波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思い付くままに   「経験の教えるもの」

2017-03-29 09:23:16 | Weblog
人間の成長は人それぞれに違うのだが、その成長を何らかの形で確認できるととてもすがすがしくそして自分もまた喜びを味会うことが出来る。大相撲が終わったが、新横綱の怪我を押しての優勝もそうであるし、孫の英検合格もまた成長の証であろう。しかしこれらの成長は単に学習からだけではないであろう。人生においてはやはり経験を伴う事で成長は見に着くものだと思うしそれで本物として効果が出るのでもあろう。しかし不思議な事にその経験も全部をそのはんぶんほどしか学ばないのである。そしてまた経験からは悲観的なものを感じることが実に多いことが分かる。それは経験から得るものが自分ができないことが何であるかをしり、ある意味諦めを持ちながら絶望的に人生を考えるようになる事があるからである。
しかしその反面その経験からその苦難を克服して何とか成功する、あるいはその技術を習得するということもあろう。病気になった。しかし何とか治ることができた。あるいは問題が起きた。しかし何とか知恵を働かせて解決することが出来た。大きな問題に対応して一時途方にくれたが何とか解決して前進できた。破滅を覚悟したが、新しい知恵を呼び起こして何とか破滅をまぬかれた。こんな経験は人生ではつき物であり、誰もまぬかれる事はできない。
人間は基本的に無分別な存在でもある。経験の教訓を正しく習得したとしてもありえる事でもある。しかしそのとき人間では想像できない大きな力によって導かれることがあることも
学ばなければならないのである。それはその人に気づきにあるので、誰でもと言う事にならない。そんな経験の上で挫折する人も多いからだ。
しかしこの経験があってこの問題をどう考え知恵と忍耐を持って導かれるかで人生が分かれることがあることを学びたいとも思うのである。

        足跡    「桜咲く」         

2017-03-26 10:06:10 | Weblog
今年も桜の季節がやってきた。やはりこの季節はこの年の始まりを象徴しているようで
何となく新しい思いがある。昨年は孫が高校受験を目指していて家族みんなでしんぱいをしていた。そして見事合格の知らせを受けて家族で食事会を持ったことが思い出される。
本来はどこかの桜の名所を訪ねて桜をめでるのが通例であったが、足腰が弱ると同時にこの行事も終わりを告げている。近所にある桜並木を歩いて済ませながら嘗ての桜見物を思い出している。若い人は桜を魚にお酒を楽しみにしている人が多いがそれも一つの楽しみ方であろう。
しかし桜はある意味日本の象徴でもあり、その年の始まりを示すものでもあると思う。
最近のニュースを見ているといまや日本は桜見物どころではないような騒ぎである。
TVは毎日のように事件を追っかけ、その内容たるや真に気が重くなる話でもある。
このような様子を見るたびに日本の国民の意識がまだこんなところにあるのかと思うと
残念でたまらない。世界に冠たる姿を見せてオリンピックを主催する国として恥ずかしくも思う
何があったにもせよ、早く終着をみて、新しい歩みを始めてもらいたいものと願うしかない。
そして桜の花にふさわしい姿で桜をめでることができる事を期待している。
今年の春はそんな事を考えて少し重い花見になりそうである。

