波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

波紋    第79回

2009-03-30 10:08:16 | Weblog
暑かった夏も過ぎて、秋の涼しい風が吹く頃になっていた。小林は久しぶりに新幹線の東京駅のホームに立っていた。これから岡山へ向かうのである。中山から頼まれて、和夫の勤めていた会社の本社のあるところへ交渉のためであった。
中山は「小林さん、このままでは松山の家族もかわいそうだ。我々で出来ることを考えて、出来ることをしてやりたいと思うのだが、相手が大きい会社過ぎて、まともにぶつかってもどうにもならないと思う。裁判で争ったとしても、力関係で恐らく負けるだろう。負ける裁判だったら、お金をかけてやっても無駄だからね。ここはひとつ、情けに訴えて、助けてもらうことが良いと思うのだが、どうだろう。」
「私もそう思うが、どこへ話を持っていったらよいかな。」「東京では事情の分っている人がいないし、松山を知っている人が少ない。やはりここは岡山の本社のほうで、理解してくれる人を通じてお願いして、口を利いてもらうしかないと思うんだが、」「そうだね。じゃあ、岡山へ行かなくちゃあならないね。」「私が行ってもよいのだが、知っている人が少ないんで、小林さん、あんたの知っている人で、お願いしてみてもらえないか。」中山の頼みで、小林は頷いた。自分の出来ること、果たして話を聞いてもらえるかどうか、自信も無かった。しかし、ここはお願いしてみるしかなかった。列車は東京駅を出発した。新幹線に乗らなくなって、もうどれくらいたつのだろう。小林は新幹線の背もたれに身をゆだねながら、ぼんやり考えていた。会社にいたときはいやと言うほど、東奔西走して使っていたが、定年後は乗る機会も無く過ぎていた。「暫く振りだな。」ワゴンで運ばれてきた熱いコーヒーを飲みながら、昔を思い出していた。
それにしても人間の存在は本当に小さいものだ。そしてあまりすべてのことを考えず、生きて、あっさりとまた死んでいく、まして自分に不自由が無く、すべてが備わっていれば、何も必要はない。だから誰に頼ることも無く、誰に世話にならなくてもやっていける、ましてこの国にいる限り、食べることに問題は無い。そうであれば、親は文句を言わず、欲しいものを子供に与える。
自分が何故生かされていて、自分が生きることは何を目的にすれば良いのか、そんなことを考える必要が無い。まして、この世に神の存在など、考える意味が無い。かくして、人は自分のことだけを考え、自分の都合だけを中心に判断して生きていく習慣をつけていく。そうなれば、どんな世の中になるのだろう。松山もそんな中で、世の中から放置されたのか。

  波紋     第78回

2009-03-27 10:06:18 | Weblog
和夫のいた会社内でも、この問題は話題になっていた。しかしそれはおおっぴらにすることは出来ず、陰に隠れてのひそひそ話にならざるを得なかった。
「トイレで倒れていたんだって、知ってた」「机の上がそのままだったから、どこかにいるのかと思っていたけど、あまり気にしていなかったわ。」「私は、どこかへ出かけて、そのまま帰っちゃったのかと思ってたの。」女性社員が思い思いに話していた。同僚の男性はその話には全く触れることは無かった。まるで緘口令でも引かれているように、押し黙り、そっぽを向いていた。その状態はそのまま彼の存在が始めからなかったかのようでもあり、無視されているようでもあった。
嘗て松山の上司であった、内山もその一人であった。立場は違っていても昔は共に営業活動をしていた彼にはやはり大きなショックであったのだが、この雰囲気の中で目立った行動は取れなかった。その日、彼はデスクは離れていたが、その部屋にいた。関心がなかったわけではないが、自分の仕事に追われ、気にすることも無く、午後の仕事を終え、定時後の集まりのために、出かけてしまったのだが、そういえば、彼のデスクは、パソコンが立ち上がったままだったことを思い出していた。あの時、気づいていれば何かすることが出来たかもしれない。
あまりにも無関心であった自分に責任があるかのように心が痛んだ。もし出かける前に彼がいないことに関心を持ち、探す事が出来て、見つける事が出来れば、何とか助ける事が出来たのではないか。そんな思いすらなかった自分を振り返り、残念だった。そして、何か出来る事はないかとも考えた。
日頃、相談なり、気楽に話の出来る同僚と、それとなく話してみると、「とにかく、内聞に処理して大げさに騒がないことだ。いずれにしても、会社にとってはスキャンダルに近い話で、得にはならない話だからね。新聞種にでもなったら大変だよ。」と言われてしまった。会社としては確かにそうかもしれない。
このまま、そっと時間がすぎて、消えていくのを待つしかないのか。人間の存在のはかなさを改めて知らされた思いでもあった。生きている時はあれこれと騒がれ、
もてはやされることはあったとしても、その存在がなくなった瞬間から、話題にもならない、それは草木にも似た扱いでもあった。
そしてそんな人がいたのかと何時しか忘れ去られてしまうのだ。内山は暗然とした思いの中に、彼が元気な時に何度も酌み交わした酒の席での彼の姿、そして調子に乗ると歌っていた、「関白宣言」を思い出していた。

