波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

       思いつくままに

2011-09-29 09:06:04 | Weblog
最近、TVはスポーツ番組以外は日本のものを見ることは殆どなくなってしまった。(ニュース以外)CSTVで入ってくる
海外ドラマが新鮮で(古いものであっても)興味深いものが多い。(特に簡単なアドリブ的なものや、つぶやきのようなものに
ユニークなせりふがある)その舞台も警察、病院、を主にしたものが多い。(特に日本向けに入れていると思われるが)
その登場人物の中に必ずと言っていいほど「カウンセラー」とか、「セラピー」とか言う役柄の人が出てくる。見ていてそれが
どんな役柄かよく理解できなかったが、それは日本で言う「心療内科」を指す仕事で医療の大切な一つであることが分かってきた。日本ではまだ歴史も浅いこともあって、あまり知られていないようだが、欧米ではかなり浸透しているようで、例えば
警察の取調べで刑事や警察官が被疑者に対して、少し乱暴な言動で取調べを行ったり、やむ得ず自衛のため、犯人を射殺したりすることがあると、必ず、この面での検査を兼ねた内部調査が行われる。そしてかなりの時間を掛けて面接を継続して、精神状態が安全で健全な状態になったことを確認したうえで現場復帰の手順を踏んでいるようだ。(病院における医師の場合も同じ)
日本でも、自殺者が年間三万人を越えるような社会現象が続いたり、不登校児童が目立つようになっているが、この面での
影響を重く見るようになり、治療を専門に行うようになってきているようである。
家庭内におけるDV事件などもその対象になるのだろうか。そして果たしてその効果はあるのだろうか。世の中が豊になり、
物質面で何も不足することがなくなると、精神面での変化が現れ、何かにつけて不満がおき忍耐する力がなくなりつつあるようだ。要は精神状態を正常に、または高めていく努力が乏しくなり、弱く、劣化しつつあるのかもしれない。
不思議なもので人は生活が安定してくると、わがままになり、自分の思うようにならなくなると責任を相手におしつけ、我慢が出来なくなるようになっていることも事実である。
これも今の時代の特徴かもしれないが、こどもの親もその中に入る。親もまたそのための抑制や矯正に、必ずしも適役とはいえないのかもしれない。そこでカウンセラー、とかセラピーとか言う専門治療が登場するが、それも即効の効果は望めない。
治療は投薬もあるのだろうが、主には会話によるコミュニケーションを通じて、時間を掛けて徐々にもとの状態に戻していく気長な方法のようである。
日本以外の国ではまだその日の生活をどうするかということに努力しているところが多く、わがままなど言う余裕はない。
そんな意味では日本は豊なるが故に大きな重荷を負うことになっているのかもしれない。

オショロコマのように生きた男   第32回

2011-09-27 09:44:55 | Weblog
会社は毎日、朝8時に体操から始まる。そして責任者(お目付け役員)の挨拶。「怪我をしないように、そして能率よく成果を挙げるように」と型どおりの話を聞き流して、仕事は始まる。
それでも少しづつ慣れてきたせいもあって、仕事は順調に運び始めた。納品も少しづつ増えてきて、売り上げも増えてきた。
このまま続けば、何とか会社として存続するかもしれないと少し望みも出てきた頃だった。
「野間さん、電話ですよ」と呼ばれ受話器をとる。「野間ですが、」「野間君か、私だが、急で悪いが明日東京の本社のほうへ来てくれないか。」社長の声だった。「分かりました。伺います。」
電話の後、少し落ち着かなかったが、何時の間にか仕事に夢中になり、電話のことは忘れていた。夕方になり電話のことを思い出し、工場長に「明日は本社へ呼ばれているので、休みます。」と断る。
翌日、久しぶりに横浜から電車に乗る。東京へ出るのは久しぶりの感じだ。普段は外出することがないので、外の景色が新鮮に見える。そういえば最近はどこへの行かないなあ、宏は旅行は嫌いではなかった。むしろ好きなほうかもしれない。それも電車ではなく、車で時間や席のことや荷物のことなどに煩わされないで動けるのが良い。行きたいところへ、行きたいときに行く。
「そういえば最近旅行する時間もなかったなあ。」電車の窓から不図そんな思いにふけっていた。
半年振りになるかもしれないと、最初に来たときの事を思い出しながら本社の玄関を通る。中へ入るとみんなの視線がいっせいにこちらに集中したような錯覚を覚えた。「二階の社長室へ行ってください。」といわれる。
少し緊張気味に社長室のドアをたたくと「どうぞ」と言う声がした。入ると、「わざわざ来てもらってご苦労さん、今コーヒーを持ってこさせるから」と言われて席に着く。
コーヒーを勧められて、少し落ち着いた頃、机の上の書類から眼を離し、めがねをはずすと社長が前の席に着いた。
「どうかね。少しは慣れたかね。仕事のほうは上手くいっているかね」毎日のように業務報告は社長のところへ届いているはずだと思うが、何も知らないかのように聞いてくる。「お陰さまでよい仕事をさせてもらっています。まだ充分だとは思いませんが、これから少しづつ良くなっていくんじゃあないでしょうか。」と答える。
「そうか。大変だと思うけど、せっかく始めたんだから何とか物にしないとね」とさりげない話が続いた。しかし本題には中々入らない。今日、自分に何も言いたいのか、何か目的があるはずなのだが、それがナンなのか。宏はそろそろじれ始めていた。

