波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

              思いつくまま

2010-06-30 09:38:16 | Weblog
最近あるところで「一日一生」と言う言葉を聞いた。その時はそれほどの思いも無く聞いて済ましていたのだが、何時の間にか私の頭を離れなくなり、片隅に何時もその言葉が残るようになった。その日、一日を自分の一生だと捉え、その日で自分の人生は終わると考える。
同じような意味の言葉は色々聞いてきたような気がする、例えば
「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」とか、「一期一会」などを思い出すのだが、それらはあまり記憶に残らず、言葉として覚えている程度であまり考えることは無かった。
この時期にこの言葉が日々気になるということはやはりそれだけの年齢になったことを思わざるを得ない。しかしこれから何時までいかされるか分らない人生を、どのような心構えで過ごしていくかと言うことは私にとっては、とても大事なことであり、何を考え、何を基にして生きていくかとする時、当に指針となる言葉であった。漠然と今日と言う日は二度とないという感じではなく、一日で終わっても良いと言う覚悟を促す言葉でもある。
そうなると人はやはり身辺を気にするものだ。今までは兎も角、何をしておかなければいけないか、何をすべきか、細かい一つ一つのことを大切にする意識が芽ばえる。
そして悔いのない日にしようという意識が出てくる。それでいいのだと思う。
人間とは不思議なもので、ナチの収容所に収容されていた人たちの目標はただ一つ「今日一日を生き延びる」ということだけだった。しかし解放されて自由が得られると今度は何を目標にしていいか判らなくなったと言われている。
つまり人の望みと言うものは常に現実にではなく、未来にあるものだということを教えている気がする。望みは既に得てしまったものではなく、私たちが何かを得てしまった時に満足を得るのではなく、返って生きる目標を失うことになるものだともいえる。
だから目に見える望みは望みは本当の望みではなく、見えない望みを望みながら忍耐していくことが本当の生き方なのかもしれない。
「一日一生」その生き方はそれぞれ違う。しかし、根底にこれで自分はもう死んでも満足だと言うくらいの達成感と充実感を覚えながら日を過ごしたいものだと思っている。
そうでなくては生かされていることの意味も、自分の存在感も無駄になるような気がするからだ。其処には当然その人の望みがあってよいし、その望みを追い求めながら生きることになるからだ。

白百合を愛した男  第3回

2010-06-28 08:52:50 | Weblog
母は早速手紙を書いた。それはわが子可愛さだけの一途な思いだった。恥も外聞も無く勿論すぐ承諾してくれるとも思っていなかった。ただ子どもの気持ちを叶えてやりたいという思いだけであり、どうかお願いしますと言う祈りだけがこめられていた。良い返事が来ることを願いながら毎日が過ぎていった。手紙を出して以来、母は毎日のお参りを欠かさず願っていたが、返事は一向に帰ってこなかった。あきらめかけて、美継にそのことを話さなければと考え始めていた時、一通の葉書が届いた。そこにはぶっきらぼうに「来たければ、来させて見なさい。」とだけ書いてあった。これで望みを叶えてやれる、何とか頑張って欲しいとの母の願いが通じたのだ。「田舎の伯父さんが学校さ行かせてやると言うとんさるじゃが、
お前行ってみるかね。」「おっ母あ、どこへ行けばよいんだが」「何でも朝鮮というところだが、おっ母あもわかんねえから良く調べてみな。」美継は半ばあきらめていた勉強の道が開けたことで有頂天になっていた。学校へ行ける、勉強が出来る。そのことは彼の一生を決める大きな出来事につながっていくのだが、そのときはただ、ただ、素朴に学ぶことへの純粋な思いだけであった。何もかもが初めてのことであり、未知の事ばかりであったので出発までの準備は大変であった。鉄道もまだ充分整っていないため、彼のいるところから岡山の駅まで行くのに、その当時生活物資を運んでいた、馬車に乗せてもらう約束をした。
岡山から、下関までは鉄道を利用して、其処から関釜連絡船に乗ることになる。出発の日、
父は一言「身体に気をつけてな」と、無口な父の言葉に美継はその気持ちを充分知ることが出来た。母は涙を一杯眼に溜めながら美継の顔をじっと見つめて何も言えないでいる。
「おっかあ、行ってくるから達者でな。」と言うと、それを聞いて、大きく頷いたまま袂で目を覆った。言葉にならない大きな愛情を一杯に受けて、大きな風呂敷を担いで家を出た。
感傷的になっている暇は無かった。何もかもが分らないことだらけであり、何をしたら良いか、そのために如何したらよいか、頭の中はパニック状態である。それでも何とか、岡山から下関行きの汽車にのり、席に着いたときはほっと一息つくことが出来た。母に作ってもらった大きなおにぎりを食べると、急に疲れが出て、美継はぐっすり寝込んでしまった。
暗い中を列車は真っ直ぐに走る。

