波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

白百合を愛した男   第46回

2010-11-29 10:31:26 | Weblog
D社のある役員会議室である。そこにはD社の関連事業部の役員を初めそのスタッフが
顔を揃え、こちら側には岡山から出てきた4人の役員が緊張の面持ちで坐っている。
「まず、そちらのお考えをお聞きしましょう」穏やかなD社側の挨拶から話し合いは始まった。用意された約定を基に説明に入る。何か条かの希望条項の織り込まれたものの
読み上げたあと、説明が済むとその内容についての質疑応答に入る。
「大体のご希望の内容はお聞きしました。しかし、こちらとしてもこの会社を経営していく上で、当社の方針があります。その方針に基づいて具体的に会社をどのようにするかを検討してまいります。その場合、方針に合わない内容、または沿い得ない内容が出る場合もあります。その時は当然ご相談はしますが、私どもの考えで行うことがあることを御承知ください。まず、第一には資本比率は当然ながら50%以上であること。代表責任者は当方の派遣者であること。」「その他の役員はどうなるのでしょうか。?」慌ててきく。
自分達の立場が危なくなることを心配しているのだ。「まだ正式にはお答えできませんが、出来るだけ留任してもらえるようにします。但し、財務担当役員は私どもの方から派遣しそのものの方針で行いますので、そのことはご了解ください。」さすがに大事なところはきちんと釘を刺してくる。「社員を始め、労働組合などはどうお考えですか。最近はオルグも入り、結構交渉も多く、うるさいのですが、」「そのへんは従来どおり、そちらでしっかりまとめてください。要求事項も今までのように甘くはなりませんよ。」
「待遇面はどうお考えですか。」「根本的には会社の業容が大事であり、会社が儲かっていなければ、当然それに応じたことを考えていかなければなりません。損出が出ていなければ現状を維持しながら推移を見ていくことになります。但し、関連会社(子会社)は基本的に本社の70%から80%という慣例がありますので、その事を御承知ください。」
話を聞きながら、岡山の役員は想像以上の厳しい内容で、甘い想定をしていたことを後悔し始めていた。「こんなことなら、ここへ来るんじゃあなかったか」と思う役員もいたが、今更後にも引けなかった。といって、身体を張ってここはこうして欲しいともいえる力も度胸も無かった。言われるままに説明を聞きながら、次第に不安が広がり、これからどうなるのだろうかとの思いで全員が暗い気持ちでいたのだ。

白百合を愛した男    第45回

2010-11-26 10:01:42 | Weblog
一夜のうちに会社の様子が変わってしまった。その事実はその夜のうちに知れ渡っていたからである。朝から全体がざわざわと落ち着かず、あちらこちらでこそこそと話しているのが聞こえる。朝礼での挨拶も事実を認める知らせはあったが、詳しいことは調査の上でとぼかし、いつものように仕事は始まっていた。美継はその年の春、常勤をはずされ
非常勤の相談役として週に一度の出社であった。創立者と共に戦後の会社を様々な困難を乗り越えてきた。後継者についても子供に恵まれないために、養子を迎え、又姻戚から三顧の礼で頼みと足を運び、仕事も少し落ち着くと世の中の変化で長続きせず、又新しい仕事を探し何とか今日まで築いてきたのだったが、それも今となってはむなしいものになってしまったのか。その出来事をどのように考えるべきか、そしてどのように今後すべきか、現役を離れた今となっては、見守る他はなかった。
事態はひそかに動いていた。社長、専務を除いた全役員は至急集まり、この非常事態をどのようにするかをひそかに相談していた。しかし、突然のことであること名は役員とあってもその責任と仕事において、その自覚も無いままに置かれていたこともあり、自分がその火の粉を被るという勇気も無く、またその責任を背負って仕切っていくと言う野心を持つものもいなかった。つまりは何とかこの難関をどこかに押し付けて責任を逃れることを考えていたのだ。「株主の方々に報告し、相談しなければならないが、それにしても
何の策も無く行くわけにも行かない。何かよい方法は無いか。」
「今度資本参加してもらったD社さんにお願いしたらどうだろう。あの会社は近いことだし、大会社だからこの会社の株を買ってくれるだろう。あそこに全部頼んだら良いんじゃないか。ただし、私達の身分は保証して貰わないと困るけど」一人の役員が言うと、後は何の考えも浮かばないこともあり、一も二も無く異論も無い。それから大株譲渡に関するいくつかの条件が検討された。それらは自分達の身分と、労働組合が騒ぎを起こさないように最低の条件が具体的に盛られていた。「こんな所でどうだろう。後は交渉次第だが、その場で話し合うことになるな。」一人の役員の発言に引きずられるように話は決まった。数日後、D社の本社役員質での会談が持たれた。即答は避けたがD社側も買収に乗り気であり、後日の回答待ちで話は終わった。
美継は相談役として報告を聞いた。しかし何の意見も聞かれず、語ることも無かった。

