波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

白百合を愛した男    第21回

2010-08-30 10:33:17 | Weblog
疎開先は埼玉の田舎の寺であった。男子だけ30人ぐらいでその付近に分散していた。
成長期でお腹の空く年頃で、毎日がひもじい日であった。勉強は週に一回のその村にある学校を借りての学習がやっとで、殆ど手につくほどの事はなかった。そんな中での楽しみは月に一回の父兄面談だった。この日はそれぞれの親が子供の好きな食べ物を不自由な中から準備して持ってきて食べさせることが出来た。美継も母親と一緒に好物のおすしや甘いものをとサツマイモで作ったあんこの団子を食べさせた。寺の本堂のあちこちで笑い声が聞こえ、楽しそうな会話が聞こえてくる。そんな半日が苦しいひもじさや毎日の空襲の恐さやつらさを忘れさせて元気が出てくるのだった。三男の弟も兄の様子を見ながら、喜んで飛び回り田舎が珍しそうであった。あっという間の時間が過ぎ親子の別れになる。淋しそうに見送る子供たち、「元気でいるんだぞ」と励ましの声をかける親達、そして又もとの生活に戻るのだった。そんな中中学を卒業した長男は、自力で東京物理学校を受験し、合格していた。
美継はそんな子供の姿を頼もしく見ていた。小学校の時はやんちゃで勉強嫌いでわがままだった子供がこのように成長していくのを見ることは想像もしていなかった。
それは男子としての、人間としての成長を見る思いであり、自分の力ではないものを感じていた。戦争はいよいよ激しさを増し、毎日が落ち着かない日になっていた。
ある日、美継は決心をした。このままでは必ず、この東京は戦火の海になるであろう。そうなれば家はおろか、家具は全て灰燼と帰すことになる。今のうちに何とか出来るならばしておかねばということであった。岡山の山内氏に相談すると、喜んで引き受けるから、いざとなったら、岡山の本社へ帰ってくるようにと承諾を得る事が出来た。
それから、運べる範囲の衣類を始め、家具などの必要品を荷作りして、出来るだけ搬送したのだ。長男はこのままでは、自分も兵役に付かなければならないと覚悟をしていた。
そうなれば自分で一番やりたいことをしたいと、自分の考えを固め「海軍経理学校」を目指し、直ちに編入した。前の学校は僅か一年の在籍だった。こうして日本全体が世界を相手にして大きな渦の中に巻き込まれ、東京もその中心におかれ、毎日がその空襲の嵐の中に置かれるようになっていったのである。

白百合を愛した男    第20回

2010-08-27 09:59:56 | Weblog
木造建てとはいえ、3階となると地上10メートル近い高さがある。其処から落ちたとあっては、悪くして石にでも頭を打てば死ぬこともあっておかしくないし、そうでなくてもどこか怪我をすることは覚悟しなければならなかった。当時の裏通りは細い路地裏になっており、排水が流れる溝にどぶ板のようなものがかぶせられ、ゴミ箱や漬物石などが置かれていた。幅が数十センチほどのところである。母親が真っ青な顔をして二階から駆け下り、美継も仕事の手を止めて立ち上がった。1階は倉庫もかねて、物置になっていた。
暗く細い間を通り抜けて裏へ出ようとしたとき、その裏口から小さな影が見えた。落ちた次男だ。ふらふらとよろけるように歩いてこちらへ向かっている。「大丈夫、?」と呼びかける母の懐に抱かれるように崩れ落ちると、そのまま気を失った。
そのまま、安静にしながら、近くの医者へつれて行く。医者は全身をあちこち診察していたが、「とにかく、安静にして48時間は様子を見なければなりません。今のところ目立った怪我は見当たりませんが、何が起こるかわかりません」という。
後で聞いてみると、友達と遊んでいて、物干し場の板の間から落ちたロー石を拾うために屋根に降りたらしい。何事もなければよいがと両親は祈るばかりであった。
そのまま二日が過ぎた。少し熱が出たり、あざがあったりしたが、大きな怪我も、異常も見られず、無事に退院することが出来た。母親は早速教会の牧師を訪ねた。
「先生。この子は今回は本当に神に助けられたと思います。赤ん坊の時にも病気で医者から今夜が山ですと見放されたことがあったのですが、そのときも助かりました。大きくなったら、牧師にさせたいと思っています。」真剣であった。牧師は「神はこの子が何処でどのように用いられるか分りません。この子をどのように用いるかは神様が決めることです。」
その言葉に母は打たれて、洗礼を受ける決心をしたのである。
戦争は益々激化していた。中学へ行くようになり、長男はめきめきと成績が良くなり、卒業する頃には首席を取るほどになっていた。何事によらず、集中すると、真剣に取り組む姿勢が効果を発揮したようである。次男は学校疎開で親を離れて田舎へ行くことになり、落ち着かない日々が続くようになっていた。その頃、三男も生まれて美継は仕事に専念していた。相変わらずの軍需景気で忙しかったのである。

