波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

泡粒の行方    第8回

2015-05-30 09:43:02 | Weblog
教員室は広く、そこには日ごろ怖いと思っている先生がずらりと居るのが見える。欽二はその中を恐る恐る担任の山口先生のところへ近づいた。「まあ、すわりなさい」そういうとやさしい目で椅子を指差した。「もうすぐ三学期が始まるのだが、組変えはない。そこでクラスの副級長の役を君に頼もうと思っているのだが、どうかな。」と言うと少年の顔をじっと見た。思いも寄らない先生の話を聞いてほっとすると同時に自分にそんな役が出来るかと嬉しいような怖いような複雑な思いですぐには返事が出来なかった。
普段でも身体が人よりも小さく貧弱だったこともあり、いじめまでは無かったが、目立つわけでもなく、まして勉強の成績が良いわけでもなかった。
「でも僕なんか、そんな大事な役目、出来るかな」と小さな声でつぶやくように言うと「出来るよ。自信を持って一度やってごらん」と励まされる。
「分かりました。頑張ってやってみます。」「そうか。それじゃあ三学期から頼むよ。皆にも明日発表するからね。もう帰っていいよ」飛び上がるほどの嬉しい思いをじっと抑えて静かに教員室を出ると急に嬉しさがこみ上げてきた。
あれほど一度やってみたいと思っていた朝礼の整列の役目が出来るのだと思うと、なんとも言えない気持ちがこみ上げてくる。
誰にこのことを言おうか、友達にはとても言えない。でも誰かにこのことを言いたい。
厳格な両親の顔はすぐ浮かんだが、すぐ言う気にはなっていなかった。日ごろ学校から帰ると「今日は学校で何があったの、何か言われたことは無いの」と母親にしつこく言われ
報告するのが習慣である。いつか先生から学校へ持参するものを言い忘れて家に取りに帰り、ひどく叱られたことがあり、あまりなんでもいう気持ちが無かった。
然し今日はこのことは言わなければいけないかなと思い、母親に今日の出来事を話した。
日ごろは強い口調で返事をする母がその話を聞くと珍しく、「良かったね。しっかり間違えないようにやるんだよ。」と嬉しそうであった。
10歳違いの兄が優秀でせいせきも良く、良い学校へいっているせいか、兄のことは何事によらず一生懸命であったが、下の弟と自分にはあまり関心が無いかのように感じていたが、この時だけは母の嬉しそうな顔を見ることが出来た。
やがてその日が来た。朝礼の整列のとき、一番後ろに立ち、整列の様子を指示する自分が誇らしげであった。

思いつくままに   「絆」

2015-05-27 09:28:08 | Weblog
2年ほど前に流行語になったほど、毎日この言葉を聞いていた気がするのだが、最近は稀にしか聞かなくなったきがする。では人の心に「絆」は失われてしまったのだろうか。
否、はじめから無かったのだが、何いtかのきっかけで使ってみただけなのだろうか。
私は最近この言葉に心を惹かれている。辞書にはこの言葉の意味として「物をつなぎとめる綱」「断ち切りがたい気持ち」のこととあった。しかし、この言葉の延長には、さらに
「信用」「信頼」「誠意」という言葉につながるような気がしている。
つまり現代のこの世の生活においてこの言こ葉が本当の意味で生きている場面がどれほどあるのだろうかと思えるからだ。いこの言葉が目に見えて示されれば人はこれを信じるし
説得力も出てくるが、しかと目に映り、残るものではない。これが絆だと示すことは難しい。辞書の言葉にあるようにこれが心と心をつなぎとめる綱であると言うものが生かされ
断ち切りがたい気持ちで交わりを持つことなどは、あってもほんの稀なことであろうし、多分に自己本位のことでしかないのではと自らを省みて自分自身で反省せざるを得ない。
そして自分自身原点に立ち返ることからはじめなければと思うのだ。
何もそんなに大げさに考えることではない。どんな人でも人と人との交わりにおいて
どれほど自分の思いよりも相手の思いを十分に理解し、尊重しているかと言うことである。聞くことにしてもはなすことにしても自分中心ではなく、まずその場面、場面においてどのような交わりが出来るかで決まるのである。つまり心と心をつなぎとめることを考えつつ、それを行動にあらわすことであろうと思う。
聖書には悲しむものと悲しみ、喜ぶものと喜べとあるが、まさにこのことをさしていると思う。そしてその言動こそが絆を生んでいくのだと思うべきである。
人間関係はこの世にある限り続くのである。誰でもいつでも何処でもこのことを原点としなければ本当の「絆」は生まれてこない。
目に見えない力こそ大きいものであることを改めて知らされている。


