波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

波紋     第36回

2008-10-31 10:55:54 | Weblog
海外工場をどこに置くかと言う事は大きな問題であり、社員の関心事でもあった。
英会話の出来る山田専務と、スペイン語に強い本坂社長の二人での調査の結果はその後、一ヶ月を過ぎた頃、報告書として見ることが出来た。
「最終的にシンガポールに決定した。その背景として、タイは既に日本企業が多く進出し、工業団地の主要なところは占有されており、残された場所は条件が悪いため、除外、インドネシアはまだ総合的に国情が不安定で治安も安全とはいえない。土地はまだ充分あると思われるが、それ以前の問題でここも除外する。
マレーシアも東部、西部、そして北のペナン地区とあるが、クアラルンプールを中心として西部に集中していて日本の企業もたくさんあるが、充分な敷地と条件を充たす所はすでに占有されており、見当たらない。
シンガポールは、小さい工業団地であるが、ちょうど良い土地が良い場所にあるので、ここに決定した。建設に関わる投資資金は他の国に比べると高く、すべての費用は割高になるが、将来的には安全であり、すべての条件を保障されるものと判断される。」このほかにもベトナム、インドなども候補に上がっていたが、検討の対象になるには、開発その他が不十分とされていた。
そして、建設計画はスタートした。先発隊として派遣された技術者はD社におけるその道のエキスパートであり、選ばれた人たちであった。
報告書を見ながら、「シンガポールですか。地図の上でしか知らないけど、どんなところなんですかね。何でも小さい国で端から端まで車で走っても一時間程度で回るって、聞いたことがあるんですけど、」
松山は独り言のように言う。「何しろ赤道直下のところだからな。暑いと思うよ。
一年中30度近いんだから、そんなところで生活することを想像できるかね。」と小林も相槌を打つ。「いずれ、松山君も行く機会があると思うからせいぜい今のうちに勉強しておくんだね。」
そんなことがあって、東京営業所も何となく活気が出てきたようである。業界新聞にも、関連記事が掲載され、集まりで同業者の人にあうと、その話が話題になり、
少し面映ゆい思いであった。
その頃、松山は大阪営業所の井坂所長の要請を受けていた。「松山君、済まんけど、一度大阪まで来てもらいたいのだが、所長と相談して欲しい。用件はタイワンのユーザーが来日すると言うことで、手伝ってもらいたいのだ。」と言うことだった。松山は大阪は結婚前の勤務地でもあり、懐かしさもあった。

          思いつくまま

2008-10-29 09:55:26 | Weblog
今、我が家の食卓には一輪挿しに「ホトトギス」が置かれている。庭に咲いていたものを飾っているのだが、この時期になると花も少なくなり、淋しくなる。
華やかなコスモスなどもあったが、もう終わってしまった。この「ホトトギス」
目立たない花だが、いかにも秋らしい花である。ユリ科になるのだが、確かに小さいけれどユリの花の形である。全国に十種類ほどあるそうで、それぞれ色、模様が違うのだが、我が家のは「タイワンホトトギス」と言われるもので薄紫の段だら模様の花である。でもその地味な模様が秋の雰囲気を感じさせているのだ。
定年後、血圧が高くなり、ずっと降圧剤を飲んでいるが、薬だけに頼らず、自分の生活習慣と血圧の関係がどう影響しているか考えてみると、全く無関係ではないことが分る。中でも一番はっきりしているのは、毎週行っているジムトレーニングである。運動をする前と、終わってからでははっきりと差が出ることが分る。(当たり前だが、)その他にも朝と夜とでは差が出ることも良く分る。
その他にも精神状態の変化でも、影響があるようで、興奮したり、怒り、あせり、は高くする原因になるし、出来るだけ冷静に、穏やかな気持ちを保つことも大切な気がしている。(人間なので、いささか難しいのだが、)
そして、食事も無関係ではない気がしている。私の場合、「パン、めん、飯」が一日の大雑把なメニューだが、出来るだけこの中で野菜量を入れられるかが問題である。朝はサラダを含めて出来るだけとるようにしているが、これが血圧だけではなく、コレステロールへどれだけ影響するかを考えると、馬鹿には出来ない気がしている。(薬と同等に考えてもおかしくない。)
こんなことを考えて血圧への影響を出来るだけ良い状態にすることを努力しているわけである。(何しろ、身近に知人、友人が脳梗塞、くも膜下で倒れていることを聞いているので)
ところで、最近ではグルメ志向でお金に任せておいしいものを食べることを薦める傾向が強いのだが、果たして、本当の意味で食を味わっているのだろうか。
むしろ、「貪っている」に近い様子でもある。「貪る」と言うことになると、それは満足することなく求め続けることになり、満足は得られなくなることになる。
そして、さらに「飢餓」を覚え、さらに次へと求めることになる。
若い人でも、大人であっても、それぞれが自分の身にあった余裕のある気持ちで食事を取りたいものだと思います。