           思いつくままに

2009-03-25 10:52:42 | Weblog
先週お彼岸を迎えて、毎年の墓参に出掛けた。車で約一時間ほどであり、程よい静かな松林に囲まれた場所である。少し肌寒い風の強い中ではあったが、墓石を洗い、周辺の掃除をして花を供える。墓前で祈りをささげて終わるのだが、年々其処での思いに変化があることに気がつく。数年前までは他人事のような年中行事としての義務的な思いであったが、そうではない自分に気づいたのだ。
つまり、他人事ではなく、自分の問題として、「死を迎える」思いである。
古来俳人と言われる、一茶なども「死に支度」を詠ったものもあり、それぞれがある時期から死を自分の問題として考えていることが分る。
人間誰しも死を避けることは出来ない。どのように迎え、どのように対処するかである。あるとき、友人との話で、人間何歳まで生きられるかが話題になったことがある。「理論値では120歳と言われているが、条件良く、生きられたとして100歳と考えられる。(確かに日本では100歳を越えている人がかなり多いと聞いていて、100歳はそんなに不可能ではない年齢と考えられるようになっている。)しかし、現実的には平均の85歳ぐらいと考えて良いのだろう。
とすれば、それぞれの立場で残されている時間は分るのである。
牧師の説教で、人間の死はその瞬間の考え方ではなく、日常での時間における心のもち方に有るという話を聞いたことがあるが、まさにそうであろう。
日頃の心の持ち方をどのようにして、日々を生きるか、それが死を向かえる迎える事につながるのだと言うことを知らされた。
墓前で手をあわせ、静かに瞑目しながら自分もこころ静かに死を迎えることが出来ることを願わずにはいられなかった。
墓前の後、隣接している公園の梅林を訪ねた。昨年も全く同じ日に同じ場所で昼食の弁当を食べたのだが、梅の花の状態が全く違っている。昨年は見事に満開で、春を満喫できたのだが、今年はおよそ花は散り終わっていた。つまり、昨年と今年の気温の差が明白なのであり、今年は昨年に比較して暖かかったことを証明していた。
池のはたに顔を出すつくしの坊やも今年は殆ど終わっていて、僅かにしか見る事が出来なかったことも残念で、天候の影響を知らされた。
間もなく、本格的な春が来て、桜を迎えることになるが、どんな気持ちで今年はお花見が出来るのだろうか。それにしてもどんな環境、境遇であってもこころ静かに神のの恵みを知ることが出来ることを願わずにはいられない。

