波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに    「出会いそして別離」

2015-07-29 09:41:04 | Weblog
今月の初め電話があり、友人の一人がこの世の生活を終わった事をしらされた。
昨年の夏までデパートの食堂で2ヶ月に一回の二人だけの昼食会をしていた。話は尽きず喫茶店へ場所を変えてしゃべり再会を期して分かれていた。
数少ない友人とこうして共通の話題を話し、近況を語り合うことは貴重であり同窓会でもなければ出来ないことであり、何時までも続けることが出来ればと楽しみにしていた。
出会いは40年もさかのぼり、現役でお互いにバリバリに仕事をしていた頃であった。私からすれば得意先でもあり同業者でも会った。お互いに営業と言う人間関係のハザマにあって共通することもあり、何とはなしに付き合っていたが、ある時、「君は時間外授業は銀座が多いんだってね、一度一緒に連れて行ってくれないか。」と頼まれたことであった。
私は好んで銀座へ行っていたわけではなく、当時の親会社のえらいさんのお供でよく銀座へ出入りをしていただけであったが、何軒かの店を知っていてボトルもキープしてあったので行くことが出来た。宴たけなわになった頃、「この店の女の子はチップとそのときの都合で店外デートも可能らしいよ」と余計な事を言ってしまった。
その夜は適当に遊んで分かれたのだが、後日会ったときに「いやあ、あの夜えらい目にあったよ」と私に愚痴をこぼした。何があったのかと聞いてみると「いや、君の話を真に受けてチップを渡して、店の近くの喫茶店で店が終わるのを待っていたが、女の子は一向に来ない。見事に待ちぼうけを食わされて偉い散財になった」と言うのだ。
そんなこととは知らずに無責任なことを言ってしまい、申し訳ない事をしたと侘びをしたが、これが忘れられない出会いであった。
話は海外でのことや同じ同業の仲間の話ゴルフの話、中でも好きだったのは女性に関して語るときはいっぱしの評論家のようであった。奥さんは数年前に亡くしていたが、毎日行っている散歩中に立ち寄る喫茶店で出会った妙齢のご婦人と親しくなり、週一回のデートを楽しんでいるとそっと告げていた。
私にとっては数少ない戦友であり、二人しか話せない友人でもあった。
「脳腫瘍」と言う重い病で見舞いに行ったときは「これが別離になるかも」と言う思いも下が、あっけない別れとなってしまった。
今は先立った奥さんと仲良く天国で二人の娘を見守っていることだろう。

泡粒の行方   第16回

2015-07-25 09:46:38 | Weblog
高校時代は「青春時代」と歌われたように青春真っ只中だった。何の心配も不安も覚えず
好きなことを何であれ全身でぶつけ爆発することが出来た。贅沢は無かったが、家族もそっと見守っていてくれて、何も言うことはなかった。大学を受験することを意識するものは岡山の学校へ転校したり受験のための勉強に取り組んでいた。
そんな時、学校同士の合併の問題が起きた。それは「閑谷分校」と呼ばれ兵庫県との県境に近い山の中にあった。その昔は男子校としてかなり名も通り生徒も優秀なものが出たのだが、交通の便が悪いことや生徒数が減ってきたことで持ち上がった問題であった。
そしてその分校への希望者が募られた。欽二は真っ先に手を上げていた。何も分からなかったが、何でも新しがり屋で好奇心の強い性格が無意識に動いていたのだろう。
町から20キロほど山に入った静かな所である。成るほど「閑谷」とは良くつけた名前だと思わされた。
校舎はあるが、それは後から出来たもので元は岡山池田藩の家老をはじめ子弟の学問所としてわざわざ山の奥深くのところへ作り「孔子廟」もあり、国宝とされる講堂もあった。宿舎も言い訳ほどのものが一棟あり、いつも地震かなと思うほど生徒が走ると揺れるほど古く、何時倒れてもおかしくないほどであった。高校三年の春、欽二は20名ほどの仲間とその宿舎へ入った。本来なら勉強には最高の環境であり、集中できるはずであったが、生来ののんきな性格と自由な生活の中で欽二は開放感の中でのんびりと過ごしていた。
僅かに女子も居たが、前の校舎と違い男子だけの教室である。授業が終わると好きなバスケットの練習に明け暮れ、その成果として身長も人並に伸びてきた。
バスケットは練習試合があり、岡山市内や郡部へ遠征に行くこともあった。試合はいつも補欠でボール拾いの役でしかなかったが、時折、交替選手として試合に僅かな時間に選手として出ることもあり、それで満足できていた。その時つけたナンバー11は忘れられない番号となった。
国宝とされた講堂では「漢文」の時間だけに限り使用が出来た。何百年の歴史を刻んだ
総檜作りの講堂での時間は今でも貴重な思い出として残っている。
あの静寂さは嘗ての武士たちの魂が残っており、まさにタイムスリップした異様な雰囲気があった。(現在も存在しているが、使用は禁止されている。)