白百合を愛した男  第2回

2010-06-25 09:13:14 | Weblog
明治に入り「士農工商」の差別意識は無くなりつつあったとはいえ、まだまだその雰囲気はあった。農家の子弟が希望の道へ進むことはかなりの障害があったし、その他の子供たちも
よほどの幸運に恵まれない限り、思うような事が出来る時代では無かった。
兄は父の後を継ぐことが約束されて長男としての待遇で、神職の資格を取るための学びを受けていたし、その準備が保障されていた。次男の美継は本を読むことが好きだった。
貧しい家には読みたい本は無かったが、学校や友達から借りる事が出来ると、無性に読んでいた。それはおなかの空いている子供が、その空腹を満たすようにがむしゃらに見えたし、
本当に読んでいるのかと思えるほどでもあった。しかし、そんな本人の思いとは別に母は
この子をどこへ奉公へ出そうかと思案していた。当時の子供はよほどの資力がある家か、家柄で無いと、上の学校へ行かせることは出来なかった。大きな商家へ奉公へ出し、食い扶持を減らし賄うことは普通であり、またその世話をして商いをしている人もいた。既に母のところへはその話が来ていて美継も岡山の大きな問屋へ行くことが決まっていた。
しかし、母には美継が口には出さなくても、学校へ行きたがっていることは良く分っていた。しかし自分の力で、望みを叶えてやることが出来ないことも分っていた。しかし、あきらめさせる勇気も無く、毎日悩んでいたのだった。ある日、学校から帰ってきた美継がやってきて、「おっ母あ、おいら高等小学校が終わったら、何でもいいからもう少し勉強したいんだが、どうかな。」と聞いてきた。子供の気持ちを察していた母は驚かなかった。「そうかい、もう少し勉強したいか。そりゃあ良いことだ。何とかしてやんなきゃあ、ならんな」
心を隠して、笑いながら母は答えた。父に相談しても知恵が出てくると思っていなかったし
蓄えがあるわけでもなかった。ひたすらわが子の望みを何とかして叶えてやりたい、その思いだけであった。母は真剣に考えた。何か方法は無いか。何とか、この子の気持ちを叶えてやりたい、そのことだけが母を必死にさせた。そして、一つの考えが浮かんだ。
従兄弟の兄が警察の仕事をしていることを思い出したのである。早速、連絡を取る。
すると、今は日本にいない。何でも朝鮮(韓国)の釜山と言うところへ警察署長として行っているとのことだった。(当時釜山は日本の統治下にあった。)