   オショロコマのように生きた男  第31回

2011-09-24 10:45:05 | Weblog
工場の周りは畑である。仕事が終われば行くところもなければ、遊ぶところもない。まして知っている人も居ないから話す人も居ない。しかし宏はそんな環境でもあまり気にすることはなかった。
仕事のことをあれこれと考えていることが楽しみであったし、そこから新しい発想が生まれてくるのが嬉しかった。
今度作るときはここを変えてみよう。新しい薬品を試してみよう。条件を変えてみよう等と新しい考えが浮かぶとそれをノートにメモしておき、試しながらデーターを取っておくのだ。
酒を飲む楽しみはなかったが、食べ物にはこだわった。近所の食べ物屋をチエックして、くまなく順番に一通り食べ歩るき、
その特徴を調べてみた。住んでいる周囲1キロの所にはいろいろな種類の店があった。そこから気分の向くままに一軒づつ食べ歩き、そこから自分にあう店を決めるのだ。好き嫌いは特別なかったが、そのときの体調と気分で店を変えていた。
原則的に自分で作って食べることはなかった。その店のひとつに「蕎麦や」があった。看板は蕎麦屋であったが、田舎とあって
和食のものは大体そろっていて、何でも食べることが出来た。お運びはそこの看板娘であろう可愛い女の子が、愛想良いこともあって宏はそこがお気に入りだった。時にはわがままを言って「明日はカレイの煮魚を食べたいんだけど、作ってもらえるかな」と頼むと気持ちよく仕入れて特別に作ってくれたりする。
そんな毎日で何となくすごしていたが、工場での人間関係は日ごとに悪くなっていた。
大会社でぜいたくにのんびり仕事をしていた人たちにとって、この郊外の小さい田舎の工場での作業は耐えられない苦痛であったらしい。毎日の中で、不満が何時の間にかたまり、何かと衝突することが多くなっていた。
予定の作業はそのとおり、進むことはなく、不良品や手直し作業が多くなっていた。そのことは納期を遅らせ、コストを増やし
その結果、収益は落ち会社の利益は落ちていった。それぞれが不満を持ち、自己主張をし責任はとることはない。
お目付け役の役員も本社への電話で愚痴と言い訳ばかりが目立ち、上司の顔色を伺うばかりである。
そしてその責任は結局、宏へと向けられていた。
何も知らずに仕事に夢中になっていたが、そんな噂や陰口が宏の耳にも入るようになっていた。自分の仕事はきちんとしているつもりでも、それが会社全体の増益につながらなければ、結果として誰かが責任も取らざるをえないことが、次第にはっきりしてきたのである。