思いつくままに

2010-11-24 11:27:49 | Weblog
世の中には色々な夫婦がいるが、私の知っている人でかなり年の離れた夫婦がいた。
ご主人が頭の禿げた風采の上がらない人であったことと奥さんがなかなかの美人であったことが印象的で覚えている。このご主人は当然のごとく、奥さんの欲しいものを買い与えて犬であれば血統書付きのものでありコートであれ、服であれ、それはブランで物であった。そんな生活を垣間見ているうちにその奥さんはピアノを習い始めた。
そのピアノ教師は今で言う「イケ面」であり、二人はたちまち男女の仲になり、そのうち
奥さんはその教師といなくなっていた。ご主人もそのことにあまり頓寂することもない様子で話は終わったのだが、この事を知った後で人間は物事が満たされても、心は落ち着くことなく更にあらぬ方向へ飛んでいくことが分った。
つまり物質が人を幸せにすることと、必ずしも結びつかないことが見えたのである。
このようなことはこの世の生活においては、たくさん例があり、分っていることのはずなのだが、どうしても現実的には「あれもほしい、これもほしい」との欲望が消えないのも事実である。嘗ては自分もそんな思いに駆られて手に入れたり、したいことをしたこともあったが、次第にそれは変化してきたように思う。
一つには周囲の隣人達が次第に消えていったことが大きい。この数年だけでも長い間共に交わりを持ってきた人たちがいなくなっているし、兄弟もいなくなった(兄は昇天、弟は病気療養中)こんなにも現実の問題として目の当たりにすると、今の自分の置かれている状態を見直さないわけにはいかない。そして、健康であることの尊さ、又大切さを思わないわけにはいかない。そして、この事が本当の恵みであり、感謝だと知らされるのである。若いときから人生をどのように生きていくか。それは大きな課題として考えて
置かなければならないことであったが、出来ていなかった。
しかし、このまま終わるのではなく、何を目当てにして最後を迎えるか、それはそれぞれが大切な課題として考えなければいけない事だと思う。
秋も深まり、花も球根の芽を見るだけの時期になってきた。その中にあって、一日、一日が心安らかに過ごせることの幸せを感謝している。