波紋   第35回

2008-10-27 10:55:41 | Weblog
そんな経緯があって、間もなく本村社長が上京してきた。「やあ、みんなご苦労さん。元気でやっとるか」愛想は無いが、昔の下町の雰囲気を感じさせるべらんめえ調は社長の特徴であった。さっと、緊張が走るが、それも長くは続かない。
打ち解けた話で堅苦しさを感じさせないので親しみが生まれ、会話も弾むのである。「所で、これから本社へ行って、金の算段をしてこようと思っている。何しろ今のうちの会社ではどうにもならない資金が要るから、本社の力を借りないとなあ。銀行も融資してくれないし。ところで売りのほうは大丈夫なんだろうな。」と言いつつ、自分の腕を前に出し、ぐっとそれを折り曲げそれを突き出した。
そのポーズが何を意味しているか、分らず、きょとんとしていると、「これから忙しくなるぞ。山田専務とどこへ進出するか、調査に出かけなければならないし。
まあ、後はよろしく頼む。」言うだけのことを言うと、さっさと出かけてしまった。嵐の吹き去ったような後のように事務所の中は静けさが戻ったが、松山が
「所長。社長が最後に腕を曲げて突き出したけれど。あれなんですか。」
小林はやや考え込んでいたが、「多分、売りのほうは任せておけと言う自慢する時のポーズだと思うよ。つまり、東京営業所が売りは責任を負ってくれるんだろう。と言うことじゃないの。」「そうか。そうなると今回のプロジェクト計画は責任重大ですね。」松山は他人事のように軽く頷いていた。
風間女史は「良いわね。男の人は会社のお金で外国はあちこち行けて、私たちも海外行って見たいわよね。江村君」と若い江村を振り向いた。
自分の担当の仕事ではない江村としては、私には関係の無い話と言う感じで「そうですね。」と気のない返事をしていた。
海外と言ってもどこの国へ出るのか、それは大きな関心事ではあった。台湾は無いとして、それより南と言うことでアジアを見渡すと、タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、そして、ベトナムぐらいだろうか。
その頃、日本企業の海外進出は既に始まっており、(1990年以降から)その中心はインフラの良いタイであった。
本社では、役員会が何度か開かれ総合的な進出計画が練られていた。そして本村社長と、山田専務が調査、視察のために出発した。
どこへ進出するのか、それはとても関心の高いことではあったが、決めるのはえらいさんなので、あまりこだわりは無かった。
その頃、お客さんとしてはドイツ、フランス、イタリーのヨーロッパとアメリカと取引が始まっていた。

