活動もあり、値下げ競争もありで泥沼的内容に近づきつつあった。
営業担当同士の鞘当もあり、「あそこの客は当社でやっているのだから、下りろ」との
恐喝まがいのやり取りもあったのである。市場全体のパイが大きく成長する中でその
住み分けも出来てきて、少しづつ鎮静化に向かった。各工場は全国に広がり、北は秋田から南は九州までの各工場を巡りながら、磁材の仕事は順調であった。
D社の本社からの要請は主に時間外の用務が多かった。公的な資料であり、報告は岡山の本社から送られ、それぞれに質疑応答があり、それは上へと上がっていく形で出先は感知しないことで済んでいたが、定時外の時間の穴埋めは関連会社としての範疇であった。
(このことについては事業部ごとに違いがあったと思われるが、)
「M君、今晩6時に某店に集合してくれ」それは週二回から三回のマージャンのメンバーとしての呼び出しであった。

白百合を愛した男    第51回

2010-12-17 09:51:34 | Weblog
現役を退き家庭での美継は毎日を息子の家族と共に暮らす日々であった。妻に先立たれ
一人であったが、可愛い二人の孫がそばにいることは、何によらず慰めになった。
朝は書斎で聖書にむかい、祈りを捧げる。これは一日とて欠かすことは無い。その祈りは
自ら生かされている感謝ととりなしの祈りであり、悔い改めへと続いた。
午後は近所の散歩と軽い昼寝、そして夕方になると再び机にむかう。幼い頃習い覚えた筆の運びは衰えず、聖書の写しである。写経と同じでそのことで心に平安を覚え、毎日が
喜びとなっていた。若い頃から趣味も無く、遊びというほどの遊びも無かった。
営業での接待では酒が苦手とあって、何時も若手の飲み手を伴い、その場を繕っていた。
二次会となると、体調の悪いことを口実に部屋に一人帰り、その場を避けていた。
しかし、それで不満があるわけではなく、何時も明るく人と接し、スポーツ番組を愛していた。一番心配していた福島の事業も息子に委ね、会社の営業の重点を東京の息子に託すことが出来たのも、特に自分で画策したのではなく、自然に周りから導かれて決まったことであった。
週に一度の出社日は迎えの車で出かける。昔からの事務所の人たちに迎えられ、お茶を飲み、社内を廻るのは大きな楽しみであった。人生のすべてを注いだといっても過言ではない。作業着に着替えて工場視察をする。若いときに共に働いていた従業員との出会いはことのほか嬉しく声をかける。「御身体、大丈夫ですか。無理をしないように」
「相談役も何時までもお元気で」交わす言葉には二人にしか分らない思いが込められていた。午後からは少し離れた新工場へ案内される。ここで働いている人たちは殆ど知らない若者であり、仕事の内容も分らなかった。しかし、時代に並行して必要とされる資材が
(原料)ここで作られて販売されていると聞かされると、会社の成長をしっかりと感じることが出来た。業容の大要を専務から説明を受ける。
嘗ての弁柄だけのときと違って、フエライト事業が始まってその商いは倍増している。
社長は来客との時間にとられて忙しそうだ。
早々に帰宅する。帰りの車では本当に充実した満足感に浸ることが出来た。
このまま順調に成長してくれれば良いが、そう祈るばかりであった。
帰途、花屋で「ゆりの花」を買い求め、その足で墓へ行く。妻への報告である。

思いつくままに

2010-12-15 10:16:42 | Weblog
もう大分昔になるが、家の前に小さな溝があった。朝起きてみると其処に空の財布が投げ捨てられている。拾ってみると現金は無いが、定期とか名刺とかが有り、交番へ届けたことがある。どうやらひったくりか、すりが取ったもののようで、ここに捨てると縁起が良い(捕まらない?)との縁起かつぎだったらしい。
道でお金を拾う経験も誰もが一回ぐらいしているかもしれない。そんな時、人間はどんな行動を取るのだろうか。人によって様々であろうが、必ずしも交番へ届けるとは限らないかもしれない。場合によってはその場を見回しそのまま持ち去ることもあっても不思議ではない。何を言いたいのかというと、人間は周りに人がいるときと、いないときでは行動が変わるということである。それは小さいことでも大きいことでも同じである。
数年前には「米」「うなぎ」「白い恋人」「赤福」と色々な業種で偽装表示、虚偽申告の
事件があったことを思い出す。それぞれに事情があり、問題があるのだろうが、その根底に人間にはその人間関係において都合のよいように偽る習性があり、自然にそれが現れてくるのかもしれない。例えば女性の化粧はどうだろう。男性から見て女性の年齢を一目であてることができる人はいないだろう。それほどにそのメイクは高度であり、精密である。勿論男性の中にも中身がない小父さんが偉ぶっていたり、本当は好色な男性が生真面目を気取ったり、弱いくせに強がって見せる男性もいないわけではない。
そうして考えると基本的には偽装工作をしてきているのは私達人間なのかもしれない。そして其処から生まれる人前での行動と、そうでないときの行動も変わってくる
そのことについて聖書では「よきサマリヤ人」の話として、ある旅人が強盗に会って
怪我をした。其処を通りかかった二人の人は誰もいないことを確かめて何もしないで見てみぬ振りをして通り過ぎてしまった。しかし最も軽蔑されていたサマリヤ人はその人を介抱して助けた。とある。自分のことを誰も知らないから、誰も見ていないからといって、
行動することが如何に自分を偽善に走らせ、自分を偽っているかを考えることが大事ではないかと思わされる。
今更人前を飾る年齢でもなくなったと開き直ることも無いが、自然体で自分の本当の姿が現われるように、そしてそれが人前で恥ずかしくない形で表すことが出来ればよいなと思うこの頃である。