思いつくままに   「あなたは幸せですか?」

2015-07-22 10:33:22 | Weblog
唐突に誰かからこんな質問をされたらあなたは何とこたえますか?平凡だけどその人の人生を左右する大事な言葉として考えられる。ある人は見栄を張って(本当にそう思ってか)「もちろん幸せです」と胸を張る人も居るだろう。しかし、その自信と裏づけは何処にあるのだろうか。それは他人によって違うかもしれないが、資産であったり、権力であったり、健康であったり、何でも思い通りに出来る自由であったり、それぞれが
勝手に考えているものであろうが、それらは本当に幸せの根拠になっているのだろうか。人は生きているのである。生きていると言うことは日々動いていると言うことでもある。それは変化していると言うことでもある。とすれば瞬間、瞬間での幸せは次の瞬間に不幸に繋がることもあると考えなければならないだろう。
極端に言えば常にそれは変化しているともいえる。「禍福はあざなえる縄の如し」とは昔から言われているが、まさにこのことを言っているのかもしれない。
統計的な答えとしてまとめれば(推定)「私は幸せだとは思いません。不幸に生まれたと思っています。」と言うこたえのほうが多いかもしれない。
自分の思い描いた理想図になっていないことで自分を不幸と決め付けている人のほうが
多いのではないだろうか。  しかし良く考えてみよう。
日ごろ口を開けば不平、不満を言いつつも生活は明るくあるがままに受け入れて全てを割り切り生きている人、表面にはその苦労を出さず平気で居る人も大勢居るのである。
それはその人の性格、人生の処し方にもよるが、人生観の違いでもあるだろう。
思うようにならず、どんな境遇に置かれてもそれなりの人生を生きることが出来る人は「幸せ」と口にするかどうかは別として芯からそう考えているのではないだろうか。
しかし、全てが思うようにならず不平と不満に考えてしまうならばそれは「不幸」として残ることだろう。
どんな状況におかれても心に信じぶれない信念を持ち続けることが出来れば、人生は人にはど映ろうと「幸せ」なのである。
であれば、「幸せ」は誰でもなれることを覚えたいと願っている。

泡粒の行方   第15回き

2015-07-18 11:31:28 | Weblog
少年時代から青年へと変わるときでもあり、環境も村から町へと変わり人数も多くなり無意識のうちに世界が変わっていることに驚いていた。男女共学も中学から始まっていたが、男子生徒と女子生徒との協和は何となくぎごちなく不自然だった。そんな中で新聞部に在籍していた女子部員が欽二には妙に気になっていた。決して美人だったからではない。大柄で太めで凡そ女としての美観からすれば遠いものだったが、その容姿とは裏腹にその存在から生まれる知的な雰囲気と何ともいえない魅力に惹かれていたのである。「山本光」60年前の名前が今でも忘れられない。クラブ活動は部長の「藤原雄」をトップとして活発な活動をしていた。(参考に言えばこの藤原雄氏は後にジャーナリストを経て備前焼の陶芸家として成功している。)
欽二はこの中にあって相変わらずチビで目立たない存在であった。そんなある日岡山から一人の青年が訪ねてきた。そして彼との話の中で自分も慎重を高くしたいがどうしたら良いかと話すと「バスケットボールをすることを薦められた。早速学校で調べるとバスケット部は存在しないことが分かった。そこで希望者を募り始まったのだが、女子が多く男子の希望者が少なく、あまり活動できない状態だった。しかしこれで身長が伸びるならと続けていた。そして二年が過ぎた。その頃になると大学受験の話題になり、各自いつの間にかクラブ活動を避けて受験の準備に入っていた。しかし欽二は大学受験には興味が無く相変わらずの生活を続けていた。その頃「生徒会」と言うものが始まり、会長選挙が行われることになった。欽二は誰からの推薦とも無く立候補していた。どうやらこの辺にも目立ちたがりの性格が無意識に働き始めていたようだ。
何人かの候補が次々に講壇にあがり、自説を発表し選挙に入った。当人は会長を目指していたわけではなく、したい事をしたと言う思いだけだったのだが、結果は副会長になっていた。またその地区の高校弁論大会が開催されると聞くと、自ら出場を決めて出る準備に入っていた。原稿を書いていると10歳年上の兄がその原稿を覗き「そんなものじゃあ話にならないよ」といい、「教えてやる」と原稿に手を入れた。
その原稿を丸写しに覚えて壇上でぶち上げた。「青春とは顧みるときの微笑であるとゲーテは言った。」はその一説である。