白百合を愛した男     第44回

2010-11-22 10:32:12 | Weblog
工場のある地方は岡山県でもかなり北にあたる田舎である。前には岡山の三大河川の一つである吉井川が流れている。この川は魚が豊富で何でもつれたり、取れたりして子供たちや大人も楽しめるものだが、特に稚魚を放流して育ててとる、「鮎」は豊富であり、有名である。その時期になると周辺の料理屋ではこれを様々な料理として「鮎尽くし」として
観光客にもてなすのが慣わしになっている。そのほか、「うなぎ」も楽しみの一つで「もじ」と言われる道具で簡単に取れていた。周辺の山はあまり目立ったものは無い。岡山といわれるように丘に近いような低い山が連なっている。
南部の方へ行くとぶどう、桃と豊富な産物が取れるが、北のほうでは気候もかなり違い、
取れるものが少ない。そんな中で、赤松の山があちこちにあり、その年の気温、雨、などの気候条件によっては「まつたけ」がかなり取れることがある。しかし、この山の持ち主は特定の人のものであり、その恩恵にあずかるには、かなりの手順と資金が必要になってくる。それはこの取得権利を入札で入手するからである。毎年この時期になると、限られた山を何人かの希望者によって入札が行われ、その権利を得ることになる。
その年、地元のある名士がその権利を入手した。そして地元の関係者を招待して振舞うのが慣わしであった。美継はその招待には入っていなかったのだが、社長と、孫の専務の二人がその席に招待されていた。山では赤々と火がたかれ、マツタケが山に詰まれて宴会が始まっていた。やがて宴も終わりに近づき、三々五々とお開きになった。
現地から自宅まではそんなに遠くないとあって。社長と専務は少しほろ酔いながら車で帰ることにした。程なく自宅の前まで着くところまで来た時、その玄関前の電柱に車は激突した。二人は意識不明になり、通行人によって助け出された。
しかし、その結果、社長は即死、専務は意識不明の重傷であった。家の前での安心から来る酩酊運転の交通事故であった。
しかし、ことは隠密のうちに処理が行われ、最低限の記事のうちに事は処理されて進んでいった。しかし、会社としては当に青天の霹靂であり、これから先をどうするか、全くの予測も付かない状態に陥ったのである。
翌日、その知らせを受け、美継は神の前に祈りを捧げると同時に、「好事魔多し」の
言葉を噛みしめ人生のはかなさを知るところとなったのである。

       白百合を愛した男    第43回

2010-11-20 11:55:00 | Weblog
この新しい製品は時代の要請にのって販売が開始された。同業他社との競争もあったが、
その販売は嘗て美継が担当してきていたが、今やその息子達がそれを担当していた。
蛙の子は蛙の例えのように息子達は恐いもの知らずの活動を開始していた。
美継はそれを暖かい目で見ると同時に自分の経験から注意を促すのだった。
月に一回の本社での会議では親子で顔を合わすこともある。会社では面と向かって具体的な話は出来なくても、家に帰れば親子である。
「お前、最近経費の使い方が多すぎるから、注意して使うようにしなさい。」
「お父さん、そんなことを言ったって今は時代が違うんだ。今は人間関係を大事にしてその信用で取引が出来るんだ。そのためには接待費も必要経費だよ。」
「それは自分が遊びたいための口実だ。そんなものは無くても充分仕事は出来るし、お父さんはそれでやって来た。」
美継はそんな話をしながら、昔を思い出していた。嘗て自分が東京で営業で売り込みをしていた頃も同じようなことはあった。酒の飲めないためにお客の相手が出来ないために、
いよいよ酒席に出るときは、酒の強い部下を連れて出ていた。
お客は機嫌よく酒を飲み席が盛り上がる。そして二次会へと勢いが付く。そんな時美継は
身体を理由にその席を上手に避けていた。部下はそのためい犠牲になり、酒に負けてしまうこともあったが、美継はそのことを思い出し、今も変わらない世界であることを思い、
息子がこの世界で誘惑に負けて失敗をしなければよいが祈らないわけには行かなかった。そして、70歳を過ぎ、間もなく自分の役目が終わる事も覚悟しなければならなかった。
幸い後継者の社長も、自信を持って内外の仕事の責任を果たすようになり、創立者の孫も成長し、社長を補佐して仕事を担当するようになっていた。戦後の荒廃した工場から今日まで、色々な困難や苦難がありながらそれを乗り越えてきたことそして自分の家を持ち、
息子達もそれぞれに独立して家庭を持つことが出来たこと、妻は若くして病死したけれど
今日までの自分の人生を顧みて本当に幸せだったと思うこの頃であった。
何時引退してもよいと、心が安らぐ日々が続くようになっていた。
その日は突然やってきたのである。それはある秋の日の夜のことであった。

