波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

足跡     「夏を迎える。」

2017-05-29 09:27:09 | Weblog
大相撲の五月場所が終わると夏を迎える感じがしてくる。今場所も楽しく15日間を過ごすことができた。しかし毎場所けが人が多く、休場に追い込まれる人が出ることに驚く。休まないまでも体をかばいながら相撲をとっている人もあるし、怪我を恐れながら無理をしていない人もわかる。確かに相撲は瞬間で全力であたるので計算はできない。だから何がおきるかわからない。それだけに普段の稽古が大事になってくる。体が自然に稽古どおりに動いて型にはまらないと勝てないことになるのだ。そんな中で今場所もさまざまなドラマがあった。
過去最高の人気も(連日満員)喜ばしいところだ。ゴルフも宮里選手の引退で時代が世代交代期に入ったことがわかる。最高の人気を誇る女子ゴルフも毎週日替わりのチャンピオンが出る現象が続き、本命選手が誰になるかわからないのが、人気を呼んでいるのかもしれない。
そんな中、日々気温も上がり五月に真夏日を迎える現象が起きた。私たち老人には血圧によい影響があるのかもしれないが、それでも25度を超えると体にこたえてつらい。普段だと「アジサイの花」を楽しみにして今年はどこのアジサイを見に行くかと検討したものだが、それも無理になった。散歩しながら近所の庭に咲くアジサイを見ながら季節を感じるほどで終わることになる。
そんな中で楽しみはやはり息子との会話であろうか。到底平安だとはいえない状況の中で人生と戦っている姿をともにしながら、いかに
将来を見つめ生きていくかを考えることもまた、課せられた課題である。決して主にでも苦労でもない。すべては備えられた「道」があることを信じて歩くだけである。
忠人は人間関係において時分がよいと思っていることを言ったりしたりするときこそ注意しなければならないことを忘れてはいけないと思う。なぜならつい無意識にそれを相手に押し付けたり、絶対無二のような言い方になりやすいからである。
そんなときこそ謙虚に相手の立場になって、「提案型」の物言いができるとよいのだが、
個レアから日々暑い日を迎えることになる。何とか、この暑い日を克服して秋を迎えたいものである。

思いつくままに    「善意を果たす難しさ」

2017-05-25 09:57:28 | Weblog
ある旅人が山中で強盗にあった。怪我して動けないで苦しんでいる姿を見て通りかかった三人の人、一人は同民族の祭司と呼ばれる共用のある人であった。もう一人は同族の親しい人であり、最後に通りかかったのは異民族のサマリヤ人であった。最初の二人は旅人を見て、見ない振りをして、反対側を通り過ぎ最後のサマリヤ人は普段は嫌われ、話もしたこともない旅人の怪我を見て、すぐ助けると手当てをして休ませ「自分は用事があってそばにいることはできないがこのお金でけが人の面倒を見てくれ」と宿の人に頼み、金を預けて立ち去ったという。聖書に出てくる有名な話であるが、私は善意を行うことの難しさは何千年も前も今も変わらないことを知らされている。
ある日隣町へ出かけた帰り駅まで帰ってくると駅前に10人ほどの人が募金運動をしていた。見ると「ユニセフ」の運動をしていた。
私は通りかかり、いつものように通り過ぎようとしたが、ふとテレビに出ている黒人の幼子のさびしげな顔が思い浮かんだ。そしてあわてて引き翔り、暑い中汗をいっぱいかいてがんばっていた小学生の女の子の募金箱にわずかなお金を入れることができた。
たった、是だけのことである。しかし人間は不思議に「しなければならない」ことであり、「やるべきこと」を意外とできないでいることが多い。むしろためらうことが多いのだ。そうでなければある種のグループでひとつの目的意識の中で行うこともある。
しかし小さい善意で誰にも気づかれないようにそっとその善意を行うことにはかなりの勇気がいるのではないだろうか。
しかし本当の善意はそんな隠れた小さいところにあるのだ。だが一人で誰も見ていないところで「大丈夫ですか」と声をかけることも
意外と蒸すかしいのだ。私自身も町を歩いていてめまいをして倒れ、エスカレーターから転げ落ちたことがあったが、大勢の通行人の中で一人婦人が声をかけてくれて一緒に薬屋さんまでついていってくれたことを思い出して今でも忘れられないでいる。
小さな善意を行うことは毎日、どこでも、いつでもある。ただ気づかず、しないことが多いことをもう一度反省をこめて
考えてみたいと思う。

