暫く留守をしていた自宅へ帰ってきた。家の中は変わらず静かであり、いつものように掃除も出来ていて片付いていた。ほっとしていつものように庭を見ながらお茶を飲む。
さすがに庭は荒れていて草が生えて汚らしい。珍しく手袋とスコップを手にして庭に下りる。慣れない手つきで草を抜き始めた。植えておいた花もすっかり枯れて見る影も無い。
やはり家は留守にすると荒れてしまうことが分る。
旅は楽しく、また人との出会いもあり、得る事も多いがまた去るときの淋しさが残る。でも人は皆夫々同じであろうか。家族であれ、会社であれ、学校であれ夫々の場での交わりはあるが、行き着くところ最後は自分自身のところだ。「私はいったい何者なのか、私とは何なのか」
こう考えて自分に問いかけていくと、答えが出てこない。この答えは死ぬまで分らないままなのだろうか。考え方を変えて、もし何かを自分で作ったものだとすれば、それについては自分が何でも分るだろう。動かすことも、それが何が出来るかも、またそのものの良いことも悪いところも分っている。また如何することが正しくて、如何することが悪いことかも分るから間違うこともない。
だとすれば自分を創った作り主が分れば何か分るかもしれないことになる。
簡単に考えれば、それは「親」の存在であろう。両親から自分が生まれ、この世にあるとすれば確かにそうかもしれない。だから、ある一定の時間の中で育てられ、人間としての成長が見られる。しかし親の存在もまた、いろいろな形で限界がある。初めから親に助けられないこともあれば、そうであっても理想的には成長しないことが多い、ましていつかは居なくなる存在でもある。つまり親もまた人間であるからである。
そう考えると、自分の作り主はどこにいるのか、その作り主は自分が何であって、どう生きなさいと言うのか。そこにたどり着くことになる。自分の思うこと、考えていること、自分のしたいこと、すること、それが全てではない。それが全て正解ではない。
あえて言うなら、「これで良いのか。」が何時も頭にないといけないのかもしれない。
今までの自分があまりにも、自分中心の生き方であったことが分って来た様な気がする。
オヨナさんはきれいになった庭を改めて眺めながら、少し気持ちが静まるのを感じていた。これからは自分の作り主を忘れないで、生きてみたい。全てではないが、そのことを覚えながら人生を歩むことにしたい。
さすがに庭は荒れていて草が生えて汚らしい。珍しく手袋とスコップを手にして庭に下りる。慣れない手つきで草を抜き始めた。植えておいた花もすっかり枯れて見る影も無い。
やはり家は留守にすると荒れてしまうことが分る。
旅は楽しく、また人との出会いもあり、得る事も多いがまた去るときの淋しさが残る。でも人は皆夫々同じであろうか。家族であれ、会社であれ、学校であれ夫々の場での交わりはあるが、行き着くところ最後は自分自身のところだ。「私はいったい何者なのか、私とは何なのか」
こう考えて自分に問いかけていくと、答えが出てこない。この答えは死ぬまで分らないままなのだろうか。考え方を変えて、もし何かを自分で作ったものだとすれば、それについては自分が何でも分るだろう。動かすことも、それが何が出来るかも、またそのものの良いことも悪いところも分っている。また如何することが正しくて、如何することが悪いことかも分るから間違うこともない。
だとすれば自分を創った作り主が分れば何か分るかもしれないことになる。
簡単に考えれば、それは「親」の存在であろう。両親から自分が生まれ、この世にあるとすれば確かにそうかもしれない。だから、ある一定の時間の中で育てられ、人間としての成長が見られる。しかし親の存在もまた、いろいろな形で限界がある。初めから親に助けられないこともあれば、そうであっても理想的には成長しないことが多い、ましていつかは居なくなる存在でもある。つまり親もまた人間であるからである。
そう考えると、自分の作り主はどこにいるのか、その作り主は自分が何であって、どう生きなさいと言うのか。そこにたどり着くことになる。自分の思うこと、考えていること、自分のしたいこと、すること、それが全てではない。それが全て正解ではない。
あえて言うなら、「これで良いのか。」が何時も頭にないといけないのかもしれない。
今までの自分があまりにも、自分中心の生き方であったことが分って来た様な気がする。
オヨナさんはきれいになった庭を改めて眺めながら、少し気持ちが静まるのを感じていた。これからは自分の作り主を忘れないで、生きてみたい。全てではないが、そのことを覚えながら人生を歩むことにしたい。