思いつくままに

2010-11-17 10:20:34 | Weblog
二人のじい様の会話が聞こえる。
A「最近、面白いことでもあったかね。」B「そうだな。この年になると若いときと違って、誰も声をかけてくれる人もいないし、自分で何かするのも億劫になるし、何も面白いことはないなあ。」A「しかし、元々私たちはどんな人であっても、何も持たないままでいたんだし、誰もいなかったんだから、そのことを思えば、今の私たちは別に不思議では
無いのではないのかなあ。」B「だけど、この間珍しいことが起きたんだ。」A「何だ。
何だ。その珍しいことってのは」B「まあ、あわてるなって。もう暫く前のことなんだが、いつも行っているジムでトレーニングしていたんだ。そしたら、隣から声をかける人がいたんだ。まさか自分のことではないと思っていたんだが、聞いていると私に話しかけているんだ。見ると、中年のお姉さんなんだ。色々トレーニングのことを聞かれているうちにお茶でも飲もうと言うことになって、時間を決めてお茶したんだよ。」
A「へえーそんなことがあったのか。で、どんな話をしたんだ」B「メールアドレスを教えてくれって言うからアドレスの交換をして、別れたのだが、その後、休みの日は何をしているかとか、どこかでゆっくり話をしないかとか、誘ってくるようになってね。
この歳ではのこのこ出かけていくのも、どうかと思って、ジムでお会いしたら又お話しましょうと、はぐらかしていたんだ。そしたら、ぷつんとメールも来なくなったんだ。」
A「でも、ジムでまた会うこともあっただろう。何か話は無いのかい。」
B「それが不思議なことに、その後、一回も会うことも無いし、姿も見たことが無いんだ。今から思うと夢のような気がするくらいだよ。」A「お化けじゃあるまいし、ただ時間がずれているだけで、そのうち又会うこともあるだろうよ。」B「でも彼女。何が目的だったんだろう。話し相手なのか。それとも、私に何か目的でもあったんだろうか。今でも時々、あれはなんだったんだろうなと思っているんだよ。」A「まあ、あまり深く考えてもしょうがないだろう。少しでも楽しい、心のときめいた時間が持てただけ良かったじゃあないか。」
やっと、ここに来て気温も平年並みに下がり、紅葉も色を増してきている気がする。
今年の冬はどんな冬になるのだろう。健康だけが気がかりに日々ではあるが、気持ちだけは明るく、暖かく過ごして生きたいと思っている。

       白百合を愛した男     第42回

2010-11-15 09:07:12 | Weblog
二人はその話を聞きながら、今までに無い興奮を覚えていた。こんなチャンスは滅多にあるものではない。こんな話を頼まれることがどんないラッキーなことか、それを強く思わされていた。「ありがとうございます。是非やらせてください。出来るかどうか自信もありませんがやってみます。」「すぐ出来なくても、暫くは当方で製造を続けていきますが
出来るだけ早くお願いできればと思います。」
工場へ帰り、早速何人かの開発チームを組み、作業が始まった。見よう見まねの試行錯誤の毎日である。原料の混合作業、そして造粒作業、焼成作業、解砕作業、粉砕作業とあり、そのレシピも教えられていたが、出来たものは規格には到底合格するものではなかった。美継は若い技術部長を励まし、慰め、力づけながら、毎日その様子を観察していた。
特に温度の調整が上手くいかず、窯のレンガに溶けて張り付いてしまうことが多く、それをはがし、また原料を新しく仕込む。この繰り返しが続けられていた。
出来たものはその都度、先方へ届けられ、テストをしてもらうのだが、合格になることはなく、失敗の繰り返しであった。しかし、ようやく、使えるようなものが出来るようになった。見通しが付き、いよいよ量産のめどが見えてきた。
美継は上京し、先方の役員と契約に臨んだ。数量と、価格の具体的な取り決めである。
こちらの見積もり資産は計算されていた。数量の単位にもよるが、採算割れでは契約できないのだ。穏やかな秋田弁での話にはそんな駆け引きは感じられなかったが、価格には大きな差があった。「この価格では赤字になってしまいます。これでは折角のお話ですが、お引き受け出来ません。」とはっきりと話す。「実は当方も下請けみたいなところもあり、最終ユーザーに納める価格があり、そんなに自由が利きません。」お互いに立場を説明し、価格の調整につとめた。数日を要したが、何とか妥協できる価格に近づける事が出来た。数量も段階的に増やしていくことで合意し、契約が成立した。
このことは今までの顔料部門に新たに磁材部門が出来たことでもあり、新しい市場への進出でもあった。幸いこの分野の市場は日本でもこれからの成長分野でもあり、大いに期待されるところでもあったので、その意味では非常に幸運だったと言えるかもしれない。
美継はこの開発に努力した技術部長の労をねぎらい、会社として表彰を行い、その努力を評価したのであった。