波紋    第77回

2009-03-23 10:17:34 | Weblog
加代子の話は続いた。「中山さん、お通夜の夜、みんなが集まった時、いろいろな話が出たの。みんなが言うのは和夫は仕事中に死んだのだ。この事は大事なことで会社も何らかの事を考えているのだと思うけど、どうなのか」「それで、会社からは何か言ってきたの。」「それが今のところ、何もないのよ。」「そう。そのうち何か挨拶があるのかもしれないね。」「それで、皆さんは具体的にはどんなことを言ってるの。」「難しいことは分らないんだけど、法律に労働災害補償保険法と言うのがあって、その第一条、第二条に業務上の事由、または通勤による労働者の負傷、疾病、障害、死亡等に対して迅速かつ公正な保護をするため必要な保険給付を行うほか、社会復帰促進事業を行うことが出来る。と言う法律があるんですって。
それによると、遺族補償年金を労働者の家族が受け取る事ができるようになることも書いてあるらしいの。」「労災のことは知ってるけど、それをどうするって言ってるの。」「つまり、手続きをして、お金がもらえるようにしてもらいなさいっていうことらしいんだけど、どうしたらいいのか、分らないし、」「そうか、それは一度、良く調べてみてもいいね。私が調べてみるよ。それから又相談しましょう。」中山は、加代子を慰め焼香を済ませると帰途に着いた。
確かに、松山の死は仕事中であることは間違いない。しかし、果たしてこのことを会社はどのように取り扱おうとしているのか。どうしようとしているのか。そのことを調べるすべは無かった。そして、家族のために何が出来るのか、とりあえず、社会保険事務所での調べは出来るとしても、これを具体的に進めるのにどうしたらよいのか、見当もつかなかった。
数日後、中山は地元の社会保険事務所へ行き、松山の様子を話し、この場合、労災に該当するのか、そして、手続きとしてどうするかを聞いてみた。結論から言えば当然ながら、会社側からの手続きによって、なされるわけで当該者に遺族で出来ることではなかった。だとすれば会社が自発的に手続きを起こさない限りこの保険法の該当の給付金は受けることが出来ないことになる。こちらとしてはどうすることも出来ないのである。考えられることは会社へお願いをして、その手続きをしてもらうことであるが、そのお願いをするのにはどうすればよいか。中山は其処まで考えて、はたと考え込んでしまった。
「どうすればいいんだろう、会社が自主的にやってくれれば良いけど、何もしてくれなければ、このままだな。」

        波紋   第76回

2009-03-20 09:27:03 | Weblog
葬儀は終わった。しかし、小林の心は晴れなかった。仕事であちこちに歩いても、もっぱらその噂で持ちきりだった。せまい業界を一人牛耳っていたような存在でもあったので、その存在感は大きかった。前日まで現役で活躍し、話をしていたので、松山と約束したり、打ち合わせの予定をしている人もいた。「あんなに元気で
仕事をしていたのに」彼を知る人は一様にそう言っていた。
中山は葬儀の後、加代子に呼ばれていた。「中山さん、落ち着いたら一度私の話を聞いていただけませんか。いつでも良いですから、お願いします。都合の良い時にご連絡ください。」「分りました。出来るだけ早く、伺いましょう。」
一週間も過ぎた頃、会社の帰りに中山は松山の家を訪ねた。仏間に通されてお線香を上げて、写真を眺めていると、今にも隣の部屋から「一杯やりますか。」と出てきそうな気さえする。中山はしげしげと写真を見ていた。
「奥さん、大変でしたね。少しは落ち着きましたか。身体のほうは大丈夫ですか。」「ありがとうございます。まだなんだか、落ち着かなくて、亡くなったことが信じられなくています。」「そうでしょう。私も信じられなくているのです。」
「しかし、倒れる前に、何か予兆のようなことは無かったのですか。普段頭が痛くなったり、吐き気がしたりすることは無かったのですか。」「本人は何も言わなかったので、聞いたことはなかったのですが、自覚症状は何かあったのかもしれません。何しろ、医者へは滅多に行く人じゃありませんし、タバコもお酒も止められませんでしたから。」「血圧は高かったですか。」「計ったことは無かったんじゃないですか。高かったと思います。」「元気といっても、そろそろ気をつける年でしたね。」「会社の健康診断はどうだったんだろう。「それは受けてましたけど、どこが悪かったとかは聞いたことがありません。」
「ところで、会社からは何か言ってきてますか。」「いいえ、何もありませんわ。」「そうですか。会社から、何か挨拶があっても良いですね。」「あの病気は
軽い場合は意識がしっかりしていると言われています。頭痛が始まると、10分ぐらいで意識を失うことが多いのですが、数分から数十分で回復するのが普通らしいです。だから、そのときは身体も動いたと思うし、声を出すことも出来たと思うのだけど、どうだったんでしょうね。最悪の場合は、意識が戻らないでそのままになってしまいますが」「でも、発見されて、手当てが出来れば、助かる見込みはあったでしょうに、残念です。」

