波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに  「隣人を愛する。」

2016-01-30 16:17:42 | Weblog
先日の新聞に「家政婦に全遺産を」という題である婦人が50年世話になった女性に遺産を残したのだが、遺産を残した婦人の娘(二人)が家政婦さんに遺産を渡さず裁判になっていたが、全額家政婦へ渡すように判決が出されたと言うのだ。私の身近にも遺産の問題で残された娘二人が争い、調停に持ち込まれ処理されたが、その後二人の娘は絶縁状態になっていると言う実例も聞いたことがある。このような話を聞くたびに私は悲しい思いになる。
この新聞の娘たちはこの家政婦さんに母親の世話を任せてほしいものを母親のお金で買い、粟得ていたとのことだが、法律で決められているとはいえ、一切の遺産を渡さなかったと言うことは信じられないことでもあった。と同時に私自身も30年前に妻が病気になり、子供たちの世話で介護ができず、家政婦さんのお世話になったことがある。そして妻が亡くなった後も子供たちの世話の一切を任せて私自身も仕事に専念したのだが、今も何かと子供たち、孫たちも何かと世話になっている。其の経験からも人の世話をすることは自分を犠牲にしてその人のために尽くすと言うことが金銭で換えられない尊い真心によるものであることを身にしみて知っている。
そして家族も他人も自分のとの間に出来た関係はみな同じであり、大きな家族の一人としての意識が芽生えていた。しかし日本の家族主義からすると中々其の意識が生まれてこない。
それは無意識に差別を生み本来の心を忘れているのである。
しかし世話をする側にならないと分からないつらさや、苦しみや我慢は金銭で済ましているので当然と言う意識しかないのも事実である。
生活の全てを託すると言うことは(まして病人を診る)と言うことは大変なことであることを私は学んだのである。
今回の記事を読みながら当時のことや今の家族の平安と幸せを思うとき、いかに「隣人を自分の家族」同様に大切であるかを再認識させてくれたのである。

泡粒の行方   第44回

2016-01-27 16:15:36 | Weblog
社長交替は単なる人事変更だけではない。全てが変わることである。地場の個人会社だった存在は大会社の単なる子会社になることであり、親会社の命令で全てのことを行うことになり、人事権をはじめ全ての管理が自由にならないことを示すことになる。東京営業所は見かけ上は変わらず変更はなかったが、仕事の内容は今までとは大きく変わることになった。今までは岡山の本社の指示であり、命令だったが、全ての業務は親会社のある本社の所轄の担当事業部になり、単独の行動は許されず、業務報告、営業活動は事業部長の指示、許可によるものになる。
したがって欽二の行動も一変することになる。一週間のうち、ほとんど毎日のように親会社に顔を出し指示を受け報告をし計画に加わり、行動を共にすることになる。
担当グループのスタッフからも選抜された担当が出来て一緒に行動することになるのだ。
これらの変化は欽二にとっては生活も一変したが、決していやではなかった。むしろ気分的には親会社の一員に慣れたような気持ちになり、一人で責任を持つよりもともに語り合いながら仕事が出来ることでやりがいもあった。
担当の磁粉剤の販売は業界でも一番の後発であり、わずかに秋田の工場で始めた会社だけがユーザーで苦戦をしていたところであり、其の点では大きな見方と力を得た幹事であった。
勿論自社での営業活動でその後も少しづつお客もふえて、少量の販売は出来ていたが先発の
メーカーは技術も品質もよく先行されていた。
そんな時日本でも代表する電機メーカーが自社で材料をまかなっていたが、将来を見越して静岡に新工場を建設し大量に原料を必要とし外部から其の供給を仰ぐと言う大ニュースが入ってきた。親会社の当社チームはこの販売権をなんとしても当社に取り込むべく早速計画立案に入った。このようなことは今までの会社の組織のままだったらできることではなかった。
担当課長をはじめとして全員で検討を始めた。最終的には老舗であり広島メーカーと当社が
候補としてあがった。そしてT者は事業部長以下技術部長ほか関係者と広島、岡山と二社の
工場を精査して決めることになった。

