波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

  コンドルは飛んだ  第5回

2012-06-29 10:22:10 | Weblog
考えてみると辰夫は今まで自分の歩いてきた道はまだまだそんなに広くなかった。僅かに家と学校の間を中心に近所とたまに
親に連れられて行った公園や動物園ぐらいだった。そんな辰夫が「牛久」と言う場所を聞いたとき、どんなところだろうと強く興味をそそられたのも不思議ではなかった。そして突然自分の半径を広げてみたいと言う思いが起きたのである。
「久子さん、今日は一緒に帰ろう。僕もこのまま君と一緒に牛久まで行くよ」突然の言葉に久子は何を言い出すのかと驚いた。
「何いってるのよ。遠いのよ。帰りが遅くなるわ。駄目よそんなこと」と行ったが、そんなことでひるむ辰夫ではなかった。
二人は上野から電車に乗った。まだ夕方のラッシュには間があるのか席はすいていた。二人は椅子に並んで座った。
その様子は傍から見れば、少し早いが共に好きあった恋人同士の姿であった。だが当人の二人にはそんな気持ちはまだなかった。久子はこの人何を考えているのかしら、物好きな人だわこんな田舎へ行くなんてと不思議そうにその横顔を見ている。
辰夫は生まれて初めて大人として一人で遠出をするということで興味しんしんと窓から辺りを見ている。やがて電車はいくつかの川を渡っているうちに東京を離れ、町並みが途切れ景色が変わり、田園風景が見られるようになって来た。
一時間ほど電車に揺られているうちに目的地の牛久に着いた。「ここよ」と言われて改札口を出る。殆ど乗降客のいない駅前であった。「静かで良いところだね。ここからどれくらいかかるの」「もういいわ。ここから私は一人で自転車で帰るから辰夫さんは次の上野行きの電車で帰って」「自転車か、じゃあボクが乗せてってあげるよ」そう言うとすたすたと自転車置き場から久子の自転車を出すと「さあ、後ろに乗りなよ」久子が驚いて何か言おうとする間もおかず、辰夫はどんどん行動する。
何時の間にか夕暮れに近い田舎道を久子は家まで送られて帰っていた。
「ありがとう。ここで良いわ」と降りると「じゃあ僕は歩いて帰るから、又明日ね。」と言ったかと思うと久子が何か言う間もなくすたすたと辰夫の姿は見えなくなっていた。
その行動の敏捷さは驚くばかりで小さい身体で、がり股の足はお世辞にもスマートとは言えなかったが、その誠実さに打たれて
その後姿を見ながら何も言えずにただ立ち尽くしていた。

      思いつくままに 

2012-06-26 10:07:39 | Weblog
「学校を卒業して社会に出るときに、将来どんな仕事をしたいと思っていましたか。」と聞かれたことはありませんか。
私も今までにそんな事を何回か聞かれたことを思い出すことがある。その時、自分がどんな返事をしたか、あまり記憶にないのだが、自分が正直に本当のことを言うことは気恥ずかしくていえなかったような気がしている。そして事実は平凡なサラリーマンでしかなかった。今、改めてもう一度聞かれたら「新聞記者」(当時学校で新聞部にいた)であるとか、何かお芝居関係の世界に入りたかった(放送劇団に所属の経験あり)とか考えていたと言えないこともない気がしている。
しかし、世間一般的には親のDNAを受け継ぐので親がしていたことを受け継いで、同じ仕事に就くことが多いことは、自然であり統計的にも医者は医者、政治家、芸術家、芸能人等その他の職業も含めて決まってくるようだ。
そしてその与えられた仕事をしながら自分の望んでいたことが叶えられることもあり、叶えられないことも出てくるわけであるが、それぞれに意味があったことをこの年齢になって考えさせられる気がしている。
実際、この歳になるまでにはいろいろなことがあったわけだが、わけても幼児の時に医者に手放されそうになった大病をしたことや三階の物干し場から落下した事や、戦争体験などは強く記憶に残っている。
それらを通して現在生かされていることは私が努力してそうなったのではなく、そこには何か人間以外の大きな力が働いていたとしか考えられないことだと思う。
そして今も毎日何かを願いながら生きているのだが、それらが叶えられると思っているわけではない。そしてそれらの結果を
ただ、ただ不服とするか、神の意思として考えるかはそれぞれの人によって大きな違いになってくるといえる。
その時、その計画や希望が成ってもならなくても、それはそれで良いと気楽に考えられるか、どうかにかかってくるだろう。
人間と言うものは自分で「愚か者になろう」と思わなくても一寸先の事が分からない存在な筈である。逆に言えば愚かだからこそいろいろな事を夢見たり、期待したりして考え楽しむ事も出来るのだと思う。
時々自分は誰よりも「物知り」で物分りの良い人間でいるつもりになって、「知ったかぶり」になっている人を見かける。
「もし、あなた方の誰かが自分はこの世で知恵あるものだと考えているならば本当に知恵あるものとなるために愚か者になりなさい」この言葉をかみしめたい。