思い付くままに  「一滴のしずく」

2017-03-23 13:30:25 | Weblog
ある学校の授業で先生がある実験をした。それはビーカーに真水を入れて机の上におき
スポイドで墨汁の墨を一滴たらした。それは水に落ちたが、さほどの変わりは起きなかった。
しかしそれを何回か続けてたらしているうちにきれいな真水は薄黒く変化し、最後は黒い色に変わった。この実験から先生は子供たちに何を教えようとしたのだろうか。
私はこの話を聞きながら非常に大きな教訓を得た木がした。それは真水は赤ん坊のようなきれいな人間の心をさしているんだろうと思う。そんなきれいな心でも悪い罪の心の行い(それは言葉であれ行いであれ)一滴、一滴とたらされてその中に入っていくうちに色が変わるように
人間の心も罪の色に変わることをあらわしている。
はじめはなんでもなく行われなんでもなく変化は起きない。しかしそれは何度も繰り返され習慣になっていくうちにそのことが悪であり、罪であることを自覚しないままになってその心は完全に色が変わるごとく、悪に染まって真っ黒になってしますものだ。
だからその一滴を注意して悪に染まらないように、もし言ってきたらされればそこで反省し
それ以上汚れないように真水に戻れるように努力し、悔い改めと反省をしなければいけないと言う教えだと思う。
物事を始めるときには誰かが始めるものである。はじめから完全なものはない。小さいときから
小さい努力を積み重ねつつ大きくしていく事を考える必要があるのだ。
すべては小さい努力の累積的な効果がついには大きな驚くべき効果を生み出すものだと言う事を教えられさらされたと考えている。

足跡    「口は災いの元」

2017-03-20 10:19:58 | Weblog
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪あるものとされる。」聖書にある一節である。年明けは静かな立ち上がりで世界は新しい歩みをはじめ特にアメリカの新大統領の出現で期待もあり、日本も良いスタートをきったかに見えたが、最近になって
様々な問題が起きて落ち着かない様子である。
その中にあって事の起こりが「言った」「言わない」の問題が取りざたされている。私はこのことを聞いて「他人事ではない」と感じた。人は口に入るもので悪いものはないが、口から出るものによって災いの元になるともあるが、まさに何気なく言った言葉で周りの人にどれだけの災いとなることがあるかを考えなければいけない。私自身もこの人生においてどれだけ自分の言葉で人を傷つけたことかとそのことを思うたびに心が痛むのだが、本当に言葉は注意しなければならないと思う。まして言葉足らずで思うことが伝わらない事や、誤解を招く事も多く、また帰って傷を深くすることもある。良かれと思って語った事も相手には余計な事として残る事もある。(むしろその方が多いのではないか)
それまでの交わりがその言葉によって信頼を失い、交わりも疎遠になる事もある。
家族の間でも同じである。それほどに大切な事をまず自覚すべきだと思う。そしてまず相手の立場になって考え、何を求めているか、何を必要としているかを冷静にそして謙虚に考えなければならない。
それは急には出来ない。だから失敗を繰り返す。そこには日ごろの訓練がなければならない。そしてそれが常に身に備わってこそはじめてできる事であろう。
最近自分でも「備え」ということに気をつかっているが、当に「備えあれば憂い無し」を
もう一度真剣に考えなければと考えている。

思い付くままに   「人間力」

2017-03-16 10:48:36 | Weblog
この言葉の意味に惹かれた。サウシアラビア世界一の産油国として知られ日本はこの国はから全体の30%の石油を依存している。その国の王様が日本を訪ねてこられた。聞くと将来石油の財産だけでは不安がある。どうしたらよいかと言う事を調べるために日本へきたという。
世界には色々な国があり、その目的に適しているところはたくさんあるとおもわれるが、わざわざ日本を訪ねてきたと言う事はそれなりに大いに意味があることだろう。日本人の一人として光栄であると同時に嬉しくもある。考えてみれば日本は四方が海に囲まれ「水と土と木」しかない国といっても良い。しかし世界でも有数な経済国として立派に認められている事はそれなりに畏友がある。それは他の国にない人々の生活の営みが単一ではないと言う事である。
つまり工場で技術を生かして生産しているものもいれば、哲学や宗教を学ぶもの。また歴史的に培われてきた手工芸で職人として働いてきて確立されたもの様々な分野での「人間力」を持ち合わせて出来た国ともいえる。
「石油」の事しか知らないとか、物流によって富を得る事だけを考える人たちとは違う日本独特の民族の歴史がこの国を支えていると言えるのだろう。
言い換えれば「水と土と木」しか持たない貧しさが教えた知恵が生んだものともいえるともいえる。貧しさは不幸であり、人の品性を貶めると考える人もいるが、貧しさからその意味とそこから立ち上がる知恵を授かり生きていく事を学ぶのが本当の豊かさを身に着ける人の生き方だと考える事もできるのではなかろうか。