             思いつくままに    

2010-06-23 09:48:05 | Weblog
最近は特に物覚えが悪くなり、聞いたことでも、書いておいたことでもすぐ記憶から消えてしまうことが多い。当たり前といってしまえばそれまでだが、何となく悔しさがあり、何とかしたいと思う意識が働く。それは「ざる」で水を汲むのに似ているのであって、僅かな水滴が少し滴る程度にしか残らないのだ。ある時、何かよい方法はないかという話になって、
それは何時も水につけておいて、水を切らさないようにすることだと聞いたことがある。
聞きようによっては、馬鹿にするなということも言えるかもしれないが、私は妙に感心して聞いたのである。「そうか、つまり何時も出来るだけ、そういう意識を持ち、記憶にとどめて考える時間を持つことを習慣にすればいくらかでも違うのかな。」と言うことである。
そんなある日、新聞に最近の若者は「赤線の引いた参考書」を使い、「「字幕の付いたものを読むことをきらう」という記事を読んだ。つまり目の前の「面倒なこと」は避けるという行動である。人の話を聞いているとき、その話の中から重要だなと思われることを必死で探し、覚えようとする。そのことで脳は活性化し、探索能力は鍛えられると考えているし、
そして出来る事なら、後でその覚えていることをノートに書くという筋肉動作で行い、その重要事項を脳に確実に記憶として定着させることをしたい。これが「ざる」を水から離さないで置く方法の一つだと思っているのだが、目の前の面倒なことから逃げてしまえば、その行き先は人生の転落につながるのではないか、まして面倒なことの先に本当の喜びがあって、それを体得する場としなければならないと思っているのだが、それは年寄りの冷や水であって、若者の意識にはあまり無いのかもしれない。(何時か分る時が来ると思うのだが)
話は変わるが、先日小学4年になる孫から始めて手紙を貰った。運動会の応援に行ったことのお礼の内容だが、その中で「ゆっくりお話が出来なくてごめんなさい」とあった。
赤ん坊の時から見てきただけに、その成長を目の当たりに見る思いがして、心が震えるほど感動を覚えた。こうして人は成長していくのかと思うと同時に、何時までも、この心を忘れないでいて欲しいと願ったものである。
今年の梅雨は何となく「空梅雨」の様子を見せている。豪雨で苦しんでいる人もいて、なかなか平均的にはならない自然現象である。

白百合を愛した男   第1回

2010-06-21 10:28:02 | Weblog
明治28年10月8日、岡山県の県北その草深い田舎でひとりの男の子が生まれた。
生まれた時の体重は軽く、身体も小さく母親は無事に大きく育つかと一人心配をしていた。家はその村の村社の宮司をつとめる父親と兄がいた。しかし生活は貧しく、僅かに供えられる品と、その年に収穫される作物で賄われていた。父親は無口であまり何も語る事のない人であったが、母は無類に優しく、愛情が深かった。父はその子に「美継」と名づけたが、其処にどんな思いが込められていたのか、あまり子供らしくないその名前に周りは戸惑っていた。朝になると、身を清めて社へ出かけていく父を見送り、母について家の回りにある畑の手伝いをするのが日課だった。美継は母親といるのが大好きだった。何をしていても、
どこへ行っても、何を食べていても嫌なことは一つも無かった。兄は父について行動することが多く、一緒に遊んだりすることはあまり無かった。
学校は近くになく、一里近く歩いていく。小さい山をぐるりと廻るような道のりで、いくつかのを通り過ぎなければならない。兄と一緒に行くこともあったが、何時の間にかひとりで行くようになっていた。しかし学校へ通う道は、苦にならず、毎日が楽しかった。
道の途中で出会う人たちや、道に生えている草花は彼の友達であり、何時も彼を喜んで迎えてくれる。雨が降っていても、雪の降る寒い朝でも彼らは待っていた。美継が声をかけると「今日も元気で行くんだよ」と聞こえる。その声に押し出されるように駆け出すのだった。
つつっぽの着物に母に編んでもらったわらじぞうりが履物だったが、風呂敷に包んだ教科書は背中に背負って、大事にしていた。良く分らないことが多かったが勉強の時間は楽しかった。何時までも学校にいたくて、先生に「今日はもう終わりですか。もっと何か教えて」と言って、先生に苦笑いをさせていた。
友達は何人かいたが、彼と何かをして遊ぶことは少なかった。友達は川や山で何かを取ったり、食べたりすることが好きで、色々と誘われることが多かったが、そんなことにあまり興味を持たなかったので、何時の間にか誘われなくなり、一人でいることが多かった。
やがて高等小学校の課程も終わりに近づき、彼の卒業が間近に迫ってきた。
美継は学校を離れることに、何か物足りなさを感じていた。もっと学校へ行きたい。もっと勉強をしたい。無意識にふつふつと湧いてくる思いを抑えることが出来ないでいたのである。