思いつくままに

2009-03-18 09:09:06 | Weblog
この時期、やはり卒業式のシーズンである。昔は珍しいはかま姿の着物も見られたが、それも滅多に見られなくなったが、それぞれの成長の姿は見ていてすがすがしいものである。我が家でも一番上の孫が小学校を卒業するとあって、先日祝を兼ねて買い物に付き合った。中学校で使う鞄や洋服、靴下などである。
久しぶりに一緒に歩いているうちに小さかったときからのことを思い出し、懐かしくいろいろなことが思い出された。自分の子供のときのことは殆ど思い出さないのに何故だろうと思いながら不思議な気がしている。
初めての孫と言うこともあって、関心が強かったのと、気持ちの上で少しゆとりが出来ていたのかもしれない。特にヨチヨチと歩き始めの頃の姿が思われ、オムツをしたお尻を振りながらの様子は、今でも目に浮かぶ、
そんな子が中学生になり、やがて親離れをして巣立っていくのである。こうして親の役目も終わるのかなとも思う。
お彼岸が近くなって、さすがに気温も上がり、暖かくなった。気分も変わり何となく晴れやかになる。暖かい日差しが指してくると、何となく、希望がわき、元気も出てくる気がする。とは言っても特別なことはなく逆に自分自身を顧みる事が多い
特に、年齢のことは何時も頭にあるのだが、そこそこ相応しい日々とするにはどうするか、そんなことを考える。
「人間が人間のプロになるにはどうすればいいか」。「美しく老いる」とは、どうすることか、考える。これが一朝一夕には答えは出ない。まして完成もしない。
一説にはプロになれるのは八十歳を過ぎてからだと言う。しかし、漠然と年を経ただけでなれるわけではない。其処までの毎日における心がけが大事なのだろう。
つまり日常の心がけの積み重ねで出来ていくのであろう。
その意味では年齢は主観的なもので絶対的なものではないから、個人差が大きく出てくる。考えてみれば、まだまだ努力すること、しなければならないことはあるということだが、残念ながら何をするにしても、頭に残らないことである。
まるで笊に水を汲むような感さえするのである。だからこそ、日々の研鑽が必要なのかもしれないが、時に淋しさを感じる。
春といえば、シロもくれんが咲き始めた。先日駅まで歩いていく道で不図、足元に「つくし」を見つけた。最近は滅多に見られないが、このつくしこそ春の象徴を表しているような気がして嬉しくなった。
間もなくタンポポも咲き始めるだろう。こうして今年も春がやってくる。

      波紋    第75回

2009-03-16 09:42:46 | Weblog
小林はその日のことを鮮明に覚えている。その知らせは、嘗ての同僚から知らされた。「小林さん、悪い知らせなんだけど、お知らせしないわけにも行かないので」「何ですか。悪い知らせって」「実は松山さんが亡くなったんですよ。」「えーっつ。それは本当ですか。あんなに元気だったのに、この間、会って話したばかりですよ。」「それが、突然なんです。」「仕事中だったんですけどね。」「何、そんな何か事故でもあったんですか。」「それが、トイレの中で倒れていたんですよ。」
電話での連絡に小林はいらいらしながら様子を聞いたが、詳しいことは話さない。小林は葬儀の日を聞いて、電話を切った。何が起きたのか、いずれにしても勤務中の突然死である。青天の霹靂であった。あれほど、仕事に熱心で、間もなく迎える定年を楽しみにしていたのにと信じられない思いであった。
中山には加代子から連絡があった。元の上司であり、仲人でもあり、仕事上の親代わりのような存在だけに知らせは早かった。中山は加代子に直接会い、話を聞いた。それは、断片的ではあったが、常識的には信じがたい経緯だった。
その場にいないとはいえ、半日のトイレの中での出来事は想像できなかったし、もし誰かが気がついて、手を打てば、間違いなく助かったであろうと思えたからだ。そんなに大きなトイレではなく、ましてトイレの中から助けを求める何らかの物音は其処へ入ったものなら、誰でも気がついたはずである。まして帰社時間になってもデスクへ帰ってこない松山に不審を抱くはずである。そんな中で、誰かが、
松山の異常に気がついてもおかしくないはずである。しかし現実には彼は翌日の朝まで誰にも気づかれること無く事切れていたのである。
中山は義憤に燃えていた。「そんな馬鹿なことは無い。あってはならない。」
誰かが気がついたはずである。しかし、放置されたのだ。中山には肉親にも近い思いで松山の気持ちが伝わった。「無念だったろう。苦しかっただろう。」
葬儀の日は暑い初夏の日差しが照りつける日であった。葬議場には関係者が参列していた。松山の会社の関係者がその係りであった。しかし異様なほど、一言も語るものは無く、もの苦しい雰囲気が漂っていた。小林も中山もその中で何か掴もうと話しかけそうにしていたが、それを避けるように立ち回っていた。
結局、彼のことについては何も聞くことが出来ないままに葬儀は終わった。
霊柩車を見送った小林と、中山は何も語らず、お互いに顔を見合わせて別れた。