泡粒の行方   「第7回」

2015-05-23 09:22:53 | Weblog
少年欽二の生い立ちは二度の危機を乗り越えて育った。どちらの場合も、悪ければそこで
その人生は終わっていたかもしれないのだが、それは目に見えない力によって救われていたのである。その後は順調に成長し、近くの学校へ通うようになった。戦前とあって何となく不穏な空気も無いではなかったが、毎日が楽しく過ごしていた。
朝は運動場で朝礼から始まる。各学年、各クラスごとに一列に並び校長先生のくんじ、そして担当の先生の挨拶、体操と続く。
整列する時には各クラスの一番前に「級長」と呼ばれるリーダーが立ちクラス全員の列をチエックし、最後尾に「副」と呼ばれる生徒が前を見ながら整列を監視するのだが、
欽二少年は何時かこの役をしてみたいと思うようになっていた。しかしこの級長とか、副級長は生徒の自由にはならない。全てそのクラスの担任が決めて、支持するのだ。そして
当然ながらそこには学校の成績も加味されていた。つまり頭の良い子が級長として選ばれるのが基準であった。
欽二少年は成績が良かったわけではない。だから選ばれる確立は殆どないのだが、何故か、一度あそこにたってその役をしてみたいと毎日思うようになっていた。「一回列の後ろに立って整列の役をしてみたい」それは本能的な彼の性格であったのか、素朴に世話をしたいと言うことだったのか、目立ちたかったのか分からない。ただそんな思いを毎日持ちながら朝礼を続けていた。
そしてある日の午後、授業が終わって帰ろうとしていたとき、担任の山口先生から声がかかった。「欽二君、今日掃除が終わったら教員室まで来なさい。」ドキッとした。
自分が何か悪い事をしたのを見られていてそれをとがめるために呼ばれたのだと一瞬、そのおもいがよぎったのだ。
自分では何も覚えが無いが、何か悪いことをしてそれを見つけられていたのか、いたずらをしたり、廊下を走ったり、友達のものを取って投げたり、クラスごとに毎日様々なことが起きているが、本人たちはその事をいちいち覚えているわけではない。
しかし、先生は自分のクラスの監視はしっかりしていた。
そしてその日の全ての行事が終わり生徒は三々五々帰途に着いた。欽二少年はその時、
恐る恐る教員室のドアを開けてたっていた。

思いつくままに   「終活に向かって」

2015-05-20 11:04:25 | Weblog
毎日少しずつでも本を読むようにしているが、その中で「全てのものが辿る道」と言う言葉があった。聖書のダビデ王の最後の言葉であり、遺言でもあるということだが、その言葉の後に「全ての良いことが御言葉通り実現した」と続いていた。
80歳を迎えて自分探しをしていた私にはこの言葉を大変深い思いで読むことが出来たのです。友人、知人が年々この世を去っていく現実の中に置かれ自分もまた同じ道を辿るのです。これからの時間は賞与として与えられた時間でもあるのです。つまり規定外の時間とも言えるかもしれません。だからと言って何をしても良いとか、何もしなくていいと言うことにはなりません。肉体的にも精神的にも弱り行く時間の中で如何に生きるのか、
これはある意味、今まで以上に大切な時間であり、重要な問題でもあるのです。
70歳代の時にはその内身辺整理をしてその中から好きな道を選んで好きな事をしようと
気楽なことを考えているうちにいつの間にか、何もしないうちに何も出来ない状況にある
自分を見ることになっていたのです。
一番ショックだったのは健康に欠陥が出たことでした。やはり自分の注意不足であり、管理不足であり、勉強不足であったことを知りました。つまり健康についてもう少し
考えて行動をすることにあったのです。もちろん想定外のこともありますが、自分の事をもう少し見直すべきだったのです。
そしてもう一度身体を大切にすることを大事な義務としながら、生きている限り「全てのことが良いことが実現した」と言えるように最後は終わることを願って日々努めることを願い、努めなければと考えるのです。
この世に生かされて自分が辿ってきた道は決してほめられたものではありません。
その罪過は自らが負うことも覚悟しなければなりませんが、今おかれている自分がなすべきこと、日々の努めが「全て良いことが実現した」と言えるようにすることにあると考えられます。その為にまだまだすべきことがあるのかもしれません。
そのときを迎えるときまで良いことが実現したと自信を持って言えるように心がけたいと
考えています。