コンドルは飛んだ  第4回

2012-06-22 12:14:00 | Weblog
一夫は中学へ入学してから持ち前の集中力と執着心もあって学業に集中していった。その結果、最初は成績も特別な結果ではなかったが、卒業時には学年でも一、二を争う上位に位置してかなり目立った存在になっていた。
程なく大学へ行くと何時の間にか法律にのめりこみ、司法を中心に学び始めていた。そして父の紹介で弁護士事務所のアルバイトをしながら司法書士の資格を目指していた。辰夫も兄に習って大学へと進んだが勉強にそれほどの執着はなかった。
しかしそれだからといって決して遊んで怠けていたわけではない。むしろおおらかに学問を楽しんでいる風情であった。そして
特に外国語には強い関心を持つようになっていた。
戦後の日本の復興はすさまじく二人が成長期にある頃は海外からの文化がどんどん入っていて男女共にその真新しさと未知の世界への関心が強く、何でも飛びついて吸収していた。大学のサークルも様々なものが取り入れられ、それぞれに勧誘が盛んであったが、辰夫はそのどれにもあまり興味を示さなかったのだが、唯一つだけ興味を持ったのが、スペイン語クラブだった。
勿論学内でもマイナーな小さい集まりであり、集会室もなく教室の片隅に椅子を並べているだけの数名がたむろする侘しさだった。その中心に外人(チリー人)がアルバイトらしい指導者としてたどたどしい日本語を操りながらしゃべっているところへ通りかかりそれを耳にして覗いたのがきっかけとなった。
始めは何をしゃべっているのか、全く何も分からなかったが、ただ何となく耳障りの良い心地よさに居心地が良かったのと
その中にいた一人の女性に何となく惹かれるものを感じていたからであった。
特別目立った女性であったわけではない。男性から見ればむしろ敬遠したかも知れない地味で小柄なお化粧も殆どしていないような人だった。辰夫は何故かその女性に関心持ったのである。自己紹介のときにお互いに名乗り、話をするようになったが
特別な感情があったからではない。河野久子と言う女性との出会いであった。
彼女の家は東京ではなかった。上野からローカル線で一時間ぐらいかかるらしい。授業後のクラブの時間をすごした後、自然に一緒に帰るようになっていた。辰夫は谷中なので上野までは同じ帰り道だった。
ある日のこと、無口な辰夫が別れ際に「何処まで帰るの」と久子に聞いた。「牛久よ」東京以外にあまり出掛けたことのない辰夫はその駅名を聞いてもピンとこない。「牛久ってどこ」と聞き返していた。

      思いつくままに

2012-06-19 09:34:14 | Weblog
若い頃には庭の植木など全く関心がなく、時折年寄りが植木を可愛がって鉢を持って日向を探している姿を見て軽蔑の目で見ていた自分がいたが、今自分がその年齢になって日々庭の草木が気になり「今日も元気かな、枝が折れていないかな、虫がついていないかな、雑草は生えていないか、水は大丈夫か」などと心配する始末である。
専門家になると(それほどでなくても)「接木をする」という高級な技術を会得している人もいるらしい。
一番典型的な例で言うと「渋柿」の木に「甘柿」の木を接木することらしいが、これが成功すると本来渋柿だった木に甘い実を
つけることが出来ることになる。
その場合「あなたは本当はどっちなのですか。甘柿なのですか。渋柿なのですか」と言われて返答する場合、どのようにも答えられると思うが、正直正しい答えとして迷ってしまうことになる。「本当は渋柿なんです」と言っても「でも実は甘いですね」と言われ「そうなんです。実は今は甘柿になっているんですよ」と答えることも出来る。
人間もこのように人生において「接木をする」ことを考えて、もし出来たら人生も大きく変わることになるかも知れないと思われるのだ。
ある人がトンネルの工事現場でダイナマイトの発破をかけるところに居合わせて、皆は切羽の反対を見ているのに、自分だけは
抗口の方を見ていたそうである。これは大変危険なことで爆風で目を傷めることになる。しかし偶々そんなことで誰も見たことがない(当たり前だが)「色のついた空気の塊」のようなものを見ることが出来たそうである。
こんなことはあまりお勧めできないが、要は人も立っている姿の「向きを」を変えることで、今まで見たことも、考えたことのないことに気づく事にならないかと言う事を考えてみたいのだ。
元来渋柿だった自分であっても、良い甘柿に接木されれば甘い実が出来るのと同じように、私たちも甘い柿になることも出来ると考えたいのだ。
そこで「ではお前は本当はどちらなんだ」と聞かれたら「どちらも本当の自分だ」と答えればいいと思う
しかし、大事なことは今までの自分のままで居るのではなく、新しい自分を作り上げていくことを考えることも大切なんだと
考えることを思う。それには長い時間も必要であろうし、自分自身を見つめ続ける時間も必要だとは思うが‥‥