波紋     第34回

2008-10-24 07:25:02 | Weblog
暑かった夏も過ぎ、彼岸を過ぎて風が涼しく感じられる頃になった。松山はこの会社へ入ったことをつくづく良かったと思っていた。事務所は人も少なく、家族的な雰囲気の中で、人間関係で神経を使うことが無く、仕事も大きなノルマがあるわけでもなく、景気の風にも乗って、注文も順調であるし、心配は無い。
強いてあげれば、給料がもう少しよければと思うが、そんなに贅沢を言わなければ親子四人で食べていくには充分である。
今日もいつものように会社へ出ると、小林が難しい顔をして坐っていた。「おはようございます。どうしたんです。何かあったんですか。」と聞くと、「ちょっと、」と言われて、応接セットへ二人は向かい合った。「今朝本社から電話があってね。東京で提案した海外進出の件で、もめているらしいんだ。」「で、どうしたんですか。」「役員会で、進出について検討されたらしいんだが、江村取締りが反対でね。本村社長が悩んでいるらしい。何でも、江村さんは自分の言うことが通らなければ、会社を辞めるといっているらしいんだ。」「それは又、随分思い切ったご意見ですね。本気じゃないでしょう。」亡くなった社長の後にD社から来た本村社長は、海外経験が豊富で海外志向が強い人だと聞いていたが、今回の提案にはわが意を得たりというところがあり、賛成であった。このチャンスを退かしたら進出は出来ないということであったが、慎重な江村取はまだその時期にあらずと継続検討を主張。喧々諤々となっているらしい。おとなしい山田専務はどちらとも旗色を鮮明にしないので、二人の争いになっている感じである。
「東京営業所としては、やはり後退は出来ないから、前進あるのみですよね。とは言っても責任は押し付けられるのでしょうけれど」「提案した以上、それは仕方が無いけど、やるしかないと思うがな。」小林もこの件については、本社へ口出しも出来ないし、様子を見るしかないと思っていた。
この話は、それで終わったのだが、本社では益々ヒートしていたらしい。突然、江村取締りが辞表を出して、会社を辞めたという通知が入ってきた。
若い江村君の叔父に当たることもあって、江村君は複雑な思いでこの連絡を聞いていた。
しかし、これで海外進出計画は正式に決定された。親会社のD社の全面協力もあって本村社長も山田専務を伴って、早速現地調査へ出発。本格的にこの計画は動き出した。小林は市場調査を見直すと同時に新しい市場計画を立案し、その具体的な蜜筋を考えることになったのである。

        思いつくまま

2008-10-22 10:05:38 | Weblog
度々で恐縮だが、元首相の福田さんの最後の記者会見でのやり取りの中で、ある記者の質問に対して(どんな質問だったか、失念したが)「わたしは客観的に自分を見ることが出来る。あなたとは違うのです。」と答えて話題になったことはまだ皆さんもご承知だと思います。(これを聞いた記者の方の気持ちはどうだったかと思うと、同情もしたくなるのだが)
もし、自分が誰かに「あなたは客観的に自分を見ることが出来ますか。?」と聞かれたら、私は即座に「自分のことなど自分で良く分っていないので、客観的になど見ることは出来ません」と言わざるを得ないと思っている。
言葉では何となく分っている気もしているが、具体的にちゃんと自覚出来ているのだろうか。定年を過ぎて仕事を離れ、マイペースで生活することで日々を過ごすようになって、冷静に自分を見直すことが出来るようになってきた気がしている。
何しろ、サラリーマン時代には会社と言う看板を背負い、(大きくても、小さくても)肩書きと言う勲章のようなものを意識して暮らしてきた人間として自分がどんな存在で、相手にどんな人間として見られ、評価されて生きてきたのか、そんなことを考える余裕など無かったからだ。
誰からも声を掛けられず、頼まれることも、しなければならないことも、無くなって初めて自分がどんな人間だったか、何のために生かされているのか、そして本当の自分をもう一度眺め直して見たくなったのである。
「最後ぐらい自分らしくカッコ良く、本当はこれが、自分の望んでいた自分なのだ。」と思える自分を再構築したくなった。
そのためには、まず健康度のチエックから始めなければならない。
そしてそのために必要な生活習慣の確立である。そして最後はやはり、「自我」という「罪」との戦いであろうか。年齢を重ねてくると、身体は効かなくなるために
その分無意識のうちに他人に頼りがちになる。そして悪いことは責任転嫁をする。
僅かに残っているのはくだらない「プライド」のようなものだけである。
日々を生かされていることに感謝の思いを持ち、神の前に「返済」の心をもち、
今までの汚れた汚い心の錆を少しでも落とすことを願いながら、希望と喜びを持って暮らしていけたらと思うのだが、これって、客観的に自分を見ていることにならないのかな。?