思いつくままに  「少し考えさせてください」

2016-01-24 11:11:10 | Weblog
今年は訪日外国人が2千万人にもなろうとしている。嘗てないほどの賑わいで観光地、宿泊
交通手段などそれほど広大な面積でもないために色々な混乱も予測される。
また来日する外国人も東南アジアだけでなく世界各国からとなると言語の違いも増えてくる。
元来日本は島国であり、単一民族の歴史で守られてきたことを思うと、第二、第三の「開国時代」らしきものを迎えているのかもしれない。
一つにはスマーフオンをはじめとするメデイヤの発達で日本の情報を知り、その良さや関心が深まりそれが広がって好奇心と関心を高めた影響も大きいことだろう。
其の中で一番日本が遅れているのは「言語」の問題ではなかろうか。幸い来日する外人は日本語をある程度学んでいる人が多く大きな障害にはなっていないが、さすがに日本語の微妙な言葉使いは理解できるわけはないし、使うことも困難であろう。
例えば表記した「考えさせてください」は、日本語独特の言い回しであり、日本的には申し出に対する「断り」の意味で使用されるが、果たして外人に通じるだろうか。
外人に話すときは日本人に10文字で説明できることを2倍以上の言葉で説明を要するだろうと思われる。
話は変わるが、先日嘗てともに仕事をともにして世界市場を調査したことのある知人に、ある調査を依頼する手紙を書いたが返事がない。数十年も前の話で無理も内科と思いつつも何らかの返事(不明とか、分からない)があるかと期待したが、若い人に言わせるとそんなことは自分ですることで返事なんか来るわけないよと言うことであった。つまり自分に影響がない限り自分のことは自分ですることですますことが当たり前で余計なことはしない。(出来ることであっても)それを聞いてそれはそうかもと思いつつも、自分が入社して仕事を始めたとき先輩から
「礼節」こそが最も大事なことと教えられ、自分で出来ることは頼まれればなんでも頑張って
してきた自分としては、其の時代遅れを知ることとなったわけである。
回顧主義を言うわけではないが、昭和も遠くなり、現代に生きる意識をしっかり持たなければと
思わされたことであった。

泡粒の行方   第43回

2016-01-21 11:06:43 | Weblog
岡山にある本社は大正末期に創立されていたので、すでに60年以上経ていた老舗であった。昭和になって欽二の父が東京の店をまかされて事務所を開設(浜町)戦前戦後を通じて紆余曲折しつつ続いてきたのだ。経営者はその後継者となる子供が出来なかったために養女を向かえ、そして養子を迎えた。そして社長は引き継がれた。しかしその時間は長く続かず女性関係問題を起こし
退職、そして父が代行を務めざるを得なかった。しかし高齢とともに後継者を養女である娘の兄を養成して後継者とした。地方の郵便局の仕事をして会社の経営の経験もないことから父は弟を急遽起用して補助にしながら、会社の運営に当たっていた。そしてこの事件である。
下世話には会社の存続は「三代目」が運命を変えるということがよく言われていることを聞いたことがあるが、まさか当社にその運命がまっているとは思わなかった。
専務は創立者の孫に当たり(2代目の養子と養女の間に出来ていた。)本来4代目の資格はあったが、継承することが出来なかった。
株主の会社の本社は東京であり、日本でも有数の大会社だったので人材は豊富だった。地場の個人会社からの要請を受けて、東京の本社で契約の会談が行われ一人の管理者が岡山へ部下とともにやってきた。昭和58年(1973)6月株主総会が行われ正式に新会社としてすたーとしたのである。欽二もそのときは株主の一人として出席が許されていた。
どんな人物かと言う好奇心とこれからともに仕事をする先輩として興味があった。
小柄な目立たない風貌もさえないどこといって特別な印象はなく、むしろ地方のおじさんの一人といった(失礼だが)感じであった。
そのままわら帽子をかぶりタオルを首に巻き長靴をはいて畑に立っていれば、そのままお百姓さんと見間違われても仕方がない感じだった。正直言って欽二は東京からの派遣とあってどんな
スマートなエリート社員が来るのかと想像していたのだが。それは全く当てが外れたのである。