足跡    「自分でできること」

2017-05-22 09:17:07 | Weblog
 いつの間にか私は人生を80有余年もすごしてきてしまった。今その足跡を振り返るとたどたどしくあちらこちらと乱れ、飛び散っていることがわかる。あるときはまっすぐ歩いているかと思うと、急に立ち止まったりあらぬ方向へ歩き出していたり、正しく規則正しく歩いてきたとはいえないものである。
しかし不思議にも私の足跡は一人分ではなかった。いつもなぜか二人の足跡が一緒についていた。それはなぜなのか、誰のものかわからない。今此処で立ち止まってかんがえてみると、自分の歩いてきた道は自分意思で自分の思い、願いで勝手気ままに歩いてきたとおもっていたが、果たしてそうだったのだろうか。自分の歩いてきた道は自分が歩きたいと願い、磁部うが歩こうとしたとおりに歩くことができたのであろうか。
この年齢になってやっと何かがわかってきたような気がする。それは自分が自分の思い通りに歩いてきたと思っていたことが、果たして園とおりの道だったのだろうか。結果的には自分の願っていた道とは異なる、否、自分の願いや希望とは違った道に踏み迷っているような
道ではなかったか。自分の願っていた道のような気がしたときもあったが、願わない道に踏み迷うことも多かった。
そんな思いである。
つまり人生におけるすべてのことは自分で決めて自分の考えや思い通りに歩いてきたと思っているが、そうではないことがわかった機がしている。いやそれも自分の意思で歩いてきたことだという考えもあるかもしれない。
しかしすべてのことが自分の考えどおりになることは、あるいは自分の錯覚なのかもしれない。見えない大きな力によって歩かされるというか、歩いているだけかもしれない。
これからも歩き続けることだろう。しかしやっと自分は自分だけで歩いているのではないことに気がついた。つまり目に見えない大きな力のある方とともに歩いていることがわかった気がしている。
とすれば自分は一人ではない。心強い気持ちで歩くことができる。と同時に困ったときは「同行」の方に聞くこともできる。
そしてできるだけ間違わないで踏み外さないで正しい道を歩くことができるかもしれない。残り少ない道のりである。
できるだけ正しく歩いて「備えられた部屋」へ行けることを願っている。