泡粒の行方   第15回き

2015-07-18 10:56:49 | Weblog
少年時代から青年へと変わるときでもあり、環境も村から町へと変わり人数も多くなり無意識のうちに世界が変わっていることに驚いていた。男女共学も中学から始まっていたが、男子生徒と女子生徒との協和は何となくぎごちなく不自然だった。そんな中で新聞部に在籍していた女子部員が欽二には妙に気になっていた。決して美人だったからではない。大柄で太めで凡そ女としての美観からすれば遠いものだったが、その容姿とは裏腹にその存在から生まれる知的な雰囲気と何ともいえない魅力に惹かれていたのである。「山本光」60年前の名前が今でも忘れられない。クラブ活動は部長の「藤原雄」をトップとして活発な活動をしていた。(参考に言えばこの藤原雄氏は後にジャーナリストを経て備前焼の陶芸家として成功している。)
欽二はこの中にあって相変わらずチビで目立たない存在であった。そんなある日岡山から一人の青年が訪ねてきた。そして彼との話の中で自分も慎重を高くしたいがどうしたら良いかと話すと「バスケットボールをすることを薦められた。早速学校で調べるとバスケット部は存在しないことが分かった。そこで希望者を募り始まったのだが、女子が多く男子の希望者が少なく、あまり活動できない状態だった。しかしこれで身長が伸びるならと続けていた。そして二年が過ぎた。その頃になると大学受験の話題になり、各自いつの間にかクラブ活動を避けて受験の準備に入っていた。しかし欽二は大学受験には興味が無く相変わらずの生活を続けていた。その頃「生徒会」と言うものが始まり、会長選挙が行われることになった。欽二は誰からの推薦とも無く立候補していた。どうやらこの辺にも目立ちたがりの性格が無意識に働き始めていたようだ。
何人かの候補が次々に講壇にあがり、自説を発表し選挙に入った。当人は会長を目指していたわけではなく、したい事をしたと言う思いだけだったのだが、結果は副会長になっていた。またその地区の高校弁論大会が開催されると聞くと、自ら出場を決めて出る準備に入っていた。原稿を書いていると10歳年上の兄がその原稿を覗き「そんなものじゃあ話にならないよ」といい、「教えてやる」と原稿に手を入れた。
その原稿を丸写しに覚えて壇上でぶち上げた。「青春とは顧みるときの微笑であるとゲーテは言った。」はその一説である。

思いつくままに    「孫からの初めてのメール」

2015-07-15 09:30:47 | Weblog
私には孫が4人居る。下は小6から上は大学1年までで男も女の子も居てそれぞれ個性もあり、成長が楽しみである。しかし、大きくなるに従ってそれぞれ自分の世界が出来てきて
学校の事を中心に友人のこと、クラブ活動のことと時間がなくなり、会うことも無いのが実態である。親である息子や娘に時々様子を聞くことがあるが、親も良く分からないぐらい自立してきているようである。
その孫の一人から突然メールを受け取った。もうメールなんかするようになったのかと何気なく読んでいるうちに涙で目が潤むのを抑えることが出来なくなっていた。
(原文のまま)~70歳を過ぎると勉強は大変でしょうけどボケないようにするために脳を使って知識を増やしていくことがいいですね。もしじいじも大学とはいかなくても、何か挑戦するつもりで頑張ってください、もし大学へ行きたいというなら私がバイトで稼いでお金を出してあげるよ。」普段は疎遠で私の存在すら忘れられているかと思っていたし、私自身もそれほど気にもしていなかったのに、驚きと感動を貰うことができたのです。
小さいときは初めての孫と言うこともあり、母親の体のこともあってたびたび行って子守をした事を急に思い出して、あんな小さい子がこんなことを言えるようになったのかと
その成長を感謝せざるを得ませんでした。
この世ではその時々において普段気づかないで居ても不図気づいて考えることが多くなるのだが、子供の成長は確実に目に見えて進んでいることがわかる。
中3年の子が英検3級を合格したとか聞くと、わがことのように嬉しくなるのもそのひとつだ。自分の基準で人を見るのではなく、それぞれの人間の成長を楽しみながら自らも
努力をすることを教えられた主である。