足跡    「メメントモリー」

2017-03-13 09:37:54 | Weblog
ラテン語で「自らが死ぬ事を恐れるな」「死を記憶せよ」と言う意味で昔から使われていて
特にカトリック教における修道士にとっては欠かせない評語とされていると聞く。
先日マレーシアで予期せぬ事件があった。日々何事もなく過ぎていく毎日においても、何時名何が起きて自らの命が終わるか分からない。人は必ず死ぬ事を自覚し、この世にあることを忘れないで日々を過ごす事を教えているのだ。
兎角幸せに何事もなく過ごしているとこんな事は他人事であり、自分には関係ないことだと気にもならないで過ごしてきた。しかし人は誰でもいつも「死」と隣りあわせで生きている事を忘れてはならない。それは現在生かされて生きている事の大事さを尊い事として無駄にしない事でもある。高齢を重ね、あちこちに身体の危険を感じると自然に思わざるを得ないのだが、それはないにしてもしっかりと「死」を日々記憶せよとカトリックでは義務としている。
自分自身も現在では母をなくし父、そして妻、兄、弟、叔母と小さいときからの思い出の家族は一人もいなくなった。当に生まれ育ったときの思い出を語り合うものも一人もいない。
友人も僅かに残っている何人かも全ては病を抱え、会うことも出来ず語り合う機会も得られない。これが現実である。
そして自分自身もまた神の元へとかえることになる。不思議に自然にその準備をする心になり、毎日を過ごす気持ちになっている。
考えがそうなると今までの恵みと感謝がありがたく、また今までの人生を顧みて反省と悔い改めに心が向き合う事になる。
「メメントモリ」がその日の終わりに思いつくのだ。それは正しく、清く、美しいものでありたいと思いながら

思い付くままに  「東京オリンピック」

2017-03-09 09:26:23 | Weblog
最近の新聞を読んでいると、総じて明るいニュースがない。TVの話題も「北朝鮮問題、
森友問題、そして豊洲移転問題の三つに絞られて連日流している。正直気分は良くないし
その内容もあまり教育に良くない影響を感じるほどである。新年を向かえ新しいアメリカ
大統領との提携も出来て新しい政策の下に期待感が高まったのだが、実態は何も変わらず、
むしろ日本の恥部の一部をさらした感じで情けない。日本の最も誇りとし泣ければならない
道徳感に繋がるものが高められることないことは、反省と共に自戒しなければならないことではないかと思わされている。
そんな中で2020年の東京五輪・パラリンピックに関する経済波及効果が10年後の平成
42年の17年間で約32兆円になるだろうと発表された。
その内容は総経費を元に関係者や世界からの観客や日本国内の消費、家庭でのテレビでの購入などあらゆる角度からの計算がされているようだ。
勿論計算どおりにはいかないにしても経済効果の上で効果があることは間違いないことだおる
まだあまり表には出ていないが日本においても「難民」に関する外人の問題も水面下で大きく
動き始めていると聞いている。
しかし世の中よいことばかりはないが、現在の日本は恵まれている。とすればその恩寵を大事にして少しでも世界に貢献できることを積み上げて生きたいものである。
その意味で今回のオリンピックは二度とないほどのチャンスでもある。私たちはその恩恵にあずかることが出来るのである。このチャンスに預かる喜びと協力を考えて、日本人として恥ずかしくない結果を残したいものである。