泡粒の行方    第6回

2015-05-16 09:54:53 | Weblog
この事件の詳細を知るものは居ない。落ちた本人も何も分かっていない。事実は「落ちたよ」と言う子供たちの声に驚いて2階からから一階へ降りてきた母親が、裏へ回りその落ちた箇所へ向かおうとしたときに、裏口から青い顔をした息子がふらふらと歩いて近づいてきたことだけである。そして母親の胸に倒れこんで気を失ったのである。
当時は救急車も無く、慌てて其のまま近くの病院へ行き、急の知らせを受けて帰宅した
父親も駆けつけて、医者の手当てを見守るだけであった。幸い子供は意識を戻したが、すぐに動かすことも出来ず、絶対安静の状態で様子を見ることになった。二日過ぎて異常
(発熱、頭痛他)も出なかったので、医者も帰宅を許し家族は子供をつれて帰宅することが出来た。母親はその後も心配して何か後遺症のようなことが無ければよいがと心配をしていたが、当人は無邪気にいつものように遊ぶようになった
あれからその路地裏に行って親は何処へどのように落ちたのか、そのあたりを何度も調べたようであるが、怪我の血がついた様子も無く、何も気になるものは見つからなかった。
漬物石や桶などもあったが、壊れている様子も無い。しかし落下したことは事実であり、子供がふらふらして気絶したのも事実である。ただ肝心の蝋石は見つけることが出来なかった。この世の中には不思議なこと、考えてその事実が解明されないことは幾つもある。
この場合も落下したことからくる、何らかの障害、もし無ければどのように落ちて助かったのか、それを知りたくなるものだが、この場合結局、何も分からないままであった。
信仰者であった両親は子供をつれて教会へ行き牧師に報告し、ともに祈りをささげたのである。神によって命が助かったとしか言いようが無かったのである。
就学前で幼稚園へ行く子供も居たが、この子供は行くことは無かった。近所の路地裏を駆け回り鬼ごっこだったり、かくれんぼであったり他愛の無い遊びのうちに過ごしていた。
時間ができると母が弟を抱いて近所の公園(浜町公園)へ連れて行った。当時はそこが
遊園地であった。ブランコがあり、滑り台があり、砂場があった。何時まで遊んでも飽きることはなく時間が過ぎるのを忘れさせてくれたのである。

思いつくままに  「ゴールデンウイーク」

2015-05-13 09:52:01 | Weblog
毎日、家にいて好きな事をしていると世間で話題にしているゴールデンウイークがぴんとこなくなっている。しかし一般的には海外へ行く人、旅行を計画して早くから準備をしている人など、この時期を楽しみにしている人は大勢居る。私もかつてそんなときがあった。中でもカシオペヤ号で北海道旅行をすることが出来たときはチケットの手配からその日が来るまで胸がどきどきするほど楽しみして出かけものである。
今年もそんな時期が来たんだなと新聞を見ながら思っていたら、ご無沙汰していたと継いだ娘から電話があった。「ジジ元気にしている。明日で休みも終わるのでちょっと行くよ」と言う。孫娘が二人居て今年は両方で受験があり、正月も来ないでもうこれで私の役目も終わったと忘れがちであったが、突然の電話で「元気しているよ。おいで」と返事した。当日朝から家族でやってきてお茶しながらわいわい近況を話ていたら、「ジジ、今日はジジのめがねを買いに行くんだからいらっしやい」と言われて「そうかい」とついてゆくことになった。昨年暮れに転倒したときに傷んでいたのを覚えていたらしい。
黙ってついていき、新調してもらう。そしてお昼を一緒に済ませると「じゃあね」と
帰っていった。何も出来ないので、くることの出来なかった孫の分のケーキを持たせたぐらいである。
そしてその後数日して今度は息子から「親父、今日は何も予定は無いか」と聞いてきた。
何も無いことは分かりそうなものだが、何か予定でも入れているかと聞くところは、やはり自分が仕事をしている習慣であろうか。「何も特別無いよ」と言うと、親父の好きなうなぎを食いに行こうかと思って誘ったのだと言う。
その店は成田空港の近くで少し遠いのだが、不思議と客が毎日殺到していて、私も何度か食べておいしいことは知っていた。「遠いから近くでいいよ」と言ってみたが、「やっぱり食べるんならあそこがいいよ」と言いながら車で話をしながら行くことに成った。
開店前なのにすでに客が来ているので、時間になるとすぐ一時間待ちになるほどで、大変である。食べた後、なぜこのうなぎ店に集中するのか今でも分からないのだが、人気は変わらない。そんな訳で予想もしないゴールデンウイークを過ごすことになった。
子供たちも家庭ができて子供や仕事で忙しくなると親のことは忘れがちになるのは当然であり、それでよいのだが(親も責任を果たした思いでいる)突然思わぬ形でこんなプレゼントをしてもらうと、何気ない親孝行をしてもらった気持ちで、胸が熱くなった