    思いつくままに

2011-09-22 09:28:31 | Weblog
暑い、暑いと思いながらすごしていたら、お彼岸も近くなり何時の間にか朝晩の気温が下がり、少しづつ涼しさを感じるようになり、時折吹く風が何時の間にか秋風になっている。その四季の変化を改めてありがたいと思うのは、私自身の身体の抵抗が
弱くなっているからでもあろうと思う。
今、両国の国技館で大相撲が行われている。毎日身体を張って、勝負にかけている。そのほか野球でもゴルフでも同じように
若い人が勝負を目的に成績を上げることを願いながら努力している。そのために当人だけではなく、コーチが居たり、いろいろな指導者も必要であり、学校へ行っている子供にとっても親はその一人と言える。
そこで、大切な指導であるが、この「指導力」というか。その方法は様々あるようだが、画一的に決まったものはなく、中々難しいものがある気がする。その結果が眼に見えて成績が確認できる場合は良いが、中々明確に確認できない場合もある。
一人、一人個性があり、その人にあった指導が必要とされるし、仮に一時的に良くなっても持続しないことが多く、原因不明のスランプになる場合もある。
つまり「教える」ことの難しさ、指導すると言うことが裏方の仕事として貴重なのである。そしてその方法も時代や、環境の変化とともに変わり、その都度、条件の要素を見直さなければならないこともある。
そんな中で、ひとつだけはっきり言えることは「むち」によるスパルタ方式は存在しなくなったと言うことだ。むしろこの方法が、今の時代では逆効果しかないことが定着して、敬遠されている。
そして、主流は「ほめる。」「励ます。」「自信をもたせてやる気を起こさせる」であり、この考えのもとで、いろいろな方法が加えられているようだ。しかし、この方法で受け取る側は、どんな気で受け止めてそのモチベーションを上げているのだろうか。中には「メンタルトレーニング」とか言うものを取り入れてドクターと常に連絡を取りながら、その精神状態をベストに
保つようにしている選手も多い。
主体が選手であり、子供でありそのために当人の心に重点を置くことで、指導者の立場では「言わなければいけないこと」
「注意してやめさせなければいけないこと」「強く言うこと」などが遠慮などで、怠りがちになっていることは間違いない気がする。つまり本当の意味での指導の内容がその半分も効果を発揮していないのではないかと心配になる。(当人に伝わっていない)そのことが長い眼で言うと、当人の成長を遅らせたり、場合によっては芽を摘んでしまっていることもある場合も出てこないかと心配である。問題は当人の自覚心であるが、当人の心へどう伝えられるか、永遠の問題でもあるかもしれない。

   オショロコマのように生きた男  第30回

2011-09-20 10:49:33 | Weblog
なんだか窮屈そうだな!そんな印象が強く、気乗りがしなかった。大会社にありがちな礼儀作法や言葉使いがうるさそうな雰囲気である。今までのような気持ちで仕事が出来そうもなさそうだ。そんなことを考えるていると返事が遅れ、決心も鈍くなっていた。数日たった頃、村田から電話が入る。「返事を急がれているんだ。断ってもいいけど、どうする。」と聞かれた。
人間関係の付き合いを考えると煩そうで断りたい気持ちが強かったが、仕事には未練があった。
宏はM社でもう少しやりたかったことが出来なかったことが頭にあり、この仕事を簡単に断ることも出来ず、躊躇せざるを得なかった。そして仕事に惹かれるように承諾することにした。
「お世話になりますので、よろしくお願いします」と返事をした。すると、T商事から「すぐ現地の工場へ行ってくれ」と
要請された。横浜の郊外にバラック立ての工場があり、その工場の隅に狭い事務室があり、そこに宏のデスクがあった。
派遣されてきたお目付け役の役員が、数人の若い者を連れてきており、前任の技術者も居て賑やかに仕事が始まった。
引継ぎの仕事もあったが、素人集団と言うこともあって、仕事の能率は悪く、軌道に乗るには時間がかかりそうであった。
「野間さん、万事よろしく頼みます。何しろ初めての事ばかりで、なれないので、よく教えてください。」とは言うものの
煩く注文だけはつけてくる。しかし、引き受けた以上、この仕事をやり遂げなければならないということ、そしてなんとしても
この技術を身につけてマスターしたい思いが強く、我慢して眼をつぶるしかないと仕事に取り掛かっていた。
一年とはいえ、やはり経験して身につけたことは生きていた。そして自分が工夫し、考えていたことも試すことが出来た。
そのことが嫌なことを忘れさせ、やる気を起こさせていた。
原料を型にいれ、成型し図面の寸法にあわせる。そして成型された製品に磁力をつける。そしてその特性を計り、検査する。
その工程の中で、最も重要なことは図面どおりの型にする金型と称するものを準備することであった。
宏は最初からここに目をつけていて、研究を重ねていた。そして自分なりに工夫を凝らし、あれこれと実験を重ねていた。
それは彼の将来を大きく左右する、重要なノウハウを身に着けることになるとは、その時本にも気づいていなかったのである。
オショロコマが川の中で大きく飛び跳ねた一瞬でもあった。

