波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「新しい道」⑨

2020-06-29 15:28:02 | Weblog
当時はカラオケが全盛を迎える時期とあったが、まだ設備が整わずカラオケ店で遊ぶというわけにはいかなかった。今では見られない「「流し」といわれる商売があって飲み屋街を一軒ごとに回りながらギターを肩にした芸人が回ってきたのだ。上手でも下手でも歌う客に会わせて楽しませてくれるので、気分良くなり酒を飲まなくても楽しませてもらえたのだ。今から思うとしらふでよくそんな遊びがいつまでもできたと反省しかないのだが、その当時、自分もそんなことが許されるものという(親会社の人たちの真似事)気持ちになって自分が悪いことをしているという意識が消えていた。すべては仕事につながっていて、これらはお客のためであり、会社のためであるという誠に勝手な自己都合の錯覚のままに時間と大切な経費を無駄遣いしていたんのだ。
朝になると反省の時間もなく、決められた仕事の予定を処理するために、あちこちと飛び回り、新しいユーザーを増やしその会社の人間関係を増やすことだけを夢中になって作っていた。確かにその影響はあった。仕事はできて注文は増え仕事は繁盛した。それをよいことに家庭を顧みることはなかった。自分が何をしているのか、冷静に見ることはしていなかったのである。そして先輩に連れて行かれるままに今まで経験したことのない世界へ足を踏み入れることになっていたのである。そこは「夜の銀座」の世界である。

「ウラジオストックの空に夢を」⑥

2020-06-27 12:23:06 | Weblog
第一次世界大戦はロシアではなくヨーロッパの内戦として起こり、ヨーロッパの各国がその戦力を示して国を拡大しようとして起こった戦いである。ソ連はある意味そのあおりを受けた形であったが。その影響は大きく東の果てまで影響していたようである。町中がドンパチの危険にさらされ海外からの移住者は急いで帰国するように言われた。義男は身の危険を感じてやむを得ず変えることを決意した。できればこのまま残って仕事を続けたかったのだが、さすがに毎日逃げ回る日々ではやむを得ないことでもあった。しかしこのまま東京へ帰るとしても仕事があるとも思えず、まして宇ラジオへは簡単に帰れなくなる。」会社は貿易だけにこの戦争の影響で続かなくなりそうなので義男は会社を辞めた。そして日本へ帰国すると港の近くへ住むことにした。幸い「敦賀」に空き家があることを知り、その一軒を借り受け住むことにした。ここなら戦争がやみ次第、すぐウラジオへ渡ることが出来る。そして仕事を始めることが出来る。何としても日本とソ連を結んで仕事がしたいと強い思いがそこにああった。しかしその時期がいつになるかわからない。そこで敦賀にいる間、仕事をしていなければならない。手に職があったわけではない義男は数日考えてこの地にない新しい、そして目づらしい食べ物を歩かうことにした。それは田舎ではまだ目づらしい「食パン」であった。お金がかかるが、そのためには職人が必要である。東京似た時に知り合ったことのある職人さんにお願いして敦賀に呼び寄せ、二人で「みどりのパン」という名で売り始めた。宣伝の広告は義男が考えて、新聞に挟んで宣伝をした。召すらしかったこの計画は評判を呼び、当たったのである。

「新しき道」⑧

2020-06-25 09:35:24 | Weblog
人間というものはやはり不完全であり、罪な存在かもしれない。私自身学生から成人へと成長の過程で親や兄の厳しい環境の中で育ってきたこともあり、自分自身を窮屈な不完全な形で過ごしてきた状態であった。それは言い換えれば大人への過程での教育であり指導であり、成長でもあったのだが、自分自身のあり姿から言えばかなり我慢と忍耐の生活の状態でもあった。勿論成長の大事な時期に悪いことをしないで過ごせたということでもあるのだが、当人にとってはかなり我慢と忍耐の中に会って自然ではなかったのだ。大人になって自由がある程度与えられて、好きなことが出来るようになり、思うことやしたいことが出来るようになると今までの反動もあった急に好きなことを考えるようになった。まして親会社の人とのつながりや、その行動を見ているうちに自分も真似をするようになるのも、ある意味自然な流れだったかもしれない、先輩に連れられて「飲み会」と称して仕事帰りに料理屋へ連れていかれることがしばしばになり、「М君、大人になったら、人間関係を作るためにこういう時間は必要なんだ」。君も出来るようにならなければね」と言われてその気になったのも当然の成り行きであった。
私は先輩とは別に何時の間にか自分自身で先輩に連れていかれた小料理屋を利用するようになっていた。お客さんを招待し、その店で待ち合わせをして酒を飲み料理を食べ歌を歌う。そんな時間を持つようになっていた。その店は品の良いママさんと板前さんとの二人でやっていた小さな店であったが、そのママさんの品の良さとじかんでまわってくる「流し」のギター弾きの芸人のサービスが気に入ったこともあった。
新橋の飲み屋街の一角にあるその店には月に何回か通うようになっていた。経費は会社の接待費で落とし、その目的な適当な理由をつけて無駄な時間をすごしていたが、、セ家は飲めないのにいつしか習慣のようになっていた。