思いつくままに   「自ら動く」

2016-01-18 09:12:47 | Weblog
過去6年間順調に成長を続けていた中国の経済動向が今年に入って今までにない動きを示している。この事象を世界的観点からどうみるか、とりわけ日本はどう対応するか判断は予断を許さないところである。少なくとも今までの成長ベースとは異なる現象が起きたことは事実だから世界における役割とその影響を与える重要性は大きいものと考えざるを得ない。
つまり世界の動きもまた時々刻々とその時局に応じて影響を受けながら、その対策を建てることになる。この事はここの家庭でも事は小さくても同じことである。その日の予定になんらかのししょうがあったり、子供体調が変わっただけでもその日の計画や予定にも少なからず影響が出る。我が家でも今年は「事業計画」を正月早々から数日かけて検討し作成した。しかしこれが
全て計画通り実現することは困難なことだろう。予期しない障害や問題が発生しその都度不安と対策に追われて悩みと苦難に陥ることだろうと思う。
しかし問題は此処からである。上記の中国の問題、サウジ、イランの問題、テロ問題、これらの問題でも明確な解決策があるわけではない。アメリカも「世界の警察官」たることについては
明確に否定するようになっている。
「自らで解決する」事以外にないのである。しかし此処に大事な要件がある。その解決は人に頼るのではなく自分自身、自己意思を中心に考えることであろう。
即ち想定される全ての問題を含めて検討されなければならないだろう。その中には自己都合の悪いことも含まれることも覚悟しなければならない。
その上で知恵と啓示の上に立って解決策を立案しなければならないし、必ず新しい考えが生まれてくるのである。必ず解決策はある。あきらめずにそこまで真剣に努力することに大切さがある。そしてそれは自己中心であってはならないことも、もって銘すべしである。
時間もかかることもある。しかし真実への道はかならずあることだけは、しっかり自らの中に持っていることこそ大切だと思う。

泡粒の行方    第42回

2016-01-15 11:41:29 | Weblog
現役の社長と専務が一夜のうちにいなくなることは、ある意味会社の存在がなくなるに等しいとも言えるかもしれない。葬儀を終わって役員でない欽二は帰京し仕事を続けるしかなかったが、会社が今後どうなるか落ち着かない日々を過ごしていた。
そして東京の知らない岡山の本社では連日の役員会が行われていた。当時本社は社外株主として個人以外にも将来を考えて同じ岡山に工場のある上場会社とこの分野の技術を持っている会社とに株主として名を連ねてもらっていた。したがってそれらの株主にも報告と同時に相談をもちかけた。そして体制は近くの岡山に工場を持ち、何かと協力してもらえる株主に主力株を持ってもらうことに話が進んだ。その中には欽二の弟もいたがさすがに欣司には不満があった。
福島時代はほとんど兄の言うことを聞かず仕事も十分出来ず、叱られるたびにその仲介に入り蒼の狭間にあって苦労した欽二にとっては苦い思いがあった。弟は福島からさっさと岡山へ帰り父の引きで岡山の父の仕事を手伝いながら役員になっていた。
当然このときも中心になってその話に入っていたのである乳父は老齢と言うこともあり常務以下の意見に従うしかなかったのである。
欽二が知らされたのは東京の本社へ株の売却と(51%)と当然ながら社長をはじめとした財務の役員の派遣であった。そのほかいくつかの約定を条件として交渉に入りそれは承認されたようである。つまり従業員の身分保障などであった。
あけて昭和58年の6月こうして岡山の会社は上場会社の子会社として新しい発足となったのである。地場産業として個人会社であった組織が大会社の一工場の存在になったのである。
本社は東京にあり、その一角に当社を管理する部門があり欽二の役目は岡山よりも東京の本社の所轄の部署への任務が重要になったのである。
このことは今までのようなのんびりとした仕事からある意味大会社並みの任務が重くのしかかってきたことになるのだ。