  オショロコマのように生きた男   第29回

2011-09-17 11:23:47 | Weblog
「親会社はうちの会社を含めて20社以上の関係会社があるんだが、そのうちの一社が新しい会社を買収したらしいのだ。
ところがその会社の業務は今まで経験したことのない仕事で、その内容に詳しい人が居なくて困っているらしいんだ。
誰か探してほしいと頼まれてね。私は野間さんがM社でその仕事をしていることを池田さんから聞いていたので、あなたのことを話したら、ぜひ紹介してほしいと頼まれちゃったんだ。」
確かに話を聞くと、自分がやっていた仕事と同じ内容のようである。M社の阿藤社長ともそのことについては何の約定もなく
仕事をしてはいけないと言うことはなかった。しかし、すぐ返事はしなかった。
いろいろと周辺情報を知っておきたかったし、現場の工場も見ておきたかった。「もし良かったらその会社の工場を見せてもらいたいのですが、案内してもらえますかね。その上でお返事を考えたいのですが、」
「そうですか。それじゃあその会社の担当している会社がT商事なので、そこの社長を紹介するので、一度一緒に行きませんか。」堅苦しいことの嫌いな宏はあまり気が進まなかったが、行くしかないかとうなづいた。
箱崎町の一角にその会社はあった。宏を迎えたのは背丈の大きい大柄な眉毛が太い、如何にも権勢を感じさせる雰囲気を持つ人であった。しかし話すと言葉が慇懃であり、静かであった。「この仕事の経験があると聞いているけど、どのくらいやっておられたのですか。」「そうですね。そんなに長くないです。約一年ぐらいでしょうか。」「所で、この仕事は実際儲かると思いますか。」といきなり突っ込んできた。「いや、私にも分かりません。今まであまり使われていなかったものですから、どうなるか分かりませんが、これからのものとしては面白いと思います。私は個人的にはやってみたいと思っています。」
宏は正直に率直に自分の意見を述べた。相手をおもねったり、遠慮する気はまったくなかった。断れれば、それも仕方がないことだと思うし、どちらになっても良いと思っていた。
「せっかく親会社のほうで承認を得て、買ったものでね。出来れば成功させたいと思っているのだが、利益が出ないと困るんでね。」と言っている。
そのことには反応もせず、無視していた。どちらになっても自分には関係ないことである。ただ、この仕事には興味があり、
魅力があった。出来れば一人でやってみたいくらいである。その勉強の機会であり、経験をつむチャンスであった。
「じゃあ、後日こちらから連絡させてもらうよ。今日はご苦労様昼飯でも食べて帰ってください」社長は立ち上がりながら静かに笑っていた。

      思いつくままに  

2011-09-15 14:52:31 | Weblog
「人には裏表があっていいものか」と聞かれて、とっさに返事が出来なかったことがある。そのまま素直に考えれば、
正直であることが美徳であるから、裏表はないほうが良いと言うことになるが、実際にはそうはいかない場合が多い。
つまり「嘘も方便」と言われることが必要なことがあるということである。
単純に親しい友達と話をするときと、目上の人と話すときと言葉使いが違うことや家族や親しい人と話すときと知らない人と話すときと違うのは当たり前だと思うが、それを裏表のある人と考える人が居るとすれば、その人が未成熟であると言うことである。こどもと違って大人になれば、そのときと場合によって尊敬語であったり、謙譲語であったりその場面場面で使う言葉を
使い分けられるからである。
最近、本当の人間愛ということを人間関係の中で考えさせられることが多くなった。口や人前では当然のようなことを口にしていても、実際に「愛」と言うことを真剣に考えているか。以前にもそんなことを考えてみたことがあるが、一般的には
男女関係、親子関係における「好き」「愛している」と言う言葉で代表される感情が大半と言える。
しかし、アガーペの愛といわれる本当の愛はそんなものではない。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える」この言葉を最近ではホテルの結婚式でも読まれることが多くなったと聞く。聖書にある一節である。
この言葉の意味をひとつ、ひとつ吟味していくと、如何に重い意味を持つ言葉であるかが分かる。一人一人が自分自身を振り返れば、誰でも心の痛む思いがあることをおぼえて、反省をしなければならないことだと思う。
それだからこそ、この言葉が生きてくるのであるし、大切であることが分かるのだが、人はそう思いたくないことや、嫌なことから逃れたいとそのことをあまり深く考えまいとするのだ。
それほどに「愛」と言うことは軽々しく言えることではないし、厳しいことである。言い換えれば、自己犠牲を強いていることにもなるし、どんな相手であってもどんな場面に合っても、(相手が理不尽であっても)その相手をそのまま受け入れることができることであり、相手が変わらなくても、信じ続け、望み続けることだからである。
自戒の言葉として、この言葉を大切に思う。