「新しき道」⑦

2020-06-22 15:22:32 | Weblog
親会社との関係は日常のお付き合いでも大きな問題があった。それは会社の人たちみんながエリートであり、教養を備えている人が多かったことである。その差は歴然としていて言葉遣い一つでも神経をとがらせたものである。人が伝達する言葉、文字それぞれに伝達の方式は違っても人間の心のひだの曲がり方の複雑さは人それぞれであり、単純ではないからだ。一つのことを言うにしても単純に言わなかったり、当回しに少し触れるだけであったり、例えを使ったり、さまざまである。こうした会話の部分はあまり教えられていないことが多く、それぞれの育った家庭のレベルでしか覚えられないものであろう。私は最初えらいさんの話がよく途中からわからなくなることがあり、「今の話はなにをはなしているのだろう」ときょとんとして会話の中に入れないことがよくあった。そしてその会話をよく聞きながら自分が今まで大人から学んだ言葉や読んだ本の中から知っていることを思い出したり、大人だけが知っている言葉などを思い出して考えていた。頭の良い人ほど自分の欠点をさらけるような単純な言葉で話さない。時には「聞けよ。悟れよ」と暗号のような話し方の時もあるし、「行間を読みなさい」的な表現もある。
初めは本当に戸惑ったが、そんな言葉遣いも少しづつ覚えるようになって、わかるようになってきた。それはよいことばかりではない。大人としてのたしなみであったり、知ってても口にはしないことであったり、知らなくてもよいこともある。然し大人になるということはこれらのすべてを知り、そしてそれを大人と人格の中で「自分の心を育てるのだ」と言い聞かせながら学んだのである。世の中に悪い現実がある。それをどのように避けて生きていくか。それが自分でその対応を身に着けるしかないのだ。そんなことを学んだ気がしている。

「ウラジオストックの空に夢を」⑤

2020-06-20 14:03:17 | Weblog
東京はやはり大きな町であった。叔父が紹介してくれたところは10人ぐらいの小さな会社であったが、焼け野原いなった東京が大きく始まるにはちょうど
必要な資材を扱る会社だった・そのためには日本のものだけではなく近くの台湾、韓国、そしてロシアなど近くの国から品物を取り寄せる貿易事業も多なっていた。義男は韓国での経験があったこともあり、外国との取引の担当を任され、その物件の話があるとすぐその仕事を回され,そのために外国の人との仕事も任されることがあった。そしてある時社長から「今度、ロシアへ店を出すことにした。君はそこの担当としてウラジオストックへ行ってくれ」と言われた。義男は嬉しかった。
むつかしい仕事でも嫌な仕事でも、なんでも挑戦する気持ちが強く、頑張ることが好きだったこともあり、内心自分の仕事だと強く気持ちを持つことが出来た。
「これからは日本だけではなく世界へ手を伸ばし、どこの国とも取引をしてよいところを取り入れなければ」という思いがいつの間にか義男の心に芽生えていた・
もう釜山へ泣きながら行った義男ではなかった。「これからは誰の力もなくても一人で頑張る」とそんな思いで燃えるものがあった。
ウラジオストックでの生活は何よりやりがいのある仕事であった。日本ではまだそれほど乗っている人がいない自動車はそのなかでもいちばんおおきなしごとであった。日本から3台」、5台」とちゅおもんがはいると、自分で試してそのうえで写真を撮り、日本の許可を取りつけてから輸出をする。
そのうち自分もこんな車に乗って仕事をするぞと大きな希望を持ったものだった。
しかし良いことはそんなに長く続かなかった。ウラジオストックの町がにわかに沢しくなってきた。そして町の人々の移動が始まったのである。