思いつくままに   「2016年の幕開け」

2016-01-12 09:39:58 | Weblog
暖冬が予測されていたが、予想通り昨年より暖かい気がする。昨年の日記の気温と比べても10度以下は少なく15度近くの気温は記録されていない。そんなわけで特に晴天時は8時ごろから午前中は陽が差込暖房要らずのサンルームとなる。これはこの時期変えがたいありがたさである。
穏やかな正月を過ごしよい年明けだと思っていたらサウジアラビヤとイランの断交から北朝鮮の水爆実験とが発信され、早々に今年は大変事の年だと言う人が出てくる始末である。
いまや世界は自国だけで存続できる国は原則成立しない仕組みになっていることは自明の理であり各国が自国の主張をしながらも共存共栄を図らざるを得ないのである。
アメリカとて第一国とされながらも国内の銃規制や様々な問題解決で精一杯で「世界の警察官」たる存在ではありえないのである。
勿論世界で日々様々な問題が起きることは止むを得ないとしても問題はこれらの問題を世界の人々がどんな叡智を持って協力し解決していく努力をするかにかかっていると言える。
世界では難民問題、テロ問題、国によっては財政破綻問題と常に平安なときはないのではなかろうか。だからこそ平和を願い地球を大切にする思いも強くなるのである。
私自身も今年もこうして健康を与えられ生かされている以上果たさなければならない勤めがあるのだから、そのことをしっかり覚えて日々を大切にしていかなくてはならないと思っている。
どんなに小さくて貧しいことであっても、すべて神の御心である。
指し示される啓示にしたがって努力することが大切だと考えている。
予測できない日々の中でどんな問題に対してもしっかりと足を地に着けて落ち着いて処していく覚悟を身につけたいと思う。
すべてを喜びと感謝と祈のうちに過ごしていけることを願う次第である。

泡粒の行方   第41回

2016-01-09 09:14:11 | Weblog
時代は高度成長期に入り市場の環境は良くなりつつあり、どこのユーザーへ行っても明るい話が多く、増産増量の話が出た。工場への報告も悪い話はなく東京事務所の存在も十分発揮することとなった。国内の市場は北から南へと訪問し取引を始めることが出来たし、競合社はあっても全体の需要量からは影響は出なかった。欽二は日々全国を回りながら東奔西走の状態になっていたが、苦になることもなく走り回っていた。
昭和57年(1952)会社は顔料と磁性剤の日本柱で確立し公害問題などもクリアーして軌道に乗り始めていた。そんなある日の朝出社したとき、本社から突然の電話が鳴った。
「社長と専務が昨夜交通事故にあい、社長は即死、専務も重症で入院、直ちに帰社するように」との事であった。好事魔多しと言う言葉が浮かんだが、この時期に何が起きたのか、それも二人そろってと思いながら本社へと向かった。
地方の新聞にも小さく記事が載っていたが、会社からの希望もあって小さく事実だけで詳細は何も書かれていなかった。
本社での葬儀が行われ次第に詳しい話が漏れてきた。二人は地元の有力者の招待で「マツタケ山での会食の招待を受け、その日は二人そろって出かけたらしい。マツタケ山は岡山でも数少なく出来もその年で違うのだが、豊作だったらしく、落札してその権利を得た地主の招待を受けたのだと言う。お酒も出てかなりご機嫌だった後車は危ないと言う忠告もあったが、村内のことで近いと言うこともあって送迎を断って会社の車で二人だけで買えることに下らしい。
車は社長の自宅の前の道路から田んぼへ転落、そこにあった電柱に激突したのである。
ちょうど酔いが回り酩酊運転状態になったことが原因とされた。
葬儀は終わりとりあえず、帰郷し平常業務についていたが、本社での役員会議は連日行われていた。そして突然状況の話を聞くことになった。
しかしその内容は何も知らされてなかった。