     波紋    第74回

2009-03-13 08:25:45 | Weblog
加代子は和夫が死んだ時のことを静かに思い起こしていた。その日の朝、電話が警察からあったこと、今から考えると不思議である。和夫は会社で仕事をしていたのである。加代子は私物の整理と引取りのために会社へ行った。机には几帳面な彼らしく、パソコンが開いている横にノート、手帳、書類ファイル、ペン皿などが置かれている。其処にはまだ仕事中の姿が見えるようであった。通勤用の鞄もそのままである。余程突然の変調で気分が悪くなったのだろう。
そして、トイレに走ったのだが、そのまま翌日の朝、清掃係りの人に発見されるまで誰にも助けてもらえないままに帰らぬ人となったのだ。
トイレに出入りした人やこの部屋の人たちは、この机の主が戻ってこないことに何の不思議も何の気持ちも起きなかったのだろうか。自分がもし、この部屋の一人だったらどう思っただろう。突然の急用でも出来て急いで、出かけてそのままになっているのだろう。そのうち帰ってくるのではと思いながらも、帰ってしまったのか
。誰にも見つからず、探されないままに放置されてしまった和夫が不幸であったのだが、もし誰かが見つけて病院へ運ばれ,応急の処置がされていれば助かったのではないか、そう思うと、悔しさがこみ上げ加代子は涙がこぼれるのだった。
「くも膜が出血」と診断された。和夫はトイレの中でどんなに苦しんだことだろう。翌日発見されるまでの長い時間、和夫はそこでどんな思いでいたのだろう。
苦しい意識の中でだれか助けてくれる、だれか来て見つけてくれる、そう思って声を出していたと思う。昼間である。人の出入りのするトイレである。
誰でも良い。気がついた人がいたはずである。加代子はそう思いたかった。
「ごめんね。私がそばにいてあげられなくて、私がいたら、助けてあげられたのに
苦しかったでしょうね。つらかったでしょうね。」加代子はあの警察の安置室に寝かされていた遺体を思い出し、新しい涙に咽んでいた。
いつか、あの丘の上の伝道所の先生が話してくれたことを不図思い出していた。
「ある人が旅をしていて、怪我をして動けなくなった。其処を通る人はその人を見ても見ない振りをして通り過ぎる、しかし、その時、一番貧しい人がその人を見て助けてあげた」貧しい人、それは誰だったのだろう。隣人を顧みる人がいてくれたら、和夫は助かったのではと加代子は何時までもその思いで立ち上がる事が出来なかった。