           思いつくままに

2010-08-25 09:19:50 | Weblog
最近海外からのTVドラマにはまっている。何気なく見ていたが、そのうちに、その国の風景や生活習慣などに興味を持つようになったからなのだが、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウエーデン、韓国と様々な国の人間模様を楽しめる。その中で特に興味を引いているものに、ある家族をモデルにしたものがある。死んだ父親の後を残った母親を中心に五人の兄弟が織り成す家族模様だが、長女が父親の後をついで会社の社長となり、その実務を長男が助けている。次女は報道関係のキャスターをしていて、次男は弁護士の資格を持っているのだが、世間では蔑視されるゲイでもある。三男は甘やかされて育ったのかプー太郎的な生き方をしていたのだが、兵役に取られ軍隊生活をして帰国し、定職に付かないでいる。
そこに父の愛人だった女性とその娘とが絡み、様々な人生問題が発生する。しかしその中を一貫して貫いている「家族愛」がそのドラマを支えていることに惹かれるのである。、
家族全体の問題として解決されていく過程は、単に作者の意図だけではなく、その家族が育て上げてきた尊い「家族愛」の表れだと思わざるを得ない。
話は変わるが、ユダヤ人の家庭では子供が13歳になると成人式をして大人としてのお祝いをする習慣があるとのことです。会堂では13歳で大人になったばかりの青年(子女)は聖書を読み、短い説教、勧めの言葉を語る。つまり大人になるとは自分で聖書を読み、それを人に語れるようになることを意味しているのだそうです。これに対して両親からお祝いの言葉を受けます。「これからあなたの人生に何が起ころうと、又あなたが人生で成功しょうとしまいと又有名になろうとなるまいと健康であろうと失おうとあなたの父、母がどんなにあんたを愛しているかを、いつも思い起こして欲しい。」
日本にも、世界に冠たる家族愛が存在し、立派な家庭が育っていた。しかし、最近の様子を見ていると、その大きな土台が崩れかけているような感じがしてならない。勿論他人のことではなく、自らを顧みて反省せざるを得ないのだが、墓参の習慣が薄らいでいることもその一つかもしれない。物が豊富になり、生活が豊かになると、とかく大事なことを忘れ、自分の欲しいものが手に入ることだけを考えてしまいます。それは人のことを顧みることを忘れさせ、自分だけが良ければいいという考えに何時の間にかなってしまっているのではないだろうか。