「 オヨナさんと私」を書き終わって

2010-06-18 09:21:23 | Weblog
昨年の6月から始まって、100回で一応区切りをつけました。最初はある人物を
モラリストとしてイメージして、その人物がこの世にどんな生き方をしていくかを
考えながら、ある意味一人の理想像として考えていた時もありました。しかし書き続けているうちに、それは自分の分身のような思いになり、自分の思いや考えが入るようになりました。結果的には思い描いていた人物になりえず、又その内容も未消化の所も多かったのですが、何とか書き終えたという思いです。

これでブログを書き始めて4年が過ぎました。
一年目は「弁柄からフエライトへ」として、自分の歩いてきた道を整理して見ました。
二年目は「交わりをもった人びと」として主に、成人して社会人としてお付き合いをした
    人を中心に書いてみました。
三年目は「波紋ーひとりの男の死」として、嘗て同じ釜の飯を食べた同僚の不遇の死について    その背景に何があったのか、そして何故、昼間、突然のような死を迎えなければ
    ならなかったのかを書いて見ました。
そして、一年を100回に区切って、まとめることを前提に続ける事が出来ました。
一回に約100人の人がアクセスしてくださっていることが分り、次第に責任を感じるようになりました。といっても特別な事が書けるわけではありません。もともと書くことが好きなだけで始めたことなので、これからも老後の楽しみとして続けていきたいと思っています

次回から「白百合を愛した男」と言う題で、ある一人の人物の生い立ちから死ぬまでの一生を書いていきます。平凡で、目立たず、普通の一人の人物でありながら、一人の人間の生き方として何故か心に残る人物であったと、日を追うごとに思えてなりません。
何が、彼をそのような生き方にさせたのか、彼は何を考えて生きたのか、彼の一生は彼にとって何だったのか。

             思いつくまま   

2010-06-16 10:05:06 | Weblog
毎日何気なく暮らしている中で、思いがけないことがあったり起きたりする事がある。何もあるはずがないと無意識の中で考え行動していて、予想もしないことが起きることもある。
事ほど左様に世の中のことは分っているようで、分っていないことが多いし、分らないことがたくさんあるのである。まして自分自身で勝手に想像し、勝手にイメージを作ってしまい、その影響で振り回されていることもしばしばである。ある時、医者の話を聞いたことがある。「一番困ることは、病気になると勝手に自分で病気を判断し、自分の病気を決めてしまっていて、負のスパイラルに入り込んでいることです。ちょっと胃の具合が悪くても、自分はガンではないかとかとか、欝ではないかとか思い込んでいる。」
いかにも人間の弱さと、不完全さを表しているのだが、そうでなくても人は生きている以上
何らかの悩み、不安のなかから抜け出すことは出来ないものだ。つまり何時も何らかの心配、不安の中にいることになる。それは貧富を問わず誰でもが抱えているものでもあるのだが。つらい現実から解放されるにはどうすればいいか。これは永遠のテーマであり、誰もが考え、いろいろなことを語っている。
その中にこんな記事が出ていた。「楽しい一瞬を共有するということは、誰にでも出来る
素晴らしい芸術だ。」というのである。
つまり一刻、一刻を楽しく過ごすことが大切であり、ほんの短時間でも厳しい現実から離れて他の世界に遊んでもらうことに心がける。それだけで気分は休まるものなのだ。
分っていても意識して頭に、この事を覚えてないとその雰囲気の中に飲まれてしまっている自分がいることに気付かないことがある。そんな些細なことが人の気持ちを変え、明るくすることを考えたい。
今年も梅雨の季節に入った。日本の季節が春、夏、秋、冬とあり、その間に梅雨があり、作物がこの恩恵を受けて育つ自然の恵みを改めて知り、感謝である。
地球温暖化、エルニーニョ現象など、地球の変化に人類が影響を受けざるを得ない時代の流れの中にあって、こうして生かされている不思議を思わざるを得ない。当然であって、当然ではないこの事実をしっかりと見つめ、自分が生かされてこの世にある意味を、もう一度考えてみることも大事なのではないかと思っている。
我が家の庭も少しづつ、夏ヴァージョンに変わりつつある。キューリが6本の収穫、トマトが現在20個ほど実をつけている。実験栽培にしては上出来である。