波紋   第33回

2008-10-20 14:37:18 | Weblog
小林がニヤニヤ笑いながら松山のところへ近づいてきた。「お前、台湾へ行って面白いことがあったじゃないのか、表の話は分ったけど、裏の話を聞きたいね。」
松山はドキッとした。所長は何回も言っているので、いろいろなことを知っているらしい。でもそういうことになると口が堅くなって仕事以外の話はあまり聞いていない。自分では何も話そうとしないで、人から何か聞きだそうとする所長の態度にカチンと来るものがあったが、上司に怒ることも出来ないので、黙ってやり過ごそうとしたが、「夜なんかどうしてたんだよ。」と追求してくる。
何を言わそうとしているのか、何が聞きたいのか、まさか女と遊んだことでもしゃべれと言うことなのかと頭を廻して、これは何か言わなきゃしょうがないのかと覚悟を決めることにした。「いやあ。台湾の女の子はいいですね。小姐シャオチエと呼んでますが、日本語ぺらぺらなんで、不自由しませんでした。お客さんと会食の後、別れてから日本から行った人たちで二次会にスナックへ行きました。
もっともその店も日本人の客が多いい店で雰囲気は全く変わりません。でもそんなに飛び切りきれいな子はいませんでしたね。ただ、愛想がいい事と話が出来るのが
とりえで助かりました。聞いた話によると、個人交渉でホテルにはつれて帰ることは出来るそうで、相場も三万円ぐらいと聞きました。」「それで、つれて帰ったのかね。」「いやー。私はお酒のほうが良いので、飲んでばかりいて、時間になる頃は大分出来上がっていて、眠りこけるところでした。中には良い子を見つけてつれて帰った人もいましたけど。」「そうか。残念だったね。」
話しながら、酒の飲めない所長なら連れて帰りそうだなあとは思っていた。
これ以上話していると、お互いにぼろが出そうなことにもなりかねないので話題を変えた。「食べ物や、お土産で印象に残ったものがあるかい。」「食べ物は勿論中華だけど、みんな特徴があっておいしく食べれないものは無いですよ。最も日本で中華に食べ親しんでいることもありますけどね。お土産は残念ながら特別気に入ったものは見つかりませんでした。これは趣向の違いでしょうか。ウーロン茶は一杯ありましたね。」女史はそばでニヤニヤしながら聞いていたが、何も言わなかった。いずれにしてものん兵衛の松山にとって女の話は無縁に近いし、興味もあまり無かった。話をしながら家で待っているか加代子のことを思うだけであった。
小林もこれ以上は何も出てこないと思ったのか、それとも、場違いな話をしたことを後悔したのか静かに自分の席に戻ると、電話を手に取っていた。

波紋    第32回

2008-10-17 10:47:57 | Weblog
松山はやっと仕事が落ち着いて出来るようになった。少ない事務所の中に溶け込んでいる自分を見ることが出来ていた。所長の小林は饒舌なのが欠点だがそれを除けばあまり気にはならないし、一人しかいない風間女史は適齢期を知らない間に過ごしてしまったことを忘れているかのように落ち着いている。言い換えればあまり女を感じさせないので助かっている。(所長の話によると何度か良い話もあったらしいのだが、興味を示さないらしい。結婚願望はなくなったのかもしれない。しかし、上京の動機は恋人の転勤がきっかけであったと聞いていたし、その彼氏は他の人と結婚してしまい、そればトラウマになっているとも聞いたことがある。)
もう一人の若い営業マンの江村君は一人でマイペースで動いているので、関係ないようなもので会議の時以外はあまり話すことも無い。
小林が親会社やお客の接待で夕方から出かけてしまうと、風間女史と二人になることが多かった。「風間さん、帰りにちょっと一杯どう」「いいわよ。」そんなパターンが何回かある。そんな時間でもアルコールによる仕事疲れの癒しとストレス解消があるだけで、後は仕事関係の噂話か、食べ物の話になり、少しおなかが落ち着くと、「ジャーね。」でわかれるのが常だった。
会社の業績は時代の流れに乗るかのように順調であった。小林は海外志向が強く、口を開けば「これからは、海外だ。日本は終わった。」と叫んでいるが、松山には
あまりピンと来るものは無かった。
台湾にお客さんがあり、取引をしていることは知っていたが、行ったことは無かったし、気にもならないでいたが、突然「台湾出張」を命じられてしまった。
やれやれである。今のお客さんでのんびりやっていれば、楽なのにと思いつつ
「一回ぐらい海外も良いか。」と言う気持ちもあった。
幸い、日本語の話せるお客さんであり、おいしい酒も飲めそうだと興味もわいてきて少し元気が出てきた。「松山君、これからは海外市場を視野に入れていく時代だからそのつもりで勉強してきてよ。」
「分りました。良く調べてきます。」とは言ったものの、何も頭に浮かんではいなかった。当に「石松の金毘羅代参」そのままである。旅に出ればこっちのものだ。
何やっても、分るもんじゃないから。そのときはそんな気分であった。
松山の台湾出張は無事に進んだ。帰ってきた彼の話では紹興酒がとても飲みやすく、おいしかったようで悪酔いもせずにすんだ、また朝のおかゆ定食は胃にやさしく、日本にいるような気分でホッとしたとの事。仕事の話はついてのようなことで
聞いていた小林は何となく物足りなさそうであった。