          白百合を愛した男   第19回  

2010-08-23 09:16:59 | Weblog
明治生まれの男にとって跡継ぎの長男の将来は重要なことであった。ほっといてこのままでいいということにはならない。温厚な父親ではあったが、ことここにいたっては強制的にも勉強をさせねばならない。学生アルバイトの家庭教師を探してつけた。嫌がる子供を無理やり机に坐らせたのである。その甲斐あってか、私立の中学へ入学させることが出来た。
やれやれである。娘の死からの傷も癒え、次男も生まれ、進学も無事に果たすことが出来た。何となく仕事に集中して向かうことができるようになっていた。その頃、急に町の様子が変わり、何となく緊張感が漂うようになっていた。昭和16年第二次世界大戦を告げる
ニュースが知らされた。真珠湾攻撃による戦争の始まりであった。毎日のように徴兵による軍隊の組織強化がなされ若者は次々に借り出されていた。そんな中で、美継の仕事は意外な展開をしていた。それまで見向きもされず、相手にもされないでいたガラス工場からの引き合いである。彼は鏡工場へ品物を納めている時、ガラスの研磨にはこの弁柄が非常に効果があることを知った。そこで市内のガラス工場を廻り始めて宣伝に努めた。
しかし、作業場が真っ赤に汚れることをきらい、なかなか採用されることは無かった。
三日にあげず、訪ねて弁柄の売り込みに励んでいたが、何としても買ってもらえない。
事務所を訪ねる美継の姿が見えると、購買担当者はこそこそとその席を離れ、いなくなり、
挨拶をすると、「今日は不在だから、又今度にしてくれ」と断られる始末である。
しかし、そんなことであきらめる美継ではなかった。彼には信念があった。この弁柄は研磨に一番効果があり、その表面の精度は最高になる。その自信はどんなに断られてもあきらめることは無かったのである。そのうち戦争が激しくなってきた。軍用機のガラス材は最大必需品となった。そのために大量に生産され、その精度もあげなければならない。大手のガラスメーカーがそのために重用され弁柄の大量注文につながった。そのために弁柄生産用の燃料他の必需品は優先的に便宜が図られたのである。弁柄の一般販売は一時中止となり、軍需用としてガラスメーカー優先で納入されるようになった。
戦争は日ごとに激化を増し、物資は不足し、何となくあわただしい日々が続いていた。
そんなある日、事務所で仕事をしていた美継は二階から悲鳴のような声を聞いた。
「大変だ。子供が三階の物干し場から落ちた」

白百合を愛した男   第18回

2010-08-20 09:22:44 | Weblog
信じられない出来事であり、人生で始めての衝撃であった。人は生まれて、生きて何れ死ぬものである。そのことは分っていた。でも生まれて二年もたたない幼い命が、何故にこんなにもはかなく終わらなければならないのか、いくらなんでもひどすぎる。彼は神を信じてどんな出来事にもそれは神のみ心としていたが、この愛娘の死には何としても認めることは出来なかった。「神さま、なぜあなたは私に下さったこんなに可愛い宝を何故取り上げてしまわれたのですか。私には分りません。この悲しみをどうすればよいのですか。」一歳になった時に記念に撮った写真にはベビー帽にベビー服を着て、大きな目をパッチリと開けて微笑んでいる姿があった。小さな骨箱を前にして美継は祈り、そして泣き崩れた。
何をしても、何処にいても、何を食べても上の空であった。妻からの慰めの言葉も耳には届かなかった。毎日が虚しく、毎日が苦しかった。ただ、ただ時間が過ぎてその心の傷がいえるのも待つのみであった。そして人生の重荷を一つ負って歩くことになった。
彼の懐には何時も娘の写真があり、いつも一緒であった。
日曜日の教会での礼拝で神の前に祈る事で、少しづつ新しい力と希望が出てきた。
最初の子供が出来て10年が過ぎていた。そして又新しい生命の誕生を迎えることに
なった。美継はもう一度女の子が生まれることを願っていた。しかし、生まれたのは男の子だった。最初の子に比べると、弱弱しい小さな身体だった。「女の子みたいだね。でも男だ。きっと優しい子になるよ。」美継はしず子の生まれ変わりかもしれないと思っていた。
その頃、長男の子は進学を迎える年頃になっていた。長男とあって、我儘に好きなことをさせて育てたこともあって、受験を前にしても遊びが絶えることが無く、勉強に身が入らない。毎日が楽しく友達を集めては遊びに夢中だった。当時流行ったべーごま遊びは、彼の得意なもので、勝負しては相手のベーゴマを飛ばし、勝ち続けた。その数はどんどん増えてみかん箱から溢れるほどであった。彼はそれを親の目に触れないように隠し、時々それを見て楽しんでいた。その意味では熱中すると、その才能は発揮され、其処に研ぎ澄まされた技術が生まれ、そのレベルが上がっていくのである。(このことは将来大きな彼の才能につながっていくのだが)。ある日、父はそんな長男の姿を見つけることになる。
まさか、そんなことに夢中になっていると夢にも思っていなかった父は怒りと驚きで
呆然としていた。