  オショロコマのように生きた男   第28回

2011-09-13 09:25:32 | Weblog
M社での勤務はわずか一年足らずであった。通常日本の企業ではひとつの会社へ就職すると、そのまま定年までの30年をそこで過ごすのが普通である。そうでなくても明治時代からの「滅私奉公」のような教育があり、自分を犠牲にしてまでも会社に尽くすと言うことは不思議でもなんでもなく、むしろ当たり前のことであった。
そのことを考えると、宏の行動はまったくその慣習を無視した破天荒な行動であり、想像出来ないことであった。
今回のことは自分の意思ではないとはいえ、あまりにも短期間である。しかし当人はあまりショックを受けている様子もなかった
あくまでも自分の信念を生かした行動であり、人生を貫いた結果であった。
周りの人間から見れば、ハラハラどきどきに見えているかもしれないが、むしろ当人にとってはある意味、開き直りの行動だったかもしれない。
池田からの電話のこともすっかり忘れて、ぶらぶらしながらこどもとの生活を楽しんでいたが、又電話が入った。
「野間さん、電話してくれましたか。村田さんから催促ですよ」「すっかり忘れていたよ。早速連絡取るよ。それよりも会社の居心地はどうだ。楽しくやってるか。」「お陰さまで前より良いですよ。決まった仕事もありますし、やりがいもありますからね。
まだ、少し慣れない事もありますが楽しくやれそうです。ありがとうございました。」「諸星さんによろしく言っておいてくれ」「分かりました。会いたいって言っておきますよ。」「余計なことを言わなくていいよ。」
電話を切ると、早速村田に連絡を取り、一度事務所を訪ねることにする。何しろ暇になって時間をもてあましているので、ちょうど良かった。
秋葉原にある事務所を訪ねる。こじんまりした事務所に事務の女性が迎えてくれる。
「よく来てくれたね。ここ初めてだよね。コーヒーでも入れようか。」嘗てはライバルで張り合った仲だったが、こんな時間を持つようになるとは思いもしないで、何となく不思議な変な気分で居た。
「所で、話ってのは何かね。」ぶっきらぼうに切り出した。「実はうちの会社は田舎の小さい地場企業だったんだが、去年から親会社がついてね。昔と違っていろいろと制約が出来て窮屈になったんだ。君のように自由でいるのを見るとうらやましいくらいだ。」本題の前置きが長くて、宏は少しいらいらしてきていた。
「何かあったのか。」「オーナーが死んで、役員が会社を株主の一社へ売却しちゃったんだ。」
日本の企業も時代とともに変わりつつある。そんな時代の流れを感じる話だった。