泡粒の行方    第14回

2015-07-11 10:11:35 | Weblog
欽二は小学校を卒業した頃からいなかのせいかつになれてきたようだ。4キロの道のりでの通学は相変わらずであったが、身体の成長とともに肉体にも力がついてきて通学が楽になり、楽しみに変わっていた。そして休憩場所、水のみ場所などを決めたり、時には山越えをして距離を稼いだりすることも出来るようになっていた。中学も隣接した校舎で隣村の生徒が一緒になり、「新制中学」一期生としてスタートしていた。生来あまりくよくよする性格ではないのか、次第に自分のしたい事を自ら希望し、行動するようになっていた。戦後も5年を過ぎると生活も落ち着いて食糧事情も良くなっていた。落ち着いた生活に恵まれながらの学校生活だった。
クラブ活動も盛んになり、欽二は張り切っていた。初めて出来た放送部が出来ると率先して入部し学校放送を始めていた。年に一度の学校発表会では舞台に上がり、当時NHKで始まった「三つの鐘」のまねをしたり、村代表の音楽会の郡大会では率先して出場していた。まだ声変わり前の高い声が出ていたこともあってその時歌った「ローレライ」は入選候補になっていた。
しかし学業のほうにはあまり熱心ではなかった。友人は三年になると高校受験を意識して生活も変わっていたが、彼はあまり機にしないで相変わらず普段のままだった。
高校は地域制度があり、地元で行ける学校が決まっており(家が裕福な子は都会の私立を目指して特別な勉強をしていた)あまり意識をしていなかった。
新制高校一期生としてスタートしていた。さすがに高校は電車を利用していかなくてはならない。高校でも勉強よりもくらぶかつどうに関心があった。宣伝もあり、欽二はどのクラブへ入ろうかと関心が強かった。
その時一人の先輩が「新聞部」の責任者として希望者を募っていた。その先輩を見た瞬間
彼はこの人についていこうとひらめいた。そして迷わず入部した。
校舎の片隅に小さな小部屋があり、そこが新聞部のたまり場として使用されていた。
授業が終わるとそこで時間を過ごすことがとても楽しく、時間を忘れて過ごすことができた。しかし、そこでの役目は目立ったものは無かった。殆どがじもとの商店街をまわり、お願いして広告を載せてもらうことぐらいで新聞の記事など書く機会は無かったのだ。

思いつくままに   「省みること」

2015-07-08 09:49:29 | Weblog
紀元前2千年以上前、当時のユダヤ人たちは当時「律法」と言われる決りを正しい掟として守っていたと言われる。その中にはこの掟を破ったものは「石打の刑」というのがあり、死刑に値する刑罰があったとされる。ある女が姦淫の罪を犯しそれを咎められて
広場へ引き出され、その場で「石打の刑」に会わんとしていた。その時一人の声が聞こえてきた。「今、ここで石を持ち投げんとするもの中で、今までに何も悪い事をしたことがないと思っている人から石を投げなさい。」この言葉を聞いた群衆は一瞬投石を止めた。
そして暫くの静寂のうちに一人の老人がその場に石を置き静かにその場を立ち去った。
すると又一人同じようにその場を立ち去り、つぎつぎに居なくなっていき、その場には件の女とその声の主との二人だけが残されていた。と言う話を聞いたことがある。
人は皆不思議に無意識のうちに自分だけは悪い事をしていない、人に迷惑かけたり傷つけたりしたことはない、まして法に触れるようなことはしたことは一切無いと思い込み
それはいつの間にか自分は正しい人間だと思い込む錯覚を持ってしまうものである。
しかし、人は生きている限り誰かが見ているか、見ていないか、知っているか、知っていないか、自身で気づいているか、居ないかは別として何らかの罪を犯しているものである。私自身もこれまでの人生で気づいていないことを人から「あなたには随分厳しい批判を受けて寝られないことがあった」「うまくも無い歌を長々と聞かされたことがある」とか、その他色々と言われたことがあり、随分と恥ずかしい思いや赤面することの多かったことを思い出す。そうでなくても他人の話を良く聞き理解しないままに自己主張して、
相手をやり込めることはたびたびであったことを今更ながら思い出し、悔やむことが多い。こんなことを思い出しながらこの話を読みながら人間と言うものは罪から逃れられないものと思うと同時にその事を出来るだけ意識して生きなければならないとも学ばされた。中には思い込みで他人に良かれと思って話したことが全く違った結果になったことさえある。生きている限り、常に謙虚さを忘れず身に着けて行動したいものと思わされて
自戒としたい。