       思いつくまま

2008-10-15 13:58:30 | Weblog
大分前のことになるが、小泉さんが首相の時大相撲の貴乃花の優勝で土俵に上がり、優勝カップを渡しながら「良くやった。感動した。」と言ってその言葉がかなり強いインパクトを与え、社会的にも多くの人たちに使われた事があった。
「感動する」と言う言葉は特別な言葉ではない。誰でも、いつでも使われる普通の言葉である。因みに辞書には「感銘して心が強く動かされること」とある。
その通りだと思う。しかし、この言葉もその内容と使い方はその使う人によって、
又使われるケースによってその伝わり方は大分違ってしまう気がする。
たしかに小泉さんの場合、時を得た使い方だと思われるが、いかにも「その場受け」のするもので私にはそれほどの感動が伝わらなかったことを覚えている。
最近、私の身近でこんな話を聞いた。その老婦人は子供さんがいない。しかし、ある家庭のお世話をしているお家には孫ほどの可愛い子供もいる。その家庭とは勿論何の血のつながりも縁も無い、赤の他人である。しかし、長年の時間の中で
身内以上に愛情の交換があり、信頼関係が生まれていた。
その老婦人は、その幼子を自分の孫のように思い、子供もまた「ばば、ばば」と慕っている。その様子は実の家庭でもこれほどに通うほどの姿を見ることが出来ないほどである。
人間は本来わがままであり、自分が一番可愛いのであり、自分中心で動くものである。だから無意識の中に計算と損得が働いてしまう。
身内でもさほどではないから、他人なら尚更にその影響は見えてしまう。
そして、他人であればそこに遠慮もあり、又弁えも働く。しかし、その老婦人の言動は自然であり、特別目立つものでもない。
ただ静かに見守る姿の中に本当の愛情が表れているのが分る。
猫かわいがりではなく、高いものを言われるままに買って与えているわけでもない。自分の生い立ちの時間を重ねて、そこに自分の夢を見ているのかもしれない。
しかしその姿を見るとき、私は静かな感動を覚えるのである。
感動とは動作でも、言葉でもない。人間と人間の間に通い合う本当の「真心」に
こそ宿るものなのかと思われる。