オヨナさんと私  第100回(最終回)

2010-06-14 09:07:32 | Weblog
台北市内は古いものと新しいものが同居している。高層タワーと地下鉄があるかと思えば
数十年前の建てやがそのまま残っていて、昔の看板のままで商売をつづけているところもある。彼女の目には見るもの一つ、一つが珍しく、新鮮であった。町並みの中にあるビンロウジュの木も鮮やかである。地下鉄のホームは清潔で、所々にオブジェが置いてあり、心を和ませてくれる。東西南北に伸びている路線はまだ未完成で、まだ便利になるようだが利用者は多く、気持ち良さそうだ。二人は終点に近い郊外の駅に降りた。歩いていくうちに丘の上に出る。其処には十字架の立っている教会があった。
誰もいない会堂に牧師夫妻が二人を出迎えてくれる。現地の言葉で話すヨナさんと牧師と
離れて彼女は、ドレスに着替えを済ませる。用意された花束を持った彼女の姿は見違えるように輝いた。オルガンの奏楽に合わせて二人は牧師の前に進む。
厳かな誓いの言葉が交わされ、指輪の交換が行われる。熱いくちづけを交わし、二人は神の前に愛を誓った。その静かさのゆえに厳粛さが増していた。教会の丘から見える海は美しくおだやかであり、船の行き交う様子が賑やかに見える。
牧師夫妻に別れを告げ、二人は丘を降りる。その日を無事に過ごし、ホテルのロビーに落ち着く。「以前、愛について話したことがあったけど、覚えてる。」「えー、おぼえているわ。愛って簡単に言うほど、易しいものではないと言うことを考えさせられたわ。」
「そうなんだ。私は昔読んだ本で、愛には大きく分けて二つあって一つは「エロース」で
もう一つが「アガーぺ」と言うんだ。エロースは自己愛の意味が強く、アガーぺは自己犠牲の愛とでも言えるもので、神の愛とも言えるかもしれない。人間はこの二つをしっかり理解していないために愛を間違って覚え、使う。そして不安、疑問、そして裏切り、憎しみへと
変わっていく。アガーぺの愛は人間には難しいけれどそのことを覚えて、本当の愛が神の愛へ変わる愛であることを知っていなければいけないと思っている。
そして、少しでもそれに近づける努力をしなければ本当の幸せを覚える事が出来ないと思うんだ。これからの君との時間をそんな思いで過ごせればいいなと思っているんだよ。」
台北の夜は長い。人々は「夜市」を巡り、昼の憂さを晴らし、おしゃべりと食事、そして
散歩を楽しむのだ。そのバイテリテイは独特である。
そして何時までも果てない夜は続いていく。