   オショロコマのように生きた男   第27回

2011-09-10 13:01:27 | Weblog
オショロコマは北海道に棲んでいる淡水魚だが、不思議な魚で群れの中には海へ出て行ってしまうものも居ると言う。つまり
同じ川の中に住むことに飽き足らず、広い海へ出て行き、自由に生きていくものも居ると言うことを聞いている。
宏はやっと自分にあった場所を見つけて、ここで少し落ち着くことができると思っていたが、自分の意思に反してそこには棲めなくなってしまった。どこへ行くか。どこへ行ったらよいのか、しばらくは先のことも考えられず、すぐには生活に困らないと言うこともあり、のんびりするのも良いかと考え、しばらくぶりに「ラナイ」へ顔を出した。
懐かしい店長の変わらない様子を横目で見ながら、いつものコーヒーを頼みタバコに火をつけるとすっかり昔の気分に戻っていた。店長も宏の姿を見つけると、うれしそうに「しばらくでしたね。元気で居ましたか。」と話しかけてくる。
「良い仕事が見つかって落ち着くかと思っていたら、首になったよ。」「野間さんのことだから、自分で辞めてきたんじゃあないんですか。」とからかい半分に言われたが、宏は笑えなかった。
「世の中不公平なもんだよ。好きな女に振られて、好きでもない女に好かれているようなもんかもね。」とつぶやいていた。
そして、店長に「俺、これからしばらく家に帰ってこどもたちとのんびりするよ」そういうと、店を出た。
その足で、しばらくぶりに家へ帰ると、学校から帰っていた子供たちがみつけて「パパ、お帰り」と嬉しそうに飛びついてきた。二人とも元気そうで、大きくなっていた。しばらくぶりにアットホームな気持ちになり、何もかも忘れて落ち着くことが出来、そのまま家に居つくことになった。夕方、久子が仕事から帰り、宏の帰っているのをみて驚いたように「どうしたの、何かあったの。又あなたのことだから面白くないことでもあって、飛び出してきたんでしょう。」と言いながら、笑っている。
やはり家族が全員そろってうれしそうである。
宏は何を言われてもあやふやな受け答えをしながら、、家の中でぶらぶらしていた。そして家庭と言うものをしみじみ味わうことが出来ていたのである。
そんなある日、池田から電話がかかってきた。「N社の村田さんから電話がありましたよ。まだここに居ると思って掛けてきたらしいんだけど、居ないと言ったら驚いてましたよ。出来れば一度ぜひ会って話したいことがあるそうですけど、どうします。
私から連絡しておきますか。」「電話番号だけ教えておいてくれ」そう言って切った。今はあまり誰とも話したい気分ではなかった。

       思いつくままに

2011-09-08 10:03:34 | Weblog
「人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いに過ぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」数千年前に書かれていた聖書の言葉である。
改めてこの言葉を読むとき、そんな昔にこの言葉があったことに驚くと同時に、人生をもう一度振り返ってみると、さまざまなことが思い浮かんでくる。学校を終わり、社会人として世の中へ出ると、いつの間にか仕事に追われ周りの事がほとんど見えなくなって居たような気がするし、自分以外の人のことなど殆ど考える余裕などなかったと思う。
いや、それだけではない。考えながら行動すると言う姿勢ではなかった。
「歩き出してから、考える。考えてから歩き出す。考えても歩かない。」そんなたとえ話を世界の国の国民性になぞらえて
聞いたことがあったが、人間は総じて若いときは、考える前に行動する、または考えながら行動に走ることが多いような気がする。しかし、年齢を重ねるごとにそのパターンが変わってくる。身体がすぐ動かないと言うこともあるが、過去の経験や性格
(慎重な人、気の早い人など)で少しづつ行動が遅くなり、その時間が長くなることが多い。
このことは自然であると同時に大事なことでもあると最近つくづく思わされるのだ。というのは年をとることはこの世における
時間が少なくなりつつあることだから、残された時間を無駄にはできないことでもある。私の知人が「がん告知」を受け、その余命を聞いたとき、医者から「それは言えない」と言われた。しかし、私には残された時間に果たさなければならないことがある。どうか教えてほしいと告げ、2年と言われ、その二年を大切に過ごしたと聞いたことがある。
自分に課せられていることが何であり、何をしておかなければならないか、そこのところに思いをはせるのだ。
すると、今まで考え及ばなかったこと、気がつかないで居たこと、忘れていた大事なことなどに気づくのである。
また、突然思いも寄らぬところから連絡があり、自分の役割を知らされたりすることもある。そして、そのことに自分自身の
役割や、存在を考える時間となることもある。
このことは、自分が生かされていることを改めて知らされると同時に時間を大切にすることの大きな意義を教えられるような気がするのである。
それにしても、何をしてもすぐ疲れて長続きしないことと、体力の衰えを感じざるを得ない。しかし、無理も出来ないのである。それはそれとして甘んじて納得していくことも大事である。