  コンドルは飛んだ  第3回 

2012-06-15 09:15:43 | Weblog
辰夫は一夫とは小さいときから性格の違いがはっきりしていた。それは色々な行動の中で表れたが一番はっきりしていたのは
二人の「遊び方」にあった。一夫は人一倍負けん気が強く、全てに凝り性であった。その頃のあそびに「ベーゴマ」と「ビー玉」があったが、父があそびには煩かったこともあり、おおっぴらには出来なかったが一夫は隠れて友達と熱中していた。
ビー玉は砂場で山を作り、山から下りてくるところに溝をつくり下へ降りてきたときに自分のビー玉が一番早く下りていれば勝ちになり、他のものを全部貰えることになる。ベーゴマは丸い缶のようなものの上にござをおき、そこへ紐で回転させたベーゴマを飛ばすのである。飛ばされた玉はお互いにぶつかり合い、激しい当たりあいになる。その結果弱い玉はござからはじき出されて外へ飛びだすのだが、最後まで残った玉が勝ちになり、外へ飛び出したものを全部貰えることになる。
一夫は夜になると、そっと隠れてベーゴマの形を工夫してその形を考えて削ったり、尖らしたりしてどうしたら相手を負かせるかを研究した。その角度と形で勝敗が決まるのである。何としても人よりも強いものを作り、負けないようにする。そのためにどうするか。その結果は歴然と表れた。
何時の間にかその勝負の結果、集めたベーゴマはみかん箱一杯になっていた。一夫は優越感を感じながら満足していた。
しかしそれは遠からず父に見つかるところとなった。正座して懇々と説教を食らった一夫は大量に集めたみかん箱を持たされて
庭の片隅に行き、そこへ大きな穴を掘らされた。そしてそのままそこへ埋めさせられ土で覆われて終わった。
頑固ではあったが、その集中力と熱心さは人には負けない強さでもあったのだ。
辰夫は勝負事にはことのほか淡白だった。友達もいないわけではなかったが、一人で遊ぶことが多かった。偶に友達に誘われてかくれんぼや鬼ごっこをすることもあったが、進んで自分から誘ってすることはなかった。
どちらかというと身体が小さかったせいもあったが、弱弱しく見えるので人からかまわれていじめのようなこともあったのだが、そんな時になると辰夫は信じられない強さを発揮した。
ある日、友達何人かに囲まれ簀巻きにされてそのまま放り出されたままで置かれてしまった。
夕方になっても帰ってこない辰夫を心配して母親が近所を探して簀巻きなっている辰夫を見つけ、助け出したのだが、
そのときも辰夫は泣きもせず平然としていたという。「大丈夫だったかい」と聞くと
「これくらいのことなんでもないよ。やりたいようにさせてみただけだよ」といって笑っていたという。