白百合を愛した男   第50回

2010-12-13 10:11:22 | Weblog
総会は例年6月の末になる。会場は株主の足を考慮して(田舎への交通が不便であることを考慮)市内の会場をレンタルしていた。背は160cm足らずであるが、痩身に身をつつみ、精悍なまなざしはその場の空気を引き締めるものがあった。居並ぶ株主役員(怪我で入院していた専務も復帰)そして僅かではあるが、地元の協力会社の社長、そして個人株主が出席していた。型どおりの議事が終了し、ここで新社長の挨拶となる。
「岡本です。私は本社の意向を受けてこちらの会社の経営に携わることになりました。」
静かな口調ではあるが、その言葉の端はしに、仕事に対する情熱と信念とがあらわれていた。美継はその挨拶を他の誰よりも心に刻み、聞くことが出来た。それは自分がこの会社を愛し情熱を傾けてきた、その思いに通じるものがあったからだ。
大会社のサラリーマン社長として、つまり雇われ社長のような人物が多い例を見てきただけに、そんな人物ではたまらないと心配していたのだ。
「この人物は違う。」それが第一印象であった。そして今後を託するにふさわしい人として安堵することが出来た。総会後の懇親の場での挨拶でお互い名乗りあった時には、
懐かしい東京での話が話題であった。
会社は新しい船長を迎えて船出をした。7時の始業の前に出社、工場点検に始まり執務に入る。おのずと社内にはぴりぴりとした緊張感が漂っていた。それは言葉ではなく、その人から溢れ出るオーラのようなものであり、それは狭い室内にゆきわたっていた。
昼休みになると事務所の片隅にある畑に出る。見ると長靴に、麦藁帽子手袋、それはそのままお百姓さんに早代わりである。そしてその動作、手順当に本物の百姓さんでも出来ない緻密なものであった。季節、季節のなりものを作っては事務所の女性を驚かせる。昼のお弁当に新鮮なトマト、なす、きゅうりが出てくることもしばしばであった。
初めての来客がそんな姿を知らずに、会社を訪ね「社長さんは今日いらっしゃいますか」
と聞く。「私が社長ですが、」と麦藁帽子の下から答えると、思わず見直しながら
目を白黒させることもしばしばであった。仕事が終わると唯一の娯楽はマージャンだった。田舎で全く娯楽の無いところである。酒をそんなに飲むことも無い人だけに、この環境でのマージャンは欠かせなかった。週末になるとメンバーに声をかけて娯楽室にて
このゲームを楽しんでいた。こんな人柄だけに地元の人たちも何時しか打ち解けて、其処には信頼関係が生まれつつあった。

      白百合を愛した男   第49回   

2010-12-10 10:26:08 | Weblog
当時羽田から南米ボリビアへの空路はフロリダ経由で約30時間を要した。当に地球の裏側への旅である。岡本は語学にも通じていたので、旅そのものには不自由せず、往復することは出来たが、日本への帰国は年に一回程度しか出来なかった。そのために家に帰ることも儘ならず、帰宅してもその滞在は短かった。最初に娘が授かり、出発前には長男の息子も産まれて間もなかった。別れるには忍びないものがあったが、仕事に専念するしかなかった。帰国して我が家でくつろいでいると、その最愛の息子がよりつかず、母親に向かって「この小父ちゃん、何時までいるの。何時帰るの」と言っているのを聞き、さすがに
隠れて涙するしかなかったと述懐している。ボリビアでの閉鎖業務はすべてを終了するために十年以上の時間を要した。しかし、彼はその目的を辛抱強く、時間をかけ、生命を賭けてやり遂げたのである。現地ではその功績をたたえて「チコナポレオン」の愛称で呼ばれていた。岡本は東京は谷中の生まれでちゃきちゃきの江戸っ子である。
この時代には珍しい気風の良さ、その度胸、歯切れの良さは他の追随を許さぬものがあった。心に秘めた熱いものは、この平和な時代にあって珍しく、又貴重な存在であった。世俗に混じらず、出世を目途とせず、正義を貫く姿勢は端からも見て取れるものがあった。
「暫く辛抱して、あの会社の面倒を見てもらったら、本社へ帰ってもらってゆっくり余生を楽しんでもらいたいと思っているよ」上司の言葉にさすがの岡本も、ほろっとするものを覚えていた。やはり自分もサラリーマンであり、最後は錦を飾りたいと思う気持ちが無いわけではなかった。「ありがたいお言葉です。どれだけの事が出来るか分りませんが行ってきます。」本来なら、嘗ての功績を評価され本社役員に推挙されるかと、期待しないわけではなかったが、これが最後の奉公かとあきらめざるを得なかった。所詮自宅での生活は出来ない運命かとも、その皮肉さを憂いながら子供達も成長し、(息子との関係は断絶が続いていたが)落ち着いていた。
岡山ではもっぱら噂が流れ、どんな社長が来るのか、その人事と経営はどうなるのか、その処遇はと落ち着かない毎日であった。相談役美継は、その推移を冷静な目で見ていた。
彼の目はこの会社の行く末だけが、大事であった。新しい幕開けにどんな主役の登場になるのか。「城は人なり」は生きていたのだ。