泡粒の行方   第5回

2015-05-09 11:20:46 | Weblog
子供たちの遊びは単純だ。まだ複雑な高級なものが無いから手近であそべることをするしかない。男の子はその中でも「蝋石」が宝物だった。書くことが好きなこともあり、何処でも簡単に何でも書けることが嬉しかった。そしていつでも、どこでもそれを手にして話すことは無かった。その日も友達が2、3、人集まって3階の子供部屋で遊んでいた。
母親は2階で幼い赤子に乳を飲ませ、父親は本社から送られてきた製品をリヤカーに積んで客先へ配達のため留守であった。のどかな昼下がりのことである。そんな時、いつもいじめられ役で友達にちょっかいを出されるのを嫌って男の子は物干し場のほうへ一人で行って遊んでいた。物干し場は板場になっていてその板場の間に隙間があり、雨が降ると流れるようになっていた。男の子はその時もしっかりと蝋石を手にしていたのだが、何かの拍子に蝋石を手から離してしまった。蝋石は板の間の間から屋根に落ちてしまった。
男の子はこの宝物を何としても取り戻すために危険とは分かりながら屋根に降りることを
決心した。それは5歳の子供にとっては大変な冒険であった。
辺りに誰も診ていないことを確認すると彼は小さな足を手すりの上にかけてよじ登りまたがると物干し場の外へ出ることが出来た。しっかりと手すりに手をかけてもう一方の手で
落とした蝋石をしっかりと掴むことができた。
大事にしていた蝋石である。これでこの大切なものを取り戻せたと言う安心感が頭をよぎった。その瞬間だった。安心と同時にしっかりと握っていた手すりの手をうっかりと離してしまったのである。
それからのことは男の子には記憶が無い。物干し場から一階の裏通りまでの高さは
約10メートルぐらいであろうか。裏側は細い路地になっており下水の流れる溝が通っていて溝には板場か飼っていた。そしてそこは普段使わない漬物桶や漬物用の石とか不要なものが置いてあった。
物干し場に居たと思っていた友達は男の姿が見えなくなったことに気がつくと
「欽ちゃんが落ちたよ」と大声で叫んだ。大きな声で子供たちが騒ぐので母親もその声に気がつき、赤ん坊をそこへ置くと一階に下りて、すぐ路地裏へまわった。そして子供の姿をと動転しながら向かおうとしたとき、その男の子がふらふらと歩いて母親のほうへ近づいてきた。そして母親の胸に抱かれた瞬間に気を失ったのである。