「新しき道』⑥

2020-06-18 15:38:47 | Weblog
上場会社の関連会社になるということ、これは自分が考えている以上に知名度が変わることだった。そして会社の内容も少しづつ変化していることが分かる。
工場も新しく新設され設備も新しくなり、技術面でも全面的な協力が得られるようになる。そして市場での評価も今までと違い、、我々が訪問しても応対の態度も変わった。世間というものはこのようなことなのかと改めて驚きと共に認識を新たにした。嘗ては話も聞いてくれなかったり、時間も取ってもらえなかったことが嘘のような態度の変わりようでもあった。そんな中で私たちはこの新しい製品を後発なりに何とか販売を拡大したいと活躍していたのである。
お客さんは北は秋田から南は九州まで各地にあり、我々の神津範囲は急に大きくなり、多忙を極めた。
日々の報告を兼ねた日参はますます重くなり、時には部長室まで呼ばれることもある。役員を兼ねた部長室は大部屋と離れ個室になっており、秘書が付いていて
面接室に案内される。そこで市場報告、実績、そして今後の展開などを聞かれる。場合によっては役員自ら視察を兼ねて訪問することもあるので、その準備を備えなければならない。すべてに注意を払い、今までの日常業務は事務所に任せるしかなかった。
遊びは相変わらずで通常のゴルフとマージャンに加えて宴会が始まった。これは課長以上の役員を兼ねた部長クラスに限られているのだが、なぜかそのメンバーに選ばれるようになったのである。最初は高級なレストランのランチタイム程度であったが、そのうち、高級料亭での会食となる。場所も赤坂、現座、他と今まで行ったことも聞いたこともないところばかりである。何しろ自慢ではないが、ランチタイムは「ラーメンライス」で済ますことが多く、余裕がある時に「ラーメン、小チャーハン」ぐらいしか食べたことがなかった自分である。でもそれは私にとっては一番たのしみはじかんであったのだが、・・・・

「新しき道」⑤

2020-06-15 13:31:37 | Weblog
親会社への報告は業務だけではなかった。アフターフャイブつまり仕事が終わった後の時間である。初めはお付き合いで偶には良いことだと思っていたが、これがほとんど毎日と続くのだ。当時は麻雀がブームとなりサラリーマンの大半が夢中になった。その為に町のマージャン屋さんの限られた席を確保しておかなければならない。その為に予約をするか、時間前に行って確保するか、これが仕事になる。えらいさんに頼めないので私はこの仕事が半ば業務になった。そして加えてお土産、満願賞などの商品の準備もある。そしてどんなに早くても午後の11時過ぎまで遊ぶのである。そして無線でタクシーを呼び、えらいさんをお見送りして終わってから自分たちのタクシーを呼び、帰宅となる。当然12時を過ぎるくらいなる。家庭は全くないようなもので家族との会話もない。ただ寝るだけの時間しか残されていないのだ。そんな毎日が続くようになって、自分がどうなっているのか本当は冷静に考えなければいけなかったのだが、上の命令には従わざるを得なかった。正直言ってこの時間は苦痛であった。勝負事とはいええらいさんとすることはむきになって勝つことはできない。と言って負ければ自腹である。(経費は接待費であるが)少ない小遣いから出すのは正直痛かった。楽しいと思ったことはない。ただひたすら義務を果たすというだけの時間であった。
悲しい性である。よく上司となった課長に「ゴルフ、麻雀、歌、酒、そして囲碁」は遊びの必修科目と言われていたが、酒は全くダメなので他のものは何とか、お付き合いできるようにしなければ人間関係が結べないかった時代なのである。今から考えると経済成長時代の落とし後だったかもしれない。

「ウラジオストックの空に夢を」④

2020-06-13 19:02:36 | Weblog
義男は一人で外国へ来て厳しい叔父の下で学校へ通った。しかし一人になって夜を迎えると優しい母の顔を思い浮かべ淋しくなり、岡山の田舎へ帰りたくなる時もあった。そんなとき、教会の先生は言葉はよくわからないが、義男の話を聞いてくれた。そして少しづつ牧師の話す神様のことを考えるようになった。そして一年を迎えるころ「義男さん、洗礼を受けませんか」と言われた。すぐには返事ができず、「田舎の親に相談します」と答えるしかなかった。何しろ自分の家は後を継がなかったとはいえ、神主の家である。守らなければいけない社がある。そんな家で簡単に宗旨を変えるわけにはいかない。叱られることを覚悟で田舎へ自分の考えを書いて相談した。「親に叱られたらどうしよう」と思いながら恐々送ったのだが、暫くして母から返事が来た。「義男、お前が信じてよいと思ったことなら、自分の考え通り洗礼を受けなさい。そして自分の信じたとおり、よい人間になってください。」思いがけない返事だった。まさか許されると思っていなかったが、母は私を信じて優しかった。義男はその教会で洗礼を受けてクリスチャンとしての人生をこの時から決心したのである。義男の人生はこの時大きく変わったのである。
学校は無事卒業することが出来た。理解して協力してくれた叔父には大きな協力をしてもらった。
叔父は東京にいる岡山の知人を義男のために紹介してくれて仕事ができるように図ってくれた。義男は喜んで東京へ行くことを決心した。行ったことはないが、東京は憧れていたところであり、喜んで行くことにした。「仕事をするなら東京だ』何故か、東京は関東大震災の後、大変な時を迎えていたが、義男は喜んで向かったのである。