         思いつくまま

2009-03-11 10:39:27 | Weblog
ある婦人との話で、「この頃、あれこれ考え事をしていて、ほとんど眠れないことがあるんです。」と言う話を聞いた。聞いてみると、自分のいなくなった後(死んだ後のことか?)のことをあれこれ考えているらしい。あれはどうなるのだろう。あの人はどうなるのかしら等など、そして身辺整理をしているとのことだった。
そして聞かれた。「あなたはそんなこと考えたこと無い。」「無いですね。考えても良いことが浮かばないし、何も出てこないので」と言う。「じゃあ、考えた結果、何か良いことが浮かびましたか。」「何も浮かんでこないの。」「じゃあ、考えないで、ぐっすり寝たほうが良いのじゃないですか。」と私。
しかし、私たちの毎日の生活ではこのようにどうにもならないことで、悩むことや、苦しむことが多い。それも無意識のうちに真剣に考え込んでしまうのである。勿論私も例外ではない。この世の価値観、評価基準にとらわれ、自分の生活と照らし合わせ、不安を覚え、又くよくよとあれこれ考えることも仕方の無いことかもしれない。しかし、結果として、其処からは何も良いことが生まれてこないことである。むしろ悪いことしか考えられないのである。
だとすれば、それは止めたほうが良いと思うのだが、それがそうも行かないところがこの世の習いなのかもしれない。
3月に入って、雪が降ったり、冷たい雨が続いたりしていたがここに来てやっと暖かくなってきた感じがする。不思議なもんで、そうなると気持ちも変わってくる。どうしても前向きに考えられないことでも、現状をしっかりと見つめて
そこから新しい道を見つけることが出来る気がするのだ。淋しかった黒い土だけの庭に新しい芽がぐんぐんと育ち、間もなく美しい花をつけてくれるように、楽しみと喜びを感じることが出来るのだ。状況は冬の間も、今も変わっていないのに、どうしてこんなに変わって感じるのだろう。
それは単に自分の考え方だけなのである。考え方を変えただけで、景色はすっかり変わるのである。この不思議さを私はいつも思うことがある。
人間関係も、この世の価値観も、同じであろう。
どんなに固く結び合わせた夫婦であっても、別れの時はある。まして人生はすべては別れで終わる。とすれば「それじゃあ、また」程度の挨拶がほどほどでちょうど良いと思う。

       波紋    第73回

2009-03-09 13:21:13 | Weblog
「今日は何を食べようか。」誰かが一緒であれば、声を掛け合って、「何にしようか。昨日は魚だから、今日は中華か」などとあれこれ話すのだが、誰もいないとその張り合いも無い。「しょうがない。そばでも食うか。」一人で合点しながら会社を出て店に向かった。エアコンの効いた部屋から外へ出ると強い日差しを浴びて、頭がくらくらした感じがして、一瞬強い頭痛を感じた。それは今まであまり感じたことの無い強いものだった。「痛っつ」思わず声が出て、頭を抑えて其処にしゃがみこんだ。暫くそっとそのままで様子を見ているうちに痛みが治まった。何だろうと、少し考えていたが、痛みが取れて収まったので、あまり深く考えることも無く忘れていた。店は込んでいたが、冷たいそばはのど越しが良く、おいしく食べた。満腹感は無いが、これぐらいがちょうど良いことを知っていた。夕方少し空腹を覚えながら飲む酒がおいしいことを長い習慣で体が覚えているのである。
蕎麦屋を出ると、何時も立ち寄るコーヒー店に入る。コーヒーの香りとタバコの一服が又食後を和ませてくれる。こんな時は、なまじ一人が良い。
ぼんやりと前を通り過ぎる人を眺めながら、何も考えないことがいいのだ。
女性は必ず、二人か、三人で、話しながら通り過ぎ、男性はそそくさと前かがみで歩いていく。その一人が自分であることを思いながら、松山も会社へ向かった。
午後からの仕事が始まった。習慣になったようにパソコンを立ち上げ資料の作成に取り掛かった。まだ6月だが、7月になると下期(10月から3月)の予算編成作業に入る。少し早いが気になっていた。過去の実績を整理して出し、10月以降の見通しをたてなければならない。「これで、来年はもうやらなくてもすむかな。」そんなことを不図思ったりしていた。
突然吐き気を感じた。強烈で我慢が出来なくて、デスクの上をそのままにして、トイレに駆け込んで、とを閉めて、便器に嘔吐した。しかし、頭痛が再び襲い、めまいを催してきた。苦しくなり、助けを求めて声を出したが、トイレは深閑として応答が無かった。ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをはずし、少しでも呼吸を楽にしようと無意識に身体を動かして、声を出して、助けを求めた。
まるで、荒野に一人で置かれたような孤独を感じていた。それにしても頭痛がひどい。何だろう。どうしたのか。どうにもならないもどかしさが続いた。
そして、意識が遠のいていくのを感じていた。