            思いつくままに

2010-08-18 09:19:02 | Weblog
お盆も過ぎ夏休みも半ばを過ぎた。猛暑も峠を過ぎる頃であろうか。この時期、私は孫達との交流をかねて共に過ごす一日を持つことにしている。毎年、その成長に合わせてその場所、時間の持ち方を工夫しているのだが、今年は年長の孫達とは暑さを避けて食事会とし、下の孫達とは船橋にある「アンデルセン公園」を訪ねた。年々暑さとの戦いと身体の衰えを感じないわけにはいかないが、何年こんな時間を重ねることが出来るかと思うと、出来る間にこの恵の喜びの時間を大切にしたいと思い、元気を出して行くのだ。
公園は広く、あちこちに色々な設備が揃い、歩き始めの幼児から小学生までが自分たちの世界で思い切り遊べるようになっていて、親は危険だけを注意しながら、のんびりとすることが出来る。童話館に入ると、アンデルセンに関する資料が揃えてあり、視聴覚的に楽しめる。私も涼しさを求めて入って一冊の本を手に取った。「醜いアヒルの子」は彼の代表作の一つだが、それを読みながら、白鳥の中に育った見にくいアヒルの子は誰のことをさしているのかと言うことをふっと思った。ひょっとするとそれは自分のことではないだろうか。
自分も白鳥だと思ってそれらしくふるまい、自慢げに生きてきたが、欠点の多いみにくい姿であったのではないか、それに気付かず高慢に行動してきたのではないか。
それは他の人から見れば、滑稽に見え、またけいべつの対象にもなっていたかもしれない。それに気付かないままにみにくいアヒルの子は育っていた。しかしある日、白鳥の王子に出会うことになる。(みにくい白鳥の子は女の子だったであろうといわれている。それは生みの親に捨てられた後、あるおばあさんに拾われて育てられたといわれている。何故か、?
それは卵を産んでもうけさせてくれるだろうと考えたから)
王子と出会ったみにくいアヒルの子は自分が本当の白鳥になっていることに気付くのである。
みにくいとされる人間も自分が罪の多い人間の一人であることをおぼえて、少しでも
隣り人のことを思い、人を愛することを忘れずに生きることにつとめることで人生が変わるのではないか、いや必ず変わる、そしてみにくいアヒルの子は美しいアヒルとして天に登ることが出来るのではないか。
我が家の庭も少しづつ変わりつつある。トマト、キューリ、ナスが終わり、オクラが少しづつ食べごろを迎えている。コスモスと朝顔も毎日、元気である。

          白百合を愛した男   第17回

2010-08-16 09:10:48 | Weblog
何の趣味も遊びも無い美継には子供が唯一の癒しであり、慰めであり、宝でもあった。
長男が産まれ、仕事の合間を縫って二人でいる時間は仕事の苦しさや厳しさを忘れさせる大事な時間でも会った。出来れば今度生まれる子供は女の子が良いなと心ひそかに思っていた。それは仕事の合間に町の通りや角で見かける子供の遊んでいる姿であった。
男の子と違って女のこの遊びやしぐさはやさしさと美しさがあった。そんな様子を見るとも無く見ていて、自分もああした女の子の手を引いて散歩をしたり、遊ばしてやりたい、そんな思いが何時の間にか夢になっていた。
そんな中で仕事は順調に進んでいた。岡山の工場からは月に何回か運ばれる製品を倉庫に納め、管理をしながら注文の品を届ける。昭和の初めの頃とあって、まだ自転車がその運搬の手段である。十貫目の木箱を運ぶ時は自転車にリヤカーをつけて走る。それは可なりの重労働であったが、どんな業種もみな同じようであった。当時は景気も悪く失業者が溢れ、仕事が少なかった。美継はその業容の先を考え、手伝いを雇うことにした。山内氏も快く承諾してくれた。客先が増えたことと配達先が遠くなったことでひとりでは賄いきれなくなっていたのである。当時は自転車のチューブはゴムでそれは何故か赤かった。美継はそのことから
ゴム工場を訪ねてみた。すると、ゴム工場ではこの赤色顔料を大量に使っていたのである。
タイヤ用チューブ、水枕、海中用浮き袋など、ゴムの着色用であった。東京にあるゴムメーカーはすっかりお客さんとなる。
産み月を迎え仕事をしながらも、出産が心配であった。やがて無事に待望の女の子の誕生を迎えることが出来た。美継は飛び上がるほどに喜んだ。あれほどに望み、待っていた女の子の誕生である。何をしていても、赤ん坊の事が気になり、落ち着かず時間が出来るとすぐ顔を見に行くことになる。教会の牧師に報告しその赤ん坊の受洗を願い出る。
出来ることは何でもした。こうして二人の子供を授かり、幸せな日々が続いていた。
しかし、その幸せも長く続くことは無かった。「しずこ」と名づけられたその赤ん坊は一年を過ぎた頃、親の顔を見てニコニコと笑うようになり、もう少しではいはいも出来ると喜んでいた頃、突然重い病気にかかったのである。「大腸カタル」と診断された。
そして夫婦の看病と医者の手当ての甲斐も無く、天に召されてしまったのである。