波紋    第31回

2008-10-13 14:43:40 | Weblog
金融会社から夜になると電話があり、債権の手形を渡すように脅迫的なことを言われたことを思い出して改めて今回の出来事が現実であったこと、そして多くの人に大きな災難をもたらせたことを知らされて恐怖を感じたのである。
鈴木さんもその後消息がわからず、品の良い妙齢の女性社員の方とも会う機会がなくなってしまった。木下さん一家も家を出て埼玉の郊外へ行かれたと風の噂で聞いていたが、もうお会いすることは出来なくなってしまった。
本社からは正式に通達が来た。小林と松山は3ヶ月の減俸(10%)ということで
それ以外の懲罰は無かった。そんなに高くない給料からの減額は痛かったが、首になることを思えばよかったと、松山と加代子は
「災難だったと思うしかないね。誰も恨むわけにも行かないし、誰も特別悪かったわけでもない。ただ人間は弱いから、誰かに頼られたりした時に不安になり、迷ってしまうことがあるんだよ。専務も誰かに話すか、相談をしてみればこんなことにはならなかったのに、可愛そうだよね。」「これから何が起きるか分らないけどお互い何があっても話して助け合っていこうね。」二人はしみじみと話し合ったのである。松山の趣味は特別なものは無い。お酒をおいしく飲むことと、ゴルフぐらいである。友達も特別親しい人がいるわけではない。弟も離れて暮らしていてたまにしか帰ってこない。両親とは一緒に暮らしているが、普段行動を一緒にすることはないし、何事もない。でもお互いに分かり合う信頼関係がそこにはあり、揉め事は無かった。ゴルフへのこだわりはプレーもさることながら道具については一家言があり、うるさかった。しかし、それは高いものやブランドにこだわるのと言うのではなく、自分で内作をして納得のいくものを自作するのである。と言ってもそんなに金を掛けるというのではない。自分で安い道具をそろえ、削り、切削をしてバランスを整えていくのである。
自分で納得のいくものでプレーをし、更により良い物へと工夫をするのである。たしかにゴルフはメンタルな要素が大きくプロでも同じクラブをずっと使うことはまれである。何故ならば体調の変化、成績の結果によってはクラブにその要因を帰することが多いいからで彼も同じ思考の影響なのであろう。そして又自分でこつこつと積み上げていくのは仕事も同じだが、彼の性格に合っているのかもしれない。
そのことに没頭している時の彼は一番すべてを忘れる楽しい時間なのである。
娘達も、加代子もそんな彼を見ているのが一番安心の時でもあった。
大きくなって父親のところへはよって来なくなってきているが、うるさい母親よりも頼もしい父に対する思いは大きいようだった。

波紋    第30回

2008-10-10 11:20:14 | Weblog
松山は他人事のような思いで木下物産のことを考えていた。建物は十階建てのビルで敷地面積も百坪ある。場所は明治通り沿いに面している。資産額も相当なもので何億もすると思われる。それが一夜にして他人のものになり、家族はそこから出て行くことになる。
またしても、自分が何も出来ず、力になってあげることも出来なかったことに一抹の反省をさせられていた。会社への出入りは出来なくなり、中の様子は詳しく知ることは出来なかったがその金融会社の所有となり、家族の人たちは郊外へ引っ越し、会社は倒産として処理された。
まるで悪夢を見たような出来事が僅か数ヶ月のうちに起こり、何十年の歴史のある老舗が一夜のうちに消えたのである。あの木下専務は今頃どうしているのだろう。年老いた社長はお元気だろうか。家族の人たちはと思いは消えることは無かった。
人間はつくづく不思議なものだ。何不自由のない生活をし、立派な家族に囲まれていながら何故突然あんなにも変わるのだろうか。そしてそれはその人だけでなくその人に関わるすべての人に影響を与えてしまう。とりわけ幼い子供の将来の運命をも変えてしまうことになる。しかも何の罪も無いのに。
そしてこのことは当の木下氏自身も自分のしたことに罪悪感を持っていないのではないか。自分はむしろ良いことをしたのにどうしてこんなことになったのだろうと
戸惑っているのではないだろうか。何故こんなことになってしまったのか。
こう考えているうちに松山は不図、今回の事件は誰も悪くないのではないか。誰が何をしたというほどのことは無い。しかし、その中にあって人間と言うものの弱さ、そしてその弱さを知った時にどのように考え、どうすることが大事だったのかそのことをもっと考えて行動すべきだったのだ。
木下さんは確かにある女性から頼まれて言うことを聞いてあげただけだったはずだ。自分はそのことでその女性に代償を求めたわけではない。(恐らく)
その結果としてお金を浪費するところとなり、(会社のお金を使わず)
そのために金融機関からの金で浪費を重ね、その利息、元金が知らず知らずに増えていったのだと思う。勿論返済は厳しく、恐らくいざとなればそのお金を融通することはそれほどのことは無いと思っていたのだろう。しかし、その金融の仕組みを知らされて動転したのだと思う。
いずれにしても彼はこんな大事に至るとは夢にも考えていなかっただろうし、今でもなんで、どうしてこんなことになったのだろうとまるで詐欺にでもあったような気持ちでいたのではないだろうか。