思いつくままに    「思いがけぬこと」

2017-05-19 10:52:03 | Weblog
私には二人の子供がいる。(娘と息子)息子は小さいときから私に頼っているところが見られ、二人で遊ぶことが多く、いじめられると自分でどうすることもできず、よくいじめたこの親のところへ注意しに言ったり学校の進学のときにも気を使ったものである。
娘は女の子でもあって扱いがわからず、あまりかまうこともなく自由に育っていった気がしている。そんなわけで息子が男であり、跡取りであることが無意識に親の思いを偏らせていたかもしれない。月日はたちそれぞれ成長して過程を持ち親の手を離れた。
と思っていたが息子のほうは体が弱いせいもあり、大人になっても親の手を離れることなく就職先が決まらずともに事業をやり、それもうまくいかず閉鎖することになり、といって自立することもできず今も陰になり日向になりながら二人で人生を築きつつあるところである。不思議な運命で是も神の命令かと静かに自分なりのできることを生きている限り果たすつもりでいるのだが、果たして私のいなくなった後、誰が支えになってやることができるのかと心配になることがある。(といってもどうすることもならずすべては神にゆだねるほかないのだが、)娘は家庭を持ち二人の娘を産み自分でも仕事をして小遣いを稼ぎながら家庭を守っているようだった。
父親としては何もできないが、何も愚痴を言わず、夫とともに家庭を守っているようだった。最近は念に何度も会うこともなく、いたが
「何もないのはよい証拠」と安心していた。
そんな流れの中で今年突然私が台湾へ行く用事ができてしまった。周りは高齢であることから心配して娘がついていくことを決めたようである。そんなことから娘が突然私の身の回りのことを心配するようになった。
そしてある日呼び出しがあって二人であうことになった。「今日は何の用事なんだ」と聞くと「台湾は暑いでしょ。だから新しい防止を用意するのよ」とデパートへ連れて行かれた。
あれこれと選んでお出かけ用と普段用と二つの帽子を買って「是で私も恥ずかしくないわ」と一人で納得している。
小さいときから何もしてやることも気を使うこともしてやることはなかったのに親のことを考えていてくれたのかと自分が恥ずかしくなる気がしてうれしかった。「子供それなりに考えている」ことがわかり、親として十分なことのできないことが恥ずかしく思えてきた。

足跡     「自分のできること」

2017-05-16 09:38:04 | Weblog
久しぶりに一人で「ぶらり旅」ならぬぶらり仕事に出かけた。昔は時間に追われて車で走り頭の中は仕事のことだけでほかのことは何も考えられずただ夢中であった。そして自分の思うことを思うように動かし思うように相手を説得し目的を達成することだけを考えていたものだった。
常磐線から関東鉄道で下館まで行き下館から真岡鉄道に乗り換えて、途中の液へ降りてタクシーに乗り、目的地に着く、その時間約4時間だがそれは何の苦にもならない。単線で途中駅でのすれ違いの待ち合わせなどあり、お客は後方からのり、整理券をとり、降りるときは運転手に料金とともに渡すという。のんびりしたものだ。もちろんワンマンカーであり何の飾りもない。
久しぶりにお客がほとんどいないのどかな電車を堪能できた。日曜にはSLが走るので観光客でにぎやかになると運転手が自慢げに言っていた。
そんな時間を満喫しながら私は今まで自分がしてきたことは何であったか、すべてを自分中心で時間を過ごしてきたことがなんであったのか、それは大きな間違いであって目に見えない大きな力によって動かされていただけであったのではないかと考えることができた。
この世の時間は自分で差配しているかのように錯覚しているが、そうではなく見えない大きな力(それを私は神の力と考える)よってうごかされていると知ることができた。どんなことができてどんな苦しいことがあったとしてもそれらは自分の力のおよぶところではない。
それらはすべてを差配している神の力によって私たちは生かされているということを静かに考えさせられるのである。
日々、さまざまなことがおき、さまざまな問題に遭遇し、悩み苦しむこともある。しかしそれらはすべて神にゆだねていきることをかんがえりょう。人に接するときは「愛の技」を忘れないように心がけよう。
それで今日一日が過ごせればそれだけで満足であり、幸せである。そう考えるとき」平安」が訪れるのである。
結果は自分で出すのではない。すべては「御心のままに」なるのである。それを静かに受け入れて生きることを考えよう。
そんなことを考えながら一日のたびを終えて帰途に就いた。