思いつくままに   2916年を迎えて  その2

2016-01-05 11:30:06 | Weblog
我が家も今年はいろいろと変化がありそうだ。孫は4人いるのだが男の子は一人である。いわば跡継ぎともいえるわけで気になるところだが、この春高校受験である。小さいときIQが高いことが分かって期待したがその兆候はまだはっきり見えないままで準備を進めているが、本人のやる気が出れば良いのだがと願っている。両親をはじめ家族がそのことで一喜一憂するのも仕方のないこのごろである。そのほかの孫たちは女の子でそれぞれに成長し自分の生活をエンジョイしているようだ。そんな中で自分にとって一番の課題は「健康保持」である。
一昨年の暮れ以来やはり体力の衰えは一段と進んだ気がする。何事にも気力が不足して慎重にならざるを得ないし、自信もない。昨年一年はそれなりに安定して大きな変化はなかったが、今年も一層注意をしつつ家人に迷惑をかけないように自立していく覚悟である。
その意味では年々「一日一生」の思いは強くいつでも後悔のない日々を過ごすことに専念していきたいと願っている。
最大の問題は約20年になる自営業の業務の自立である。素人の知識と未経験での事業経営は勉強不足と見通しの甘さの連続で「費用対効果」の原則を計算に入れずに行動することで利益に繋がることが少なく資金が乏しく、僥倖は起こりえないままに過ぎてきた。
しかし不思議な力に導かれて継続してきた。今年はこれらの反省に基づいて綿密な検討の上に立って新しい案件に取り組んでいる。そして相伴って親子の絆が強くなり意見交換をしながら
仕事をすると同時にお互いの人格向上を目指すことが出来つつある。(今までは各個人で進めていた。)のこち少ない人生をこうした時間で過ごせることの幸せを感じながら、
これが「わが恵み汝にたれり」の御言葉に従っていくことであろうと信じている。
予測できない出来事や事件も起こることであろうと思われる。しかしどんなときにも心静かに紙のみ声を聴きつつ歩む人生の年としたいと願っている。









泡粒の行方   第40回

2016-01-02 13:16:27 | Weblog
毎日が新鮮であり毎日が楽しかった。嘗ては父や母の元でそして兄のもとでの修行と自分の希望で出来ることが何一つ出来ないでいた自分にとって、現在の自分は毎日が新鮮であり、新しい世界だった。経験はなかったが若さと持ち前の好奇心的な夢があった。ユーザーのある工場であり、会社は決まっており、行くところははじめてゆくところばかりである。
それは何よりも励みであり、初めて会う担当者との話も新鮮で楽しかった。話題はいくらでも合ったし、得意でもあった。その内人間的にも親しくなり、個人的な話や加俗な話も出来るようになった来る。仕事の話は時期が来るまで待つしかないということであった。
「まずは使ってもらうこと」それだけを考えていた。最初のお客として取引が出来たのは秋田に工場があった。はじめてゆくところである。秋田へ行くことが出来る。観光ではないから遊びの観光はないが飽きたというところを知ることが出来る。それだけで十分だった。食べるもの、見るもの、話も言葉も慣れなかったが、それが新鮮である。
この話は先方からの依頼で作ったと言うこともあったが、テストを繰り返してすぐ採用になった。すると毎月その様子を調べに行き、希望を聞き、改善して原料を送ることになる。その間は担当者と食事をしたり遊びの話をすることになる。彼らもまた東京から来る客と遊ぶ時間が楽しいらしく、喜んで夜遅くまで付き合ってくれた。
飲み屋街のある「かわばたどおり」はいつの間にか覚えて夜の店へ出入りすることになった。
女の子に囲まれて飲めない酒を飲める振りをして時間をつぶして歌を歌い踊って帰るだけなのだが、あっという間の時間だった。秋田は小さいので行くところも決まっており、帰りも早かった。そんな時間の中で人間関係が出来たような気がしていた。
ただ、秋田の地方のなまりは難しく、十分なコミニュケーションは取れなかった気がしている。