先日の新聞に「家政婦に全遺産を」という題である婦人が50年世話になった女性に遺産を残したのだが、遺産を残した婦人の娘(二人)が家政婦さんに遺産を渡さず裁判になっていたが、全額家政婦へ渡すように判決が出されたと言うのだ。私の身近にも遺産の問題で残された娘二人が争い、調停に持ち込まれ処理されたが、その後二人の娘は絶縁状態になっていると言う実例も聞いたことがある。このような話を聞くたびに私は悲しい思いになる。
この新聞の娘たちはこの家政婦さんに母親の世話を任せてほしいものを母親のお金で買い、粟得ていたとのことだが、法律で決められているとはいえ、一切の遺産を渡さなかったと言うことは信じられないことでもあった。と同時に私自身も30年前に妻が病気になり、子供たちの世話で介護ができず、家政婦さんのお世話になったことがある。そして妻が亡くなった後も子供たちの世話の一切を任せて私自身も仕事に専念したのだが、今も何かと子供たち、孫たちも何かと世話になっている。其の経験からも人の世話をすることは自分を犠牲にしてその人のために尽くすと言うことが金銭で換えられない尊い真心によるものであることを身にしみて知っている。
そして家族も他人も自分のとの間に出来た関係はみな同じであり、大きな家族の一人としての意識が芽生えていた。しかし日本の家族主義からすると中々其の意識が生まれてこない。
それは無意識に差別を生み本来の心を忘れているのである。
しかし世話をする側にならないと分からないつらさや、苦しみや我慢は金銭で済ましているので当然と言う意識しかないのも事実である。
生活の全てを託すると言うことは(まして病人を診る)と言うことは大変なことであることを私は学んだのである。
今回の記事を読みながら当時のことや今の家族の平安と幸せを思うとき、いかに「隣人を自分の家族」同様に大切であるかを再認識させてくれたのである。
この新聞の娘たちはこの家政婦さんに母親の世話を任せてほしいものを母親のお金で買い、粟得ていたとのことだが、法律で決められているとはいえ、一切の遺産を渡さなかったと言うことは信じられないことでもあった。と同時に私自身も30年前に妻が病気になり、子供たちの世話で介護ができず、家政婦さんのお世話になったことがある。そして妻が亡くなった後も子供たちの世話の一切を任せて私自身も仕事に専念したのだが、今も何かと子供たち、孫たちも何かと世話になっている。其の経験からも人の世話をすることは自分を犠牲にしてその人のために尽くすと言うことが金銭で換えられない尊い真心によるものであることを身にしみて知っている。
そして家族も他人も自分のとの間に出来た関係はみな同じであり、大きな家族の一人としての意識が芽生えていた。しかし日本の家族主義からすると中々其の意識が生まれてこない。
それは無意識に差別を生み本来の心を忘れているのである。
しかし世話をする側にならないと分からないつらさや、苦しみや我慢は金銭で済ましているので当然と言う意識しかないのも事実である。
生活の全てを託すると言うことは(まして病人を診る)と言うことは大変なことであることを私は学んだのである。
今回の記事を読みながら当時のことや今の家族の平安と幸せを思うとき、いかに「隣人を自分の家族」同様に大切であるかを再認識させてくれたのである。