白百合を愛した男    第41回

2010-11-12 10:09:57 | Weblog
美継は彼の新しいものへの挑戦したいと言うその姿勢に打たれた。こんな小さな会社にも勇気ある人間がいることに感激もし、頼もしくもあった。結局は会社の誰かが、ある意味犠牲を払っても頑張ると言うことが無ければ出来ることではない。美継としてはこの仕事を引き受けたいとは思っても、実際に責任を持つものがいなければ断るしかなかったのだ。「本当に大丈夫か、初めてのことではあるしうちの設備で出来るかどうかも分らないぞ」半分脅かしにも取れるような悲観的なことを言うと「私にも分りません。でもやってみたいのです。今までの仕事はみんなでやっていけます。私はこれからの仕事として、この仕事に取り組んでみたいのです。」若い純粋なその言葉を聞いて、自分も何とか協力してやってみよう。「分った。先方の都合を聞いて早速具体的な話の打ち合わせに行こう。」資本参加の合併と同時に新しい仕事への挑戦が始まったのである。
秋田の工場は東芝の電球を作る工場でもあった。雪深い、寒い冬の朝二人は駅から歩いてその工場を訪ねた。工場を案内されて見学をする。混合されて成型された製品が電気炉のなかを流れている。そしてそれはやがて完全に焼成されて出てくる。それに磁力を与え、
着磁すると、それはフエライトになる。これがモーターに使用されて色々な用途に用いられることになるのだ。はじめて見る新しい世界に魅入られるように二人は立ちすくんでいた。今までの顔料だけの世界から新しい世界に入る心のときめきのようなものがあった。
「ありがとうございました。こんな素晴らしいものがこれから私たちの生活に使われるようになるのですね。」「そうなんです。ラジオ、ステレオ等の音響製品、モーターで動く玩具、洗濯機など、何れ自動車にもたくさん使われるようになるでしょう。」
「ところで、私どもで出来ることとはどんな事でしょうか。」「おたくで原料として使っている酸化鉄をそのまま主原料としてもらうのです。それにある薬品を混ぜて、それを
弁柄を焼く窯で同じように焼いてもらうのです。ただし弁柄よりももっと高温で焼いてもらわなければならないのです。そして出来たものを粉砕して粉状にして、私どもの方へ
送ってもらえばいいのです。今まで、その原料の粉砕までを私どもでやってきたのですが、量が少ない時は良かったのですが、ここへ来て、大量の注文が来て、とても追いつきません。又そんな設備もありません。そんなわけでお願いしたわけです。」