「新しき道」④

2020-06-11 15:52:50 | Weblog
徳川時代に参勤交代があったといわれる。映画ではよくみられる光景だが、私はこの時、その光景をこの親会社で見る思いであった。この会社へ来る一人一人が江戸城への登城であり、城内での雰囲気もまさに城内そのもののように緊張に包まれている。外から来た私にとっては当に異原子であり、一町人の存在であった。
何しろ一人一人が全国の城主の家系であり、T大、K大、ℍ大、出身であり、六大学は稀であり、完全な学閥である。100年を経た会社はこのようにしてできている。
やくいんはしゃちょう、会長は当然ながらT大出身に限られて事務系、技術系と交代で続いている。改めて日本の歴史を見るような思いであった。
担当になったĪ氏はその中にあって、稀な存在で地元の岡山で高卒で大阪支店を経て上京した、この部署ではまれな存在であった。100キロを超す巨漢でありながら行動も素早く、その言動はち密で気配りはこまやかである。「明日は🅼駅で9時待ち合わせでよろしく」「了解しました。」と打ち合わせをして翌朝待っていると、すでに来て待っている。「まだ少し早いから休憩してから行こう」と喫茶店へ行くと、朝から冷たいビールを一気飲みして「じゃあ、行こうか。」と始まるのがパターンだった・しかし仕事になると実に熱心であり、気遣いもできて、良きパートナーだった。千葉の寮からの通勤であったが、夜のマージャンで遅い時などは、夜明けのきたくで、朝の凝乳を飲んで着替えだけで会社へ来ることなど普通であった。事程左様に、親会社の都の仕事は嘗ての地場産業だった時とは全く変わった次元の世界の毎日となったのである。

「新しき道」③

2020-06-08 13:55:10 | Weblog
「今日も親会社へ行かなければならないから」これがその日の挨拶のようになった。つまりい習慣のうち半分以上は親会社へ出向くのが義務のようになった。今までの営業後用務は若いものに任せて大事な時だけの時間となる。「М君、仕事の方はどうなっているかね。」「新しい事業は業界では後発なので仕事はあるのですが、大手のお客さんはまだ取引してもらえません。できればお力になっていただければありがたいのですが、」「其れは何処だね。」「T社です」「ああ。あそこか、さっそくこちらからも担当をつけて君と一緒に動けるようにしよう。」岡山の地場産業の会社としてよりも上場会社の名前はやはり世間的には影響が大きい。
訪問して要件を話すにしても、先方も敬意を表して上のクラスの人が対応して話を聞いてくれる。世間というものはこんなものかと、初めて世の中の仕組みの常識を知るところとなった。しかし、簡単には採用とはならない。一週間に一度は㏚を兼ねて親会社の担当のĪ氏に同伴してもらい、訪問を繰り返していた。
暫くしてチャンスが巡ってきた。それはその担当部署の工場が生産拡大のために静岡へ工場移転の計画が分かったのだ。「Īさん、チャンスですね。ぜひこの機会に売り込みをかけて採用してもらいましょう。」「何か良いアイデアはないかね。」「窓口の若い人はゴルフが好きらしいですよ。」「よし、それじゃあ、うちのゴルフ場へ接待しよう」「えつ、そんなことできるんですか。」「秘書課へ話を通じればあそこのゴルフ場へは行けるよ」ゴルフは営業をするうえで、絶対必要と言われて、少しづつやり始めていたが、河川場ゴルフでメンバー性のゴルフ場は経験がない。「其れだと喜ぶでしょうね。そんなところ行けるんですか」
当に世界が変わりつつあった。こんなことが出来るんだ。世の中の新しい面を知る始まりでもあった・