オヨナさんと私    第99回

2010-06-11 09:26:07 | Weblog
二人は成田国際空港のロビーに来ていた。普段の日とあって比較的に空いていて、静かである。空港は年々整備されて近代的に、そして便利になっているのが分る。時間を計りながらゆっくり手続きを進める。彼女は初めての海外旅行とあって少し緊張している。
「これで後は何もすることは無いから、少しゆっくりしようか。見物でもしたらいいよ」優しく声をかけると、嬉しそうにうなづく。みやげ物を始め、化粧品、装飾品が世界のブランド品を揃えておいてある。見るだけでも楽しく、気持ちが良い。しかし、殆どの人が通り過ぎるだけで、買い物をしている人は見当たらない。嘗ては酒、タバコの売り場に人が集中して大混雑をしている光景が出発ロビーでも見られたのだが、今はその面影は無い。
時代の流れをヨナさんは見る思いであった。サテライトの見えるところで、お茶を飲む。
「飛行機に乗ったことはあるけど、海外は初めてなの。大丈夫かしら」素朴な子供のようなことを聞く彼女に「同じだよ。ちょっと長く乗るだけさ。といっても3時間ちょっとだけど、多分寝る暇も無いと思うよ」たわいの無い会話で緊張をほぐす。搭乗を知らせるアナウンスがあり、二人はサテライトへ向かった。
予定より、少し遅れて飛行機は飛び立った。ぐんぐんと上昇する時のパワーはやはり一種普段経験することの無い迫力を感じる。この時の気圧の変化が微妙に身体に影響するのだが、体調の悪い人はその影響で気分が悪くなることもある。そこを過ぎれば平衡飛行に移り、機内の様子も落ち着いてくる。「大丈夫だったかな。少し急上昇できついけど、もう少ししたら飲み物と機内食が出るよ。」「えー。もう出るの。どんなものが出るのかしら。楽しみだわ」「あまり期待しないほうがいいよ。ビジネスとか、ファーストクラスだと内容も違ってくるけど、エコノミーはコンビに弁当よりお粗末かもしれないよ。といってもしょうがないんだけど。出す前に魚か肉かと聞いてい来るから、どちらにするか決めておくといいよ。」
「じゃあ、あなたは肉で、私は魚にして少しづつ試食しましょうよ。」他愛の無い会話は何時までも続き、なにを話しても二人にとっては、とても楽しく、また貴重な会話であった。
やがて機内食がテーブルに運ばれ食事が始まる。黙々と食べながら、「これって、味が薄いのね。もう少し味が付いていると食べやすいかも」と呟く。「多分、万人向きに薄くしてあるんだと思うよ。好き、嫌いがあるからね。」何時の間にか、彼女の肩がヨナさんのほうへ
よりかかり、二人はそのまままどろんでいた。

            思いつくまま

2010-06-09 09:28:09 | Weblog
先日入院している弟を訪ね見舞いをすることが出来た。昨年兄を亡くし、二人になったなと感慨を新たにする間もなく、原因不明の頭の病気になり、その後遺症で癲癇発作を起こし、無呼吸その他の機能障害を併発したのだ。ベッドに横たわって鼻から管で栄養剤と点滴を行い、手は拘束されている。穏やかな表情の手をとり、ぐっと握ってやる。どこまで分っているのか、少し表情が柔らかくなる。ただ黙って手を握ったまま暫く様子を見る。何を思い、何が彼の脳裏に浮かんでいるのか分らない。時々何かを呟いている。元気な頃の仕事のことかもしれない。たくさんの会社を訪問した、そして良い人にめぐり合ったときは嬉しかったと言うようなことを言っている。そんな姿を見ながら自分がこうしていながら、何と人間は日頃、何でも出来て不安は何も無い気持ちで生きているが、本当に一瞬先のことは分っていない。今健康で自信に満ちていても、何が起きて、その状態がすっかり変わってもおかしくないのだ。そして何も出来ない自分を其処に見出して不安と苦しみの中に陥るのである。
健康であった時の自分はどこかへ消え、失望と落胆の自分を見ることになる。
そんなことを元気な時は全く想定できないし、考えない。しかし、こうして年齢を重ね、
間近くその実態を見るとき、それは現実の問題として明確に知らされる。そして始めて自分の無力さ、弱さを知らされるのである。だからこそ人は常に謙虚であり、その時に備えて自らを顧みつつ生きていることの大事さを思わされるのである。時間になり、別れが近くなり、再度手を握る。力が入り、なかなか離そうとしない。私は一瞬そこに弟の何も言えないゆえの心の叫びを聞いた気がした。「行かないでくれ。もう少しここにいてくれ」そんな声が聞こえてくる。後ろ髪を惹かれる思いで病院をあとにしたのだ。人は限りある生命のうちにある。その時間をどのように過ごしていくか。それは人それぞれであろう。しかし、できることであれば、自分は自分らしく、生きてきた自分を喜び、出来るだけ悔いのない、感謝の時間として過ごして生きていきたいと思う。残されている時間は長いようで短い。
大切にしたいと思う。
時、あたかも新しい内閣の出発を知らされる。何度変わっても、新しい希望が生まれてこない閉塞感のあったこの時期だけに、期待も大きいが、少しづつでも前進して行くことができることを願ってエールを送りたいと思う。