思いつくままに

2010-11-10 11:13:20 | Weblog
秋真っ盛りである。先週思いがけなく、旅行に参加して一泊の「裏磐梯」を楽しむことが出来た。住んでいる地元の「老人会」の集まりである。少し抵抗もあったが地元の人との交流も大切であることを認識できたからでもある。参加は7名と少なかったが、全員70歳以上ではあったが、なかなか元気である。心のうちでは「元気で動けるうちに楽しめることをしておきたい」というささやかな願いで、その素朴な希望は大切にしなければと思った。
さて、レンタカーで朝(8時)出発、途中のSAに立ち寄りながら最初の目的地
「阿武隈洞」に到着、ここまで来ると、周辺の山々は紅葉の真っ盛りでその美しさは
見事である。鍾乳洞が昭和44年ごろにオープンして当時は関東では珍しいこともあって長蛇の列で賑わっていたそうだが、訪れた日はウイークデーと言うこともあって閑散としていた。当に開店休業の状態であった。しかし、その内部は昔と変わらず、壮大なもので長い年月の中で創られた造形の美しさは変わらないで見ることが出来た。
急な上り下りと、長い階段で高齢者には可なり厳しい行程であったが、何とかその一部を見ることが出来たことは幸いであった。(今後見ることは無いものとして)昼食で食べた
地元の「じゅうねんそば」はエゴマのすりつぶしを入れたものでその風味と香りは忘れられない味となった。
途中、五色沼の湖畔を通過して宿泊地「国民休暇村」へ到着。
部屋で休息の後、風呂で疲れを取る。夕食は「バイキング」で、これも高齢者にはありがたい。数十種類の献立の中から体調に合わせて、食べることはなんとも気が楽で、若いときには全く考えられないことでもあった。
夕食の後、何も娯楽の無い施設で唯一の楽しみは「カラオケ」であった。
全員が上手下手を問わず、音楽の中に溶け込み、楽しむことが出来るのも、人間関係の睦まじさを示し、こんなところにささやかな「幸せ」があるのだとしみじみ思わせられた。
翌日は、その周辺の観光をしながら帰途に付く。途中、この近辺に疎開していた人がいて、65年前を回想しながらその疎開先を訪ねることが出来た。(感慨深いものがあった)昼食は予約してあった民芸風和食店でゆっくり休息して、「道の駅」お土産の買い物をして無事帰路に着く。夕食を済ませて解散。
無事に旅行を終了することが出来た。年齢と共に旅の喜び、幸せも違ってくるが、今回の度はそんな意味で貴重で尊い時間であったと感謝で一杯である。

白百合を愛した男    第40回

2010-11-08 09:17:13 | Weblog
三社が揃ってサインをして契約が終わった。60年の歴史が変わる瞬間でもあった。
オーナーの山内氏の感慨は一入のものであったろう。しかし、これで会社は新しい時代を迎え乗り切っていく準備が整ったことでもある。美継はこの大仕事を済ませると何か大きな荷物を降ろした気持ちであった。後継者として招聘した社長も少しづつなじんで、経営者としての存在が明らかになりつつあり、目に見えない力で少しづつ変わりつつあった。
ある日、東京営業所から電話が入った。息子の電話を受けて用件を聞くと、是非一度上京して欲しいと言う。是非協力してもらいたい仕事のことで相談したいとのこと。
依頼を受けた会社は秋田にあり、上京してくるので、東京で会談を持ちたいと言う。
何はともあれ、上京することにした。本来なら社長の話であろうが、外交が好きでない社長に代わり、美継が下話を進める事になる。
先方は秋田で東芝の電球を作っている会社であったが、なんでもこれから磁石(フエライト)を作りたいというのである。聞いたことも無い話で内容を掴むのに時間がかかった。原料は今製造している弁柄の酸化鉄なのだがその生産工程が違ってくる。
その原料に化学薬品を混合し、高温で焼成していくのだが、この温度が現在使っているもので大丈夫なのか、全く分らない。美継は概略の話を聞くと、次回を技術者を交えての打ち合わせを約束して一旦、終わることにした。
先方の話によると、この磁石(フエライト)がこれからのモーターに大量に使用されてくるということで大きな需要になるとの事である。従来の顔料の市場ではなく、電気であり、家電の分野への進出になる。このことは大きな転換へつながることであり、歴史が変わることでもある。美継は株主であるT社の役員にも相談に行くと、是非その話は積極的に取り組むようにと言われ、当社も出来るだけの協力をするとまで言われた。
意を強くして本社へ帰り、社長、会長に報告すると、すぐ幹部を集めて相談に入った。
しかし、当社の設備では無理だと言う意見が多く、反対ではないが消極的なものが多かった。やったことが無い経験からやはり自信が無いのだろう。無理も無いことだと、性急に進めることをやめ、少し時間をかけるしかないかと思っていた。
そんな中、若い技術部長が美継のところへやって来た。「私個人的には、この話とても面白いと思います。自信はありませんが是非やらしてください。失敗もしてお金もかかるかもしれませんがやりたいです。」と言う。