思いつくままに   「この先のこと」

2017-05-11 09:07:24 | Weblog
最近身の回りの交わりを持ってきた人が亡くなったり、病気になったり(認知症)になったりして昔の元気なころの話をすることができなくってきた。こんな話を聞いているといやおうなく「次は君のばんだよ」といわれている気がして他人事には思えない。第一昔の話をして懐かしく昔を語ることはできなくなっているのだ。
しかし不思議なことにこのような状況におかれると「今あなたはこのことをしなければならないんだよ。何もしなくてもいいといいということではないのだよ」という声も聞こえてくるのだ。のんびりと順番を待ってればよいのかとおもうことまるし、体も弱っている当然それでよいのだと思うのも当たり前かもしれない。しかし、私にはまだまだ大きな役目があるのだ。それは今までの人生における負い目のおんがえしもあるし、金銭的にも返却しなければいけないぎむもある。それよりも何よりも自分の家族の健康と平安のことである。
もちろん私の力でどうすることもできるものではない。(自分のことさえどうすることもできないくらいなのだから)
不思議なものでそんな状態でも頭にあることは家族のことばかりで、(逆に言えば家族だけが順調ならそれでよいのか?)ということにもなるが、自然とそう考えてしまう。キリストは「私の家族とは誰か?」と世界の人を救うことを考えていたが、小さな人間としてはこの程度のことしか考えられない。それでも日々さまざまな問題があり、自分なりにできること、考えられること、があたまをはなれないものである。人間は所詮所詮死ぬまでそんな重荷を負って生きていくものかもしれない。
それは生きている限り自分に化せられた勤めであり、役目でもあるとも考えられる。そして及ばずながらできることをはたして少しでも
自分の役目を話してこの世を去りたいとの思いが潜在的に働くのだろうか。
そんなわけで今日も出かけていって話し合いの時間を持つ予定である。それは自分ができる最後の役目だと謙虚な思い出の行動である。
もちろん自分の思い通りするとか、なるとかということではない。ただ自分の役目として離しておきたいと考えているだけのことである。そして今日一日が終わるのだ。

足跡      「友人」

2017-05-08 08:32:42 | Weblog
この年になるまで子供のころから今まで何人かの「交わりの友」と呼べる人が何人書いた。今でも年賀状や数年に一度の交信でつながりがある人も何人かいる。しかしその数も年々減ってきてわずかになってきた。そのなかに特に心に残っている一人がいる。
彼は若いとき同じ会社で働いたのだが、彼は純粋な技術屋であり、研究者でもあった。私が海外販売を始めたときいち早く賛同しなんでも協力するから一緒に仕事をしようと意見が一致してそれ以来の交わりの友となった。台湾の会社から技術援助g来て日本の会社を辞めてまでその会社へ協力をしたのも彼であったし、世話になった会社を辞めて独立してkらも園会社のために中国、香港と希望通りの技術指導をしてそのにんむをはたしていた。私は従来の会社で定年を迎えたが、かれは独立してその技術を活かしながら事業を続けていた。
どんなに経営がよい状態でも悪い状態でも「われに七難八苦を与えたまえ」といった山中鹿之助の言葉を心情に質素に、園事業を堅実に進めていたが、その内容はかなりかこくなものだったのだろう。かつて私と同じ会社で仕事をしていたときにも、かなり危険な化学物質を扱うことがったが、その取り扱いに水から自分の手で実験しその影響を確かめた上で指示をするという念のいれようであったこともあり、
そのエピソードは知る人ぞ知るところでも会った。
事業を息子に譲り自分は研究室のようなところで日々好きな実験をしながら私が訪ねてゆくと「今度こんなものができないかとたんしみにしているんだ」と子供のように目を輝かせていた姿を思い出す
先日息子さんからの電話で一月から入院していて呼吸器をつけて意識もままならない状態になっているとの事、早速見舞い状は出したものの会うこともできず、心を痛めるばかりである。三度の心臓手術をはじめ満身創痍であったことはしっていたが、やはり機能を持たせる子tが難しくなったのかとその運命を認めざるを得ないのかと心を痛めるばかりである。
贅沢を聞いたこともなく特別な趣味、遊びも聴いたこともない学者肌の友人である。誠実でいつも私を先輩としてけいいをはらってくれていた。(年は一歳ちがい)
人間はその一生における仕事を終えると生命力はそこで終わりを告げるのであろうか。とすれば彼もまたこの世における仕事をやり終えたということか。もおいちど会って語り合いたいと願いながら