足跡    「菜の花と土筆」

2017-03-06 10:03:36 | Weblog
3月を迎えいよいよ春が来たと感じだ。考えてみれば生まれて82回の春を迎えているわけだが、毎年春の迎え方が少しづつかわるのもしかたがない。その中にあって「菜の花」の変わらない美しさと「土筆」は変わらない春を呼び起こしてくれる。今は車もなく遠出が出来なくなったが、春になると必ずおにぎり弁当を持って墓参に行き、そのついでに公園の土手に行ったものである。土筆は年々生えるところが少なくなっていき、出てくるところが決まっていた。毎年このあたりだったと探しながら尽くしの盛り上がりを探して、何本かを見つけると「春」を見つけた思いで心が温まる思いであった。暖かい3月の日差しを浴びながらおにぎりを食べて菜の花の畑を散歩する楽しみは何にもかえがたいものがあったが、いまはその思い出を楽しんでいる。
今年の春のこの穏やかさに対比して世の中が様々な問題で落ち着かないのは何故だろう。
TVのニュース番組で今日はそんなに話題もないだろうと思っていると、毎日のように大きな問題が話題になり、一日中その話題で過ごしている。
一体何時になったらもう少し穏やかな春らしい話題にならないものかと考えざるを得ない。
そこには人間の様々な思惑と権力とその主張が絡み合って問題化している。つまり自分の思い通りにしたいと言う強い意志が問題を起こしいるようだ。
法律に触れなければそれは実現するかもしれないが、そこにはやはりそれなりの道義的な観念が含まれていることも大切であろう。そこから生まれるものであるならそれは人の心をうち、
理解される事もあるだろうが、自己の思い通りにする事だけを考えると無理が生じて様zマナ問題が惹起される事になる。
ニュースを聞くたびに心が痛むが、菜の花を見て梅の香りを会でもう少し穏やかな春を感じながら春を楽しみたいものだとつくづく思わされている。

思い付くままに  「自問自答」

2017-03-02 12:15:58 | Weblog
一人暮らしをしている人は高齢者に多いと思われるが時々何をしているかと人事ながら気になることがある。先日TVでフランスの91歳のおばあちゃんの日常の様子が出ていたが、女性は
普段でもこまごまと家の中の事をしていることが多く、またする事も多いらしい。
従って結構忙しいと言う事で暮らしている。まして同姓の友人とか、近所の人でも訪ねて来るとしたらもう黙っていられずおしゃべりで時間はあっという間になくなる。それが何よりのストレス発散であり、楽しみでもあるらしい。しかし男性の「じいじ」はそうもいかない。
かくいう自分などもその一人だが、たまにTVの歌と一緒に声を出して歌うぐらいで滅多に話す事もない。それが苦になるわけでもないのだが、喋りを得意としてきた性格からすればしゃべりは色々な意味で効果があった。今でも息子が来ると2時間や3時間はあっという間に過ぎてしまうほどだが、相手にすれば迷惑な話かもしれないと時々反省もする。
そんな時間の中で時々心の中で「自問自答」の時間を持つことがある。
自分は今日なにをしたか、あんな事をいってしまったが、あれは間違っていたか。あれもこれもしなければいけないことがあるのに、何も出来なかった。
またつまらない事で時間をつぶして石待った。そして自分をどうすることが正しいかと様々に自分に問いかけながら自分で反省をしたり、これでよかったのだとか、今度はこうしようとか、
あんな事をしてしまったが、明日から改めようとか、
様々に揺れ動くのである。それにしても人間関係においては簡単にはいかないことが多いようだ。最近人の評価的な表現で「上から目線」と言う言葉で言うことを聞く。
人のうわさでの「あの人は上から目線でものを言う」と言う言い方である。
これなども無意識に出るのかもしれないが、注意しないと自然に出ていることが多い。
自らが常に注意していないと自己中心的な潜在感がいつの間にか「上から目線」を作っているのだ。最近では「謙遜」とか、「謙虚」と言う言葉を聞かなくなったが、今最も大事な言葉として
意識し泣けれ場ならないと思う。
「いつも謙虚でありたい」と自問自答を繰り返す毎日である。