      思いつくままに 

2012-06-12 10:53:15 | Weblog
「告解」という言葉をお聞きになった事があるだろうか。キリスト教において罪の赦しを得るのに必要な儀礼や告白といった行為のことを言うとある。映画やテレビでも良く見かけるシーンでそれによると、教会内の小部屋に仕切りがあり、お互いに顔を
見ることなく話せるようになっている。そこで司教(牧師)と信徒が座り、牧師は信徒から告白を聞く。その内容はどのような事であっても外部に漏れることはなく、守秘義務によって守られる。そして信徒はその告白行為によってその罪が赦されると言う事である。
この世の生活を続ける上で人は悪いことをしないで生きることは不可能とされているがその内容も厳密に分けると二種類になると思う。一つは法律によって定めれたことを破ったことで「人間の法廷」つまり裁判所で裁かれるものともう一つは法律では裁かれない内容のことである。後者については一般的には個人個人の感覚でそれを意識しないでいることが多いので、当人は悪いことをしたという意識は残っていない場合が多い。例えば自分が悪いと思いつつ言ったり、したりしたのではなくても、相手の他人を傷つけることがあるということなのだ。こういうことは人が生きている限り、避けられないことであり仕方がないことかも知れない。しかし人間というものは自分がした事は忘れても他人に傷つけられたことは執拗に覚えているものだということなのだ。私自身もこの後者の罪については若い頃から経験することが多く、今でも後悔の念を持って覚えていることがある。
それは会社においてトラブルの原因調査で担当者のある若者を強く糾弾しその責任を追及したことである。後年ある会合で
その担当者と会い、「あの時はとてもショックを受けました。ちょうど結婚して間がない頃で横で寝ていた妻に起こされて
ずいぶんうなされているけど大丈夫なのと言われました。良く考えたらその時受けた注意の叱責が原因でした。」
と言われ、そのときの当事者として注意した自分を恥じて本当に気づかなかったとはいえ、申し訳ないことだったと詫びたことでした。人は誰からも「いい人ですね」と思われたいと思っている。しかし、本当にそう思われることを考えると、とても身が持たないことが分かるはずだ。むしろ逆に「自分は良くやったと思わない」と考えていたほうが人間らしく、自然であり、
無意識に犯した罪も神の前に告白することで赦されると考えられるほうが人間らしいのではないだろうか。
エルビス・プレスリーの歌に「あなたに(神)打ち明けた罪とあなたにも隠した罪とをどうか赦してください」というフレーズがあるということを読んだことがある。

コンドルは飛んだ  第2回

2012-06-08 12:48:42 | Weblog
父の勤め先は銀行だった。大手の銀行の上野支店である。仕事の影響からか父は家でもあまり口を利くことはない。子供たちは
小さいときはひざに抱かれたり、高く上のほうへ上げてもらったりそんな甘えもあったが、ついぞそんな事をしてもらったことはなく、甘えたい気持ちもあったが何時の間にか消えていた。そして二人とも厳格な父の姿を遠くから見るようになっていた。
辰夫は兄の一夫とも歳が離れていたせいもあって一緒に遊ぶという習慣も出来なかった。
そして何時の間にか一人で強く生きることを覚えるようになり、時間が出来ると図書館へ行くか、学校の図書を借りてきては無差別に本を読む習慣がついていた。
そんな辰夫を母はいつも静かに見守っていた。母もそんなに口を利いてくれるわけではなかったが、気配りはしていたようで
辰夫の様子がおかしいと「辰夫、今日は学校でいやなことでも有ったんじゃないの。もし何かあったらお母さんには話すんだよ。」と声をかけていた。辰夫はそんな母親がとてもやさしく見え、嬉しかったのである。
長男である一夫に対する父の態度は辰夫に対するものとは明らかに違っていた。中学への進学のときになると一流の家庭教師がつき、東京でも有数な学校を目指して勉強が行われた。結果的には目的の学校へ行けなかったがお金のかかる私立の一流校へ入学させていた。父としては世間体もあり、見得もあったのだろう。
そんな兄への思い入れを見ていた辰夫は自分もと思わないわけではなかったが、自分に対してはそんな気を使うことはなく辰夫が何をしていても好きにさせてたままで煩く言われるようなことはなかった。そんな父の姿が辰夫には淋しかったが、何もいえなかった。そんな父であったが、普段の休みには母と一緒に出掛けることもあった。主には近くの上野公園へ散歩が多かったが、機嫌が良いと、動物園へも行くことが出来た。ベンチで両親が休んでいる間好きな動物をぐるぐる回りながら楽しむのは、いつもの家での閉塞感から開放されてとても楽しいものであった。兄はそんな時いつでもついてくることはなく、留守番をしていた。
やがて辰夫も中学を目指すときが来た。兄と同じように少しでも良い学校へという意地もあったが、一人の力では限界もあり、公立の学校へ行くことになった。