白百合を愛した男  第16回

2010-08-13 09:04:19 | Weblog
店において販売しても誰も買いに来る人はいない。品物は小さな袋に入れられ、厳重に包装されている。何しろ一旦袋が破れてそれが何かに付いたら真っ赤に染まり、それは簡単に落ちるものではない。見る人によっては薬というよりは、危険物にも見えるし、場合によっては毒物にも見えたかもしれないのだ。しかし、実際は無機の顔料で全くの無害なものである。それが証拠に色つけの食用、(例として小豆、チョコレートなど)、染料(糸他の染物用)などにも使われていた。美継は一日もじっとしていることは無かった。訪問予定が終わり、帰宅すると、次の訪問先を決める。すぐ買ってもらえるか、どうか、そんな計算は出来ない。何しろ始めて扱うものであるし、誰もが知っているものでもない。自分で使うであろうと思われる業種や店、工場を訪ねて、調べるしかない。
真面目すぎるその人柄は、誰かに言われなくても、又誰かが見ているからとか、そんな手抜きの行動はなかった。それは山内氏の信頼を受ける最大の特徴でもあったのだが、休みもなく一日、一日を働いていた。ただ、日曜日だけが彼の最大の休息日であった。
それは浜町に店の近くにある教会の礼拝である。朝の食事を済ませると長男の息子を連れて日曜学校へ行く。神の前に祈りを捧げる。一週間を振り返り、無事に過ごせた恵みと感謝そして自分の犯した罪、それは自分のことだけを願い、人をそねみ、溜め口をしたことを告白することであった。そんな思いは牧師による説教を聞いているうちに洗われて、新しい力を与えられ、帰宅することが出来るのだった。疲れをとるのに良いよと進められてお酒を飲むことを教えられたが、口にすることは無かった。(実際に飲めば飲む事が出来たかもしれない)それは明治に生まれ、ストイックな考えで生きてきた彼の信条であったのか。
食事も妻の出すもので、不平を言うことは無く、生活習慣は誠に規則正しいものであった。
日曜日の午後は、子供つれて、ニュース映画専門館へ行くか、その頃上野に出来ていた動物園で子供と一緒に楽しむことであった。
長男はすくすくと成長し、5歳になっていた。その頃妻から新しい命の知らせを受けた。
妊娠である。美継は無邪気に喜んだ。「今度は、女の子だと良いね。楽しみだ。身体に気おつけて良い子を産んでくれ。」いつもより優しいいたわりの言葉かけだった。