泡粒の行方   第13回

2015-07-04 11:01:09 | Weblog
岡山県は瀬戸内海に面した欧米で言う地中海沿岸に似た民度の高い地域である問い割れている。しかし欽二少年が父親と家族で疎開したところは岡山のチベットともいわれている
県北の僻地であった。それは工場立地として郊外の危険があると敬遠されて民家から疎外した山の谷あいにあったからである。小学校5年生でそこから学校までは4キロは佑にあり、都会育ちの子供にはかなりの遠距離であった。欽二は弟と朝早く家を出て冬も夏もその4キロの道を歩いて通ったのである。途中でへこたれて休むこともあり、農家の井戸水でのどを潤し、道端の草を食べ時には川で泳ぐこともあり、半日係の通学生活であった。しかし、子供心に都会生活から開放された好奇心と遊び心でまいにちをたのしくすごしていた。ただ苦痛だったのは「疎開っ子」としての地元の子供たちからのいじめだけはつらく、特に物資の無い時代とあって何かと家から持ち出すことを強制されたことは、親にも言えずずいぶんつらい思いをすることになた。
そんな中で唯一慰めになったのは同じ学級に東京から疎開してきた友達が居たことであった。可愛い女の子でひときわ目立った子であった。欽二少年は何かと話しかけて東京の話をしながら慰められたり、励まされたりしてそのときだけが心の休まるときであった。
中学は新制中学として男女共学となり、新しいクラスが出来て新しい友達も出来てきた。
そしてその頃から少しづつ自分自身を取り戻し学校生活を確立することが出来た。
運動会で男女で手を組んでダンスをしたり、学芸会で独唱をしたり放送部でアナウンスをしたり、出来ること、したいことを積極的に参加していたのもこの頃であった。
食料は不足気味で母は自分の持ち物を農家へ行っては食糧に変えて育ち盛りの三人の男の子に食べさせ、小さな土地を開墾しては家庭栽培をしながら食料の足しにしていた。
そんな時はいつも母と一緒に畑仕事をしたのは欽二であり、兄も弟もすることは無かった。社宅のある家の下は川あ流れていて釣りをしたり泳ぎも出来るのは楽しいことのひとつだった。水泳は誰に教えてもらったわけではなかったが、毎日泳いでいるうちに25メートルの川を泳ぎきることが出来るようになっていた。それは大人になってからも大きく役にって居た。

    思いつくままに   「噂話」くい

2015-07-01 11:06:19 | Weblog
男の世界ではあまり話題にならないと思うが、(無いとはいえないが)女性の間では噂話ほど興味と関心を引くものは無いらしい。私の知人の女性(と言ってもかなり高齢者)に寄れば、地方の田舎から都会へ出てきて50年以上にあるが、田舎が恋しくて小さいときの幼友達を訪ねて時折話をしているとの事。そのときの話題は小さいときの思い出から始まり、「あなたは小さいときはいじめっ子で、私良く身体も小さいし、いじめられたり意地悪されたわ」と言い、「私そんなことしたかしら、ちっとも覚えてないわ」という他愛無い話からお互いに良く知っている田舎の様子を人間関係からそこでの出来事を些細なことまで知っていて「ああでもない、こうでもない。」「こうなっているの、ああなっているの」と小さいことまで詳しく話してその一つ一つに自分のコメントが加わり、とめどなく話が続くのだそうである。どうやら姉妹が田舎に居て事あるごとにしらせてくるらしいのと又その種を拾い集めてあることない事を話し伝える人も居るらしい。
話はその事実の真偽は裏づけが無いので怪しいものばかりだが、そんなことはあかまい無く話だけが一人歩きをしているのである。
しかし、冷静に考えると噂話は何の罪も無く関係ないということではすまないことも考えなければならないだろう。仮にその話が当人の耳に入り、事実と違うことが分かっても抗弁することも消すことも出来ず、当人だけがストレスを抱えたまま悩むこともあるだろうし、無関係とはいかないことが多い。
ましてこんな場合話題になる噂の内容はたいていの場合、耳に心地よいものではなくむしろ人を中傷したものやある意味同情を集めるはずのものが、ある意味自分の優位性を意識できることで会館を覚えるものが多いのは困ったものである。
そしてその尻馬に乗って「そうなの」と優越感に浸ることさえあるのだから、その罪は大きいと思わなければいけないことが多い。
件の女性も「私は、そんな事が嫌いだから田舎から出てきたの」と言っていたが、
確かに都会ではこれだけ混成されてくると人のことにかまうほどの余裕は無く、隣の人さえ、どんな人かも知らないことになる。(これもどうかと思うが)
事ほど左様に噂話はあくまで噂であって真実ではないし、仮に真実であったとしても他人のことは注意深く取り扱うことが大切になってくる。