      思いつくままに

2012-06-05 09:31:53 | Weblog
「いわしの頭も信心から」「困ったときの神頼み」という言葉がある。これらは非科学的であって、根拠がなく返ってこれらは
科学の進歩の足を引っ張り、良いことではないという人がいる。しかし実際には信心とか、信仰というものは存在している。
それではこれらのことをどう考えればよいのだろうか。簡単に言えば信心と科学を同じレベルで考えることが矛盾しているし、間違っていることに気づかなければならないだろう。それは例えて言えば、お天気の悪い日が続いて心がくさくさして暗い気持ちになっているときに、突然明るい日差しを浴びてほっとするようなものである。その明るい日差しを浴びたときに「アー気持ちが良い。」「温かいなあ」「明るくて、気持ちが良い。」「何となくほっとして安心する」そんな気持ちになるのではないだろうか。そして全ての物事が少し冷静に見えるようになり、困っていたことや悩んでいたことでも穏やかに考えられるようになり、冷静に判断し行動できるようになる。
この無意識におきてくる「冷静に」という考えが生まれてくること。これは人生において理屈ではなく、ある意味非常に大きい意味を持っていることを考えたいのだ。
ユダヤ教では「不貞を働いた女は石を持って殺されても仕方がない」という教えがあったと言われる。ある日の朝、一人の女が不貞の現場を見つけられ広場に連れ出され多くの人に石を持って取り囲まれた。そして今にも全員の石の裁きにあわんとしたとき一人の男の声がした。「今までに一度も悪いことをしたことがないと自信のある人から石を投げなさい」というものだった。
すると、取り囲んでいた人のうち年老いたものの一人が抜け、暫くするうちに女を取り囲んでいたものが一人もいなくなっていたという話がある。
この事から人は初めから正しい者も、完全に善を行うことが出来る人はいないことを示していると思う。そして同時に自分自身の弱さや他人の弱点を見つめて、それを許す気持ちを持つことも出来るようになると言うことでもある。
もし、この世で賢く、正しく良くものの道理が分かり、心の強い人がいたとしたら、その人は様々な問題の中で事毎にぶつかり
解決できないことで大いに悩むことになるだろう。
むしろ自らが愚かで弱いものであることを弁え、知っていることの少ないことをしっかり認識していることの大事さを学ぶのである。

コンドルは飛んだ  第1回

2012-06-01 09:21:14 | Weblog
昭和のはじめといえば東京も関東大震災(大正12年、190万人被災、10万人死者)の後で、まだ十分復興したとはいえない時期であり、やっと都会らしく変わりつつあるころだったといえるだろう。後藤新平が東京の中央に東西南北に走る幅広い
道路を計画して作ったのもこの頃といわれている。(昭和どうり、明治通り、靖国通り)
しかし、人々は未曾有の経済不況の中で誰もがつつましく質素に生活を何とか維持しながら暮らしていた。
住まいの間にはそこ此処に煙が立ち昇り、夕方になると豆腐を売る自転車とラッパの音が聞こえてその日が終わることを告げるかのように、子供たちの家路を急ぐ下駄の音が騒がしかった。
ここ谷中は隣接する上野と本郷の真ん中にあり、両方の小高い丘の間に有ることから谷中という名がついたといわれているが、
すぐ近くには徳川家の祈祷所、菩提寺であり、徳川歴代将軍のうち何人かが此処に眠っているといわれる、寛永寺があり、その近くには小さな寺と墓地が囲んでいる。当然この墓地には歴史的にも著名な人(長谷川一夫、鳩山一郎、横山大観など)
の墓もあり、その影響なのか桜の木が多く植えられてあり、花見の時期になると「花見」の名所として多くの人が訪れるところとなっている。
そんな雰囲気と静けさが気に入ったのか、父は田舎から出てくると勤め先が上野ということも有り、此処、谷中の小さな一軒家を買い求めて居を構え新婚家庭を始めていた。街中の喧騒を離れていることと、墓地に近いことで買値も他よりは安いことも
条件であったのだろうか。
朝の早い父の生活は日の出と共に始まる。そして時計の針のように時間になると黙ってかばんを手に帽子をかぶり出掛けてゆく。母は一緒に玄関まで出て挨拶をして見送る。
昭和3年、本編の主人公岡本辰夫はこの年誕生した。辰夫には少し歳の離れた兄と姉がいたが、姉が幼児の頃、病死したために
兄との二人兄弟で育った。