足跡     「青春」

2017-05-04 09:46:06 | Weblog
この時期になるとどうしても思い出してしまうことがある。それは一年を通じて楽しんできた「花めぐり」であった。定年顔の楽しみは今から思うとこれだったかもしれない。春を待ちかねたように3月になると「片栗の郷」と呼ばれている片栗の花をたずねる。小さな地味な花だがなんともいえない趣があり、春を告げている気がしていた。そして「梅」紅梅を含めてその香りは変わらずその年のはるをしらせてくれる。そのそばで小さな「つくし」が顔を覗かせてくれるのも愛嬌である。そして春を代表して「さくら」が私たちを迎えてくれる。
あちこちの桜を訪ねたが、人ごみを避けて静かにて作りのお弁当を食べることのできる桜を探して楽しむことができた。そしてチューリップ、桜草、もっこうバラ、はなみずき、ぼたん、藤の花と続々と春を待ちかねていたように咲き乱れて楽しませてくれたものだ。
車が使えたので、そのたびに今年はどこの花を見るかと相談して歩くのが楽しみであった。しかしそのはなめぐりも終わりを告げることになった。車がつけないことは致命傷となった。最近では散歩をしながら近所の花の「借景」を楽しむほどである。
しかしその思い出は変わらない。むしろ鮮明にそのときの光景が目に浮かぶようである。
いつの世もこの美しい花のように人の心も美しくありたい。この世の汚さや穢れを此花のように美しくすることを考えたいと思うのである。「青春とは省みるときの微笑である。」といったのはドイツの哲学者ゲーテといわれているが、まさに青春は今このときの省みるときの微笑でなければならないと思う。
そしていつまでもそのときの美しさを思い浮かべて心に潤いと美しさを失わないことを願いたいものである。

思いつくままに     「面会日」

2017-05-01 09:19:57 | Weblog
今年になって急に日本を取り巻く近隣諸国で緊張感が高まってきた。いつの時代でも世界ではどこかで争いがあり、その影で苦しみ悲しむ人がいるのだが、このような状況を聞くたびに心が痛むのだ。
そして20年以上他国に拉致されて親子兄弟との絆が離れて会えないでいる人のことを思わずにいられない。
私はこのことを思うたびに自分の経験からあることを思い出すのである。それは10歳のときであった。第二次世界大戦がはじまり、学校として集団疎開をすることに成り、親元を離れることになったのだ。初めは遠足気分で楽しげに出かけたのだが、数日後には親元を離れた現実に大きなショックを受けることになり、その不自由さに寂しさを覚えたものであった。
そして親のありがたさ、暖かさを思い出しながら冷たい布団の中で寝たものである。そんな生活の中でひとつだか慰めがあった。
それは一ヶ月に一回の面会日が許されたことである。空襲のさなかでの面会日も楽ではなかったが、親たちはその日を待ちかねて大きな荷物に食料や必要なものを持ち込んで半日を子供たちと過ごすことができたのである。
今から70年も前のことであるが、そのときのことは忘れることができない。その日を待ちかねて夜もおちおち眠らずに親の来るのを待ち
親や兄弟と会うことでどんなに心が癒されうれしかったことか、分けても親が手作りで作った食べ物は何もかもがおいしくうれしかった。
中でもさつまいもにサッカリンで甘みをつけた饅頭は今でも忘れることのできない好物だった。
別れはつらかったが、そのときの満足感でしばらくはしのぐことができた。そして親子の家族との時間が是ほど喜びと平安をもたらすとは思えないほどの恵でもあった。
今、その苦しみを我慢して待ち浴びている家族がいることを知らされている。何とか家族の面会だけでももつことのできる時間を作ってあげてほしい。そしてその喜びの時間を持つことができるようになってほしい。
そのためになんとしても国と国の努力をして続けてほしいと心から願うものである。