思いつくままに   「終わりは始まり」

2015-05-06 09:31:04 | Weblog
今から20年ほど前に定年退職をした。そして直後にまだ何か出来るかと言う気力もあり、30年事務所を置いていたビルの管理会社の手伝いをすることにしたのだが、これが間違いの始まりか、異業種であること、使われたことの無い経験不足とでまったく役に立たず
2年ほどで首になった。(当然である。)それから今まで自分のしていた業界の仕事を細々とするようになり(現在は息子に一任)「毎日が日曜日」の生活に入った。
その頃週に一度子供たちと神様の学びをしながら過ごす務めを託されて20年ほどになる。
子供たちと過ごす時間は不思議なほどに都市を忘れ、身分を忘れ、子供と一緒になることが出来た。それは不思議な時間であり、若返りの時間であったかもしれない。
四季折々に色々な行事があり、(イースター、母の日、花の日、夏季学校、遠足、クリスマス)思いがけず、個人では経験できない世界を見ることが出来た。しかしこの務めにも終わりがあった。昨年クリスマスを終えた瞬間に失神を起こし、救急車で運ばれると言うことになり、これを契機にこの務めも終わることになった。
人生は面白いもので何か始まっても必ず終わりが来る。しかし、生きている限り又何か始まるものでもある。その頃となりのババと近所のジジとでトリオ会を始め、月に一回の食事会や風呂めぐり、道の駅めぐりと年齢相応の交わりが始まったが、今年の3月突然のババの死亡で(心臓発作)でこれも終わりとなった。
今は充電期間として残された時間を読書と学習と趣味の時間として楽しみを模索しているのだが、これが身体的にはあっているのかもしれない。何しろ80歳の大台を超えたのである。(平均年齢)これからはあまり気負わないで自然体で時間を楽しみながらぼけない程度に学びをしていきたいし、好きなTVをみながら自分なりの楽しみを見つけて生きたい。強いて言えば家族の成長と平安であるが、(自分のことはもう十分)孫の成人式、結婚式、ひ孫の誕生、息子、娘の家庭の幸せがあるが、これとて自分の思いでどうなるものでもない。それは大いなる神の思し召しにある。
私はそれを静かに見守るだけでよいのだ。しかし、これで不幸と言う気持ちは無い。
むしろ幸せを感じている。それは健康に恵まれていることと一人で自由であること、
大いなる神の懐にあることであろう。

泡粒の行方   「第4回」

2015-05-02 10:19:42 | Weblog
家族は両親と差人の男のこで落ち着いた。父親は女の子が欲しかったようで幼児で亡くなった女の子の写真をいつも懐に入れていた。兄弟とはいえ、長男と次男は10歳も離れているとすることなすことが全然違い、何もするにも一緒にと言うことはなかった。
次男で生まれた男の子がようやく近所の友達とあぞぶ頃には中学進学のための準備が始まっていた。長男の男の子は何をするにも熱中し夢中になる傾向があり、その頃流行していた「べーごま」に夢中になっていた。どうすれば勝てるか、どうすればたくさんのベーゴマを集めるか、その事に熱心に考えて形の角度を色々と工夫していた。そしてその成果は抜群だった。近所の子供たちを集めて隠れてやるベーゴマ大会には必ず勝ちその成果として取り上げたベーゴマはみかん箱一杯に集まっていた。それは彼の優越感を満足し勉強は次第におろそかになっていた。
そしてあるときそのことは父親の知るところとなり、受験勉強もしていないことを散々注意された。何といっても長男である。父親にすれば何としても一人前の大人にして後の事を考えていた。公立の学校(府中第一ほか)は今からでは到底間に合わないと先生にも言われ、どこか行けるところをと調べながら、余裕も無いのに家庭教師を見つけてきて付きっ切りで受験の準備をしていた。元々その気になれば夢中で集中力のでる長男の性格は
ベーゴマでも分かるようにその気持ちが受験に向くと、成績はめきめきと変わり当時では
数少ない私立ではあったが、青山中学へと入学が出来た。父親の喜びは一入であった。
その頃、次男の男の子はそんなことは露しらず無心に遊んでいた。と言っても他愛の無い
遊びが多く、かくれんぼであったり、ロー石での道路での落書きであったり、他愛の無いものであった。雨が降ると3階の子供部屋へある待っておもちゃであったり、絵本であったりとしていたが、それでも結構楽しい日々であった。
そんなある日、いつものように男の子は友達数人で3階のもの干し場で騒いでいた。
男の子は宝物のように蝋石を持っていたが、その時弾みで板の間から蝋石を屋根の上に落としてしまった。それは彼にとってはとても大事件になった。
何しろかけがいの無いものであり、自慢でもあった。書くことが好きだった彼には貴重品であったのだ。それが手の届かないところへ落ちた。彼はそれを取り返そうと必死に考えたのである。