         思いつくままに

2010-08-11 08:38:04 | Weblog
先週と今週で原爆記念日を迎えた。65年を過ぎたがやはりこの日のことは歴史に残る大きな記念日として覚えていたいと思う。あの日、何故日本に原爆が投下されなければいけなかったのか、当時戦争はまだ続いていた。しかしその趨勢は明らかだった。本土決戦を覚悟しなければならなかった時期である。冷静に考えてみれば、この決断に至るまでに何が話し合われたのだろうか。又、何故日本だけで他の国ではなかったのか、そしてこの決断に至る過程はどうだったのだろうか。他の方法での話し合いが検討されなかったのか。
様々なことが考えられる。しかし所詮は人間の大きな罪のなせる業であった・決してそれを裁くのでもなく、責めるものでもない。ただ人間というものはいざとなった時、最後まで相手を慮り、忍耐できるものではないということなのである。つまり何らかの罪を犯すことになるのだ。そのことを良く覚えておきたい。それだからこそ、その弱さを知り、そのことを考え、相手の立場を考え、自分として何が出来るか、
とかく人間は自分の行動にどれくらい責任を感じて生きているのだろう。私たちは自分の行動や考え(実力と思い込んでいるもの)が正等に評価されなかった時、また自分が当然受けるべき保護であったり、与えられるべき権利が得られなかったり、守られるべき規則が乱されたりしたとき、我慢が出来なくなり、抗議をすることになる。
しかし、どんな時代になっても自分にとって不都合なことがなくなることは無いだろう。
また自分の失策の原因を他人の理由にしようと思えば、何とでもなるものである。
不思議なもので人は現状の悪の原因を社会か他人の所為にして、決して個人が悪いのではないとしてしまう人が多い。それはそういう考え方で生きているうちにそれが当たり前として定着してしまうのかもしれない。だとすれば、そのことから引き出される出来事は悲しい結果になることになる。「われわれのとがと罪は我々の上にある。」とは聖書の言葉であるが、人間のなす一切の善悪は厳密にはそのこじんの責任であることをもう一度考えてみる必要がある。夏休みも半分を過ぎた。孫達の宿題も進んでいるようで、電話の向こうから「半分済んだよ」と元気な声が聞こえてくる。この暑さの中で若者は元気だ。何とか、気をつけながらこの夏を乗り切りたいと思っているこの頃である。

          白百合を愛した男   第15回   

2010-08-09 09:57:28 | Weblog
美継の見た工場は想像以上であった。人家を避けて谷間に作られた工場の煙突からはもくもくと煙が立ち昇り、工場からの排水は真っ赤である。煙は刺激臭が強く、思わずむせるほどであった。今更ながら工場の特異性を知らされながら、山内氏と相対した。
話は現実的であり、厳しいものであった。東京の店を任せるとは言うものの、その内容は可なり厳しいものであり、甘いものではなかった。小さい時から我慢することを教えられ、貧しさの中で育ったこともあり、美継にはそれらは何の苦痛も感じることはなかった。牧師から教えられた神の存在も大きな力で影響を受けていた。
「分りました。出来るだけ期待に沿うように頑張ります。支度もあり、整理することもありますので、少し時間を頂きますが、東京へ出る時期が決まりましたら、改めてお知らせします。」敦賀へ帰ると、みどり屋パンの整理に取り掛かった。職人は他の店に紹介して、仕事につけ、仕入れの材料の始末をして、閉店の挨拶のチラシを出す。
あれこれしているうちに、その年も半ばを迎える頃、最初の子供に恵まれた。男の子である。美継は大喜びであった。これからの新しい出発にふさわしい神からの大きな贈り物であった。そして家族が落ち着いて整理がおわり、東京へ出る準備が整った。
既に手配してあった店は東京の下町、隅田川の傍の浜町である。その頃東京は関東大震災(大正12年9月)の傷もいえ、復興の兆しが見え、新しい建物があちこちに建ち始め活気が戻りつつあった。そして時代は大正から昭和に変わり、更に新しい時代に入っていたのである。
事務所と倉庫がつながっていて、二階が住まいである。誰でもが簡単に扱う品物ではないので、店に並べておいてお客が買いに来るものではない。美継は品物を売るために市場調査を開始した。調べてみると、いろいろな所で少しづつ使われていることが分ってくる。
最初に気がついたのはカガミやさんであった。鏡の表面を磨くのは傷をつけないように注意しながら光沢を出せればよいのだが、なかなかきれいにならない。この弁柄を使うとその効果は抜群であった。地方にある鏡やさんを訪ねて売ることが出来た。量は少なくても高く売れるので、利益は計算できた。商いは順調に始まったのである。
岡山の工場から送られてくる製品は十貫入りの木箱である。その中には百匁入りの桐箱が詰められている。今では想像の出来ない薬以上の貴重品扱いであった。